artscapeレビュー

チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』

2010年04月01日号

会期:2010/02/14~2010/02/26、2010/3/1~2010/03/10

STスポットほか[神奈川県]

近々タワー型のマンションに移り住む予定の〈幸福な若夫婦〉のお話。この幸福には根拠がないと悩む妻。妻の悩みにどう返答すべきか戸惑う夫。そんなある日、妻の同僚の若い女性が彼らの住まいに遊びに来る。きわめて日常的で小さなお話。その所々に差し挟まれるのが他人の振る舞いについてのエピソード。例えば、夫婦の住まいへ向かう電車で若い女性は見知らぬ隣の男がなぜちょっと古い音楽を聴いているのか気になってしまう。そんな、ささやかだけれど不断に起こる他者との接触にぼくらは日々さらされている。本作はその接触の事態に留まり続ける。どこかで聞いた選挙CMの文句を登場人物がそらんじるのも、他者(ここではCMや選挙なるもの)が自分の内に不断に侵入してくる日々の表現だろう。他者の侵入はいらいらや不安を誘発し妄想を助長する。山縣太一が演じる男は妻の妄想の産物で、妻の幸福を輪郭づける不幸の表象としてあらわれる。この男=山縣の佇まいのなんと怪物のように不気味なこと。今作の際だった特徴はこの異形性にあった。台詞に端を発した動きではあるのだけれど、どの役者たちも人間らしさの希薄な、ヌルッとした粘着質の不思議な身体と化していた。台詞にも独特のひっかかり(異形性)があって、リアルな発話とは言い難く、ときに役者たちは役を演じるというよりも単なる朗読者になっていた。ほかにも壁の掛け時計や時折役者がストップウオッチで時間を計りながら芝居が進むなど仕掛けに溢れた上演は、日常の出来事の演劇的解体のみならず演劇そのものの解体の過程でもあって、ときにグロテスクささえ感じさせるこの解体の光景は、演劇の未知なる相貌を垣間見たという知的な快楽に満ちていた。

2010/02/26(金)(木村覚)

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