2018年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

『RE/PLAY Dance Edit』

会期:2017/11/25~2017/11/26

京都芸術センター[京都府]

「東京デスロック」主宰の演出家、多田淳之介による、「演劇」のフィールドから「ダンス」を鋭く照射する、秀逸かつプロブレマティックな作品。まず、本作に至るまでの経緯を簡単に辿っておく。前身と言えるのが、2006年に演劇作品として上演された『再生』。「ネットで誘い合った若者たちが集団自殺をはかる」という設定の下、錠剤を飲んだ若者たちが爆音でかかる音楽の中で約30分間踊り狂った後、倒れていく。これを3セット繰り返すことで、負荷をかけられて疲弊していく生身の身体の「リアル」と「反復構造/繰り返せないこと」を提示した。2011年に再演された『再/生』では、東日本大震災を契機に、「疲弊しきった身体が何度も立ち上がり、再び踊ろうとする」姿を強調することで、「死」から「生命力の肯定」へのシフトが企図された。そして、「We dance 京都2012」にて、ダンサーとの共同作業を委嘱された多田は、『RE/PLAY』を発表。出演者は俳優からダンサーに替わり、3セットの繰り返しではなく、同じ曲を何度も反復するという構造上の変化がとられた。横浜、シンガポール、カンボジアでの再演を重ね、日本人ダンサーと現地ダンサーからなる多国籍の出演者によって上演されたのが本作である。

『RE/PLAY Dance Edit』の構造的特徴は、タイトルが示すように「反復と中断」にあり、それは楽曲の再生とダンサーの運動の双方において徹底して遂行される。冒頭、一列に並んで客席と相対した8名のダンサーたちは、ポーズを決めて静止した後、次々と床に倒れる。『We Are The World』の曲がかかり、ダンサーたちは短い身振りの反復→静止ポーズ→倒れ込む、をひたすら繰り返し続ける。音楽は何度も一時中断するが、彼らは意に介さず、ロボットのように淡々と反復に従事し続ける。また、見続けているうちに、各人が何パターンかの身振りを繰り返していることが分かってくる。例えば、直角に曲げた腕を上下に振る、四つん這いで軽くジャンプしながら移動するなど、体操のような動作が多い。意味の発生を回避したニュートラルな動作が選択され、感情を込めず無機質なトーンで行なわれるため、「振付」の強制力の下で搾取されるダンサー=労働者の身体が前景化し、それへのささやかな抵抗として、「音楽にノること」「反復することの快感」への拒絶が提示されていると理解される。
序盤で『We Are The World』が2回流れた後、ビートルズの『オブラディオブラダ』が10回連続でこれでもかと繰り返される。変容の兆しが起きるのは、半ばあたりからだ。額で光り始める汗は、運動量の蓄積とそれがもたらす熱量の発生を告げる。荒く上がり始める息と、比例する肉体的な高揚感。反復/できないこと、生身の身体がそこにあること。無機質な手触りだったものが、目の前で如実に変容していく。曲の7回目頃からは、ダンサーたちの動きは速さと激しさを増し、早回しのように舞台上を縦横に行き交う。曲の切れ目の「無音」に響く荒い息遣いが、運動量の激しさを音響的に物語る。
そして、「打ち上げでの会話」を模したやり取りが日/英で交わされるシーンを挟み、終盤、『今夜はブギー・バック』、『ラストダンスは私と』、最後にPerfumeの曲が3回連続でかかる。ここに至って熱気と高揚感は最高潮に達し、水を得た魚のようなダンサーたちは、ブレイクダンスの回転技、バレエ、カンボジアの古典舞踊の動きなど、各人の「得意技」を次々と披露し始め、さながら他流試合のダンスバトルの闘技場のような様相となった。 その生の過酷な闘技場は、「ダンス」をめぐる幾重もの問いが係争される場でもある。単なる「動き」と「ダンス」を線引きする境界はどこにあるのか? 見る側の認識の問題か、パフォームする側の意識か、制度に帰着するのか? どこまでが「振付」で、どこまでが「内発的な情動」から出た動きなのか? 私たちは、反復が生む熱量の蓄積と音楽の高揚感によって、身体的疲労がその閾値を超え、ランナーズハイのように熱狂的な陶酔へと変容する身体のありようをまざまざと見せつけられる。ドラッグのような魅力と、集団的な高揚感に飲み込まれる危険性も。
だからこそ、終盤近くの「会話の挿入」という「演出」には疑問が残る。「関西のダンスシーンに疎い関東のダンサーへの揶揄やツッコミ」「カンボジアではダンサーは公務員扱いであること」など、出演者の「多文化・多国籍」性、ダンスのバックグラウンドの多様性、在住する都市や国の文化的相違をアピールするのが狙いだろう。だが、安易に言語に頼らずとも、彼らの身体が既にダンスの履歴や身体性の違いを雄弁に語っている。また、「直接的なコンタクトが一切なく、個々人が舞台上で「孤絶」しているにもかかわらず、次第に醸成されていく集団的な高揚感や一体感」の効果が軽減してしまう。それはバックグラウンドが異なる者同士が同じ場で共存する希望であるとともに、集団的な熱狂がはらむ危険性と表裏一体でもある。その両面を提示しながら、この過酷なまでの時間に耐えた出演者たちに拍手を送りたい。



撮影:前谷開

2017/11/26(日)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017 神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』

会期:2017/11/03~2017/11/05

京都芸術センター[京都府]

沖縄出身の祖父が移住したペルーで生まれ、川崎で育った神里雄大。近年では、ペルー、沖縄、メキシコ、小笠原といった各地での取材を元に、移動や旅、家族やルーツ、島、文化的ハイブリッドを主題とした演劇作品を発表している。本作では、1年間のブエノスアイレス滞在を経て、現地で見出した俳優やダンサーによる、スペイン語での上演が行なわれた。
会場に入ってまず目を奪われるのは、秀逸な空間設計である。天井には万国旗が吊るされ、屋台やバーカウンター、コンテナとタイヤ、二段ベッド、寝袋の置かれた「二等客室」の床、ミラーボール、教会のベンチ、花輪の飾られた棺桶などが舞台装置のように散りばめられている。観客は、セットの一部として置かれた椅子やソファに座ったり、二段ベッドに上って観劇する。幕開け前のざわめきと、流れる陽気なラテンナンバー。元小学校の講堂が、「旅」、「人の集い」、そして「死」が渾然一体となった祝祭的な空間へと変貌する。私たちは、たまたま隣り合った見知らぬ観客同士と肩を並べ、「船旅の旅客」や「屋台やバーに集う客」といった一時的な役割を演じることになる。


神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』 2017 京都芸術センター
撮影:井上嘉和 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

客席と舞台の反転は、幕が開けるとより鮮明になる。俳優たちは、奥行きのないペンキ絵の背景や「書き割り」の舞台装置といった平面的な舞台空間の中にいるのだ。そこに登場するのは、父親の生前の希望により遺灰を海に撒きにきた男と、夫の死後、精神を病んで引きこもり状態にある母親、遺灰を撒くための船を出す男、彼から「犬」のように蔑まれる連れの男の4人である。車内に閉じこもったまま一言もしゃべろうとしない母親、散灰の是非をめぐって意見が対立する男たち。彼らはどこにも行くことなく、状況は遅々として進展しない。一方、憑かれたように話し続ける彼らの語りには、過去の回想や人づてに聞いた話が入れ子状に侵入し、空間や時間の隔たりが圧縮されて自在に移動する。神戸港からパラグアイに移住した「セニョール・ソノダ」が語った、移民船や水葬の話。どこまでも続く大豆畑で星を見ながら迎えた朝。観光で沖縄を訪れた友達から聞いた、那覇の路地裏にある屋台。そこで焼き鳥を焼く若い男は、昼間は沖縄戦の遺骨の発掘をしているという。あるいは、小笠原諸島へ向かう船旅と、戦争を挟んで日本とアメリカの統治権が何度も交替した島の歴史とともに生きてきたバーのマスター。ペルーからチリへの山越えの国境付近にある教会と、そこでの人身売買。
いくつものエピソードが断片的に語られていくうちに、これは誰の記憶なのかが曖昧になってくる。生と死の境界すらも。長い坂道を振り返ると霧のなかに浮かんで見える街のように、全ては夢の中の光景のような浮遊感をたたえ、同時に鮮烈な原色の色彩に彩られている。その感触は、ここではない外部へと連れ出そうとする言葉に抗うように痙攣や停滞、投錨された不動性を表出する身体に加えて、全編がスペイン語で上演されていたことも大きい。神里の戯曲は、独特の詩的跳躍力や比喩の密度を豊潤に湛えた言葉が大きな魅力だが、日本語で書かれた戯曲をあえて異言語で上演することで、母語への密着から引き剥がされた「距離」が発生する。その空隙は、私たちの無自覚な前提を相対化しながら、国境、昼と夜の境、海と撒かれた灰の境、生者と死者の境が明確に区別できずに溶け合った時空間を差し出すのだ。


神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』 2017 京都芸術センター 
撮影:井上嘉和 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

2017/11/05(日)(高嶋慈)

アリン・ルンジャーン「モンクット」

会期:2017/10/28~2017/11/26

京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA [京都府]

アリン・ルンジャーンは1975年バンコク生まれ、2017年のドクメンタ14に参加するなど国際的に活躍する作家。繊細な映像とインスタレーションを組み合わせた複合的な作品を制作している。モノの移動や移民がもたらす地政学の書き換え、流通と消費の政治学、植民地化や異文化の接触といった近現代史の捉え直しの中に、個人的な記憶を交差させて現在と接続させるのが特徴だ。2015年の「PARASOPHIA:京都国際芸術祭」で展示した《Golden Teardrop》では、商品としての砂糖の歴史から西欧とタイの関係を再考。ヨーロッパから17世紀のタイに伝えられた砂糖菓子を、タイ在住の日本人女性がつくる様子を収めた映像に、彼女の祖父母が広島で被爆したことを語る声が重ねられる。写真など歴史資料を用いつつ、砂糖菓子の型をつくる工場労働者も登場するなど、作品は断片的で複数の語りへと開かれている。

本個展でルンジャーンは、西欧諸国が植民地支配を強めた19世紀半ば、シャム(タイの旧称)のラーマ4世が、自らの王冠を複製したレプリカを、ナポレオン3世に贈ったという史実に着目した(「モンクット」はタイ語で「王冠」を意味する)。映像の前半では、パリのギメ東洋美術館のキュレーターが、ラーマ4世とナポレオン3世それぞれの政治的な思惑と両者のズレについて語る。植民地化を回避するための友好的な外交政策として、また自らの権力を西欧に誇示しようとしたラーマ4世。一方、権力基盤の弱さを克服するため、遠い異国の主権者からの敬意を受けることで、自身の正統性や覇権を示そうとしたナポレオン3世。政治的な駆け引きの象徴となった「王冠のレプリカ」について語る声とともに、映像は、フォンテーヌブロー宮殿の豪華な室内を映し出す。ある若い男が無人の部屋をめぐり、ガラスの戸棚に陳列された「王冠のレプリカ」を見つけると、手持ちの3Dスキャナーで形状を読み取っていく。後半では、このスキャンデータを元に、「複製の複製」の王冠をタイの女性職人がつくる様子が映される。工房の様子や繊細な手作業の手元を映すカメラとともに、ラーマ4世の子孫にあたるという彼女の家系や、家業である伝統舞踊劇の仮面の制作、王冠に用いられる技法についての説明が語られる。また、彼女が制作した「レプリカをさらに複製した王冠」とともに、使用されたパーツや図面、ラーマ4世の外交使節を迎えるナポレオン3世を描いた絵画(複製画)や絵入り新聞も展示された。
ここで、ルンジャーンの手つきは両義的だ。一見するとそれは、東南アジアで唯一植民地支配を免れたシャム王国の威容を再提示する身振りにもとれる。一方で、国家の象徴たる王冠の「レプリカ」をさらに複製する、という二重の複製の手続きは、「オリジナル」から二重に隔たった距離を生み、「文化的アイデンティティの真正性」への疑義を呈する。また、「わざわざレプリカを元に複製する」という行為は、「オリジナル、本物には触れられない」という不可触領域の存在を示唆し、王室への不敬罪があるタイの政治的状況を逆説的に浮かび上がらせるだろう。そうした政治性を内包する一方で、手仕事に従事する女性へのルンジャーンの眼差しは、温かな敬意に満ちている。

2017/11/02(木)(高嶋慈)

プレビュー:岸井戯曲を上演する in OSAKA #0

会期:2017/12/27

阿倍野長屋[大阪府]

劇作家、岸井大輔の戯曲を上演する企画。岸井の戯曲は、台詞やト書のある台本のようなものではなく、インストラクションや命題のようなものの提示や、詩や散文的な文章である点が大きな特徴だ。「岸井戯曲を上演する」という企画は、横浜のblanClassで2016年9月から2017年7月まで、10カ月にわたって行なわれた。毎月、何組かの演劇、美術、ダンス、音楽など異ジャンルの人が同じ戯曲をそれぞれ上演し、終演後に話し合うというもので、「上演する」ことを通して対話の場が生まれることを広く「劇」と捉えた企画であった。
今回の「岸井戯曲を上演する in OSAKA #0」では、関西を拠点とする6人の演出家やダンサーたちが、それぞれ別の戯曲を選び、上演する。伊藤拓也(演出家)、劇団「うんなま(演出:繁澤邦明)」、住吉山実里(ダンサー)、古川友紀(ダンサー)、向坂達矢(演出家、「京都ロマンポップ」主宰)、和田ながら(演出家、「したため」主宰)という顔ぶれも興味深い。会場は、大阪の下町にある古民家、阿倍野長屋。ブラックボックスの劇場でなく、生活空間と地続きの上演空間、複数のジャンルの表現者による上演を通して、「演劇」の条件や拡張、身体と言語の関係について考える機会となってほしい。
公式サイト:https://takutakuf.wixsite.com/kishii-jouen-zero

2017/10/30(月)(高嶋慈)

猿とモルターレ アーカイブ・プロジェクトin大阪

会期:2017/10/28~2017/10/29

FLAG STUDIO[大阪府]

『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)は、「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」として、公演場所ごとに市民とのワークショップを通じて制作されるパフォーマンス作品。2013年の北九州、2015年の仙台公演を経て、2017年3月に大阪で上演された(大阪公演の詳細は、以下のレビューをご覧いただきたい)。
筆者は、今回の「アーカイブ・プロジェクトin大阪」の第1日目に参加。3月の大阪公演の記録映像を皆で鑑賞したのち、作品の感想や「継承」について参加者同士の対話を重視しながら議論を深めていく「てつがくカフェ」が開催された。一般的に、公演からそれほど間を空けずに記録上映会が行なわれることは少ない。もちろん「生の舞台」の体験は何ものにも代えがたいが、舞台の記録映像はあくまで補完的な役割であって、記録以上の積極的な意味が付与されることは少ないと言えるだろう。今回の企画の優れた点は、単なる記録映像の上映で終わらず、「てつがくカフェ」とセットで開催されたことだ。舞台を見た直後であれば、「このシーンに感動した」「あのシーンの意味は何か」というように感想や意見が作品内部に収束しがちだ。しかし、映像の場合、良い意味で距離を置いて客観的に見ることができ、さらに対話の場を通して、作品の外縁にある問題へと意識を向け、観客が主体的に考えるきっかけが開かれる。
また、記録映像の撮影と編集を担当した、映像作家の小森はるかの功績も大きい。小森の映像編集の優れた点は、舞台を見ている時の感覚に近いことだ。アップやカット割りを多用した場合、視覚的効果は増すが、「舞台上で実際に流れていた時間の持続性」が絶ち切られて削がれてしまい、「映像を見ている」感覚が増幅する。しかし小森は、基本的には引き気味の固定カメラで撮影した映像を、時間の持続性を寸断せずに要所でカット割りを挟むため、時間の流れに身を委ねながら見ることができる。かつ、袖や舞台奥から撮影した映像を挿入するなど、客席からは不可能なアングルも時折差し挟まれ、空間的な把握が補強される。舞台芸術と記録映像、アーカイブのあり方はさまざまに議論されているが、今回のように映像作家と協同する方法は、「記録映像」のあり方や質について考える際に有効なのではないだろうか。

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