2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

小林透写真展「前夜」

会期:2017/11/03~2017/12/03

PORT[大阪府]

まだ少年の面影を宿す若い男性が、こちらを凝視している。虚空を見つめるような視線。おどけるように口を引っ張る、硬直した5本の指。モノクロの画面に閉じ込められた、聴こえない叫び。何かから耳を塞ぐように、顔の横で張りつめた指の緊張感。おびただしいカットの集積が、異常なまでの熱量と感情の強度を増幅する。そして全裸を晒した彼は、浴槽の中で飛沫を撒き散らし、あるいは畳やベッドの上に身を横たえ、自ら快楽に身を委ねていく……。

小林透は一貫して「弟」を撮り続けてきた写真家である。展示に添えられた文章を読むと、自閉症で重度の知的障害を持つ弟を被写体とし、「作品」として発表することに対して、「撮る/撮られる」「健常者/障害者」といった「非対称性」「暴力性」、「現実の弟」/「写真の中の弟」のギャップについて葛藤を抱えながらも誠実に向き合おうとしていることが分かる。

小林はまた、「自閉症である弟は他人と視線を合わせようとしないが、ファインダーを覗いて声をかけると弟はこちらを向き、カメラを介すことで弟と視線を交わすことができる」とも記す。それはカメラという媒介を通して初めて成立するコミュニケーションであると同時に、「見つめ合っているのに触れられない」という「距離」の出現がエロティシズムを密かに駆動させる。そこでは、「彼の上げる奇声や体を揺らすリズムに合わせ、その律動を捕捉しようとシャッターを切る」写真家は、一方的に視線を行使する特権的で暴力的な存在ではない。むしろ、その瞬間を捕捉することに奉仕し、支配されているのは写真家の方であるかもしれない。あるいは、「写真の中で生命力に溢れて見える弟の姿は、現実に目の前にいる生身の弟を見えなくさせてしまうが、同時に新しい弟の姿を見出すことができた」とも綴る小林は、「撮る者」であると同時に「写真の弟を見る者」でもあり、一方的な眼差しの行使者としての写真家は、視線の交差を成就させるカメラの介在によって、逆に「写真の中の弟から見つめ返される者」へと反転される。その時、あまりにも無防備で開かれた弟の身体は、その徹底した受動性ゆえに見つめ返される者を脅かす。主導権は絶えず曖昧に入れ替わり、引力と斥力が拮抗する。また別のシークエンスでは、届かなさや捉え難さを一気に直に埋めようとするかのように、小林と弟がともに全裸で抱き合い、肌を触れ合わせる。それは、子を慈しむ母親のようにも、激しく抱擁する恋人同士のようにも見える。

展示方法もまた、一見無軌道に見えて、感情的な発露を増幅するように計算されている。何十枚ものプリントを直接ピンナップした一角では、壁面を覆い尽くす過剰な物量感が、エネルギーを自己増殖させていく。一方、「写真」に対する両義的な感情がせめぎ合う手つき―カッターで切り刻む/傷を修復するようにテープで貼り直す、思い出したくないものを放擲するように押し入れの暗がりに無造作に放り込む/宝物のように引き出しの中に大切に忍ばせる、といった相反する操作も見られる。ここでは、家族だからこそ抱いてしまう「愛憎」が、制御不可能な写真の扱い方となって噴出している。あるいは、それらが「弟の真実の姿」などではなく、「紙に焼き付けられたイメージ」にすぎないことを自らに突きつけるように、たわめて歪ませ、引き裂き、物質性が露にされている。

小林の写真にあるのは、コードの重なり合いあるいは撹乱だ。「家族写真」と言うには親密さよりも不穏さを湛えており、「障害者(の性)」という社会的にはタブーとして隠蔽される主題を内包し(例えば高嶺格の《木村さん》が同様のテーマを扱っている)、「メール・ヌード」としてゲイ写真のセクシャルな欲望をも仄めかす。しかし同時に、そのどこにも定位を拒もうとする力に引き裂かれている。それは、「弟と私」という極私的で先天的に決定済みの関係に身を置きながら、肉親であり、言語的な意思疎通が困難な存在であり、生(性)の喜悦に溢れた目の前の肉体を、「弟」「障害者」「同性」といったカテゴライズの下で眼差すことから脱するための、際限なく続く迂回の試みである。

2017/12/03(日)(高嶋慈)

プレビュー:大坪晶「Shadow in the House」

会期:2018/01/06~2018/02/18

アートラボあいち[愛知県]

大坪晶の写真作品《Shadow in the House》シリーズは、時代の変遷とともに所有者が入れ替わり、多層的な記憶を持つ家の室内空間を被写体としている。歴史の痕跡の記録であると同時に、ダンサーが室内で動いた身体の軌跡を長時間露光撮影によって「おぼろげな影」として写し込むことで、何かの気配や亡霊の出現を示唆する。それはまた、複数の住人の記憶が多重露光的に重なり合い、もはや明確な像を結ぶことのできない記憶の忘却を指し示すとともに、それでもなお困難な想起への可能性を開いてもいる。大坪は近年、日本各地に残る「接収住宅」(第二次世界大戦後のGHQによる占領期に、高級将校とその家族の住居として使用するため、強制的に接収された個人邸宅)を対象とし、精力的なリサーチと撮影を続けている。
《Shadow in the House》は写真作品だが、ダンサーとの協同作業や、「接収住宅」の所有者の遺族や管理者への聞き取り、接収関連資料のリサーチなども含む複合的なプロジェクトである。筆者はリサーチや批評文の執筆というかたちで参加している。今回のアートラボあいちでの個展では、新たに愛知県内で撮影した4件の接収物件についての新作が発表される。合わせて、接収関連文書、手紙、占領下の名古屋にあった「アメリカ村」の地図、占領期の雑誌などの資料と、「接収住宅」に関わった個人の思い出の品や写真なども展示される予定だ。パブリックな記録と個人の記憶が交差する地点から、「住宅」という私的空間における異文化の接触、それがもたらした建築的・文化的・身体的な戦後日本の変容、記憶の継承について考える機会となるだろう。

関連レビュー

大坪晶|白矢幸司「Memories and Records」|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/11/27(月)(高嶋慈)

プレビュー:ダンスボックス・ソロダンスシリーズvol.2 寺田みさこ『三部作』

会期:2018/01/19~2018/01/21

ArtTheater dB Kobe[兵庫県]

「ソロダンス」によるフルレングス作品の上演をシリーズ化する企画、「ダンスボックス・ソロダンスシリーズ」の第2弾。本公演の特徴は、世代、バックグラウンド、ダンスのキャリアが大きく異なる3名の振付家が、それぞれ「寺田みさこ」を振り付ける点にある。寺田は、幼少より培ってきたバレエを基礎とし、コンテンポラリーダンスの領域を横断しながら活動している。対する振付家の顔ぶれは、即興的かつ過激な身体の接触で知られるcontact Gonzoの塚原悠也、韓国を代表する気鋭のダンサー、振付家のひとりであるチョン・ヨンドゥ、KYOTO EXPERIMENTに過去3回参加し、極限的な肉体や暴力性を観客に突きつけてきたブラジルのマルセロ・エヴェリン。高い身体能力や運動の正確性を持つ寺田の身体を通して、それぞれの振付家のダンス観や身体論の差異と比較が提示されるとともに、「寺田みさこ」という固有のひとつの身体がどこまで可塑的な変容の振れ幅をもって立ち現われるのか、期待したい。なお本作は、2月に開催される「横浜ダンスコレクション2018」においても上演が予定されている。

2017/11/27(月)(高嶋慈)

『RE/PLAY Dance Edit』

会期:2017/11/25~2017/11/26

京都芸術センター[京都府]

「東京デスロック」主宰の演出家、多田淳之介による、「演劇」のフィールドから「ダンス」を鋭く照射する、秀逸かつプロブレマティックな作品。まず、本作に至るまでの経緯を簡単に辿っておく。前身と言えるのが、2006年に演劇作品として上演された『再生』。「ネットで誘い合った若者たちが集団自殺をはかる」という設定の下、錠剤を飲んだ若者たちが爆音でかかる音楽の中で約30分間踊り狂った後、倒れていく。これを3セット繰り返すことで、負荷をかけられて疲弊していく生身の身体の「リアル」と「反復構造/繰り返せないこと」を提示した。2011年に再演された『再/生』では、東日本大震災を契機に、「疲弊しきった身体が何度も立ち上がり、再び踊ろうとする」姿を強調することで、「死」から「生命力の肯定」へのシフトが企図された。そして、「We dance 京都2012」にて、ダンサーとの共同作業を委嘱された多田は、『RE/PLAY』を発表。出演者は俳優からダンサーに替わり、3セットの繰り返しではなく、同じ曲を何度も反復するという構造上の変化がとられた。横浜、シンガポール、カンボジアでの再演を重ね、日本人ダンサーと現地ダンサーからなる多国籍の出演者によって上演されたのが本作である。

『RE/PLAY Dance Edit』の構造的特徴は、タイトルが示すように「反復と中断」にあり、それは楽曲の再生とダンサーの運動の双方において徹底して遂行される。冒頭、一列に並んで客席と相対した8名のダンサーたちは、ポーズを決めて静止した後、次々と床に倒れる。『We Are The World』の曲がかかり、ダンサーたちは短い身振りの反復→静止ポーズ→倒れ込む、をひたすら繰り返し続ける。音楽は何度も一時中断するが、彼らは意に介さず、ロボットのように淡々と反復に従事し続ける。また、見続けているうちに、各人が何パターンかの身振りを繰り返していることが分かってくる。例えば、直角に曲げた腕を上下に振る、四つん這いで軽くジャンプしながら移動するなど、体操のような動作が多い。意味の発生を回避したニュートラルな動作が選択され、感情を込めず無機質なトーンで行なわれるため、「振付」の強制力の下で搾取されるダンサー=労働者の身体が前景化し、それへのささやかな抵抗として、「音楽にノること」「反復することの快感」への拒絶が提示されていると理解される。
序盤で『We Are The World』が2回流れた後、ビートルズの『オブラディオブラダ』が10回連続でこれでもかと繰り返される。変容の兆しが起きるのは、半ばあたりからだ。額で光り始める汗は、運動量の蓄積とそれがもたらす熱量の発生を告げる。荒く上がり始める息と、比例する肉体的な高揚感。反復/できないこと、生身の身体がそこにあること。無機質な手触りだったものが、目の前で如実に変容していく。曲の7回目頃からは、ダンサーたちの動きは速さと激しさを増し、早回しのように舞台上を縦横に行き交う。曲の切れ目の「無音」に響く荒い息遣いが、運動量の激しさを音響的に物語る。
そして、「打ち上げでの会話」を模したやり取りが日/英で交わされるシーンを挟み、終盤、『今夜はブギー・バック』、『ラストダンスは私と』、最後にPerfumeの曲が3回連続でかかる。ここに至って熱気と高揚感は最高潮に達し、水を得た魚のようなダンサーたちは、ブレイクダンスの回転技、バレエ、カンボジアの古典舞踊の動きなど、各人の「得意技」を次々と披露し始め、さながら他流試合のダンスバトルの闘技場のような様相となった。 その生の過酷な闘技場は、「ダンス」をめぐる幾重もの問いが係争される場でもある。単なる「動き」と「ダンス」を線引きする境界はどこにあるのか? 見る側の認識の問題か、パフォームする側の意識か、制度に帰着するのか? どこまでが「振付」で、どこまでが「内発的な情動」から出た動きなのか? 私たちは、反復が生む熱量の蓄積と音楽の高揚感によって、身体的疲労がその閾値を超え、ランナーズハイのように熱狂的な陶酔へと変容する身体のありようをまざまざと見せつけられる。ドラッグのような魅力と、集団的な高揚感に飲み込まれる危険性も。
だからこそ、終盤近くの「会話の挿入」という「演出」には疑問が残る。「関西のダンスシーンに疎い関東のダンサーへの揶揄やツッコミ」「カンボジアではダンサーは公務員扱いであること」など、出演者の「多文化・多国籍」性、ダンスのバックグラウンドの多様性、在住する都市や国の文化的相違をアピールするのが狙いだろう。だが、安易に言語に頼らずとも、彼らの身体が既にダンスの履歴や身体性の違いを雄弁に語っている。また、「直接的なコンタクトが一切なく、個々人が舞台上で「孤絶」しているにもかかわらず、次第に醸成されていく集団的な高揚感や一体感」の効果が軽減してしまう。それはバックグラウンドが異なる者同士が同じ場で共存する希望であるとともに、集団的な熱狂がはらむ危険性と表裏一体でもある。その両面を提示しながら、この過酷なまでの時間に耐えた出演者たちに拍手を送りたい。



撮影:前谷開

2017/11/26(日)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017 神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』

会期:2017/11/03~2017/11/05

京都芸術センター[京都府]

沖縄出身の祖父が移住したペルーで生まれ、川崎で育った神里雄大。近年では、ペルー、沖縄、メキシコ、小笠原といった各地での取材を元に、移動や旅、家族やルーツ、島、文化的ハイブリッドを主題とした演劇作品を発表している。本作では、1年間のブエノスアイレス滞在を経て、現地で見出した俳優やダンサーによる、スペイン語での上演が行なわれた。
会場に入ってまず目を奪われるのは、秀逸な空間設計である。天井には万国旗が吊るされ、屋台やバーカウンター、コンテナとタイヤ、二段ベッド、寝袋の置かれた「二等客室」の床、ミラーボール、教会のベンチ、花輪の飾られた棺桶などが舞台装置のように散りばめられている。観客は、セットの一部として置かれた椅子やソファに座ったり、二段ベッドに上って観劇する。幕開け前のざわめきと、流れる陽気なラテンナンバー。元小学校の講堂が、「旅」、「人の集い」、そして「死」が渾然一体となった祝祭的な空間へと変貌する。私たちは、たまたま隣り合った見知らぬ観客同士と肩を並べ、「船旅の旅客」や「屋台やバーに集う客」といった一時的な役割を演じることになる。


神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』 2017 京都芸術センター
撮影:井上嘉和 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

客席と舞台の反転は、幕が開けるとより鮮明になる。俳優たちは、奥行きのないペンキ絵の背景や「書き割り」の舞台装置といった平面的な舞台空間の中にいるのだ。そこに登場するのは、父親の生前の希望により遺灰を海に撒きにきた男と、夫の死後、精神を病んで引きこもり状態にある母親、遺灰を撒くための船を出す男、彼から「犬」のように蔑まれる連れの男の4人である。車内に閉じこもったまま一言もしゃべろうとしない母親、散灰の是非をめぐって意見が対立する男たち。彼らはどこにも行くことなく、状況は遅々として進展しない。一方、憑かれたように話し続ける彼らの語りには、過去の回想や人づてに聞いた話が入れ子状に侵入し、空間や時間の隔たりが圧縮されて自在に移動する。神戸港からパラグアイに移住した「セニョール・ソノダ」が語った、移民船や水葬の話。どこまでも続く大豆畑で星を見ながら迎えた朝。観光で沖縄を訪れた友達から聞いた、那覇の路地裏にある屋台。そこで焼き鳥を焼く若い男は、昼間は沖縄戦の遺骨の発掘をしているという。あるいは、小笠原諸島へ向かう船旅と、戦争を挟んで日本とアメリカの統治権が何度も交替した島の歴史とともに生きてきたバーのマスター。ペルーからチリへの山越えの国境付近にある教会と、そこでの人身売買。
いくつものエピソードが断片的に語られていくうちに、これは誰の記憶なのかが曖昧になってくる。生と死の境界すらも。長い坂道を振り返ると霧のなかに浮かんで見える街のように、全ては夢の中の光景のような浮遊感をたたえ、同時に鮮烈な原色の色彩に彩られている。その感触は、ここではない外部へと連れ出そうとする言葉に抗うように痙攣や停滞、投錨された不動性を表出する身体に加えて、全編がスペイン語で上演されていたことも大きい。神里の戯曲は、独特の詩的跳躍力や比喩の密度を豊潤に湛えた言葉が大きな魅力だが、日本語で書かれた戯曲をあえて異言語で上演することで、母語への密着から引き剥がされた「距離」が発生する。その空隙は、私たちの無自覚な前提を相対化しながら、国境、昼と夜の境、海と撒かれた灰の境、生者と死者の境が明確に区別できずに溶け合った時空間を差し出すのだ。


神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』 2017 京都芸術センター 
撮影:井上嘉和 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

2017/11/05(日)(高嶋慈)

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