2019年02月15日号
次回3月1日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』

ヨーゼフ・ボイスが来日してから35年、没してからも30年以上たつ。名前を聞く機会もめっきり減ったけど、アート・プロジェクトやソーシャリー・エンゲイジド・アートなどが喧伝される昨今、「社会彫刻」を掲げたボイスはもっと再評価されていい芸術家の筆頭に挙げられるだろう。この映画は残された写真や映像により、ボイスの生涯と思想を大まかにたどったドキュメンタリー。

第2次大戦中に搭乗した戦闘機が撃墜され、タタール人に救出されて体に脂肪を塗られ、フェルトにくるまれて九死に一生を得たとか、デュッセルドルフの美術学校の教授に収まったものの、定員を無視して学生を入れたため解雇されたとか、資本主義と対立し、アメリカのギャラリーから呼ばれたときには誰とも会わず、コヨーテと過ごしたとか、緑の党の立ち上げに参加したとか、おおよそのエピソードは80年代から知られていた。しかしそれをボイス自身の口から聞いたり、実際のパフォーマンスを映像で見るのは初めてのこと。余計な演出もなく、ただ既存の映像をつなぎ合わせ、合間に関係者へのインタビューをはさんだもので、キャロライン・ティスダルとかヨハネス・シュトゥットゲンとか懐かしい人物も出てくる。

ボイス自身の言葉も興味深い。いわく「笑いなしで革命ができる?」「芸術だけが革命的な力を持つ。芸術によって民主主義はいつか実現する」「撹乱は必要だ、人目を引くためにね」。ボイスはみずからの考えを広めるために道化役をいとわなかった点で、岡本太郎を思い出させる。しかし毀誉褒貶があったにしろ、晩年のボイスが栄光に包まれていたのに対し、岡本太郎の晩年が悲惨だったという明暗対比はいかんともしがたい。どうしてこんなに差がつくんだろう?
いろいろ考えさせられる映画だった。

2019/01/08(火)(村田真)

終わりのむこうへ : 廃墟の美術史

会期:2018/12/08~2019/01/31

渋谷区立松濤美術館[東京都]

日本でにわかに廃墟ブームが起こったのは1980年代のこと。バブル景気を前にいたるところで再開発が進み、都市が大きく変貌しつつあったことと無関係ではないだろう。未来の廃墟というべき三上晴子のインスタレーション《滅ビノ新造型》や、解体中の建築を撮った宮本隆司の写真集《建築の黙示録》が注目を集めたころだ。その後も鉄道の廃線や工場の夜景、ダムや橋などの近代遺産を写した写真集が人気を集めているが、意外なことに「廃墟」をテーマにした展覧会はあまり聞いたことがなく、ひょっとしたらこれが初めてかもしれない。

展示は6章に分かれ、まず古典的な西洋の廃墟画に始まり、近代日本人画家の廃墟との出会い、シュルレアリスムの廃墟を経て現代の廃墟画まで、計73点でたどる構成。つまり古今東西の廃墟画をさほど広くない会場で紹介するわけで、やや無理がある。とくに西洋の廃墟画は、ピラネージにしろユベール・ロベールにしろポール・デルヴォーにしろ版画が大半だし、パンニーニやクロード・ロラン、フリードリヒが出てないのも寂しいところ。いっそ付け足しみたいな西洋ものを省いて日本の廃墟画に絞ったほうが明快だし、中身も充実したのではないだろうか。まあそこまで絞ると動員が減るのは間違いないけど。

ともあれ今回のいちばんの見どころは、近代日本における「廃墟の受容と展開」だった。古来日本には廃墟を愛でる心情はあったものの、絵に表わすことはあまりなかったようだ。それはおそらく日本の建築が吹けば飛ぶような木造が多く、時とともに朽ちていくため、悠久の時間を感じさせるような「堅牢な廃墟」が存在しなかったせいかもしれない。おもしろいのは、近代以前の日本にも廃墟画がまったくなかったわけではなく、舶来の版画に描かれた廃墟を模写した伝歌川豊春の浮世絵が残されていること。この絵師はおそらく西洋の廃墟を美しいと思って描いたのではなく、たまたま模写した版画が廃墟図だったというだけの話だろう。

日本に本格的に廃墟画が導入されるのは明治に入ってからのこと。工部美術学校に招かれたイタリア人画家フォンタネージが持参した廃墟の素描を、生徒たちが模写したものだ。その後、百武兼行や松岡壽らが渡欧して廃墟を描くことになるが、しかしそれも風景の一部に廃墟が入っていた程度のもので、そこからは廃墟の持つ意味や象徴性は読み取れない。1930年代からおもにシュルレアリスム系の画家たちが、戦禍の近づく不安な世情を反映させるように廃墟を採り入れるが、今度は逆に象徴性が勝りすぎて廃墟が廃墟らしくしっかり描かれていないのが残念なところ。でもこの昭和の廃墟観を拡大して戦争を軸に1本にまとめれば、おもしろい展覧会になると思う。

最終章では日本の現代都市が廃墟化した風景を元田久治や野又穫らが描いていて、ようやく廃墟画が根づいてきたことを感じさせる。欲をいえば、磯崎新をはじめ建築家の作品も見たかった。

2019/01/08(火)(村田真)

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5 R00MS Ⅱ──けはいの純度

会期:2018/12/07~2019/01/19

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

大小5つの展示室からなるギャラリーで、5人のアーティストが作品を発表している。最初の部屋は和田裕美子。肌色の女の子の人形を並べ、黒々とした髪の毛が延びて先端がレース編みのようなパターンを描いている。これがただの黒い糸だったら学芸会レベルだが、髪の毛であると知ると意味も見え方も異なってくる。素材の力は大きい。次の部屋は橋本雅也で、鹿の角を植物のように彫ったり、木を彫って石の固まりのようにしたり、ある素材をそれに似つかわしくないものに変える彫刻を出品。

3番目の七搦綾乃も少し橋本に似て、木を彫って骨のような、あるいは植物のような不穏な物体に変えてみせる。だが、橋本が工芸的な美しさに着地するのに対し、七搦は荒削りで正体不明の不気味さをたたえ、どこにも行きつかない点が大きく異なる。ここまで来るとなんとなく展覧会全体のテーマが浮かび上がってきた。それは「素材の曖昧さ」だ。と思ってチラシを見たら「けはいの純度」とある。ぜんぜんハズレ。4番目のスコット・アレンはレーザーを使う作品らしいが、アウト・オブ・オーダーだったので問題外。5番目の大西康明は一番大きな展示室を使ったインスタレーション。この展示室を特徴づける階段の踊り場から色テープを投げて、宙に張り巡らせたテグスに引っ掛けて床に広げた。いわば行為の軌跡を視覚化したもので、ほかの3作家に共通する「曖昧さ」はないけれど、大空間をにぎやかに埋めようとする努力は認めよう。

2019/01/05(土)(村田真)

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小野祐次「Vice Versa ─ Les Tableaux 逆も真なり ─ 絵画頌」

会期:2018/12/12~2019/02/02

シュウゴアーツ[東京都]

フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》をはじめ、レンブラントの自画像、ルーベンスによる肖像画、モネの《印象・日の出》、セザンヌの静物画などを額縁ごと撮った写真。といってもすべてモノクロで、なにが描かれているかほとんど判別できない。これらは美術館に注ぐ自然光の下で撮影したものだが、図像の代わりに絵具の盛り上がりやキャンバスのたるみ、ひび、修復跡などが浮かび上がってくる。画集などに載る絵画の写真が色彩を中心とする画像の再現に注力するのに対し、小野の写真は絵画の物理的状態を露わにする。つまり絵画を平面としてではなく、立体(またはレリーフ)として写し出すのだ。色彩と形態から成り立つ絵画が真であるならば、彼の写真もまた絵画のもうひとつの真の姿なのだ。


関連レビュー

小野祐次「Vice Versa─Les Tableaux 逆も真なり─絵画頌」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー

2018/12/22(土)(村田真)

フィリップス・コレクション展

会期:2018/10/17~2019/02/11

三菱一号館美術館[東京都]

1921年、ダンカン・フィリップスがワシントンに開設した私立美術館フィリップス・コレクション。近代美術を中心とする4千点を超えるコレクションから75点を選んだもので、印象派をはじめ、18世紀のシャルダンからアングル、ドラクロワ、20世紀のピカソ、ジャコメティまで絵画、彫刻を展示している。アングルの有名な後ろ姿のヌード像の小ヴァージョンや、人気ヴァイオリニストのパガニーニを描いたドラクロワの軽快な小品、マネのぎこちない踊り子姿、抽象画といってもいいようなゴーガンの静物画、カンディンスキーの最初期の抽象画、ココシュカの珍しい風景画など、見るべき作品は少なくない。

だが、作品もさることながら、本展で見逃してはならないのは、第1次大戦から第2次大戦後まで、ダンカンが作品を手に入れた順に並べていること。ふつう展覧会は時代順、様式やジャンルごと、国別・作家別に並べることが多いが、同展はあくまでコレクターを主体に構成されているということだ。これはとくに個人のコレクションを見せるときにぜひやってもらいたかったこと。誰も個人コレクションで美術史を勉強しようなんて思ないので、だったらいっそ個人がどのような嗜好で作品を集め、どのように嗜好が変わり、最終的にどんな作品を残したのかを(できればどの作品を手放したのかも)わかりやすく見せたほうが興味が湧くというものだ。ダンカンの場合、古典的なものから近代、現代へと嗜好が移っていく(あるいは意識が目覚めていく)のがよくわかるが、これは、まあ、ほかのコレクターと変わらない。

もうひとつ、同展で気づいたのは、額縁にガラスの入っていないものが多いこと。近年は作品防護のためガラスで画面を覆うことが多く、ガラスのない額縁を見つけるほうが難しいくらいだが(反射しないので、一見ガラスが入っているかいないかわかりにくい)、ここではざっと数えて34点にガラスが入っていなかった。彫刻を除く68点の絵画の半分だ。最近は無反射ガラスが使われるためガラス入りでも見にくくはないが、それでもガラスなしのほうがクリアに見える。最高の状態で作品を見せたいという鑑賞者ファーストの思想だろうか。それとも単に金がないだけなのか。

2018/12/19(水)
(村田真)

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