2018年12月01日号
次回12月17日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

イキウメ『散歩する侵略者』

会期:2017/10/27~2017/ 11/19

シアタートラム[東京都]

『散歩する侵略者』は2005年初演のイキウメの代表作。この秋には黒沢清監督により長澤まさみと松田龍平の主演で映画化もされ、今回はイキウメとしては3度めの再演となる。すでに十分な人気と実力を兼ね備えるイキウメだが、近作ではますます充実した活動を展開している。この5-6月に上演された『天の敵』では舞台上に複数の時空間を配置する作・演出の前川知大の手つきが冴えわたり、俳優たちもそれに十二分に応える好演を見せた。このタイミングでの代表作『散歩する侵略者』の再演は、劇団としての継続的な活動の成果を反映し、傑作の再演に向けられた期待を大きく上回る舞台となった。

物語は数日間行方不明だったある男(浜田信也)が戻ってくるところからはじまる。まるで別人のようになってしまった夫に戸惑う妻(内田慈)。やがて夫は告げる。実は自分は地球を侵略しに来た宇宙人なのだと。折しも街では特定の概念が理解できなくなる奇病が流行。それは彼ら宇宙人が「概念」を収奪した結果だった──。

今回の再演では、夫婦の再生、国と個人との対立などさまざまな要素が詰め込まれた作品の、また新たな側面が浮かび上がって見えた。再演の度に発見があるのが傑作の傑作たるゆえんだろう。

舞台となる「日本海に面した小さな港町」は「同盟国の大規模な基地がある戦略的に重要な土地」であるとされ、物語の背景には隣国との軍事的な緊張の高まりがある。図らずも2017年の現在を反映したかのような再演となったわけだが、真にアクチュアルな意味を獲得してしまったのはむしろ、「概念」の収奪という設定の方だ。

言葉の意味が骨抜きにされるとき、社会はその成立基盤から揺らいでいく。地面に大きく亀裂が入った舞台美術(土岐研一)は東日本大震災後の日本を思わせると同時に、今まさに足元に広がりつつある裂け目をも可視化していた。見える世界、拠って立つ場所の違いが生む断絶は深刻だ。ラストシーンの二人の「すれ違い」はまったくもって他人事ではない。


イキウメ『散歩する侵略者』
左から浜田信也、安井順平
撮影:田中亜紀
公式サイト:http://www.ikiume.jp/

2017/11/08(水)(山﨑健太)

SPIELART「WHISPERING BODIES」

会期:2017/10/29~2017/11/11

ミュンヘン市立博物館[ドイツ]

ミュンヘン中心部、多くの観光客が訪れるヴィクトアリエン市場のすぐそばにミュンヘン市立博物館はある。ドイツ語のキャプションしかないせいか観光ガイドでの扱いは小さいが、バリエーションに富んだ展示品は見応えがある。「WHISPERING BODIES」は同館を舞台とするオーディオガイドツアーだ。1995年以来、ミュンヘンで2年に1度開催されている舞台芸術祭SPIELARTのプログラムのひとつとして「上演」された。


撮影:山﨑健太

ツアーは3つのパートから構成される。まずはAlejandro Ahmedによる『CHOREOGRAPHIC ADHERENCE TO NON-OBLIVION』。「忘れないための振付け」とでも訳すべきだろうか。タイトルの通り、鑑賞者はさまざまな身ぶりを要求される。踊り手を象った人形と同じポーズを取り、胸像と向き合って自らの顔を撫で回し、棺桶と並んで横たわる。自分自身の身体への意識が展示品のモノとしての手触りを生々しく呼び起こし、遠い過去に触れる体験が自らのいなくなった未来への思考を触発する。

José Fernando Peixoto de Azevedoによる『CONTENT. MANIFEST.』は常設展「ミュンヘンの国家社会主義(National Socialism in Munich)」が舞台だ。「あなたが展示を見て歩くことで私は存在する」と語りかける声。ナチスの行為を生々しく伝える展示のところどころで写真を撮るよう指示される。それがもうひとつの展示になるのだと。後ろめたさを覚えながらシャッターを切る。だが展示を見終え外に出た私は「写真をすべて消してください」と指示される。手元に写真は残っていない。記憶を伝えるのはあくまで人間なのだ。

Suli Kurban による『What I See?』は人形劇の常設展を主な舞台とするオーディオ・スリラー。展示には無数の人形が並び、これを見るだけでもこの博物館を訪れる価値は十分にあるだろう。さて、想像してみてほしい。その人形たちが一斉に話しかけてくることを。言葉の意味がわからないのが一層怖い。だがそこにあるのは単純な恐怖ではない。過去からの声なき声を聞けという重圧と、その声を理解できないがゆえの罪の意識。それはほとんど畏れと言ってもいい感情だ。
私の身体は歴史の流れの只中にあるのだということをまざまざと突きつけられる体験だった。


撮影:山﨑健太
公式サイト:http://spielart.org/index.php?id=24&vid=297

2017/11/05(日)(山﨑健太)

SPIELART マーク・テ『VERSION 2020 - THE COMPLETE FUTURES OF MALAYSIA CHAPTER 3』

会期:2017/10/28~2017/10/31

Gasteig Black Box[ドイツ]

2020年、我が国は素晴らしい国になっているだろう。政府は遠大な目標を掲げ、子供たちに来たるべき未来都市を描かせる。輝かしき夢。その一部となることは誇るべきことだ。そう信じられていた。だが2016年、政府は新たに2050年に照準を合わせたビジョンを掲げる。2020年のことなどなかったかのように──。マレーシアの話だ。ミュンヘンで開催される国際舞台芸術祭SPIELARTで初演を迎えたマーク・テの新作ドキュメンタリー演劇は、政府の掲げた2つのビジョンを題材とする。

クアラルンプールを拠点に活動するマーク・テは演出家、キュレーター、研究者、アクティビストと多くの顔を持つアーティスト。日本でも2016年に『Baling(バリン)』が横浜と京都で上演されている。社会的問題を大きな枠組みとして扱いながら、そのなかにいる個人に焦点をあてる手つきは本作にも共通している。

本作に登場する4人のパフォーマーは皆、1996年に政府が発表した2020年への国家的ビジョンWawasan 2020のパラダイムの下で育ってきた。未来都市を描いた絵が表彰されることは、マスゲームを視察する大統領と視線が合うことは素晴らしいことだった。その先には輝かしい未来が待っているのだから。自らの体験を語るパフォーマーたち。だが政府は何食わぬ顔で目標を延期する。Transformasi Nasional 2050? その頃にはもう60歳じゃないか! 夢見た未来は奪われた。

公共の場である広場にテントを建てて占拠する反政府デモは、大地を自らの下に取り戻すための営みだ。Tomorrow belongs to us. パフォーマーたちは足元の人工芝を剥がし、むき出しになった床面に小さなライトを置いていく。灯る明かりは人々の描く夢だ。未来を描くことは個人の手に取り戻さなければならない。本作が個人史に焦点をあてているのはそのためだ。個人の夢の先にこそ、望ましい国の未来が待っている。

ロマンチックに過ぎるだろうか? そうかもしれない。だが日本人は、いや、私はきちんと夢を見られているだろうか?

本作は2018年2月から3月にかけて開催されるシアターコモンズの一環として来日する。プログラムの詳細は12月下旬公開とのこと。




マーク・テ『VERSION 2020 - THE COMPLETE FUTURES OF MALAYSIA CHAPTER 3』
SPIELART 2017 // Mark Teh – VERSION 2020 // Interview und Porträt:https://youtu.be/nTgDi8BIpUk
公式サイト:
http://spielart.org/programm/all/?no_cache=1&vid=284&L=1
シアターコモンズ’18:http://theatercommons.tokyo/

2017/10/30(月)(山﨑健太)

村川拓也『インディペンデント リビング』

会期:2017/10/27~2017/10/29

京都府立府民ホール“アルティ”[京都府]

ドキュメンタリーの手法を持ち込んだ演劇作品で世界的にも注目を集める演出家、村川拓也。KYOTO EXPERIMENT 2017で上演された新作『インディペンデント リビング』のテーマは日本/中国/韓国だ。村川は各国で介護や介助の仕事に携わる人間を舞台に上げることで、そこにある普遍性と、同時に存在する断絶とを鮮やかに浮かび上がらせた。

作品の枠組みは村川の代表作である『ツァイトゲーバー』と共通している。舞台に上がったヘルパーが、観客から募った女性の「被介助者」役を相手に自身の普段の仕事の様子を再現する。「被介助者」は基本的には力を抜いてされるがままでいるよう指示されるが、上演中に3度、好きなタイミングで自身の願いを声に出して言うことができる。『ツァイトゲーバー』に出演するのが日本人のヘルパー1人だけだったのに対し、本作では中国→韓国→日本の順に各国1人ずつのヘルパーが介護の様子を再現してみせる。この順で2周し、最後に再び中国人のヘルパーによる再現が行なわれたところで作品は終わる。

作品を通して素朴なレベルで感じられるのは、ヘルパーの仕事、被介助者の生活は、どの国でもさほど変わらないのだということだろう。ヘルパーが交代しても被介助者(役の観客)が替わらないことでその変わらなさは強調される。

一方、ヘルパーと被介助者役の観客との間には鋭い断絶も生じている。被介助者役の観客が自身の願いを口にしても、ヘルパーがそれに反応することはない。現実にあり得るコミュニケーション不全が極端な形で暴露される瞬間だ。さらには言語の壁もある。被介助者役として舞台に上がった観客が中国語も韓国語も解さない場合(多くの場合がそうだろう)、彼女は自分に語りかけるヘルパーの言葉を理解できない。劇場の中で唯一、字幕を十全に読むことができない彼女だけがヘルパーの発する言葉から疎外されているのだ。

普遍性と断絶は異なるレイヤーにありながら、どちらも舞台に上げられた観客の存在を軸に見出される。そこにこの作品の巧みさと、日中韓というテーマへの応答を見出すことができるだろう。




村川拓也『インディペンデントリビング』
Photo by Kai Maetani
公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2017/program/takuya-murakawa/

2017/10/28(土)(山﨑健太)

シルヴィウ・プルカレーテ演出『リチャード三世』

会期:2017/10/18~2017/10/30

東京芸術劇場[東京都]

ルーマニアを代表する演出家シルヴィウ・プルカレーテによる『リチャード三世』(シェイクスピア作)が東京芸術劇場で上演された。同劇場はこれまでも『ルル』(2013)『ガリバー旅行記』『オイディプス』(ともに2015)とプルカレーテ作品を招聘し、いずれも好評を博してきた。今回は満を持しての日本人俳優とのクリエーション。佐々木蔵之介がタイトルロールを演じた。

王位を簒奪せんと敵のみならず肉親含めた味方まで欺き殺す悪逆無道の男、グロスタ公リチャード。後にリチャード三世と呼ばれる彼は生まれつき片脚が短く、醜い男だということになっている。だが、佐々木演じるリチャードは戯曲の描写以上に異様な存在感を発していた。ときに足に障害などないかのようにすっくと立ち、かと思えば頭が腰より下に来るほどに背の曲がった姿で歩き回る。ぐねぐねと変形し続ける体は抑えきれない欲望の激しさを表わすかのようだ。空間もまたリチャードの心に呼応する。ドラゴッシュ・ブハジャールによる舞台美術はシンプルかつ効果的だ。高い空間の三方を囲うように垂らされた布が圧迫感と不安定さを際立たせる。人々を圧するかのように低い位置に吊るされた照明に手術室を連想すれば、リチャードによって殺された人々の死体がストレッチャーに載せられて登場する。衝撃的なことに、ストレッチャーはそのまま食卓へも転じてしまう。生も死も同じテーブルの上に載る肉の問題に過ぎないとでも言うように。私たちは死を喰らって生きている。寸胴鍋を抱えこみガツガツと何かを貪るリチャードの姿は、欲望が肉体に宿るものであることを強く印象づけていた。

やがてリチャードは王位を手にするが、それは一時のことだ。玉座についたリチャードは、自らもまたやがて朽ち果てる肉に過ぎないことに気づいてしまう。玉座の上、空虚な表情を浮かべるリチャード。透明なベールに包まれたその裸体。圧倒的な孤独に震えるのは、客席に座る観客もまた、自分がいずれ朽ちる運命にあることを知っているからだ。



プルカレーテ演出『リチャード三世』
© 田中亜紀

2017/10/24(火)(山﨑健太)

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