artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2022「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」

会期:2022/04/09~2022/05/08

HOSOO GALLERY[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の10周年を記念し、日本の若手~中堅の女性写真家10名を集めたグループ展。個展の集合体という性格が強く、濃密な展示が続く。参加作家は、細倉真弓、地蔵ゆかり、鈴木麻弓、岩根愛、殿村任香、𠮷 田多麻希、稲岡亜里子、林典子、岡部桃、清水はるみ。

個展の連続形式ではあるが、共鳴しあうつながりの糸を見出すことも可能だ。例えば、静謐なモノクローム/ビビッドなネオンカラーというテンションの高さは対照的ながら、セルフヌードを通して、性と生殖を痛みの感覚とともに問うのが、鈴木麻弓と岡部桃である。鈴木が不妊治療を諦めた後に開始した「HOJO」シリーズでは、ヌードのセルフポートレートと、商品価値を持たない規格外の形をした野菜の静物写真が並置される。「二本足の人参」の写真は、両腕で自らを抱きかかえ、両脚を投げ出して横たわる女性の身体のように見える。その表面はひび割れ、無数の傷をつけられたように痛々しい。「剥かれた豆のさや」は、「卵子を蓄えた卵巣」のメタファーであると同時に、その数に限りがあることを示唆する。女性ヌードをバイオリンに見立てたマン・レイの《アングルのバイオリン》や、野菜や貝殻など静物の曲線をヌードの官能性に重ねるエドワード・ウェストンなど、「女性ヌード/静物」の二重化の手法は枚挙にいとまがない。鈴木は、そうした写真史の常套手段を戦略的になぞりつつ、女性の身体の一方的なオブジェ化を批判し、むしろ痛みを伴ったものとして書き換える。



鈴木麻弓「HOJO」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


一方、岡部桃は、セクシュアルマイノリティや自身の体外授精を撮った「ILMATAR」シリーズを展示。屏風か巨大な書籍の見開きページのように屹立する二対のパネルには、片側に抱き合う裸の男性、乳房とペニスを持つ人物のヌード、妊娠中のセルフヌード、体外授精の医療現場の光景などが配され、もう片側には廃棄されたゴミ、虫の這うひび割れた多肉植物、砂浜に打ち上げられた魚の死骸などの荒廃したイメージが配される。いずれもピンク、イエロー、緑、赤などの毒々しい色に染められ、さらに空間全体をネオンピンクの色が満たす。祝祭性や刹那性/毒と痛み、生と誕生/死や腐敗が隣り合い、不協和音が包む。だが、その混淆性をまるごと肯定しようとする強い意志が立ち上がってくる。



岡部桃「ILMATAR」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


また、「自然/人工」の境界の線引きや融解を問うのが、𠮷田多麻希と清水はるみである。𠮷田の「Negative Ecology」は、野生の鹿を撮ったネガフィルムの現像失敗を契機に始まったシリーズ。北海道の熊や鹿、鳥類など野生生物を撮ったネガフィルムを、洗剤や歯磨き粉など日用品に使用される薬品類を混ぜて現像することで、画像の損傷が「見えない自然の汚染」のメタファーとなる。清水はるみの「mutation / creation」シリーズは、鑑賞魚や観賞用植物など人工的に作り出されたハイブリッド(交雑種)と、自然界で突然変異が起きた固体を並列化し、両者の弁別の困難さを示す。



𠮷田多麻希「Negative Ecology」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]



清水はるみ「mutation / creation」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


「自然/人工」の境界から、国家や民族の境界について個人史の視線で扱うのが、北朝鮮に暮らす「日本人妻」をテーマにした林典子の「sawasawato」シリーズだ。1959~84年にかけて行なわれた北朝鮮への「帰国事業」では、貧困や差別のなかで暮らす多くの在日朝鮮人が、当時は発展していくユートピアと謳われた北朝鮮に渡った。9万人以上の人々の中には、朝鮮人の夫に同行した約1800人の日本人女性が含まれる。日本の家族や故郷と60年以上も離れて暮らす高齢女性たちを、林は7年間かけて取材した。本展ではその中から3名に焦点を当て、インタビュー映像、故郷の海の写真を見たときの反応、思い出の写真で飾られた自宅の壁の擬似的な再現という異なる手法で展示している。特に後者では、金総書記の写真が掲げられた自宅の壁を背にしたポートレートをよく見ると、同じ壁紙の模様が展示壁に配置されていることに気づく。2つの国で撮られたさまざまな家族写真と、林が撮影した現在のポートレートや室内の光景が混在し、時代感のある額縁と相まって、時間のレイヤーが親密な空間の中に立ち上がる。



林典子「sawasawato」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


また、岩根愛の「A NEW RIVER」は、コロナ禍で迎えた2020年春に、観光客が絶えた夜桜の光景を追って、福島県郡山から、岩手県一関、北上、遠野、青森県八戸までを北上しながら撮影された。強烈な照明を当てられ、禍々しさと表裏一体の美しさで咲き誇る夜桜のパネルの背面には、各地の伝統芸能の舞い手が桜をバックに写され、面や装束をつけて「ヒトならざるもの」に変貌した姿が、死者/生者、異界/現世の境界を曖昧に溶かしていく。



岩根愛「A NEW RIVER」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


このように、それぞれの展示は大変見ごたえがあったが、「女性作家集合枠」には、やはり両義性が残る。「男性中心的な写真界で、発表の機会を積極的に設ける」という意義がある一方、なぜ狭い会場に10人もギュウギュウに詰め込むのか、なぜ「メイン会場」である京都文化博物館の別館ホールや京都市美術館別館は「男性巨匠写真家」が占めているのか、という疑問を大いに感じる。構造を変えようとしているようで、じつは何も変わっていないことが露呈しているのではないか。


公式サイト:https://www.kyotographie.jp/

2022/04/08(金)(高嶋慈)

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Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展:藤井光

会期:2022/03/19~2022/06/19

東京都現代美術館[東京都]

東京都とトーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)が、中堅アーティストを対象に複数年にわたる支援を行なう「Tokyo Contemporary Art Award(TCAA)」。第2回の受賞者、藤井光と山城知佳子の受賞記念展が開催された。個展形式の展示だが、アジア太平洋戦争期に日本軍の委嘱で戦地に派遣された約100名の画家によって描かれ、敗戦後にアメリカ占領軍に接収された戦争画(作戦記録画)の扱いをめぐり、占領軍が残した資料を検証した藤井の新作と、出身地・沖縄の基地問題や沖縄戦の記憶の継承について作品化してきた山城とは、「戦後処理」の問題や日米の権力構造という点で呼応する。本評では、「展覧会の入れ子構造」をとおして、「戦争画153点が一堂に会した展覧会」の「再現(過去)/失敗(現在)/まだ見ぬ実現可能性(未来)」の重なり合いを提示して秀逸だった藤井の新作に焦点を当ててレビューする。


展示会場に入ると、「The Japanese War Art Exhibition(日本の戦争美術展)」と壁に書かれた展覧会タイトルが目に入る。会期は昭和21年8月21日~9月2日、会場は東京都美術館。日英併記だが、日本語→英語の順ではなく、英語の方が先に書かれていることに注意しよう。「入場 占領軍関係者に限る」と明記されるように、これは、アメリカ合衆国太平洋陸軍が主催し、軍関係者に向けて戦争画を公開した展覧会の「再現」なのである。

ここで衝撃的なのは、輸送コンテナのパネルや梱包材が貼られた木製パネルが巨大なサイズで壁に掛けられ、その下に「サイパン島同胞臣節を全うす 藤田嗣治 1945年」「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す 中村研一 1945年」といった「キャプション」が記されていることだ。ではなぜ藤井は、輸送や梱包用の素材を用いて戦争画を原寸大で「再現」しつつ、「見えない絵画」として提示したのか。



藤井光《日本の戦争画》2022「Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展」展示風景、東京都現代美術館、2022 [Photo:髙橋健治 画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]


奥の通路に進むと、モノクロの不鮮明な映像を、ずらりと並ぶモニターが映し出す。細部はぼやけて曖昧だが、銃を構えた兵士、戦闘機、会談する軍人たちのイメージだとわかるものもある。時折挿入される、マイクロフィルムを読み取る顕微鏡や、英語でタイプ打ちされた作品情報のカットから、これらが、「占領軍が撮影した戦争画の写真」をマイクロフィルム化した資料を閲覧するという、二重、三重の手続きを経たものであることがわかる。焦点の合わない「不鮮明さ」とイメージからの「何重もの隔たり」は、戦争の記憶に接近することの困難さや距離感をリテラルに指し示す。



藤井光《日本の戦争美術》2022「Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展」展示風景、東京都現代美術館、2022 [Photo:髙橋健治 画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]


加えて、戦争画の処遇をめぐり、当時の軍関係者たちの会話や証言を再現した音声が流れる。陸軍省の指令でアメリカ本国に送り、アメリカ人従軍画家の絵画とともにメトロポリタン美術館で展示する予定で収集を進めており、傷んだ作品は画家たちが修復中であること。だが、マッカーサーへの伝達ミスで混乱が生じ、誰がどう判断を下すのか保留中であること。美術的・歴史的価値を認め、文化財として保護すべきなのか? プロパガンダとして廃棄すべきなのか? 戦利品とみなし、ほかの連合国と分配すべきなのか? 軍関係者の証言はこう結ぶ:「ともあれ、戦争を賛美する作品は日本人の目から遠ざけておくべきである。すべての作品が集まったとき、然るべき人物が作品を吟味し、取るべき行動を決定するはずだ」と。だが、軍関係者に限定公開された展覧会でも結論は出ないまま、153点の戦争画は東京都美術館の展示室に残され、5年間放置された。その後1951年にアメリカへ輸送され、「無期限貸与」という名目で日本に返還されたのは1970年。現在は東京国立近代美術館が管理している。

ここで、アメリカ国立公文書館所蔵の占領軍の資料を元に「不可視の絵画群」として戦争画を提示した本作の構造は、藤井が「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展で発表した《爆撃の記録》を想起させる。《爆撃の記録》は、東京大空襲の記憶の継承を目的とする「東京都平和祈念館」の計画が凍結され、証言映像や遺品などの資料が死蔵状態であることに焦点を当てた「メタミュージアム」である。「キセイノセイキ」展への資料の貸出が断られ、あるべき資料が不在の「空っぽのガラスケースや台座」を提示することで、現在の抑圧と同時に、記憶の継承の困難さと来るべき実現に向けた想起(の困難さ)が重ね合わされる。この《爆撃の記録》を補助線に引くことで、戦争の記憶に対する国家の管理が発動する場である、展覧会やミュージアムという表象の制度に対するメタ批判が浮かび上がってくる。



藤井光《日本の戦争画》2022「Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022 受賞記念展」展示風景、東京都現代美術館、2022 [Photo:髙橋健治 画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]


本作における藤井の企図は、以下のように複数のレベルで読み取ることができる。(1)まず第一義的にそれは、「敗戦直後の東京都美術館に搬入された戦争画」の再現であり、梱包材はアメリカへの輸送計画を示唆する。原寸大での再現は、英雄的モニュメントとしての「巨大さ」を体感させる(その巨大さはまた、単色で塗られたり矩形に分割されたベニヤ板が、カラー・フィールド・ペインティングやミニマリズム絵画を擬態することで、戦後アメリカ美術のマッチョな覇権主義をも示唆する)。(2)同時に、梱包すなわち「イメージを隠す」ことは、敗戦国・被占領国の国民である私たちが入場を禁じられ、それらを見ることを許されていない事態を指し示す。(3)だが、「不可視の状態に置かれた戦争画」は、現在でも続いているのではないか。東京国立近代美術館では、常設展で数点ずつ戦争画を展示してはいるものの、153点すべてのまとまった公開は未だ実現していない。藤井の身振りは、一括公開されない現状への批判でもある。(4)さらに、「梱包状態」とは、「戦争の記憶」を封じこめようとする抑圧や自主規制そのものの可視化でもある。「東京国立近代美術館の収蔵庫」を模したと思われる後半の展示構成は、戦争画を閉じ込める「檻」のように見える。(5)そして、上述の証言の結びを思い起こすならば、私たち観客こそ、「集まったすべての作品を吟味し、判断を下すべき」主体として呼びかけられているのではないか。ここに差し出されているのは、過去の抑圧を、負の歴史に主体的に向き合う契機へと転じていこうとする強い意志である。


参考文献:針生一郎ほか編著『戦争と美術 1937-1945』(国書刊行会、2007)

2022/04/06(水)(高嶋慈)

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前谷開「Scape」

会期:2022/03/04~2022/03/27

FINCH ARTS[京都府]

カプセルホテルという外界からの遮断装置に身を置き、壁に描いたドローイングとともに、カメラを見つめるセルフヌードを撮影した「KAPSEL」シリーズなど、「セルフポートレート」の手法を用いて、自己の存在基盤、見られる客体と見る視線、(カプセルホテルの開口部が示唆する)「フレーム」についてメタ的に問うてきた前谷開。レリーズを押してシャッターを遠隔操作し、他者がまったく介在しない撮影手法とも相まって、自己完結性や内省性を感じさせるものだったが、本展では一転して、風景のなかにセルフポートレートを開いていく近年のシリーズ「Scape」が展開された。

暗闇に包まれた展示空間のスクリーンには、やはり真っ暗な林を背に全裸で立つ前谷の姿が映し出される。肩から腕へ、腕から胴体へ、首から顔へと、サーチライトのような丸い光が投げかけられていく。丸い光には樹木の枝が映っているが、身体に強烈な光を当てられて血管、骨、神経など体内組織が透けて見えているようでもある。あるいは皮膚が刺青で枝葉の模様に染められ、周囲の林の光景と同化するようにも見える。フィルムで撮った風景の写真を、撮影に使用したカメラを映写機の代わりに用いて、自身の裸体に投影したという。同様の手法によるもうひとつの映像作品《Under the Bridge》では、アングラな雰囲気の漂う夜の橋の下で、フェンスや空き缶の堆積とおぼしきイメージが裸体に投影される。

プロジェクターではなく、フィルムの裏側から光を当て、撮影に用いたカメラのレンズを通して、イメージ=光を撮影とは逆の方向へ送り返す。そのとき光を受け止める皮膚は印画紙の謂いとなる。また、「レンズで光を集めて受像させる」という目の仕組みがカメラとアナロジカルであることに着目し、カメラの構造を反転させることで、前谷の身体へと送り返された光は眼差しの謂いとなる。風景を眼差した身体が、その風景のイメージに見つめ返される。印画紙としての皮膚は、表面の起伏や突起、体毛により、「滑らかな表面」に還元された風景のイメージに、再び触覚性を与えていく。自他や主客の境界が曖昧になった、エロティックともいえる関係が結ばれる。真っ暗な会場の壁に掛けられた写真作品を、ペンライトで照らして「鑑賞」させる仕掛けも、「光=眼差し」を強調する。



会場風景



会場風景


あるいは、暗闇を走査するサーチライトのような光は、例えば、同じくパフォーマーの裸体に、銃の照準かつHIV陽性を表わす記号である「+」を記した光を投影し、処刑や死を示唆するダムタイプの《S / N》の一場面を想起させる。風景のイメージに対する身体論的な関係の再構築に加え、サーチライトのような光=視線がはらむそうした暴力性、身体組織を透過させるレントゲンの擬態、イメージを一枚の表面すなわち「皮膚」として変換する印画紙など、映像と身体の関係を多角的に問う秀逸な試みだった。



会場風景


関連レビュー

KG+ 前谷開「KAPSEL」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年05月15日号)
前谷開「Drama researchと自撮りの技術」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年01月15日号)

2022/03/26(土)(高嶋慈)

ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960‐70年代美術

会期:2022/03/26~2022/05/29

兵庫県立美術館[兵庫県]

1967年にデュッセルドルフでドロテ&コンラート・フィッシャー夫妻が立ち上げたフィッシャー・ギャラリーを軸に、1960年代から70年代のミニマル・アートとコンセプチュアル・アートを振り返る企画展。「規則と連続性」「数と時間」「場への介入」「歩くこと」「芸術と日常」などキーワードごとに2~3作家ずつ紹介し、共通性と差異を見せる。フィッシャー・ギャラリーと関わりのあった18作家の主要作品に加え、作品制作の指示書、ドローイングや図面、書簡、記録写真などフィッシャー夫妻が保管していたさまざまな資料(ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館収蔵)も展示する点が特徴だ。

例えば、「工業材料と市販製品」の章では、カール・アンドレとダン・フレイヴィンを紹介。アンドレはフィッシャー・ギャラリーのオープニング展を飾り、アメリカのミニマル・アートが早い段階でヨーロッパに紹介された。出品作《雲と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌》(1996)は、同年に死去したコンラート・フィッシャーへの哀悼が込められた作品だ。144個の鉛の立方体を、それぞれ12×12の正方形(結晶)と床に散りばめて(雲)、原子の配列と物質の状態変化、最小限の要素と多彩なバリエーションという作家の思想の核を示すとともに、「鉛」を意味するドイツ語「Blei」のアルファベットを組み替えた「Leib(身体)」、「Leid(悲嘆)」、「Lied(歌)」というサブタイトルは、死者への哀歌を示唆する。



カール・アンドレ《雲と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌》(1996)


「数と時間」の章では、河原温とハンネ・ダルボーフェンを紹介。河原は、滞在している都市の観光絵ハガキにその日の起床時間をゴム印で記した「I Got Up」シリーズを、1968年から79年まで、毎日2人の知人に送り続けた。本展では、1969年にコンラート・フィッシャー宛てに郵送された計120枚の絵ハガキが展示されている。日付絵画の「Today」シリーズや過去/未来の100万年にわたる年を羅列した「One Million Years」など、河原作品におけるタイポ打ちの数字の無機質性とは対照的に、ハンネ・ダルボーフェンが独自の表記法で計算し続けた膨大な数字や記号は、手書きの痕跡の生々しさを伝え、数字に対する偏執的熱狂はアール・ブリュットにも接近する。また、「歩くこと」の章では、草地の2地点間を繰り返し歩いて「一本の道」を出現させたリチャード・ロングと、路上に敷いた紙の上を歩いた通行人の足跡を作品化したスタンリー・ブラウンは、ともに「歩行」という日常的な行為に基づきつつ、作家自身の主体性や幾何学的な構築性/他者の介入・参加や散漫さという点で対照的だ。そして、展示後半では、プロセス・アート、ランド・アート、ボディ・アート、制度批判への派生的な展開が示されていく。



河原温 会場風景


本展で興味深いのは、「ミニマル/コンセプチュアル」と銘打っているにもかかわらず、ゲルハルト・リヒターが入っていることだ。当初は作家志望だったコンラート・フィッシャーは、デュッセルドルフ芸術アカデミーでリヒターと同時期に学び、資本主義リアリズムを掲げた展覧会などをともに開催した。また、本展出品作家では、タイポロジーの手法を確立したベッヒャー夫妻、既製品の布を縫い合わせてカラー・フィールド・ペインティングを擬態した「布絵画」など「絵画」の構成原理を問い続けたブリンキー・パレルモ、同じくヨーゼフ・ボイスに学び、民族誌学や文化人類学を批評的に取り入れたローター・バウムガルテンもデュッセルドルフ芸術アカデミー出身である。



左:ゲルハルト・リヒター《エリザベート(CR104-6)》(1965) 右:ブリンキー・パレルモ《4つのプロトタイプ》(1970)


このように、ひとつのギャラリーを起点に据えることで、デュッセルドルフにおける60-70年代美術の地政学が浮かび上がる。(ミニマル・アートはアメリカとの時間差のある受容だったが)コンセプチュアル・アートは同時代の展開だった。同時進行性を加速化させた要因のひとつに、「スタジオで時間をかけて完成させた作品をギャラリーに輸送するのではなく、飛行機のチケットを作家に送り、アイデアだけを持って現地制作してもらう」「作家が指示書をギャラリーに送り、作品制作を完全に委ねる」というフィッシャー・ギャラリーの基本姿勢がある。指示書、ドローイングや図面、展示プランを伝える書簡などの資料は、物資性の希薄さが輸送の容易さや輸送費の軽減につながる証左でもある。付言すると、「資料群の展示=輸送(費)の問題のクリア」という構造は、(前述のアンドレ作品を除き)絵画や立体、写真作品、インスタレーションなど「実体のある作品」はほぼ日本国内の美術館から借用した本展の構成にも共通する。ここにはコロナ時代の美術展のあり方に対するひとつのヒントも看取できる。



ブルース・ナウマン「イエロー・ボディ/Yellow Body」展(1974)の関連資料


「デュッセルドルフを観測点とした同時代美術の地政学」の提示は、アメリカ中心主義的な歴史観の相対化という役割を持つ。唯一の中心ではなく、複数の観測点をもって眼差すこと。そこに、本展を日本で開催する意義がある。


関連レビュー

「ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」展ほか|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2022年02月15日号)

2022/03/25(金)(高嶋慈)

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注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」

会期:2022/02/26~2022/03/27

兵庫県立美術館[兵庫県]

「蛍光ピンクの猫のキャラクターをかたどった立体作品」といういかにもSNS映えするキャッチーな外観だが、巨大すぎて全貌を画面に収めることができない《デコレータークラブ─ピンクの猫の小林さん》。一見何もない展示空間だが、「壁」を観客が(時に協働して)押すことで動き出し、ホワイトキューブという制度的空間を文字通り揺り動かす《デコレータークラブ─配置・調整・周遊》。展示室の床に置き忘れられたかのように見える、けれどもどこか場に不似合いなカラフルなスポーツバッグを手に取ろうとすると、とんでもなく重くて持ち上がらない《デコレータークラブ─ベリーヘビーバッグ》。飯川雄大が2007年から展開する「デコレータークラブ」シリーズはこれまで、観客の能動的な介入を誘いながら、認識と体験のズレをユーモラスに仕掛ける作品を発表してきた。そこにはつねに視覚の全能性に対する疑いがある。「デコレータークラブ」とは、海草や貝殻など周囲のモノを殻にまとって環境に擬態する習性を持つ蟹を指す。「展示壁や忘れ物のフリをする」ことで美術鑑賞の場に擬態する飯川作品の核心をつく言葉であるとともに、「デコレータークラブ」を発見した観客自身が、それまで「透明な目」として展示空間に溶け込み「擬態」していたことを暴く作用の名でもある。

本展ではまず、展示壁に大きく記された「新しい観客」という文字が出迎える。カラフルなロープで構成された文字には滑車が取り付けられ、滑車から伸びたロープが会場内に張り巡らされている。そして、4台の回転ハンドルを観客が回すと、滑車が回ってロープがゆっくりと引っ張られ、文字を構成するロープの色が次第に入れ替わっていく。



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022)[撮影:阪中隆文]



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022) [撮影:阪中隆文]



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022)[撮影:阪中隆文]


さらにロープは展示室の外へと続く。ロープを辿って廊下を抜け、美術館の外へ。すると外壁一面に、「MAKE SPACE USE SPACE」という巨大なロープの文字が掲げられている。筆者の鑑賞時は、展示室内の「新しい観客」という文字はブルー、白、オレンジのロープで主に構成されていたが、外壁のこちらは蛍光ピンク、白、黄色と鮮やかだ。展示室内で観客がハンドルを回すことで、ロープがつながった外壁の文字も少しずつ色が移動し、ある時点で完全に色が入れ替わるという。



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022) [撮影:阪中隆文]


ひとつの視点では把握できない全貌を、ある作用が別の場所にもたらす出来事を、想像すること。加えてここには、社会構造に対するポジティブなメッセージを読み解くことも可能だ。個人が能動的に働きかけることで、少しずつ色が入れ替わって変化していく。社会構造は変えることができる。ただし、1人だけの力では色を完全に入れ替えることはほぼ不可能である。複数の人の力が合わさることで構造全体が変化していくのだ。

また、キャスターに乗った《ベリーヘビーバッグ》を観客が展示室の外へ持ち出し、神戸市内の美術館から、飯川が参加する「感覚の領域 今、『経験する』ということ」展が開催中の大阪の国立国際美術館まで運ぶという「作品」も、2つの点をさまざまな想像でつなぎ、示唆的だ。重いバッグに疲れ、観客が故意にもしくはうっかりどこかに放置してしまったら? 事故などで破損したら? 盗難にあったら? 「アート作品」として売ろうとする人が出てきたら? こうした想像は、観客もまた、(解釈ではなく物理的運搬というかたちで)「作品」の成立に責任を負う存在であることをリテラルに突きつける。あるいは、キャスターに乗ったバッグを運ぶ観客を、「旅行者」に擬態させる。それは、「移動」が制限された状態に対する、想像力を介した抵抗の身振りでもある。さらに想像をたくましくすれば、「避難民」への擬態は、今この瞬間にも「ここではない別の場所」で起こっている出来事を「ここ」へと強制的に転移させる。物理的なアクションと想像の作用の両方により、「観客を動かす」秀逸な展示だった。



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022) [撮影:飯川雄大]

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2022/03/19(土)(高嶋慈)