2018年11月15日号
次回12月3日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

三田村陽「hiroshima elements」

会期:2018/07/14~2018/08/11

The Third Gallery Aya[大阪府]

可視的な「ヒロシマ」の表象に安易に依拠するのではなく、「広島」という都市の現在を捉えることを通して、写真を撮る/見る営みについて考え続けること。この姿勢が、三田村陽の写真を一貫して支え続けている。約10年間、広島に通いながら撮影した写真をまとめた『hiroshima element』(2015)の刊行後、新たに撮影された写真群が「hiroshima elements」とタイトルを複数形に改めて発表された。

平和記念公園周辺や市街地、行き交う住民や観光客を、節度ある距離感を保ち、カラーのスナップとして撮影する姿勢は変わらない。ただ、本展を通覧して気づくのは、これまでよりも、「ヒロシマ」性を意識させる事物が画面に占める割合の増加である。例えば、「原水爆禁止広島集会」「原爆資料展」を告知する看板やポスター、古びた木造家屋の壁に貼られた「8月6日の祝日化」を訴える貼り紙、繁華街や駅前など公共空間に設置された被爆直後の市街地の写真パネル、被爆建築物、そしてメモリアルの施設。いずれも街中に断片的に散らばる文字情報や視覚情報、物理的痕跡だが、それらに目を向ける人はなく、あるいは無人の光景であり、「眼差しの対象ではない」ことが示される。皮肉にも、「ヒロシマ」を主張するメッセージや装置それ自体が「忘却や無関心」を鏡のように反映してしまっているのだ。

「眼差し」もまた、キーワードのひとつである。修学旅行と思しき学生の集団は、みな一様に何かに眼差しを向けているが、視線の先はフレームアウトして断ち切られ、彼らが「何を見ているのか」は分からない。あるいは、白杖を持った盲学校の生徒たちは、「見ることそのものの困難」を仮託した存在として写される。既発表作においても、写メする人々のスナップは散在していたが、ガラケーからスマホの自撮りへの移行は時代の変化を感じさせるとともに、広島での撮影行為が「観光客の消費する視線」でしかないことを露呈させる。「自分がこの地にいること」の証明と承認が、観光客としての模範的振る舞いなのであり、それは広島の地においても変わりはない。

三田村が観察するように、平和記念公園や周囲の川沿いは、観光客だけの占有物ではなく、広島市民にとって水遊びやお花見など日常的なイベントの場所でもある。季節は移ろい、昭和の風情を湛えた街並みは再開発によって姿を消していく。しかし、駅の伝言板に残された手書きのメッセージを写したショットが、「被爆直後に人々が家族や知人の安否を書き込んだ黒板」を想起させる時、時制が混濁した感覚に陥る。都市の表層は整備されて上書きされ、忘却されたようで、記憶のトリガーはあらゆる細部に潜んでいる。

遠景の原爆ドームを、「ビルのガラス壁面に映った左右対称の鏡像」と対で捉えたショットは、極めて象徴的な一枚だ。物理的存在としてのモノと、実体のない虚像のはざまに身を置きながら、二重写しになった、あるいは分裂を抱えた広島を眼差さざるをえないという矛盾や葛藤、もどかしさ。三田村の写真は、記憶と忘却、保存と痕跡の抹消、公的行事と日常生活空間、物理的実体と映像的体験、といったさまざまな矛盾や断層を引き受けながら、何が可視的で何が「見えていない」のかという問いそのものを都市的なスケールで見つめ続ける営みである。メモリアル施設のリニューアルや被爆した石橋の背後にそびえ立つ高層ビル群が示すように、「広島」は「ヒロシマ」として静止した時間だけではなく、刻々と新陳代謝を繰り返し、流れる複数の時間が日々積層されていく。安全に隔離・管理された資料館内部やアイコン=点としての原爆ドームだけを見る、すなわち「ヒロシマ」を確認する眼差しを批評的に検証しつつ、「過去に起きた大きな災厄」がどのように記憶され、歴史的出来事として登録されているのか(何を「記憶」すべきかがどう選別されているのか)を都市的なスケールで観察し、記録すること。断片的な個々の要素を積み上げ、その多面的な集合体を通して本質へ近づこうとする「hiroshima elements」の粘り強い結実がここにある。



三田村陽《hiroshima elements》 2018

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2018/07/17(火)(高嶋慈)

ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』

会期:2018/07/06~2018/07/08

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

ドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレに招聘され、日本人演出家として初めて、3シーズンにわたるレパートリー作品の演出を務めた岡田利規(チェルフィッチュ主宰)。現地に滞在し、カンマーシュピーレ専属の俳優陣やスタッフとつくり上げた『NŌ THEATER』(2017年初演)が京都で上演された。タイトルに「NŌ(能)」とあるように、未練を抱え成仏できない「幽霊」の語り、「シテ」「ワキ」「地謡」の役割を明確に振り分けた構造からなる本作は、能という演劇形式を現代的に高度に洗練させて抽象化しつつ、現代日本社会の病魔を提示する。

1本目の演目「六本木」では、かつて投資銀行のディーラーだった男が、バブル経済とその破綻、長期化する不況、リーマン・ショックの余波へとなすすべなく崩壊する日本経済の一端を担ったことを悔いて自殺し、「希望のない若さ」をもたらした罪の許しを乞うため、一人の青年の前に「幽霊」となって登場する。短くコミカルな「狂言」を挟み、2本目の演目「都庁前」では、2014年の東京都議会での女性差別的なやじ問題に端を発して出現するようになった「フェミニズムの幽霊」と、抗議行動として都庁前に立ち続ける女が登場。別の青年と対話を交わし、日本社会に蔓延る女性蔑視を糾弾する。



「六本木」[撮影:井上嘉和]

抽象度の高い舞台美術の作品が多い岡田にしては珍しく、舞台美術は極めて精巧に組まれ、舞台上に東京の地下鉄のプラットフォームが出現する。中央のベンチでストリートミュージシャンのように演奏するのは、現代音楽家の内橋和久。古典的な能の囃子と同様、同じ舞台空間上でライブ演奏する内橋が奏でるダクソフォンの幽玄な音色は、イエローやグリーンに変幻する照明の効果ともあいまって、「幽霊」の出現を音響的に告げる。また、「駅員」と「地謡」の2役を兼ねる女優が歌うような節回しで発声する、ドイツ語の音楽的な響きも魅力的だ。俳優の所作は厳密にコントロールされ、不動に近いほどに抑制されているが、「幽霊」の身体は次第に見えない圧を高めていくような運動を始め、台詞と乖離した身体運動の浮遊感が、見る者の平衡感覚を揺るがしていく。彼らの遺した未練や怨念は、浄化されず地下空間に吹き溜まる一方、「グローバルな金融システム」の象徴たる森タワーや「いきり立つ逸物」に例えられる都庁ビルは、地上の支配者のごとく監視塔のようにそびえ立ち、重くのしかかる。「ワキ」役の青年たちは、いったんは幽霊の棲む地下の異界に下降し、「シテ」の幽霊の聞き役を務めた後、舞台奥の階段を昇って再び地上世界へと戻る。この階段は能舞台において此岸と彼岸を橋渡しする「橋掛かり」の装置を思わせ、「鏡板」に見立てられた「液晶ディスプレイ広告」には「松」のイメージが映し出される。



「都庁前」[撮影:井上嘉和]

このように、『NŌ THEATER』では、随所に「能」との接続を示唆する仕掛けが施されている。古典芸能である「能」の構造や意匠を散りばめつつ、現代日本社会への自己批評をテーマとすることで、エキゾティズムの陥穽に陥ることを巧妙に回避する──ここには、岡田の演出家としてのバランス感覚が見てとれる。ドイツ語圏のみならず、イランやレバノンなど非欧米圏各地から演出家が招かれるミュンヘン・カンマーシュピーレにおいて、戦略的な演出設計だと言えるだろう(同じく「幽霊」が登場するチェルフィッチュの過去作品『地面と床』(2013)や『部屋に流れる時間の旅』(2016)において既に「能」の形式は導入されていたが、本作はより徹底化が図られている)。それは、ミュンヘンの観客には、「古典のエッセンスと現代社会批評の融合」としてアピールし、日本国内での上演においては、「ドイツ人俳優がドイツ語で演じ、日本語字幕を通して観劇する」という間接的な迂回路を取ることで、ドメスティックで生々しい問題の直接性は緩和される。私たちは、「息苦しい現実」を一種の緩衝材として間に挟まれたレイヤー越しに眺めることで、ほどよく距離を取って見ることができる。それは、「現実の異化」という演劇のもたらす作用のひとつだ。だが、資本主義に侵食された公共空間に代わってここでは、液晶広告に輝く「松」のイメージが終始、「日本」という記号を「商品」として宣伝し続けていたことも事実である。

公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/program/7856/

2018/07/07(土)(高嶋慈)

山田弘幸個展「写真になった男」

会期:2018/06/16~2018/07/16

ARTZONE[京都府]

「TOKYO FRONTLINE PHOTO AWARD 2016」でグランプリを受賞し、副賞として翌年にG/P galleryで個展を開催した直後、作品を同ギャラリーに譲渡して失踪した写真家、山田弘幸。山田の失踪後、初の展覧会となる本展は、姿を消す直前に山田が発言した「写真のなかに入りたい」という言葉を導きの糸に、近作の複数のシリーズから抜粋した写真作品で構成されている。

「作家の不在」という状況、しかも没後の回顧展ではなく、「作家は存命であるにもかかわらず、作家不在を前提条件として成立する個展」というポイントは、「キュレーション」という問題機制を自ずと前景化させる。これは、同じARTZONEでひとつ前に開催された「ゴットを、信じる方法。」展とも共通する(ちなみに両展とも、京都造形芸術大学アートプロデュース学科4回生による企画である)。「ゴットを、信じる方法。」展では、エキソニモによるメディア・アート作品《ゴットは、存在する。》(2009-)を対象とし、アーカイバルな検証を加えつつ、約10年間のメディア環境の変化を踏まえて「再演」し、オリジナルとの「物理的な/コンセプト上のズレや隔たり」を提示することで、メディア・アートと技術的更新、ネット感覚に対する世代間の差異、「オリジナル」の物理的復元/(再)解釈行為の振幅で揺れる「再制作」、キュレーションにおける作家性の代行といった問題群を浮かび上がらせていた。

一方、本展では、キュレーターと作家はより確信犯的な共犯関係を結ぶことになる。本展の中核に据えられるのは、スペイン語で「父」を意味する《Padre》シリーズだ(上述のG/P galleryでの個展の展示形態が再現されている)。山田は、幼い頃に亡くした父の生前のポートレートをプロジェクターで投影し、その光を全身に浴びながら、父の服装やポーズを真似て重なり合うようにセルフ・ポートレートを撮影した。「既にこの世を去った/写真のなかにイメージとして残存する」父、その不在と存在の二重性は、「失踪」という行為を契機に山田自身へと折り重ねられる。本展のキュレーションは、「写真のなかに入りたい」という彼の願望を代行的に引き受けることで成就させようと目論むのだ。ここには、デュシャンの通称《遺作》──公には美術界から身を引きながら、死後の公開を条件として20年間秘密裡に制作されていた──のような、表現行為と制度との共犯関係に加え、存在論的な移行を可能にしてしまう写真というメディアの本質的な恐ろしさがある。

だが、《Padre》シリーズの持つ不穏さは、それだけだろうか。《Padre》は、額装プリントや制作プロセスの映像記録とともに、古びた「アルバム」にプリントを収めた形態でも発表されている。額装と異なり、アルバムは家庭の私的領域に属すものであり、それをめくりながら鑑賞する行為は、「父と私」というプライベートな関係に加え、「記念写真」性をより強調する。正装して写真に収まる若き日の父。同じく正装し、父のポーズをなぞり、ともに横に並んでカメラを見つめ、あるいは父の像を飲み込むように体内に宿す山田。「父親との同一化の願望」はさまざまに変奏して示される。写真に写った父と自分の頭部を切り取ってすげ替えた1枚では、デジタル合成でシームレスにつなげるのではなく、あえて切断面の不整合さを残すことで、父と自身の交換可能性が示される。あるいは、父のみが写った写真を執拗にトリミングを変えて反復し、輪郭や目のぼやけたアップになるまで引き伸ばしたシークエンスでは、「写真のなかの父」に接近しようとすればするほど触れられないジレンマが露わになり、欲望だけが加速する。《Padre》は、時空を超えて会する「父親との擬似的な記念写真」であり、そこには近親相姦的な一体化の願望すら透けて見える。

写真という装置を介して存在と不在が反転することに加え、そうした欲望がもうひとつの境界侵犯として書き込まれていることが、《Padre》の根底に漂う不穏さではないか。



[撮影:守屋友樹]

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ゴットを、信じる方法。|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/07/01(日)(高嶋慈)

im/pulse: 脈動する映像

会期:2018/06/02~2018/07/08

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

文化人類学を従来の「書かれた」民族誌に限定せず、映像、写真、サウンド、アートなどの表現領域と交差する複合的実践として行なう「映像人類学」に焦点を当てたグループ展。映画監督のヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモン、野外での遊戯的かつ即興的なパフォーマンスの記録映像や装置を展示したcontact Gonzo、映像人類学者の川瀬慈が率いる研究会「Anthro-film Laboratory」が参加し、同研究会のメンバーである若手映像人類学者らの作品上映やセミナーなどが行なわれた。

とりわけ本展で圧倒的なのは、ヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモンによる映像インスタレーション《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》である。4年間にわたってブラジル各地のさまざまな儀礼やスピリチュアルな儀式を記録した映像が、3面のマルチスクリーンに投影される。どの地方のどの部族でどういった意味合いを持つか、といった説明的な要素は一切なく、臨場感あふれる映像と音響のめくるめく渦のなかに巻き込まれるような体験だ。半裸の体躯に装飾品をまとい、大地を踏みしめ、リズミカルな掛け声を続ける男たち。薄暗い小屋の中で目を閉じ、呪文のような短いフレーズを唱えるシャーマンらしき人物。そうした先住民族の儀礼の映像の隣に、現代的な服装の人々による宗教的な集いやセレモニーが並置される。ハグし合い、痙攣的な身振りで集団的なトランス状態に至る人々。飾り立てられた女神像をみこしのように担ぎ、海へ入っていく男たち。花火が彩るカーニバルの都市的祝祭。黒人も白人も先住民族もいて、ブラジルという国家を構成する多様な民族、人種、宗教、文化を映し出す。

それらの記録映像を複数並置+ループという構造で見せる本作において、特に重要なのは音響的操作である。マルチスクリーンは、ある時はくっきりと浮上したひとつの音響によって主旋律のように貫かれ、ある時はそれぞれの音響の輪郭が溶け合い、遠くから響くざわめきのように感じられる。男たちが刻むリズミカルな掛け声は、ある瞬間、隣のスクリーンでたゆたうように踊る女性の身体と同調する。かと思うと、潮が引くようにすべての音響はカオティックに混じり合う。速度や抑揚こそ違えど、それぞれが刻むリズムは、神、自然、祖先の霊、世界とつながり交感するための媒介である。共鳴と混淆を通して、儀礼や宗教儀式に宿る根源的なものを探ろうとしていることが、体感的に理解された経験だった。



ヴィンセント・ムーン&プリシラ・テルモン《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》2014–17
「im/pulse: 脈動する映像」(京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2018)での展示風景
[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学]

2018/07/01(日)(高嶋慈)

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Re-search and Re-direction: かかわりの技法 関連上演 かもめマシーン『俺が代』

会期:2018/06/30

京都芸術センター[京都府]

ピッピッピッピッという時報が規則的な音を刻む。1人の女性が客席の間から現われ、舞台奥へ進むと、厳粛な宣言でも始めるように、姿勢を正し、朗々とした声を発し始める。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、……」。戦後に制定された「日本国憲法」の基本的理念が述べられる「前文」である。

かもめマシーンの『俺が代』は、日本国憲法の抜粋(前文、第一章「天皇」、第二章「戦争の放棄」(いわゆる第九条)、第三章「国民の権利及び義務」、第十章「最高法規」)をベースに、1947年当時の文部省による教科書『あたらしい憲法のはなし』、「憲政の神様」と言われた尾崎行雄の演説、そして憲法草案の審議を行なった憲法改正特別委員会での芦田均の演説を「台本」として用いる演劇作品である。日本国憲法とそれにまつわる複数のテクストや演説は、俳優の清水穂奈美によるソロパフォーマンスとして演じられる。舞台中央に設えられた正方形の舞台装置には水が張られ、枯れ木のようなオブジェが立っている。彼女はそれに相対し、あるいは逡巡するように周囲をぐるぐると回りながら、抑揚や感情の濃度を自在に変化させ、憲法や演説の言葉を現実空間のなかに身体化させていく。一語一語の意味を噛みしめるように、慎重に重々しく発語される前文。一転して、同時期に巷に流れていたヒット曲「東京ブギウギ」をバックに発される『あたらしい憲法のはなし』は、いきなり感情のトップギアに入る。泣き叫び、狂ったように身もだえするその様子は、民主的な憲法を得た喜びを狂喜さながら全身で体現するようにも、敗戦の傷や痛みに引き裂かれているようにも見える。「老婆心ながら」と前置きし、新憲法の理念の崇高さとそれを守る困難さを訴える尾崎行雄の演説のくだりでは、腰をかがめ、緩慢な動作で、老人の口調の演技がなされる。しかし、演説が次第に熱を帯びるとともに、その口調はリズミカルなラップ調に一転し、「お前たちは国家を背負って立つ抱負がない」と挑発するようにたたみかける。このように本作の前半では、憲法や政治家の演説を「いかに出力のモードを変えて発語できるか」が実験的に繰り出され、「憲法の脱ニュートラル化」が図られる。


[写真:前谷開]

ここで、同様に現行の日本国憲法を上演台本に使用し、旧憲法や日本の現代史に関わる演説や小説などをコラージュして用いた演劇作品として、地点『CHITENの近現代語』が想起される。地点のこの作品では、5~6名の俳優がそれぞれの発語パートを分担/分断し、あるいはユニゾンで発語することで、ポリフォニックな多声構造と音響的解体によって声の多層化と分裂が企てられていた。それは、「臣民/国民」として数値に回収され、「単一の声」へと統合されることに対する演劇的な抵抗である。

対して『俺が代』では、後半に最大の仕掛けが用意されている。冒頭の日本国憲法前文が再度繰り返されるのだが、「国民」という単語を「俺」に、「諸国民」を「あいつら」「みんな」に変換して読まれるのだ。緊張した面持ちで、水の中に足を踏み入れ、象徴化された「木」を見つめる俳優。次第に高ぶり出す感情。「俺は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、俺と俺の子孫のために、あいつらとの協和による成果と、俺の国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が俺に存することを宣言し、この憲法を確定する……」。続くオリジナルの部分では、「俺」が、テロや戦争、非人道的な圧制、自由主義経済によって、世界各地で殺され続けていることが述べられる。「俺」の自由と生命、尊厳がいとも容易く踏みにじられる現実だからこそ、「俺は、俺の名誉にかけ、全力でこの崇高な理想を達成することを誓う」ことが最後に悲痛な宣言として発される。


[写真:前谷開]

『俺が代』は、日本国憲法という「書かれたテクスト」において、「国民」として抽象化・一般化された存在を、再び一人称単数形すなわち一人ひとりの「個人」として取り戻し、「個人の考えるべき問題」に引き寄せる試みである。その奪還の作業を身体的な発語を通して行なう点に、本作が示す「演劇」の可能性がある。「日本国憲法」は、個人による発語として「上演」されねばならない──ここに、本作の優れてクリティカルな政治性がある。清水の圧倒的なパフォーマンスの力が、それを支えている。だがここで、「俺」という言葉は「ひたむきな熱さや決意の強さ」を示す一方、日本語固有のジェンダー的なコノテーションがべったりと貼り付いていることに注意しよう。ニュートラルな「私」とは異なり、マッチョな「強い男性性」が付与された発語主体に限定してしまう。そうした「俺」という一人称を、あえて女性の俳優に発語させることで、言語(日本語)が内包するジェンダー的な偏差を撹乱し、内破しようとすること。ここに、(上記の政治性とは別種の)本作におけるもうひとつの戦略的な政治性がある。

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2018/06/30(土)(高嶋慈)

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