2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

岩井優 親密の遠近法

会期:2017/09/09~2017/10/14

タクロウソメヤコンテンポラリーアート[東京都]

作品は2点。どちらも東南アジアで制作した映像だが、制作年は異なっている。ひとつは2012年にカンボジアのプノンペンで制作された《ホワイトビル・ウォッシング》。ホワイトビルはもともと中流のための住宅群だったが、内戦のため住民が去ってホームレスが入り込み、スラム化したモダンな建物のこと。ここで岩井は住人とともにゴミを掃き、床を拭く清掃プロジェクトを行なった。そのときの記録を流しているのだが、中身より映像インスタレーションがおもしろい。3つの映像を交互に斜めから投射しているため、屏風のように上下の辺がジグザグに見える。ちなみにこのビルは日本企業に買い取られ、新しいビルを建てるため解体工事が始まっているという。掃除どころではない巨大資本による浄化作用が進んでいるのだ。
もうひとつはタイで撮ったもので、ミャンマーからの移民労働者に彼らの愛用のバイクを洗うように指示したワークショップの記録映像。こちらは壁と床の2面を使い、壁面には右側に美しい寺院が見えるテラスのような場所で撮った映像、床にはそれを上から撮った映像を流している。これも内容はおもしろいものではないが、映像が美しい。「清掃」という一点からアジアの都市問題や移民問題まで突破しようとする姿勢は揺るぎない。

2017/10/14(土)(村田真)

単色のリズム 韓国の抽象

会期:2017/10/14~2017/12/24

東京オペラシティアートギャラリー[東京都]

タイトルを聞いてなつかしさを覚えた。70年代の終わりごろ、最初に知った韓国の現代美術がモノクロームの抽象画だったからだ。当時は世界的にミニマリズムの全盛期だったが、韓国のそれは徹底していて、抽象というのもはばかられるような、なにか怨念を塗り込めたような、あるいは視線を遮断するような暗さを感じたものだ。もっともそうした見方自体が当時の韓国に対する無知と偏見からくるものだったかもしれない。そんな韓国美術も90年前後からチェ・ジョンファ、イ・ブルらによる色彩豊かなインスタレーションが登場して一気に華やぎ、モノクローム絵画はすっかり忘れられてしまう。だからぼくにとって今回の展覧会は久しぶりの再会なのだ。
展示は19人の作品を数点ずつ、ほぼ世代順に個展形式で並べている。繭のような楕円にうがたれた墨で画面を埋め尽くしていく郭仁植、モーリス・ルイスと榎倉康二を足して2で割ったようなにじみを見せる尹亨根、画面全体を一色の絵具で覆って鉛筆で引っ掻いた朴栖甫、そして、群青色の岩絵具で線や点を描いていく李禹煥。ぼくがかつて見たのは彼らの作品だった。彼らは全員戦前生まれで(出品作家のうち朝鮮戦争後の生まれはわずか3人しかいない)、日本による植民地支配、第二次大戦、朝鮮戦争、戦後の独裁政治と貧困生活を知っている人たちだ。そうした経験がモノクローム絵画にも影を落としているはずだが、でもそれがひとつの流れになるのは思ったより新しく、70年代に入ってからだという。この暗さはなんとなく昔から連綿と続く韓国の伝統だと思っていたが、それこそ偏見だった。たしかにチマチョゴリにしても和服よりよっぽどハデだ。作品の多くはキャンバスに油彩だが、紙に墨というのもけっこうある。向こうでは日本のように洋画と日本画の主導権争いみたいな無意味な対立がなく、油彩画と韓国画が当たり前に同居しているのだろう。

2017/10/14(土)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00041682.json s 10141250

Search & Destroy

会期:2017/09/29~2017/10/15

TAVギャラリー[東京都]

「検索エンジンによるイメージの結果から、再構と破壊を試みる現代美術家、計5人によるグループ展」とのことだが、そんなことはいまどきのアーティストならフツーにやってることであって、この展覧会で重要なのはいい作家をしっかり集めていたことだ。竹内公太の「エゴサーチ」と渡辺篤の「」は以前にも書いたので略。末永史尚は矩形の物体をタブローと化す作品で知られるが、今回はマーク・ロスコとエルズワース・ケリーの抽象画を10-20点ずつ小さな画面に並べて描いている。これは画家の名前を検索したときに現われる均質化されたサイズの画像をそのまま描いたもの。これはカワイイ。岩岡純子は初めて見るが、展覧会のチケットやチラシ、切手などに描かれた名画の人物にファッションチェックを入れた作品。チケットやチラシにはそれが開かれた年月を、切手には消印を残して残りの部分は消し、その時代のモードを検索して調べ、先生が添削するように細かく赤入れしているのだ。こういうの好きだな。これを見られただけでも阿佐ヶ谷まで足を運んだ甲斐があった。

2017/10/09(月)(村田真)

ボストン美術館の至宝展─東西の名品、珠玉のコレクション

会期:2017/07/20~2017/10/09

東京都美術館[東京都]

まるでビエンナーレのように頻繁に開かれる「ボストン美術館展」だが、巡回展の供給元だった名古屋ボストン美術館が来年度いっぱいで閉館しちゃうと、激減するのではないかと心配になる。ともあれ「ボストン美術館展」といえば、これまでミレーやゴッホを中心とするフランス近代絵画展か、日本の美術館以上に充実している日本の古美術展かのどちらかだったが、今回は古代エジプト美術から、中国の宋画、江戸期の美術、フランス近代絵画、18-20世紀のアメリカ美術、そして現代美術まで、それぞれ数は少ないけど世界の美術史のダイジェスト版を見せている。日本に世界美術史のダイジェスト展ができる美術館があるかというと……ない! さすがボストン、やっぱ名古屋は閉館しないでほしい。
展覧会を見ていくと、中国12-13世紀の宋画の次に18世紀の江戸期の水墨画があるので、両者を見比べてみるのもおもしろい。例えば陳容の《九龍図鑑》と、曽我蕭白の《風仙図屏風》との比較は、ルネサンスとマニエリスムの違いにも似ていて、さすが宋画はどっしりして品格があるなあと東洋美術には疎いぼくでも感じる一方、蕭白の奇想に富んだユーモアにはかなわないなと愛国心の薄いぼくでも思う。比較でいうと、今回の目玉であるゴッホの《郵便配達人ジョゼフ・ルーラン》と、《子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人》もいろいろ考えさせられる。ルーラン夫妻を描いた2点だが、前者ではあらためて絵のヘタクソさに目を奪われる。いったいジョゼフの手はどうなってるんだ!? こんなにデッサンが狂っていながら高く評価され、美術史上もっとも人気の高い画家はほかにいないだろう。ルーラン夫人はもっとスゴイ。背景の緑とオレンジの目玉のような、あるいは細胞のような不気味な模様はいったいなんだ? この2点のあいだにゴッホが例の耳切事件を起こしたわけで、いっちゃなんだが「使用前/使用後」のように見比べてみるのも一興かと。

2017/10/06(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00040441.json s 10141255

杉戸洋 とんぼ と のりしろ

会期:2017/07/25~2017/10/09

東京都美術館[東京都]

「ボストン美術館の至宝展」のついでに寄ってみたら、こっちのほうがはるかにおもしろかった。杉戸洋というとなんとなく頼りなさげな絵を描くいかにもいまどきの画家、というイメージしかなかったが、同展はそんなイメージを覆す、というか、もう絵なんかどうでもいいくらいすばらしい展覧会であった。まず会場入口のガラス扉に淡い色がつけられ、下りのエスカレーターの両脇にもピンクのアクリル板が立てられている。というのはあとで気づくのだが、これがおそらく微妙に気分に影響を与えるのではないかと思われる。順路に沿って見ていくと、三角屋根の家らしきものを描いたキャンバスが壁にポツンポツンと余裕をこいて並んでいる。凡百の画家がこういうシャレた真似をすると、そんな空間を無駄にするほど価値のある作品かと怒り出すところだが、これは明らかに違って空間のほうに価値を見出せるほど巧みな配置になっている。また、絵には額がついてたりついてなかったり、絵の裏にピンクのウレタンみたいなものが挟まってたり、床に何枚も重ねて置いてたり。絵の中身はどうでもいいというか、絵に描かれている内容を見せようというよりも、絵そのもののあり方、展示の仕方、絵のある空間全体を見せようとしているように思える。
下の階では、壁面と床の角に発泡スチロールのブロックを並べて布を被せたり、額縁代わりに段ボール箱に絵を入れてみたり、いろいろと試みている。通路のような展示空間には、さまざまなタイルを貼りつけた全長10メートルを超す壁(裏に三沢厚彦の彫刻が置いてあったりする)を建てている。タイルといえば、都美館を設計した前川國男はタイルの使用が特徴的なので、その前川に敬意を表してか、それともおちょくってかは知らないが、この建築から発想されたものに違いない。階下の吹き抜けの大空間の壁にも絵は飾られてはいるけど、大半は10号以下の小品で、おまけに絵と絵との間隔がずいぶん離れている。大空間にあえて大作を展示することなく小品を見せ、しかもそれがイヤミでなく説得力があってじつに心憎い。ああ見てよかった。

2017/10/06(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00040861.json s 10141254

文字の大きさ