2018年11月15日号
次回12月3日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

第21回文化庁メディア芸術祭受賞作品展

会期:2018/06/13~2018/06/24

国立新美術館[東京都]

例年どおり冷やかし程度にしか見てないので、めんどくさい作品は通りすぎている。ずいぶん乱暴な見方だが、それで足が止まった作品はホメてあげたい。折笠良の《水準原点》はクレイアニメ。雪原か海原のような白い風景のなかをぐんぐん進んでいくと、ときおり津波のような高波が押し寄せる。なんだろうと見ていると、今度は同じ場所を斜め上から見下ろすかたちで映し出していく。なんと津波の中央では文字が生まれている、というより、文字が生まれる波紋で津波が生じているのだ。その文字をたどっていくと、シベリア抑留経験のある石原吉郎の詩「水準原点」になる。言葉の生成現場がかくも厳しいものであることを伝えるこのアニメも、かくも厳しい生成過程を経て完成したものだ。

もうひとつ、Gary Setzerの映像作品《Panderer(Seventeen Seconds)》はきわめてわかりやすい。映像のなかで男が観客に対し、「美術館で、平均的な鑑賞者がアート作品を見るのに使う時間は1作品につき約17秒であり、この映像作品はその制約を受け入れて17秒という理想的な鑑賞時間を正確に守っている」と語り、17秒で終わる。作品の内容と形式が完全に一致した「理想的」なアートになっているのだ。もちろん理想が必ずしもすばらしいとは限らないが。

2018/06/12(村田真)

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内海信彦展

会期:2018/06/05~2018/06/16

Fei Art Museum Yokohama[神奈川県]

屏風48面、計36メートルにおよぶ《INNERSCAPE 2016-18 “MULTIVERSE”》を中心とした展示。会場に入ると、観客を囲むように屏風が立ちふさがる。そこには、墨流しというか垂らし込みというか垂れ流しというか、たっぷりの墨を画面において風を送り墨を流すことで得られた複雑な流動的パターンが現出している。見ようによっては大洪水にも大津波にも見えないことはない、黙示録的世界観といってもいいかもしれない。手法としてはシュルレアリスムに近いが、内海はそれを「古代中国の画家がもっとも重視した「気」の力が顕現させる自然そのもの」とし、「そこに近代主義的な絵画への強烈な対抗文化を見出し」ている。キャンバスではなく屏風仕立てにしているのはそのためだ。画面をよく見ると、48面は墨の流れによって大きく3グループに分類でき、さらに継ぎ目で4枚ずつに分けられる。おそらく4枚単位で制作していったのだろう。これを物語として読めるだろうか。

2018/06/08(村田真)

第12回 shiseido art egg 冨安由真展

会期:2018/06/08~2018/07/01

資生堂ギャラリー[東京都]

これは大規模なインスタレーション。地下へ階段を下りて受付を過ぎると、目の前にドアが。なかに入ると薄暗い部屋になっていて、別のドアを開けるとまた部屋になっていて……ギャラリー内にいくつもの部屋と廊下をつくり込んでいるのだ。しかも部屋に掛かっている絵がガタガタ揺れたり、テレビが急についたり、照明が点滅したり、子供のころ怖がった現象が次々に起こる仕掛け。いわゆる悪夢というか、お化け屋敷というか。

でも残念ながら、2つの似たような先行例があるのでインパクトは弱い。ひとつは、同じ資生堂ギャラリーで4年前に開かれた「目」の個展「たよりない現実、この世の在りか」。同じようにギャラリー内にホテルの客室と廊下をしつらえて、迷宮のような仕掛けを施していた。その記憶が強烈なだけに、二番煎じに見えてしまうのはやむをえない。もうひとつは、今年の「岡本太郎現代芸術賞展」で見たやはりお化け屋敷みたいな作品。これも暗い部屋をつくって家具や照明に細工を施したもので、作者はだれだっけと調べてみたら、なんと冨安由真さんご本人でした。なるほど「岡本太郎現代芸術賞展」ではサイズに制約があったから、今回はそれをギャラリーいっぱいに拡大して、「くりかえしみるゆめ」の世界を再現してみせたのかもしれない。

2018/06/08(村田真)

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ミラクル エッシャー展 奇想版画家の謎を解く8つの鍵

会期:2018/06/06~2018/07/29

上野の森美術館[東京都]

エッシャー生誕120年記念展。出品作品はすべてイスラエル博物館の所蔵品という。それは今回の出品作品がエッシャーのコレクターであるチャールズ・クレイマーが同館に寄贈したものだからで、おそらく彼はユダヤ人だろう。ではエッシャーは? 彼の恩師のド・メスキータはナチスによってアウシュヴィッツに連行され処刑されたが、そのときエッシャーは恩師の自宅に散乱した作品を集めて美術館に預けたとか、戦後エッシャーはアムステルダム国立美術館で開かれた「ナチスに協力しなかった作家の展覧会」に出品したとか、反ナチズムの姿勢はうかがえるが、ユダヤ系かどうかは書かれていない。まあ人種に関することなので詮索するつもりはないけれど、その辺の関係が少し気になった。

出品作品は、初期の聖書主題や広告の仕事を除けば知られているものが多く、いまさらつべこべいうこともないので、ひとつだけ展示に関して疑問を。それは、作品の展示位置が高めなこと。身長165センチのぼくの目線では作品の中心線がちょうど真正面に来るので、高さはだいたい160センチくらい。これは成人男性の平均である身長170センチか、それ以上を想定した高さではないか。3、4メートルもあるような大作ならば見上げる位置に展示してもいいが、比較的小さな画面では高すぎで、これじゃあ女性や子供は見にくいだろう。背の低い息子が見たがっていたので残念だ。

2018/06/05(村田真)

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琳派 —俵屋宗達から田中一光へ—

会期:2018/05/12~2018/07/08

山種美術館[東京都]

「琳派」といいながら、サブタイトルは「俵屋宗達から田中一光まで」となっている。おっ!? と思った。田中一光の名に違和感を覚えたからではなく、むしろすんなり受け入れてしまった自分に驚いたのだ。そうか、いわれてみれば確かに田中一光も琳派だった。そもそも琳派は血族で画風を脈脈と受け継いできた狩野派などとは違って、俵屋宗達と本阿弥光悦の装飾スタイルを、17-18世紀の尾形光琳、19世紀の酒井抱一らが時代も場所も階層も超えて継承してきた流派なのだ。だから宗達はもちろん、光琳も抱一も自分が琳派だと自覚していたわけではない。だいたい「琳派」という名称自体20世紀につけられたもの。明治以降まず光琳が評価されて「光琳派」と呼ばれ、それが「琳派」と略されたのは戦後の話だという。だからいま、琳派のスタイルを受け継いで「われこそは琳派」ということはできるのだ。もっとも認められるかどうかは別だが。そう考えると、現代の琳派の最右翼にデザイナーの田中一光の名が挙がってもおかしくはない。むしろそこらの日本画家よりずっと琳派の真髄を理解していたともいえるだろう。

会場に入ってまず目にするのが一光の《JAPAN》というポスター。背を丸くした鹿をあしらったデザインで、これは宗達の《平家納経》から鹿の絵柄を借用したものであることから、本人もかなり琳派を意識していたことがわかる。宗達の原本はないけれど、隣に田中親美による模本が展示されているので比べてみるといい。琳派はそれぞれ世代が離れているので、こうした模倣によるスタイルの継承はむしろ当たり前なのだ。ちなみに一光の鹿の背はほぼ正円で、しかも上に「JAPAN」と書かれているせいか、なんとなく日の丸を思い出させる。

その先には、修復後初のお披露目となる伝宗達の《槙楓図》と、光琳の《白楽天図》という2点の屏風のそろい踏み。とくに《白楽天図》はほとんど抽象パターンと化した波涛に、比較的リアルな白楽天と船頭たちの人物描写を重ねることで、飄々としたユーモアを醸し出している。ほかにも、抱一の《秋草鶉図》、其一の《四季花鳥図》、近代の琳派ともいうべき神坂雪佳による絵や工芸、さらに日本画家の速水御舟、福田平八郎、奥村土牛、加山又造、そして再び田中一光のグラフィックアートまで、幅広く集めていて楽しめる。

同展を見て思い出したのが、14年前に東京国立近代美術館で開かれた「琳派 RIMPA」という企画展だ。李禹煥や中上清といった日本の画家だけでなく、クリムト、マティス、ウォーホルら外国の画家たちの作品も並べられていた。「琳派的」美意識は海外にも飛び火していたのだ。今回はさらに拡張してアートだけでなく、デザインにまで琳派の影響を見ようとする試みといえる。これをさらに広げて、デジタルアートまで視野に入れるとどうなるだろう。「琳派」の捉え方は時代によって大きく変わっていってもいい。

2018/05/30(村田真)

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