artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才

会期:2023/01/26~2023/04/09

東京都美術館[東京都]

4年前に開かれた「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展で、クリムトとともにシーレ作品が何点か紹介されたが、まとまった「エゴン・シーレ展」が開かれるのは約30年ぶりだという。といっても出品作品115点中シーレ作品は半分にも満たない50点、うち油彩は半分以下の22点。短命だったから作品数が限られているのは仕方がないが、シーレ・コレクションでは世界最大のレオポルド美術館から借りてきた作品が大半を占めるので、これが日本で望みうる最大規模の「シーレ展」だろう。

シーレのほかには、クリムト、コロマン・モーザー、リヒャルト・ゲルストル、オスカー・ココシュカら同時代のウィーンを生きた芸術家の作品も並ぶが、やはりクリムトの存在感が圧倒的。シーレが学生時代に描いた《装飾的な背景の前に置かれた様式化された花》(1908)などは、ジャポニスムの色濃いユーゲントシュティール様式のクリムト風絵画、といった趣だ。しかしその2、3年後、シーレは早くも表現主義的なスタイルを見せ始める。暗く濁った色彩で自らを描き出す《自分を見つめる人Ⅱ(死と男)》(1911)、《叙情詩人(自画像)》(1911)は、絢爛豪華なクリムトのスタイルとは一線を画している。まだ20歳そこそこの作品だ。

クリムトもこのころから表現主義的になっていくが、師匠が色彩の塗りを重視していたのに対し、シーレの真髄があくまで線描にあったのは、晩年の油彩画《横たわる女》(1917)、《しゃがむ二人の女》(1918)にも明らかだろう。モチーフが明確な線で輪郭づけられ、色彩は余白を埋めるだけの役割しか果たしていないからだ。

ところで、シーレの生きた20世紀初めの20年間といえば、フォーヴィスムからキュビスム、ドイツ表現主義、イタリア未来派、ロシア構成主義、デ・ステイル、ダダに至るまでヨーロッパ中でモダンアートが花開いた時期。ところがシーレは表現主義には触れたものの、キュビスムにも未来派にも走らなかった。言い換えれば、動きや時間を表わす新たな視覚表現には関心を示さず、ひたすら人間の身体や内面描写にこだわり続けた。それはもちろん彼の個性によるものだが、しかしウィーンが芸術の都パリから遠く離れた田舎だったこと、いまだ19世紀末のユーゲントシュティールから抜け切れずにいたことも無関係ではないだろう。

だとすれば、クリムトが亡くなり、第1次大戦も終わった1918年がシーレの新たな出発の年になるはずだったが、不幸にも同じ年にシーレはわずか28歳で世を去ってしまう。そのころすでにカンディンスキーやモンドリアンは抽象絵画を始め、デュシャンはレディメイドのオブジェを制作していたことを考えると、彼らより年下のシーレはやはり時代遅れの画家だったのかと思ったりもする。という見方自体が、あまりにモダニズムに偏っているかもね。


公式サイト:https://www.egonschiele2023.jp/

2023/01/25(水)(内覧会)(村田真)

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試展─白州模写 「アートキャンプ白州」とは何だったのか

会期:2022/10/29~2023/01/15

市原湖畔美術館[千葉県]

1988年から山梨県白州町で開かれてきた「白州・夏・フェスティバル」(その後「アートキャンプ白州」「ダンス白州」と改称)の野外美術展を振り返る展覧会。いまでこそ全国各地で芸術祭が行なわれ、野外美術展も珍しくなくなったが、1980〜1990年代はまだ少なく、地方では静岡県の「浜松野外美術展」、岡山県の「牛窓国際芸術祭」、福岡県の「ミュージアム・シティ・天神」が開かれていた程度。なかでも「白州・夏・フェスティバル」が始まった80年代後半はバブル景気の真っ最中であり、また竹下内閣が「ふるさと創生」として全国の市区町村に1億円をバラまくなど、地域振興が盛んになり始めた時期。にもかかわらず、白州はよくも悪くも企業や自治体に頼ることなく、アーティストが手弁当で参加していたのが印象的だった。そう、これは村おこし町づくりのための芸術祭ではなく、美術作品が吹きっさらしの野外空間に耐えられるかどうかを試す、アーティストによるアーティストのための芸術祭だったと思う。

ただぼくは、この夏フェスはダンサーの田中泯が中心にいたこともあって、パフォーミングアーツがメインで、野外美術展は付け足しみたいなもんだと思っていた。実際、夏のフェスティバルの期間中は舞踏や音楽の公演がメインだったが、そもそものきっかけは美術だと今回初めて知った。カタログによれば、1988年にアーティストの剣持和夫が白州を訪れ、東京で制作した作品を移設。これを見て田中が旧知のアーティスト榎倉康二、高山登、原口典之らに声をかけ、次々に野外作品が設置されることになり、その夏にフェスティバルをやろうということになったというのだ。つまり美術が突破口になってパフォーミングアーツが続いたというわけ。

野外に作品を設置するにあたって田中が重視したのは、「ここでつくる」ということ。アトリエで制作したものをただ運び込むのではなく、この場所を訪れて作品プランを練り、地権者と交渉して土地の使用許可を受け、その場で制作する、つまりサイトスペシフィックな作品であれということだ。これはその場所で即興的に踊る田中の「場踊り」と同じ発想であり、その後の「大地の芸術祭」をはじめとする各地の芸術祭にも受け継がれている姿勢だ。ただ現在の芸術祭と異なるのは、白州では作品のメインテナンスには力を入れず、朽ちるに任せたこと。あくまで自然体であろうとしたのだ。こうした野外作品を「風の又三郎」と命名したのは、つい先日亡くなった高山登だという。ある日どこからか現われて、風のごとく消えてゆく……まさに白州の美術作品にふさわしいネーミングといえる。

そんな作品ばかりだから、30年余り経ってから展覧会として見せるにも現物を持ってこられないし、そもそも美術館内に移設しても意味がない。なにより榎倉も原口も高山も、プロデューサーの木幡和枝も亡くなってしまった。なので大きな作品としては、高山登の枕木によるインスタレーション、原口典之の《オイルプール》、遠藤利克の焼いた角材を組んだ彫刻などにとどめ、あとは記録写真や資料、映像などを公開することで「白州」を追体験させていた。ゲストキュレーターは、学生時代にフェスティバルにボランティアで参加した名和晃平が務め、名和のほか藤崎了一、藤元明といった白州には出していない世代の作品も展示されていたが、これは「白州」を知りたい人に誤解を与えかねないのではないか。その意味でも展覧会よりカタログのほうが資料的価値が高いと思う。



原口典之「オイルプール」とフェスティバルの記録映像 [筆者撮影]


公式サイト:https://lsm-ichihara.jp/exhibition/the_trace_of_hakushu/

2023/01/13(金)(村田真)

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没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡

会期:2023/01/13~2023/02/26

千葉市美術館[千葉県]

江戸後期の司馬江漢あたりから幕末維新の高橋由一に至るまでの「洋風画」に妙に惹かれる。それはおそらく、日本という土壌の上に西洋の視覚文化を強引に接木しようとして生じたチグハグさが心に響くからではないか。心に響くといっても感動するということではなく、たとえは悪いが短足なのにベルボトムのジーンズを履いてたみたいな、ある種の疼きを伴うものだ。それはおそらくぼくが西洋の存在を日本より上に見ているからであり、永遠に憧れながら西洋人にはなれないぼく(たち)のコンプレックスに基づくものであることに気づいたりする。

亜欧堂田善(1748-1822)は、そんな洋風画の系譜に連なる江戸後期の画家のひとり。画号の亜欧堂にも西欧とアジアを近づけたい願望が現われている(田善は本名の永田善吉から)。田善は司馬江漢と同世代だが、本格的に画業を始めたのは47歳にして藩主の松平定信に画才を認められ、銅版画技法の習得を命じられてからのこと。だから残された作品の大半は50歳以降のものであり、江戸時代ならずとも現代においても異例の遅咲きといえる。藩主が銅版画を望んだのは、定信自身が新し物好きだったこともあるが、なにより地図制作など実学への応用を考えていたからだろう。そのため田善はオランダからもたらされた銅版画集や世界地図を模写し、同時に遠近法や陰影法、油彩画法など西洋画の基礎も学んでいく。

同展ではこうした銅版画による模写を中心に、オランダの原本、江ノ島や江戸城を描いた絹本油彩の風景画、田善の師とされる月僊、江漢、谷文晁らの作品も紹介。田善の模写はヨーロッパの風景、西洋人、世界地図、人体解剖図など多岐にわたるが、銅版画で日本の風景や風俗も描いていて、浮世絵より描写が正確で詳細なのでリアリティがあり、資料的価値も高そうだ。屋根の一つひとつまで描き込んだ《自隅田川望南之図》などは、山口晃のパノラマ画を思い出す。また油彩画は、正確さには欠けるものの遠近感や陰影がはっきりしており、従来の日本絵画と違って空間構造が明確に把握されている。だが、油彩とはいえ顔料やメディウムが本場と違うせいか色彩は沈んでいるし、絹の上に塗られていることもあって剥落や劣化も目立つ。おそらくわれわれが想像する以上に試行錯誤したに違いない。

それほど情熱を傾けた洋風画だが、晩年故郷に戻ってからは西洋熱が冷めたのか、ありきたりな水墨画に戻ってしまう。完全に西洋風が抜け落ちたわけではないけれど、無駄な余白が増えて遠近感が曖昧になり、一介の田舎絵師に先祖返りした感じ。これらは求めに応じて描いたものだから洋風画の需要はなかっただろうけど、それにしてもかつての銅版画の模写や油彩技法の習得はいったいなんだったのか、ただ上から命じられて描いていただけなのかとさえ思えてくる。時代が違うとはいえ、丸山晩霞みたいに日本回帰後も洋風表現を織り込んでいたら、幕末維新の洋風画は変わっていたかもしれない。なーんて思ったりもする。


公式サイト:https://www.ccma-net.jp/exhibitions/special/23-1-13-2-26/

2023/01/13(金)(村田真)

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Frozen Screams 凍れる叫声 山川冬樹

会期:2022/12/10~2023/02/10

SNOW Contemporary[東京都]

作品は計10点で、すべて正方形のキャンバスに同心円状の波紋が広がる白いレリーフ作品。きつめに張ったキャンバスを指で弾くとビンビン音がして気持ちいいが、このキャンバスを鼓膜または共鳴板に見立てて大理石の粉を盛り、下からスピーカーで大音響の叫び声を流して波紋をつくり、固定したという。つまり叫び声を視覚化したもの。作者は「絵画」といっているが、大理石の粉を盛り上げているので「彫刻」ともいえる。ところで、叫び声の視覚化といえばムンクの《叫び》が思い出されるが、中央が丸い空白になった今回の作品も叫んでいる口のかたちに見えなくもない。ただしムンクの絵の登場人物は叫んでいるのではなく、どこかから聞こえてくる叫びに耳を塞いでいるのだが。

山川が採集した叫び声はさまざまで、切腹直前にバルコニーから檄を飛ばした怒鳴り声から、AV女優がカメラの前でレイプされて泣き叫ぶ声、524人を乗せた航空機のパイロットが墜落寸前に発した怒声、名古屋入管で姉を殺された女性が報道陣のカメラの前で叫んだ声、そしてこれをつくったアーティストが生まれたときにあげた泣き声まである。いわば叫び声のコレクション。こうした叫び声をもっと精確な装置で厳密に波紋化したら、レコードの溝のようにその凹凸から叫び声が再生できるかもしれない。だからといってなんの役にも立たないが、イグノーベル賞の候補くらいにはなるだろう。



会場風景 [筆者撮影]


公式サイト:http://snowcontemporary.com/exhibition/current.html

2023/01/12(木)(村田真)

面構(つらがまえ) 片岡球子展 たちむかう絵画

会期:2023/01/01~2023/01/29

そごう美術館[神奈川県]

片岡球子といえば豪快な富士山の絵で知られる日本画家だが、今回は日本の歴史的人物をモチーフにした「面構」シリーズのみの展示。このシリーズを始めたのは1966年、球子61歳のとき。「私の絵の最後の仕事に入らねばと思ったのです。人生の最後まで持ち続けられる題材を見つけようと思ったのです」と語っている。つまり還暦を過ぎ、画業の仕上げとしてこのシリーズを始めたわけだが、以来103歳で没するまで40年余りのあいだに44点もの大作をものするとは、本人も思ってもみなかっただろう。ちなみに富士山のシリーズもこのころからなので、彼女の画業は還暦すぎから始まったといっても過言ではない。すごいなあ。

展覧会には僧侶や歌舞伎役者を描いた戦中戦後の作品も出ているが、「面構」シリーズとしては1966年の足利尊氏、義満、義政の足利三代将軍の肖像画を嚆矢とする。足利氏の菩提寺にある彫刻を見てイメージを膨らませたというが、その彫刻も江戸時代の作なので、似ているかどうかは問題ではない。そもそもゲテモノ扱いされた球子の絵に似ているも似ていないもないし。そんなことより球子は人物の魂をえぐり出したかったのだ。3人の将軍はそれぞれ黄、赤、青を主調としているが、それは異なる個性を表わしているという。いずれも画面に向かって左寄りに描かれているのが奇妙だが。

その後も徳川家康、日蓮、豊太閤らが描かれたが、1971年から北斎、歌麿、広重ら浮世絵師に絞られていく。画家に絞ったのは、女性画家の球子としては武将より思いが入れやすかったからではないかと推測できる(ただし女性を描いたのは北斎の娘のお栄くらいで、女性に肩入れすることもなかった)。画家を選んだもうひとつの理由は、画中画が描けるからではないか。北斎なら富士山、写楽なら大首絵というように、その画家を特定するモチーフを再現できる楽しみがあったに違いない。実際、画家の「面構」の大半にはその画家の代表作が画中画として組み込まれている。ただ画中画ファンとしては、画家の横または背後にまるでアリバイのように画中画を描いているだけなので、あまりに芸がないといわざるをえない。

では、画家のなかでもなぜ浮世絵師に絞ったのか。晩年には雪舟も登場するが、大半は浮世絵師と戯作者に占められている。それはおそらく球子が琳派や狩野派のような高級芸術ではなく、庶民芸術の浮世絵に親近感を抱いていたからだろう。また、外連味のある大袈裟な浮世絵の表現が自分の絵に通じると感じたのかもしれない。そこで思うのは、もし球子が日本画ではなく油絵で「面構」を描いたらどうだっただろう? もちろん還暦を過ぎて油絵に転向するのは無茶な話だが、もとより球子の絵はコテコテと油絵っぽいので違和感はないし、日本の歴史上の人物だからこそ日本画ではなく西洋画で表現することに意義があると思うのだ。余計なお世話だけど。


公式サイト:https://www.sogo-seibu.jp/common/museum/archives/22/kataokatamako/

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