2019年02月15日号
次回3月1日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

君は『菫色のモナムール、其の他』を見たか?

会期:2018/11/03~2019/01/27

モリムラ@ミュージアム[大阪府]

地下鉄四つ橋線で南下して北加賀屋駅から徒歩5分ほど、殺風景な住宅街に森村泰昌の個人美術館がある。家具屋だった建物の2階を改装し、2本の「80年代展」(国立国際美術館と高松市美術館)のオープニングに合わせて開館した。そのため開館記念展は「森村泰昌 もうひとつの1980年代」として、「君は『菫色のモナムール、其の他』を見たか?」というタイトル。出品はすべて80年代のもので、初期の写真やグラフィック作品から、デビュー作の《肖像(ゴッホ)》、赤松玉女との共作《男の誕生》など計30点ほど。興味を惹いたのは、1986年に開いたセルフポートレートによる初個展「菫色のモナムール」を、奥の展示室で再現していることだ。

森村というと「ゴッホ」の記憶が強烈だったせいか、どうしてもコテコテのお笑いアートみたいなキワモノ的イメージがつきまとうが、この個展を見ると印象がガラッと変わる。セルフポートレートといいながら首がなかったり、手足が欠けていたり、包帯が巻かれていたり、全身を赤や黒に塗られていたり、なにか暗くてドロドロとしたドス黒いものが感じられるのだ。考えてみればゴッホだっていまでこそ人気画家だが、当時は怒りっぽい貧乏画家で、みずから耳を切り落とし、精神疾患を患い、最後は自殺した(他殺説もあるが)異端児。そんな画家に扮する森村も相当の異端児なのではないか。ゴッホだけではない。ニジンスキーもフリーダ・カーロも三島由紀夫も、彼が扮してきた芸術家はみんなすさまじい情念の渦巻く異端児だ。そんな森村の原点というか素顔がかいま見られる展示だった。

2018/12/02(村田真)

ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代

会期:2018/11/03~2019/01/20

国立国際美術館[大阪府]

金沢21世紀美術館始発の巡回展「起点としての80年代」に続いて、大阪でも「80年代展」が開かれている。金沢の出品作家が19人と少なかったのに対し、こちらは3倍以上の65人と大盤振る舞い。おまけにコレクション展でも「80年代の時代精神から」(時代精神に「ツァイトガイスト」のルビが!)をやっているので、見に行かない手はないでしょ。会場入口にはさっそく、アメリカのポップ・カルチャーを極彩色で表現した中西學の立体《THE ROCKIN’ BAND》が、展覧会を代表するかのように立っている。よくも悪くもこれが80年代ニューウェイブの典型かもしれない。

会場に入ると、河原温の《Today》シリーズの「JUNE 23, 1980」をトップに、作品が80-81年、82-83年と2年ごとに紹介されている。80-81年はまだミニマル、コンセプチュアル系の70年代的空気におおわれているが、辰野登恵子の表現主義的な絵画だけが唯一80年代を先駆けていた。それが82-83年になると、杉山知子、横尾忠則、日比野克彦、中原浩大、山倉研志など一気に色彩と具象イメージが現れ、84-85年、86-87年には先の中西をはじめ、森村泰昌、山部泰司、関口敦仁らが出そろい、ニューウェイブ全盛となる。最後の88-89年になると、福田美蘭や小田英之ら90年代のネオポップ路線につながる作家たちもチラホラ。

きわめてわかりやすい展示だが、いくつか気になる点がある。ひとつは、出品作家が多い半面、1人1点(または連作1セット)に絞られているので、必ずしも代表作が出ているわけではないということ。たとえば、辰野は80年代の初めと終わりでは作品が変化しているので1点では足りないし、石原友明は皮革の立体より初期の写真を使ったレリーフのほうがふさわしいと思うし、中原は絵画も彫刻も手がけているので両方出すべきではないか……と、言い出せばキリがない。また、80年代後半にもなってなぜ吉野辰海が入って、岡崎乾二郎や大竹伸朗が入っていないのか。これも言い出せばキリがないが、この3人に関しては明らかに違和感がある。

もうひとつは、70年代後半から80年代への橋渡しをした「ポストもの派」の視点が欠けていること。ポストもの派とは、70年代に支配的だったもの派をはじめとするミニマリズムやコンセプチュアリズムを、試行錯誤しながら超えようとした作家群のこと。彼らがいなければその後のニューウェイブが登場する余地はなかったし、またその必然性も生れなかったと思う。絵画でいえば辰野のほか、彦坂尚嘉(不出品)、堀浩哉、岡崎乾二郎(不出品)、諏訪直樹あたり、彫刻でいえば戸谷成雄、遠藤利克(不出品)、黒川弘毅ら、インスタレーションでは川俣正が代表格だ。彼らはもの派がゼロに還元した美術表現を再起動させるため、当時もはや死語といわれた「絵画」「彫刻」「美術」などの概念をもういちど問い直し、一から表現を組み立て直そうとした。そうした成果の上に、欧米からの新表現主義の動向を組み入れたニューウェイブが登場できたと理解しているが、そのポストもの派の重要作家が何人も欠けている。

これに関連して、80年代を理論面でも制作面でもリードしてきた彦坂尚嘉と椿昇が、同展だけでなくもうひとつの80年代展にも選ばれていないのは、いったいどういうわけだろう。とくに彦坂が指導していたBゼミでは、80年代初頭から銀座の画廊で「ニュー・ペインテッド・レリーフ展」や「ハッピーアート展」などのグループ展を戦略的に組織、これらが首都圏のニューウェイブにつながっていったことは間違いないが、そこらへんがすっぽり抜け落ちている。同展は大阪の美術館が企画したこともあって「関西ニューウェイブ」の作家が多いせいか、東京方面が手薄になったのかもしれないが、少なくとも80年代を生きてきた者の実感とはズレがある。

2018/12/02(村田真)

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めがねと旅する美術展—視覚文化の探究—

会期:2018/11/23~2019/01/27

静岡県立美術館[静岡県]

大阪に行く途中、静岡に寄ろうかどうか迷ったけど、これは寄ってみて正解だった。同展は静岡県立美術館、青森県立美術館、島根県立石見美術館という地方公立美術館3館による共同企画展の第3弾。より正確には、3館のというより3人の学芸員による共同企画というべきか。静岡の村上敬氏、青森の工藤健志氏、島根の川西由里氏の3人は2010年に「ロボットと美術」展を企画。これが好評を博し、めでたく美連協大賞・奨励賞を受賞。この「ロボ美」を機に3人は意気投合して「トリメガ研究所」を結成したという。3人とも眼鏡をかけていることから「トリプルメガネ」を略した命名だそうだ。この「めがね」が今回の展覧会のテーマにもつながっていくのだが、その前に第2弾として、2014年に3人で「美少女の美術史」展を企画。これも「ロボ美」同様サブカル的要素の入ったオタク的空気の漂う展示で、同じく美連協の奨励賞を受賞した。

そして第3弾の今回の「めがね」だ。めがねといってもここでは視覚を補正するための眼鏡だけでなく、遠眼鏡、色眼鏡、顕微鏡、レンズ、VRゴーグル、万華鏡、鳥瞰図、遠近法、錯視……と拡大解釈し、古今の日本美術を中心に幅広く渉猟している。西洋の遠近法を採り入れた江戸の浮絵や、司馬江漢による静岡ならではの富士山の洋風画、浅草凌雲閣を描いた浮世絵と西洋版画の対比など興味深い展示も多いが、めがねとはすぐに結びつかない。現代では、富士山の頂上を丸く拡大した中村宏の《望遠鏡・富士山(女学生に関する芸術と国家の諸問題)》、波状ガラスを使った山口勝弘の《ヴィトリーヌNo.47(完全分析方法による風景画)》、少女の顔が連続写真のように連なる金巻芳俊の彫刻《円環カプリス》、のぞくと小さな世界が見える桑原弘明の一連ののぞき箱(これはすばらしい!)、女の子の眼鏡を通して瞳に映る外界を描いたMr.のシリーズ、著名人の眼鏡越しにその人の文章を捉えた米田知子の一連の写真のように、お眼鏡にかなった?作品もある。いささか風呂敷を広げすぎの感がないわけではないが、めがねはひとつの契機にすぎず、裸眼ではなく「なにかを通して見る」ということについて考える展覧会になっている。

特筆すべきは、トリメガ研究所の企画として新作アニメを制作していることと、3人の時代がかったポートレート写真を展覧会にもカタログにも掲げていること。そこまでやるか? ウマの合う学芸員が展覧会を共同企画することは珍しくないけど、固定した3人がシリーズのように3回も企画展を続けるというのはあまり聞いたことがない。意地悪な見方をすれば、公立美術館の学芸員が税金で好き勝手なことをやっているともいえるが、ぼくは学芸員自身が楽しんでつくる展覧会ほどおもしろいものはないと信じているので、ぜひ第4弾、第5弾と続けてほしいものだ(と思ったら、これが最後らしい)。惜しむらくは3館とも首都圏(および関西)から離れていること。だからこそできたという面もあるかもしれないけど。

2018/12/02(村田真)

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増山士郎展 Tokyo Landscape 2020

会期:2018/11/23~2018/12/02

Art Center Ongoing[東京都]

2010年から北アイルランドのベルファストに住んでいる増山の、日本では4年ぶりの個展。テーマは増山が北アイルランド移住後に起きた東日本大震災と原発事故。これを2年後の東京オリンピックに結びつけて、インスタレーションとして見せている。作品は、天井から吊るした細長い透明アクリル板の上に、タブレット端末、やかん、黒く焦げた4つのアクリルボックスなどを配置してコードでつなげ、3人組の白い石膏像を20-30体ほど設置したもの。その上には5色の電気コードによる5輪のマーク。タブレットには放射線量が表示され、黒焦げのアクリルボックスは福島第1原発、やかんは原子炉を表わし、上下する照明(核エネルギー)とも連動して沸騰する。3人組の石膏像はよく見ると「見ざる言わざる聞かざる」で、日本国民のこと。こんなに近くに危機が迫っているのに、なにごともなかったかのようにやりすごそうとしているからだ。彼らが乗ったアクリル板は揺れるので、床には落ちた石膏像の破片が散らばっている。

これを発想したきっかけは、オリンピック誘致の際に首相が「福島原発は完璧に制御されている」と断言した演説に、違和感を抱いたこと。また、その演説に日本国民が大した反応を示さなかったことだという。こうした国内の出来事については日本にいるより、むしろ海外にいたほうがバイアスがかからずダイレクトに伝わるのだろう。作品も図式的ともいえるほど直球勝負で、すがすがしいほど。ただ、日本人は「見ざる聞かざる言わざる」だといわれると、その「上から目線」というか「外から目線」に抵抗を感じないわけではないが、あまりにストレートでユーモラスな表現に好感を抱いてしまう。まあそんなノンキなことがいえるのも、ぼくがどっぷり日本のぬるま湯に浸かっている証拠かもしれない。

2018/12/01(村田真)

開館40周年記念 産業の世紀の幕開け ウィーン万国博覧会

会期:2018/11/03~2019/01/14

たばこと塩の博物館[東京都]

渋谷の公園通りから下町のスカイツリーのふもとに移転して初の訪問。なんか閑散とした街だなあ。なんでこんなとこに「たば塩」が移ってきたんだろう、と思って地図を見たら納得、近くに日本たばこ産業生産技術センターをはじめJT関連のビルがひしめいているのだ。でもなんで「たば塩」で「ウィーン万博展」をやるんだろう。よくわからないけどうれしい。なぜなら、ウィーン万博は日本政府が初めて公式に参加した万博というだけでなく、その準備のため前年に湯島聖堂で日本初の「博覧会」が開かれ、それが現在の東京国立博物館につながったこと、また、この出品を機に「美術」という日本語が生れたこと、この後ヨーロッパにジャポニスム旋風が吹き荒れることなど、近代日本美術の形成にも大きな意味を持っているからだ。

ウィーン万博は1873(明治6)年に開催。日本を含め35カ国が参加し、半年間で726万人を動員した。日本からは湯島の博覧会にも出された金のシャチホコをはじめとする古器旧物や装飾工芸品を出展。そのとき万博事務局から届いた出品目録に「kunstwerke」とあり、これを「美術」と訳したそうだ。目録を見ると「鉱山ヲ開ク業ト金属ヲ製スル術ノ事(鉱業)」から「少年ノ養育ト教授ト成人ノ後修学ノ事(教育)」まで26区分されていて、見ていくと最後のほうの第二十二区に、「美術ノ博覧場ヲ工作ノ為ニ用フル事(美術品展示の有益性)」、第二十四区に「古昔ノ美術ト其工作ノ物品ヲ美術ヲ好ム人并古宝家展覧会ヘ出ス事(古美術)」、第二十五区に「今世ノ美術ノ事(美術)」とある。これが「美術」という新語を使った最初期の例だろう。
でも同展には大花瓶や大皿、蒔絵、人形、羽子板、そしてたば塩ならではのメアシャム製のコテコテの装飾がついたパイプなど、工芸品は出ているものの絵画・彫刻の類は1点もない。実際、当時の展示写真を見ても、金のシャチホコと大花瓶ばかりが目立ち、絵画はほとんど目立たない。考えてみれば当たり前だ。当時日本で油絵を試みていたのは高橋由一と五姓田一家くらいで、本場西洋に太刀打ちできるような作品はなく、「日本画」もまだ確立する前のこと、外国人に見せられる絵画などなかったのだ(浮世絵はあったが、見せる価値がないと日本人は思っていた)。でもこうした工芸品が人気を呼び、以後19世紀末にかけて続々と開かれる欧米の万博に出展され、ジャポニスム旋風が巻き起こることになる。その際、壊れやすい陶磁器などを包んでいた二束三文の浮世絵版画が見直され、印象派にも影響を与えていったことはよく知られている。

同展では、ウィーン万博を参考に国内向けに開かれた内国勧業博覧会についても紹介している。第1回勧業博が上野公園で開かれたのは1877(明治10)年のこと。当時の錦絵を見ると、会場奥の中央に日本初の「美術館」が建ち、内部では絵が3段掛けで展示されている様子がうかがえる。しかし名称からもわかるように、勧業博は殖産興業政策の一環として産業振興のために行なわれたもの。そこでは美術はお飾りにすぎなかった。海外向けにはジャポニスムの美術を売り出す一方で、国内向けには農工業製品を中心に扱っていたわけで、この構図はどうやら「クールジャパン」と名を変えたいまでも変わっていないようだ。

2018/11/23(村田真)

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