2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

怖い絵展

会期:2017/10/07~2017/12/17

上野の森美術館[東京都]

中野京子のベストセラー・シリーズ『怖い絵』にあやかった企画展。怖い絵といっても神話や聖書から採られた主題の作品が大半なので、絵そのものが怖いというより、ストーリーが怖かったり、これから起こる出来事を想像すると背筋が寒くなるという作品が多い。例えば今回の目玉作品《レディ・ジェーン・グレイの処刑》を見ると、目隠しされた少女がなにやら手探りしている。左の女性たちが顔を背けたり壁のほうを向いているので、目隠し鬼ごっこでもしてるのかと思ったりもするが(思わないか)、タイトルを見て解説を読み、手前にあるのが断頭台で、右側に斧を持った処刑人が立っているのがわかれば、このあとの恐ろしい出来事が予想できるってわけ。
《チャールズ1世の幸福だった日々》は解説を読まなければぜんぜん怖くない。イングランド王が家来を伴い家族で優雅に船遊びに興じている場面で、怖いどころか幸せそうだ(幸せが怖いという人もいるが)。じつはこのあとチャールズ1世が斬首される運命にあることを知れば、幸福そうな家族の行楽もまた違った見方ができるはず。でもそれは10年以上先の話であって、そんな先の運命まで読み取れないし、絵に表わすこともできない。もしこれを「怖い絵」というなら、19世紀以前に描かれた肖像画のモデルはいまではすべて死んでいるから、どれも「怖い絵」になってしまうだろう。
と、ひとまずケチをつけたところで、でもこの展覧会はなかなか示唆に富んでいる。出品作品の大半は18-19世紀のロマン主義や象徴主義の絵画に占められ、間違っても明るい陽光の下で描いた印象派や20世紀のキュビスムとか抽象画とかは出てこない。だが、例えばモネには死にゆく妻を描いた《死の床のカミーユ・モネ》のような恐ろしい絵があるし、20世紀のシュルレアリスムまで範囲を広げれば「怖い絵」だらけになる。ピカソの《ゲルニカ》なんか虐殺される民衆を描いた恐ろしい絵だが、これを怖いという人はあまりいない。そうなるといったいなにが「怖い」のか、「怖いとはなにか」という根本的な疑問にぶち当たるが、けっこうそんなところにこの展覧会の狙いがあるのかもしれない。ちなみに、フューズリの《夢魔》(ただし小品)、モッサの《彼女》、ローランスの《フォルモススの審判》あたりは絵そのものが十分怖かった。

2017/10/06(金)(村田真)

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六本木アートナイト2017

会期:2017/09/30~2017/10/01

六本木ヒルズ+東京ミッドタウン+国立新美術館ほか[東京都]

土曜の深夜と日曜の午後の2回見に行った。なんだかいろいろにぎやかにやっていたけど、見て得したっていうのはそんなに多くなかったなあ。いくつか挙げると、まず、六本木ヒルズ内の通路の一画を写真スタジオに見立て、正面を向いてポーズをとる十数人の人物像を置いた江頭誠。壁も床も人物もすべてロココ風の花柄の毛布で覆われて、じつに華やかというか不気味というか。その前で同じ花柄の上着を着せてもらって撮影できるというサービスつき。これは人気があった。同じヒルズの通路内と六本木西公園でプレゼンしたナウィン・ラワンチャイクンの《OKのまつり》は、六本木を題材にした映画やワークショップの構成。映画とワークショップは見てないけど、そのために描いた宣伝用の看板絵には、森美術館の南條史生館長をはじめ理事長やキュレーターが登場して内輪ウケする。三河台公園では幸田千依が大作絵画を屋外制作し、木村崇人は公園の樹木を使ってを星形の「木もれ陽」をつくるワークショップ。あまり接点がなさそうな幸田と木村の組み合わせだが、共通項は「太陽」だ。
圧巻だったのは、東京ミッドタウンの芝生広場で公開された「ルツェルン・フェスティバル アーク・ノヴァ2017」。これはスイスの音楽祭ルツェルン・フェスティバルと日本の音楽事務所カジモトが、東日本大震災の復興支援のために発案し、建築家の磯崎新と彫刻家のアニッシュ・カプーアによってデザインされた、収容人数500人ほどの移動式コンサートホール。クラインの壷を思わせるドーナツ状の巨大なバルーンで、内部に空気を送り込んで膨らませる仕掛け。中に入ると、なるほど送風機が何台も稼働していて、気圧が高いことが耳でわかる。この奇怪な位相建築、六本木アートナイトの出し物というより、東京ミッドタウンの開業10周年を記念して誘致されたもので、21_21デザインサイトの「そこまでやるか」展でも紹介されていた。入場料500円とられたけど、これがいちばん得した「作品」。

2017/10/01(日)(村田真)

王希奇展─一九四六─

会期:2017/09/28~2017/10/05

東京美術倶楽部[東京都]

縦3メートル、横(というより長さ)20メートルにおよぶ超大作《一九四六》は、敗戦後に満州から引揚げる数百人もの日本人たちを群像として描いたもの。画面奥に3、4隻の引揚船が停泊する港が描かれ、左手前から右奥の船に向かって無数の日本人が列をなしている。人物は老若男女かなりリアルに描き分けられ、吹雪を思わせる灰色の絵具の飛沫がところどころ覆っている。色彩はほとんどモノクロームで、人物の立っている角度や光の当たる方向が一定でないことから、当時の記録写真を見て描いたであろうことは明らかだ。おそらく何枚もの写真のイメージをパッチワークのように継ぎ足して描いたものと思われる。
これを見てまず思い出したのが、藤田嗣治の《サイパン島同胞臣節を全うす》と、香月泰男の「シベリア・シリーズ」という対極に位置する2点だった。「サイパン島」のほうはいうまでもなく戦争画を代表する1点だが、自決しようとする日本人を描いた希有な例だ。リアルな人物表現といい、モノクロームに近い重苦しい雰囲気といい、また光の当たり方がチグハグなところといい、王はひょっとして「サイパン島」を参考にしたのではないかと思えるほど近さを感じる。一方、「シベリア・シリーズ」は香月が敗戦後シベリアに抑留された経験を描いた50点を超す連作。捕虜の日本人を描いた点で広く戦争画に括れるものの、いわゆる作戦記録画とは正反対の「敗戦画」と呼んでおこう。同シリーズの多くはなかば抽象化されているが、敗戦後日本に帰国するまでの苦難をほとんどモノクロームで表わしている点で《一九四六》と共通している。なかでも絶筆とされる《渚(ナホトカ)》は、港で待つ日本人の群衆を黒い帯として描いたもので、テーマ的にもぴったり重なる。
さて、ぼくが《一九四六》に興味を引かれた理由のひとつは、これを描いたのが中国人の画家であるということだ。いうまでもなく先の大戦において日本人は中国人にとって加害者であり、被害者である中国人が日本人に同情する絵を描くなどありえないと思っていた。でも引揚げは戦後の出来事であり、加害者=強者であったはずの日本人が一転、被害者=弱者の立場に突き落とされたため(特に民間人は)、中国人も絵にすることが可能になったのではないか。そう考えると、この絵が藤田の戦争画にも、香月の敗戦画にも似ているもうひとつの理由が明らかになってくる。これらはすべて被害者=弱者としての日本人を描いているからだ。

2017/09/29(金)(村田真)

1937──モダニズムの分岐点

会期:2017/09/16~2017/11/05

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

例えば「1920年代展」のようにディケードで区切って見せる展覧会はよくあるが、同展のように特定の年に絞った展覧会はあまり例がないのではないかと思ったら、東京都現代美術館の「日本の美術──よみがえる1964年」とか、目黒区美術館の「1953年ライトアップ」とか、意外とあった。1937年といえば盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まった年。海外ではスペイン内戦が勃発し、ナチスがゲルニカを空襲、パリ万博でピカソが《ゲルニカ》を発表。朝井閑右衛門が最初の戦争画とされる《通州の救援》を描き、ナチスが「頽廃芸術展」を開催したのもこの年だ。軍靴の音が刻々と近づき、第2次大戦へとなだれ込む直前だが、一方でモダンな都市文化が花開き、シュルレアリスムや抽象といったモダンアートの全盛期でもあった。タイトルどおり、まさに「モダニズムの分岐点」となる年に焦点を当てた展覧会だから、おもしろくないわけがない。
と単純に考えたのだが、しかし同展は企画展ではなく、「マックス・クリンガー版画展」と同時開催のコレクション展なので、じつはあまり期待してなかった。結果的に、まあ期待しないで正解だった。というのも、計40点ほどの自前のコレクションでは、モダニズムの装いの下に響く戦争の足音など聞き取りようがないからだ。少なくとも戦争を予感させる作品は皆無といっていい。前述の朝井閑右衛門の大作《丘の上》と《ロリルの踊り》は出ているが、肝腎の《通州の救援》はそもそも現存せず。また内田巌の《港》にはどことなく不穏な空気を感じるが、それはその後の苦難の時代を知ってるからそう感じるのであって、知らなければただの寂しい絵にすぎない。ほかに、村井正誠《ウルバン》、阿部合成《鱈をかつぐ人》、松本竣介《建物》など、1937年前後の作品を引っぱり出しているが、全体からなにかひとつの方向性が見えてくるわけではない。むしろそれが1937年という時代の特性かもしれないし、逆にひとつの方向性しか見えてこなかったら展覧会としてウソっぽいということだ。

2017/09/29(金)(村田真)

安藤忠雄展ー挑戦ー

会期:2017/09/27~2017/12/18

国立新美術館[東京都]

建築家・安藤忠雄の約半世紀におよぶ仕事を振り返る回顧展。導入部では通路状の細長い空間に《住吉の長屋》をはじめとする初期の住宅作品を並べ、突き当たりを左折して大きな展示空間に出ると、世界中に展開する代表作の図面やスケッチ、マケット、写真などを群島のように点在させている。細長いギャラリーを見てから大空間に出るという会場構成は、昨年の三宅一生展と基本的に同じだ。そういえば美術館は違うが、東京国立近代美術館の「日本の家」展も似たような構成だった。最近の流行なのか。余談だが、新美術館の近くの三宅一生がディレクターを務める21_21デザインサイトも安藤忠雄の設計。じつは21_21の裏に磯崎新アトリエがあり、磯崎はこの時期もう少し奥のミッドタウンの庭園で、アニッシュ・カプーアとコラボした巨大な風船のコンサートホール《アーク・ノヴァ》を膨らませていた。
さて、今日はプレス内覧会。大空間の中央にドームがあって、そのなかで直島のアートプロジェクトを紹介しているらしいが、安藤本人がこのドームの入口で解説することになっているため、内部に入れず。しばらく待ったが、「もうすぐ来ます」と最初にアナウンスがあってから本人が登場するまで30分くらいかかったか。スターだね。ともあれ、この直島のプロジェクトや、ヴェネツィアのパラッツォ・グラッシとプンタ・デラ・ドガーナの改装計画、中之島を中心とする都市再生プロジェクトなど見どころは多いが、全部省略して、野外展示場に実物大で再現した「光の教会」に触れておきたい。
建築展でいつも気になるのは、どれも設計図や模型、完成写真ばかりで実物が見られない、体験できないこと。そこに絵画や彫刻の展覧会との決定的な違いがあり、建築展がはらむ本来的な矛盾がある。逆に図面などから実物を想像するという建築展ならではの楽しみもあるのだが、先ほどの東近の「日本の家」展における《斎藤助教授の家》のように、最近は建物を原寸で再現する例が増えているのも事実。もちろん実物大で再現といってもせいぜい1軒だけだし、部分的に省略されているし、なにより建ってる場所や周囲の環境が決定的に異なるが、それでも建築内部を体験するには役立つ。問題は家1軒を建てるのだから金とテマヒマがかかること。コンクリートづくりの「光の教会」はじつに7000万円かかったという。本人いわく「厄介なことに、展示ではなく増築に当たるということで作業も建設費も余分にかかった」(朝日新聞、10月9日)。作品の展示ではなく、美術館の増築と位置づけられたらしい。しかもそれが「全部自前」というから驚く。国立美術館で個展を開くには作家が金を出さなければならないようだ。

2017/09/26(火)(村田真)

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