artscapeレビュー

共創の舞踊劇『だんだんたんぼに夜明かしカエル』

2019年03月01日号

会期:2019/02/17

ジーベックホール[兵庫県]

奈良市を拠点に、障害のある人の表現活動を支援している一般財団法人たんぽぽの家。2004年には、たんぽぽの家アートセンターHANAがオープン。制作のためのスタジオ、展示ギャラリー、カフェやショップも備えたコミュニティ・アートセンターであり、約60名の障害のある人が、絵画、手織り、書、陶芸、パフォーマンスなどに取り組む。2011年からは、ジャワ舞踊家の佐久間新を招き、月2回の「ひるのダンス」を行なっている。90分間、すべて即興ですすむ「ひるのダンス」には、障害の内容、年齢、性別もさまざまなメンバーやスタッフが参加するとともに、福祉関係者、学生、アーティストなども見学に訪れる。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、障害者による芸術文化活動への支援体制が整備されるなか、文化庁の事業に採択され、今回初めて「舞台作品」としての発表が行なわれた。



[撮影:草本利枝]

客席と段差がなくフラットな舞台上には、大・中・小3つのフロアマットが敷かれ、ピアノとガムランのブースが設えられている。冒頭、アドバイザーであるダンサー・振付家の砂連尾理が登場し、挨拶と出演者の紹介を行なう。その傍らで既に、ゆらゆらと手を振る中年男性の動きを、向き合う佐久間が鏡合わせのようにマネし、ダンスの時間が立ち上がり始めている。いや、それは既存の「ダンス」というよりも、全身、声、表情を使った濃密な身体的コミュニケーションの時間であり、(他人に見せるためのダンスや決まった振付の習得ではなく)相手との関係性をつくる、その場にいることを肯定する、非中心的かつ多中心的な場の生成に向けた時間である。相手の動きの断片を拾ってマネし、投げ返す。キャッチボールのような交通が生まれると、とことん没入してみる、少し距離を取って眺めてみる、さらに別の動きにどういけるか探ってみる……。

「声」「言葉」も重要な表現要素だ。例えば「シッチャカメッチャカ」と誰かが発すると、口々に発声が連鎖的に広がり、音の連想が「カムチャッカ」という言葉に展開する。「シッチャカメッチャカ、カムチャッカ」と言い合うリズムにノる身体たち。

あるいは、佐久間がカエルのように飛び跳ねると、たちまちカエルの群れが発生し、「グワッ」「ココココ」「シャウシャウ」といったカエル語が口々に飛び交う。インドネシアのバリ島で行なわれる「ケチャ」を模したものであり、ガムランやケチャ、中盤には影絵芝居のシーンもあるなど、インドネシアの伝統芸能のエッセンスが取り入れられていた。また、自主保育グループの子どもたちがゲスト出演するシーンもあった。



[撮影:草本利枝]

このように、たんぽぽの家アートセンターHANAのメンバー(以下、たんぽぽメンバー)と佐久間の活動を紹介するという点では意義深い公演だが、いくつかの疑問も残る。
1)「ディレクションの介在」の必要性。違和感の一例を挙げると、何回か発せられた「やめてほしー」という言葉。その場で自然発生したアドリブではなく、(数回は)外部から参加した健常者のダンサーが発声していた。おそらく、普段の現場で、苦手な音や状況に反応したたんぽぽメンバーが発した言葉を拾い、「タイミングを図って発声する」演出上の指示があったものと思われる。だが他の言葉と違い、言葉遊び的に変換されず(例えば「ほしー」→「ほししいたけ」とか)、「膠着した空気を変える」強制力としての機能を担わされていた。「障害のある人と共につくる」作品が「ポジティブさ」を前景化する傾向に陥りがちななか、唯一否定的な異義申し立ての声として異質さが際立っていただけに、出演者のたんぽぽメンバーがその場で実感したことの表出ではなく、「演出」の一環であったことに疑問が残る。この疑問はさらに、普段のワークショップでやっていること(の豊かさ)をシンプルに見せるという方法をなぜ取らなかったのか、「作品」としてパッケージングすることの必要性への問いへとつながる。

2)「ポジティブさ」の肯定や前景化。例えば、「掌で水を掬い、相手の手に手渡す」動きのシークエンス。中盤では、白いシーツのような布をはためかせ、身体に巻き付け合う。それは赤ん坊をくるむ布とともに死骸を包む布も想起させ、「命の誕生と終わりを包む布にみんな等しく包まれている」というメッセージを提示する。そこに、一人ひとりが生まれた月日、時刻、病院名、出生時の状況(未熟児、肌が紫色だったなど)が読み上げられ、母親に「産んでくれてありがとう」と言う詩の朗読が重なる(ただしこの詩は後半、「なぜ母親と同じような(子どもを産める)身体ではなかったのか」という内容に変わるのだが)。もちろん、「命の肯定」というメッセージは重要だが、「ポジティブな要素しか(作品として)表に出さない」傾向は、その背後にある排除と表裏一体である。

3)「劇場」「作品」という制度。上述の1)とも関連するが、「普段のワークショップでやっていること」を、「作品」という枠組みで見せることにどこまでの必然性があるのか。「普段のワークショップ」と「観客に見せること」の隔たりを、ディレクションでカバーし、「作品」としての強度を高める方向に振り切るのか。あるいは、(弛緩した時間のリスクを背負ってでも)なるべく普段に近い状態で見せる、そのために必要な設えや配慮を突き詰めるのか(いわば影に徹したディレクションの要請)。神戸公演では車イスの観客も多く、上演中に客席から言葉にならないさまざまな「声」が漏れていた。その「声」にどこまで反応するのか。「劇場」という場は、「舞台」と「客席」を切り分け、ノイズを排除してしまう。普段の活動を「作品」として「劇場」に持ち込んだ時に不可避的に被る変容に対して、「演出家」としてどう対応するのかが問われている。

「障害のある人」「子ども」「インドネシアの古典芸能(舞踊、語り、音楽、儀礼の複合的な結びつき)」「カエル(動物化)」など、「コンテンポラリーダンス」にとっての「外部」がそれぞれ異質なレイヤーとして持ち込まれているが、ディレクションしようとして空中分解している印象を受けた。意義とともに、「劇場」という制度や助成金を含め、今後のあり方を考える上で肯定的な課題を浮上させた公演だったと思う。

2019/02/17(日)(高嶋慈)

2019年03月01日号の
artscapeレビュー