artscapeレビュー

ヨコハマ国際映像祭

2010年01月15日号

会期:2009/10/31~2009/11/29

新港ピア、BankART Studio NYKほか[神奈川県]

横浜トリエンナーレとほぼ同じ会場で催された国際映像展。国内外から70組あまりのアーティストが参加した。なかでも群を抜いて際立っていたのが、クリスチャン・マークレーの《ヴィデオ・カルテット》と山川冬樹の《The Voice-Over》。前者はおびただしい数の映画のワンシーンをランダムにつなぎ合わせることで文字どおり四重奏(カルテット)を作り出し、後者はテレビ局のアナウンサーだった実父の声をもとに個人史と世界史を織り交ぜた歴史を物語った。とりわけ視覚的な映像を最小限にとどめ、音声による聴覚や音の振動による触覚を前面化させた山川の作品は、観覧者の脳内で映像を想像的に再生させるという点で、映像表現が氾濫する現代社会にあって映像の芸術にとってのひとつの可能性を提示したように思う。ただ、個々の作品は別として、本展の全体が依然として旧来の制度的なフレームを維持していたことが気になった。新港ぴあで見せられていた映像のアーカイヴは、いくつものモニターをブロック状に積み上げ、無数のプログラムを同時に見せていたが、鑑賞するにはストレスがひじょうに高い。暗い会場で立ったまま鑑賞するには時間が長すぎるし、とてもすべてを鑑賞する気にはなれないからだ。あるいは、ニコ動のコメントがリアルタイムで流れる作品も見られたが、こうした自宅で見ることができる凡庸な映像をあえて展覧会で見せる理由もよくわからない。さらに、きわめつけが作品のキャプション解説文だ。「形式」「内容」「没個性」「物質性」云々かんぬん。これまでの現代アートの展覧会で見られた衒学的(学問的知識を見せびらかすこと)な物言いがやけに多い。映像表現は確実に進化を遂げているし、社会の体制もまたそれに追随している。ところが展覧会の制度や言説はあいもかわらず旧態依然としているのである。映像の同時代をつかまえるには、私たちの意識や言葉を徹底的に自己批判する必要があるのではないだろうか。

2009/11/25(水)(福住廉)

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