artscapeレビュー

束芋 断面の世代

2010年02月01日号

会期:2009/12/11~2010/03/03

横浜美術館[神奈川県]

束芋の新作展。横浜美術館の企画展示室を存分に使い倒して映像インスタレーションや平面作品を発表した。2006年に原美術館で催された「ヨロヨロン」展と同じだったのは、空間を大胆に演出した映像インスタレーションを発表していたこと。ちがっていたのはその映像作品の内容が人体や生命の根源への志向性をよりいっそう強めていたこと、そして展観を見終わった後に煮え切らない物足りなさが残されたこと。それは、おそらく束芋がいう「断面の世代」に由来しているのだと思う。たとえば象徴的なのが、展示室の内壁を一巡するように展示された平面作品だ。ここでは日常生活を構成する数々のモノと身体部位が節合しつつ分節する様子が絵巻物のように連続的に表わされていたが、それらはいずれも断片の連続に終始しており、決して全体へと統合されることがない。物語に集約されることがないまま、モノローグが延々と繰り返されているといってもいい。ねらいとしては、部分の中に全体の構造が反復されているフラクタクル理論のように、その断片を基準に全体を想像させたいのだろうが、モノと身体が融合するというモチーフがワンパターンであるせいか、平面作品に全体を見通すような断面を見出すことはなかなか難しい。団地のなかの部屋をずらしながら見せていく映像作品にしても、たしかに断片の集合によって全体を見通すことができるような気がしなくもないが、それは「集合」であって「全体」ではない。束芋とほぼ同世代のわたしが、むしろ強く思い至ったのは、そうした、いわば断片への居直りにたいする苛立ちである。古今東西を問わず、およそ芸術的な表現は全体を魔術的に想像させてきたからこそ、芸術という価値を社会的に公認されてきたのではなかったのだろうか。それができない不可能性こそ「断面の世代」の特徴だといわれればそれまでだが、作品を見る側としては延々と繰り返される断片のモノローグだけでは到底満足できない。先行する鴻池朋子ややなぎみわが「神話」という壮大な物語を見事に紡ぎ出しているように、(ある意味で)嘘でもいいから、想像的に全体へと一歩踏み出すことが、「断面の世代」が乗り越えるべきハードルではないだろうか。それが欠落したまま、いくら生命や身体の神秘を描き出してみても、その深度はたかが知れている。生命や身体こそ「全体」の最たるものだからだ。

2010/01/17(日)(福住廉)

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