artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

中谷ミチコ デコボコの舟/すくう、すくう、すくう

会期:2022/11/30~2023/01/22

アートフロントギャラリー[東京都]

壁も床も真っ白い会場の中央が台状に盛り上がり、その上に舟形の白い彫刻が鎮座している。高波に持ち上げられた舟、というより、山に取り残された舟か。その表面には人や鳥や犬や木や小舟や焚き火までが刻まれ、薄く彩色されている。刻まれるといっても浮き彫りではなく、もののかたちを凹ませる陰刻ってやつ。タイトルどおり《デコボコの舟》(2022)なのだ。中谷は以前、実体のない舟の表面にやはり人や木などの浮き彫りを施した作品をつくったことがある。舟の周囲に人や木をへばりつかせ、舟本体を空洞化したものだったが、今回はそれを反転させ、舟本体に負の存在を刻印したかたちだ。



中谷ミチコ《デコボコの舟》


そのたたずまいがノアの方舟を想起させるせいか、表面に彫られた人や木はなにか神話的な物語性を感じさせるが、作者によれば「協働と、拒絶を同時に繰り返しながら何かから逃げている人たち」を思いながらつくったという。協働と拒絶という相反するものを繰り返すこと、それは人間社会そのものであると同時に、正と負、虚と実、凹と凸を巧みに織り込んだ彼女の彫刻の作法を思わせないでもない。しかしそこから逃げる人たちとはなんだろう?

別の展示室には、両手のひらで水をすくう所作を陰刻した《すくう、すくう、すくう》(2021)が展示されている。これは昨年の「奥能登国際芸術祭」に出品するためにつくったもので、コロナ禍のため移動もままならず、地元の人たちの手のひらを写真に撮ってもらい、それを見ながら制作したという。水をすくう手だから器状になっていて、そこに透明樹脂を満たして固めている。底をのぞくと、しわの寄った手の甲が見える。手のひらをのぞいたら、なぜか裏側が見えるのだ。これは手が反転しているというより、手の陰刻であり、実体が失われた負の彫刻というべきだろう。ちなみにタイトルの3回繰り返される「すくう」には、それぞれ「掬う」「救う」「巣食う」の字が当てられている。これも意味深。



中谷ミチコ《すくう、すくう、すくう》



公式サイト:https://www.artfrontgallery.com/exhibition/archive/2022_10/4709.html

2022/11/26(土)(村田真)

シュウゾウ・アヅチ・ガリバー「消息の将来」

会期:2022/10/07~2022/11/27

BankART Station、BankART KAIKO[神奈川県]

ガリバー=安土修三というと、10歳も離れていないぼくらの世代から見ても伝説のアーティストだ。1970年代にはすでにアングラ・ヒッピームーブメントのスターとして知る人ぞ知る存在だったが、知名度の割になにをやってるのか、どんな作品をつくっているのか知らなかったし、そもそも本当にアーティストなのかさえわからなかった。ま、その胡散臭さが伝説たるゆえんなのだが。その後、何度かお会いして話す機会があったが、話せば話すほどつかみどころがない。煙に巻くというのではなく、言葉で核心に迫ろうとすればするほど本筋から離れ、それを埋めるためさらに言葉を弄して迷宮入りしてしまうみたいな。それゆえになのか、彼の大規模な個展は2010年に出身地の滋賀県立近代美術館で開かれただけで、国内ではほとんど忘れられた存在だった。

そんなガリバーの首都圏では初の本格的な回顧展「消息の将来」が、BankARTの2会場を使って開かれた。だいたいタイトルからして意味不明だ。消息の将来? 英語のタイトルは「Breath Amorphous」で、直訳すれば「まとまりのない呼吸」。こっちのほうがなんとなくピンとくる。会場に入ると、まあ賑やかなこと。絵画、彫刻から写真、映像、インスタレーション、言葉、身体まであらゆるメディアを駆使した作品が並んでいる。まさに「まとまりのない呼吸」のような制作ぶりだ。

これらをあえてひとつに括れば、「コンセプチュアルアート」に分類できるかもしれない。コンセプチュアルアートとは、乱暴にいってしまえば「アートについて考えるアート」といえるだろう。なにやら理屈っぽくて小難しそうだが、デュシャンの《泉》(1917)をその起源と考えれば、けっこうトンチの利いたミステリアスなアートと捉えることもできる。実際、ガリバーはデュシャンの影響を色濃く受けており、その作品は予想に反してポップでウィットに富み、親しみやすい。

たとえば、肘掛けのあるラウンジチェアみたいなかたちをした木箱。タイトルを見ると《男と女(1つになることができる)》とあり、チェアではなく、女が足を上げて男と交合している姿であることがわかり、思わず笑ってしまう。もちろん単なるエロネタではなく、木箱が棺桶を連想させることから、愛と死(エロスとタナトス)という永遠のテーマを扱っていることが了解される。同じく、直角に折れ曲がった木箱と、それにもたれかかるように曲がった木箱も、《男と女(愛することができる)》というタイトルから、後背位でつながろうとしているカップルの棺桶であることが想像できる。箱ではないが、2台のベッドの下半身部分がV字型につながっている《甘い生活(乙女座)》も、同様のコンセプトによる作品と見ていい。

これらは、今回は資料しか出ていないが、縦長と横長の木箱を3個つなげた《デ・ストーリー》という作品からの発展形と考えられる。3個のかたちはそれぞれ「立つ」「座る」「寝る」という人間の基本姿勢に合わせたもので、ガリバーはこの箱のなかに240時間(10日間)こもったという。意図や形態は異なるとはいえ、箱のなかに数日間滞在した飴屋法水や渡辺篤らによるパフォーマンスの先駆例といっていい。いずれにせよ、これらの発想源が自分のもっとも身近な存在である「身体」にあり、また「生」「愛」「死」という人間の本源的な生態に発していることは疑いない。

身体をモチーフにした作品で忘れてはならないのが、彼の代表作といってもいい《肉体契約》だ。これは自分の死後、みずからの身体を80のパーツに分け、80人の他者に保管を委ねるというもの。1974年に「契約」が始まり(森山大道、萩原朔美、浅葉克己、麿赤兒らがサインした)、1984年には佐賀町エキジビット・スペースで契約者が一堂に会し、その記録を展示した。ここで問題になるのは、いったいなにが「作品」なのかということだ。80人と交わした契約書か? ガリバーの死後腑分けされるであろう80の肉片か? 佐賀町でのパーティーか? そのプロセス全体か? 「肉体契約」というコンセプトそのものか? おそらく、なにが作品なのかを問うこと自体がガリバーの作品であり、この禅問答じみた問いかけこそが彼のアートなのではないか。ガリバーはそれが「アート」として認められるかどうかをいつも探っている。だからコンセプチュアルアートなのだ。

もうひとつガリバー作品の特徴として挙げられるのが、還元主義だ。人間とはなにか? 時間とはなにか? 死とはどういうことか? だれでも物事を突き詰めて考えようとしたことがあるはずだが、たいていの人は考えても仕方がないから止めてしまう。でもガリバーはヒマなせいかどうかは知らないけれど、そんなことばかりを考えて、とことん突き詰めていく。これもまた自分の身体に即したものだが、身長、座高、胸囲、頭囲などあらゆる部位を測定し数値に置き換えてグラフ化したり(《長さを持つ金属》)、みずからの体重と同じ重量の鉄や大理石で球体をつくったり(《重量(人間ボール)》1978)、さらに、遺伝子を構成する核酸塩基(AGCT)の巨大なスタンプをつくったりする(《甘い生活》)。これらはいずれも自分=人間という存在を究極の要素にまで還元して作品化したものだといっていい。

身体だけでなく、漢字や記号を要素ごとに分解して組み合わせた「文字」「漢字」「図記」などのシリーズも還元主義の発想に基づいている。漢字に限らず世界中で使われる文字は、分解すればL、T、Xなどいくつかのパターン(字画)に還元できるが、これらは自然界で物事を見分けるために必要最小限の形態素であり、それゆえ人間にとってはどんな文字でも目になじみやすく、一瞥しただけで文章を読み取れるのはそのおかげだという説がある(マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』[早川書房、2020])。「文字」「漢字」「図記」などのシリーズは、こうした文字以前の形態素を書き連ねたものだが、これらを見ていると、われわれの脳は意味と無意味のあいだを往還し、ついにはゲシュタルト崩壊を起こす。文字とはなにか、意味とはなにか、と。翻って、「アートとはなにか」を問いかけるガリバーの制作は、アートにおけるゲシュタルト崩壊の目論みであるといえないだろうか。



シュウゾウ・アヅチ・ガリバー《甘い生活 1995/A.T.C.G./インターコース[東京バージョン] マルセル・デュシャン(1887ー1968)とエルヴィン・シュレーディンガー(1887-1961)に捧げる》、BankART KAIKOでの展示風景[提供:BankART1929]



シュウゾウ・アヅチ・ガリバー《漢字絵のスタディ》(左)、《イデオグラフ(表意文字)》(右)、BankART KAIKOでの展示風景[写真提供:BankART1929]

2022/11/24(木)(村田真)

DOMANI・明日展 2022-23

会期:2022/10/07~2022/11/27

国立新美術館[東京都]

文化庁の推進する「新進芸術家海外研修制度(在研)」の成果発表の場として、1998年から続いてきた「DOMANI」展も25回目となる。4半世紀は区切りがいいのか、次年度以降は新たなかたちに再編されるらしい。ちなみにここ2年、コロナの影響とはいえ在研の採択者が減少しており、このまま尻すぼみになっていくのではないかと危惧する声もある。どうやら大きな曲がり角に来ているようだ。

今回の出品は10人で、女性は珍しくひとりだけ。それがトップを飾る近藤聡乃だ。在研でニューヨークに行ったまま住みついて14年になる彼女の、同地での体験を描いた漫画が並ぶ。美術館で漫画展が開かれるようになって久しいが、天井の高い展示室に漫画(原画)が展示されているのを見ると、つくづく空間がもったいないなあと貧乏人は思ってしまう。しかもつい読んでしまうので滞在時間も長くなる。たぶん今回いちばん鑑賞時間の長い作品だったのではないか。なんかズルイような気がしないでもない。次が石塚元太良の氷河を撮った写真。なぜ氷河なのかというと、本人いわく「『氷河はなぜ蒼く見えるのか?』という問いが象徴するように、存在そのものが光学的要素と、形成の時間との掛け算で成り立つどこか『写真的なもの』」を感じるからだという。これには納得。

続いて、手紙や宅配の包装紙に描いたドローイングを青い壁に展示した池崎拓也、自分の描いた絵を水に浸して絵具が溶けていく様子を映像化した大﨑のぶゆき、水を張ったキャンバスに絵具を塗って滲ませる絵画の丸山直文と続く。このへんは作品がシリトリのように連鎖していて、展示の妙を感じさせる。ここまでは比較的穏やかな平面作品が多かったが、後半はベテランの伊藤誠をはじめ彫刻から出発したアーティストが多く、作品も彫刻、インスタレーション、映像と変化に富んでいる。

なかでも見入ってしまったのが黒田大スケの映像作品。2面スクリーンに朱色と灰色の背景に描かれたカモとアヒルが映し出され、戦前の思い出話を訥々と語る。それはある美術家の前半生の物語で、彫刻から出発して前衛運動に身を投じ、演劇や人形づくりに打ち込み、やがて国策の戦争映画「ハワイ・マレー沖海戦」に関わることになって、戦争プロパガンダに協力してしまうというものだ。前衛芸術家がいつのまにか国家に取り込まれてしまう話はよくあるが、ユニークなのはそれをアヒルの口から関西弁で、のらりくらりと歯切れ悪く語る点だ。話の内容のやるせなさと、すっとぼけた語りとのギャップに、逆に真実味が宿る。手前にはその彫刻家が映画の舞台セットのために制作したという設定のジオラマ模型が置かれている。



黒田大スケ 展示風景


最後は小金沢健人の映像とドローイング。壁3面に、紙を2枚ずらして重ねた上にドローイングし、指で擦り、また紙をずらして描き続けていく映像が映し出される。《2の上で1をつくり、1が分かれて2ができる》というタイトルどおりの動きで、線と色彩がめくるめく展開していく。こうしてできあがった2枚1組のドローイングも何組か展示されているが、これがまたすばらしい。ドローイング制作の副産物としての映像か、はたまた映像制作の副産物としてのドローイングか。どちらも主産物ですね。


公式サイト:https://domani-ten.com

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[PR]24年目の「DOMANI・明日展」──これからの文化庁新進芸術家海外制度のあり方を探る|柘植響:トピックス(2022年03月15日号)

2022/11/18(金)(村田真)

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すべて未知の世界へ ─ GUTAI 分化と統合

会期:2022/10/22~2023/01/09

大阪中之島美術館、国立国際美術館[大阪府]

今春開館したばかりの大阪中之島美術館と、隣接する国立国際美術館の初の共同企画による両館を使った大規模な「具体」展。この2館が共同で「具体」展を開くのは、単に場所が隣接しているので便利だからというだけではない。具体美術協会の活動拠点だったグタイピナコテカが、両館にほど近い中之島3丁目にあったという縁にもよるそうだ。

しかしひとつのグループあるいは運動体の展示を2館に分けて行なうとき、どのような分け方が適切だろうか。作家別か、時代順か、作品の形式で分類するか。いずれにしろ片方しか見られなかった人にはハンパ感が残る。両館合わせてひとつの展覧会にしたいところだが、国立と公立なので管轄が違うし、料金体系も異なるため、いちおう独立した展覧会にしたいらしい。そこで選ばれたのが、タイトルにある「分化」と「統合」という分け方だ。

具体のような前衛グループは、個々のオリジナリティを重視する(分化)一方で、運動体としてひとつの方向性を示さなければならない(統合)という矛盾を抱えてしまう。その2つの方向性をそれぞれのテーマとして展覧会を構成したのだ。つまり1本ずつ別のテーマをもちながら、2本見ればより大きな全体像が把握できるというわけ。なるほどこれなら片方しか見られなくても、ある程度の満足感は得られるだろう。だが実際に見てみると、最初から強烈な作品が目白押しで、「分化」と「統合」のテーマなんぞ吹っ飛んでしまい、2館目はもはやダメ押し状態、同じ作家がまた出てきたとうんざりしてしまった。やはり共同企画、共同開催は難しい。

個々の作品は置いといて、展覧会全体としてもう一つ難しさを感じたのは、展示作品が前衛的であればあるほど、数十年後にそれを回顧するときには古臭く、またおとなしく感じられてしまいがちなこと。それは前衛作品が新しさや未視感を売りにしていただけに、その時代を通り過ぎてしまえば必要以上に色褪せて見えてしまうからだ。その点、同時代の美術動向などに左右されないで制作された作品ほど色褪せず、普遍性を感じさせる。たとえば、多数の円を線で結んだ田中敦子の絵画のように。

また、作品そのものとは別に展示の問題もある。具体は1962年にグタイピナコテカが開館するまでは主に画廊やホール、公園などで発表していたが、記録写真を見ると作品の密度がずいぶん濃い(作品自体の密度ではなく、単位面積あたりの作品密度)。おそらく作品同士の発する摩擦熱も高かったはず。それが美術館の広大な白い壁に「芸術」として余裕を持って再展示されると、牙を抜かれた猛獣とはいわないまでも、コップのなかの嵐程度には冷めて見えるのだ。これは作品のせいではなく、美術館という制度が本来的に抱える矛盾だろう。


公式サイト(大阪中之島美術館):https://nakka-art.jp/exhibition-post/gutai-2022/
公式サイト(国立国際美術館):https://www.nmao.go.jp/events/event/gutai_2022_nakanoshima/

2022/11/02(水)(村田真)

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よみがえる川崎美術館─川崎正蔵が守り伝えた美への招待─

会期:2022/10/15(土)~2022/12/04(日)

神戸市立博物館[兵庫県]

よみがえる「川崎美術館」? そんな美術館、聞いたことないなあ。出品作品も日本の古美術ばかりで食指が動かない。なのにわざわざ神戸まで見に行ったのは、「ようこそ 日本初の私立美術館へ」とのキャッチコピーに惹かれたからだ。あれ? 日本初の私立美術館は1917年に設立された大倉集古館じゃなかったっけ。その前身である大倉美術館は、実業家の大倉喜八郎が収集した日本の古美術品を公開するため1902年に開館、その15年後に財団化して大倉集古館となった。ところがこの川崎美術館は1890年開館というから、大倉に10年以上も先駆けているではないか。なぜ川崎美術館は消えたのか? そもそもだれが、どんな経緯で設立したのか? なんで川崎なのに神戸でやるんだ? いったい川崎美術館とはなにものか?

川崎美術館とは、神戸に造船所を創業した川崎正蔵が、古美術コレクションを公開するため設立したもの。川崎は、明治維新期に廃仏毀釈で日本の伝統文化が粗末に扱われていたことを憂い、古美術が海外流出するのを防ぐために収集を開始。こうして集めた千数百点に及ぶコレクションを多くの人に見てもらおうと、1890年に現在のJR新神戸駅近くの自邸の一部を美術館として公開したという。

ここまでで興味深いことが2つある。ひとつは、川崎正蔵と大倉喜八郎の共通性だ。どちらも同じ1837年生まれ、明治初期に実業界で財をなし、古美術の海外流出に抗うためにコレクションを始めたというのも同じ。つまり彼らは成金の骨董趣味で集めたのではなく、日本の伝統文化を守るために美術品を収集し、社会的義務としてそれらを公開したのだ。これが明治時代の実業家のパトロネージというものだろう。

もう一つ興味深いのは、川崎の後を継いで同造船所の社長となったのが松方幸次郎であることだ。松方はいうまでもなく西洋美術の一大コレクションを成し、国立西洋美術館の基礎を築いた人物。川崎のパトロン精神がどう松方に受け継がれたのかも知りたいところだ。ちなみに、川崎が弱冠31歳の松方を社長に抜擢したのは、アメリカ帰りの有能な若者だったこともさることながら、同郷の松方の父正義が政治家として川崎の事業を手助けし、また川崎が幸次郎の留学の費用を援助するという持ちつ持たれつの関係があったかららしい。その正義も古美術のコレクターとして知られ、川崎に収集の手ほどきを受けたのではないかといわれている。

本筋に戻そう。川崎美術館は昭和初期の金融恐慌により事業が傾いたため、1928年からコレクションの売り立てを余儀なくされ、40年足らずの活動を終える。追い打ちをかけるように1938年の阪神大水害で美術館の建物は被災し、1945年の神戸大空襲により一部を残して焼失したという。踏んだり蹴ったりだが、美術品は売り立てにより各地の美術館やコレクターに引き継がれていたため難を逃れたというから、不幸中の幸いといわねばならない。

こうして川崎美術館の存在は忘れられ、「日本初の私立美術館」の称号も大倉集古館に譲られていく。だがそれは美術館が消滅したからというより、もともと「美術館」の名に値する存在であったのかという疑問がある。日本でいちばん早く開館したといっても、公開されるのは年に1回あるかないかで、期間も数日間だけ、しかも縦覧券(招待券)を持つ人たちしか入れなかった。19世紀まではそれで美術館として通用したかもしれないが、現在の基準に照らし合わせれば美術館の条件を満たしていない。これがもし大倉集古館のように財団化されていたら、基本的に常時だれでも見ることができただろうし、また不況にあっても散逸は避けられていたかもしれない。そういう意味では、美術館と称するのが早すぎた。

そんなわけで、川崎美術館について紹介される第一章「実業家・川崎正蔵と神戸」、および第三章「よみがえる川崎美術館」は興味深く見ることができたが、それ以外は川崎が収集し、散逸したコレクションを日本中からかき集めた古美術ばかりなので、ほとんど素通りしてしまった。いやもちろん、狩野孝信の《牧馬図屏風》をはじめとする華麗な金地屏風や、国宝の伝銭舜挙筆《官女図(伝桓野王図)》、今回約100年ぶりに再現された円山応挙の障壁画など逸品ぞろいだが、どうにも関心が向かない。

そんななかで「おっ!」と足を止めた作品が2点あった。1点は、奇石ばかりを墨で描いた円山応挙の《石譜図巻》。樹木のようにも山のようにも見える奇石を5メートル余りにわたって描き連ねたこの絵巻、静物画としても風景画としても、なんなら抽象画でもシュルレアリスムでも通用しそうなほど正体不明の魅力がある。現在は個人蔵なので見られる機会は少ないはず。もう1点は、最後に展示されていた伝顔輝による《寒山拾得図》。川崎が自分の命の次に大切なものとして愛蔵した作品というだけあって、さすがにすごい。あえていえば、正統派の「奇想の系譜」だ。岸田劉生がこれに着想を得て「麗子像」のひとつを描いたというのもうなずける。


公式サイト:https://kawasaki-m2022.jp

2022/11/02(水)(村田真)

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