2018年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

岡本神草の時代展

会期:2018/05/30~2018/07/08

千葉市美術館[千葉県]

出品目録を見ると、作品数は計166点というからかなり大規模。でも「─の時代展」と題されているように、岡本神草だけでなく同時代の菊池契月、甲斐庄楠音、稲垣仲静、梶原緋佐子といった日本画家の作品も含まれていて、神草だけだと123点。しかも前期と後期で展示替えがあり、おまけに前半は大半がスケッチや下絵に占められ、ようやく本画が登場したと思ったら途中でぷっつり終わってしまい、ややハンパというか、たっぷり見せていただきました的な充実感は少ない。もっともそれは企画者のせいではなく、神草自身が若くして突然亡くなってしまったからであり、また量的な充実感はなくても、質的には数点ながら満足のいく作品があったことは特筆しておきたい。

さて、神草といえばなんといっても“デロリ系”の女性像に期待したわけだが、京都市立絵画専門学校の卒業制作で描いた《口紅》(1918)を最初のピークとして、特有の妖艶かつ不気味な表情は《拳を打てる三人の舞妓の習作》(1920)に受け継がれていく。ところがその後リアルな陰影表現を採り入れ、《仮面を持てる女》(1922)や《五女遊戯》(1925)などに変容。これはこれで妖艶なのだが、昭和に入るとまたスタイルが変わり、《化粧》(1928)、《婦女遊戯》(1932)といった浮世絵風のフラットな表現に回帰し、その翌年38歳で急逝してしまう。ハンパ感が否めないのはそのためだ。したがって、もっとも妖艶で不気味な魅力を発散させていたのは大正期で、それは甲斐庄楠音の《横櫛》、丸岡比呂史の《夏の苑》、稲垣仲静の《太夫》など、同世代の画家たちにも当てはまる。そして彼らも昭和に入るとあっさり系に転じてしまうのだ。考えてみればこれは岸田劉生をはじめとする洋画家にもいえることで、ここに大正と昭和の時代精神がはっきり表れているような気がする。

2018/07/03(村田真)

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縄文—1万年の美の鼓動

会期:2018/07/03~2018/09/02

東京国立博物館[東京都]

「日本の美」はしばしば、桂離宮に代表されるような質素きわまりない「ワビサビ系」と、日光東照宮に見られるような過剰なまでの「装飾系」の両極に分けられてきた。古代でいえば前者が弥生文化、後者が縄文文化であり、現代でいえば前者がもの派、後者が岡本太郎か。だから岡本太郎が縄文土器を「再発見」したというのはうなずける。でも、どっちかというと日本人に人気があるのはワビサビ系であり、装飾過剰系より日本的であると感じてしまいがちだ。そんなわけで太郎に見出されるまで縄文は長いあいだ博物館の隅に眠っていたわけだが、ここにきてにわかに巻き起こった縄文ブーム。この「縄文展」がブームをあおったのか、それとも「縄文展」がブームに乗ったのかは知らないけれど、いずれにせよ時宜にかなった企画といえる。

出品点数は国宝6件を含む約200点。しかも国宝指定はこの20年ほどのあいだのことで、つい最近の出来事なのだ。地図を見ると、縄文土器や土偶の多くは東日本から発掘されていて「ざまあみろ」と思う。だいたい弥生以降つねに文明文化は西日本が中心で徐々に東進してきたことになっているが、実はそれ以前は1万年ものあいだ東日本が中心だったと聞くとちょっとうれしくなる。デカイ顔をした関西人に対する東日本の逆襲というか。いや別に関西を嫌ってるわけじゃないけれど。

展示は初期のころのまだ装飾の少ない土器や石斧、装身具などから始まり、やがて「縄文」の名の由来になった縄模様が現れ、なんでこんな使いにくいゴテゴテの突起を施したのか首をひねりたくなる火焔型土器にいたる。実用性より装飾性を重んじるというのは、よっぽど生活に余裕がないとできないこと。数千年前の日本は自然も豊かで、日本人の想像力も豊かだったのだ(まだ「日本」じゃなかったけどね)。そのことを証してくれるのが、同時代の海外の土器との比較だ。ここでは中国、インダス、メソポタミア、エジプトの4大文明とその周辺の土器、および弥生土器を集めて比較している。なるほど、海外の土器には彩色したものはあるけれど、火焔型土器ほどの過剰な装飾は見られず、まったく日本独自のものであることがわかる。なにか美術史のスタート地点でドーピングを犯してしまったか、ハデなフライングをやらかしてしまったような目立ち方。でもこれが残念ながら続かず、弥生以降ワビサビ系が日本美の主流になっていくのだ。

そして最後は土偶。縄文で国宝第1号となった《縄文のビーナス》をはじめ、やけにモダンな《縄文の女神》、座って両手を合わせた《合掌土偶》、「太陽の塔」のルーツともいわれる《ハート形土偶》や《筒形土偶》、そして宇宙人がモデルと噂される《遮光器土偶》まで、よくこれだけ集めたもんだとホメてあげたい。それにしてもこれらの土偶に見られる顔貌や身なり、デザインは実に多彩で、どっちかといえば洗練されているというよりドン臭いけど、それだけにアヴァンギャルドで現実離れしていて、たしかに宇宙人をモデルにしたとか宇宙人がつくったとかいわれるのもわかる気がする。その他、さまざまな顔の土面や。耳、鼻、口のかたちの土製品、イノシシやサルなどの土製品、男根を思わせる石棒など、知られざる縄文美術に触れることができた。帰りにショップをのぞいてみたら、松山賢のプチ縄文土器や土偶を売っているではないか。縄文展のお土産に現代アートとは、東博もずいぶんユルくなったもんだ。

2018/07/02(村田真)

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裸体像Tシャツ計画 20年の歩みとこれからのこと 北川純

会期:2018/06/12~2018/07/02

ARTnSHELTER[東京都]

街中の裸体像にTシャツを勝手に着せるというプロジェクトを20年近く続けている北川純の個展。といっても裸体彫刻は持ってこれないし、一時的にしか存在しない「作品」なので、写真や映像による記録展となった。「現場」はやはり作者本人が在住する横浜や東京近辺が多いが、「被害」は全国各地に広がっている。以前、新宿の都庁の中庭に女性のヌード像が並んだとき、フェミニストが彫刻にTシャツを被せて問題になったことがあるが、北川にはそんな思想的背景はなく、いたずら半分で始めたこと。ただそうして続けていくうちに、ホメられたり叱られたりさまざまな反応があり、そこに魅力を感じたという。彼の行為は、まさにそうした人々の多様な反応を引き出す装置であり、公共と芸術について考えるひとつのきっかけになるのかもしれない。いや、それよりも、彼のより大きな関心は「エロ」にあるのだから、白いTシャツを着せることによって裸身を隠しつつビーチクを浮かび上がらせ、よりエロ度を増すという効果も狙っているに違いない。北川と企画者の太湯雅晴とぼくの3人による鼎談で、そんなことを話した。

2018/07/01(村田真)

飯嶋桃代展「鏡とボタン─ふたつの世界を繋ぐもの」

会期:2018/06/11~2018/06/30

ギャルリー東京ユマニテ[東京都]

画廊の正面の壁をミラーシートで覆い、その鏡面に5つの異なる色のボタンをつけ、手前に吊るされた白い服にはそれらのボタンに対応する色の穴(ボタンホール)を空けている。まあこれだけでもなんとなく意味ありげで、見ごたえのあるインスタレーションではあるが、これはジャン・コクトー監督の映画「オルフェ」に刺激されたものだという。もともとオルフェウス(オルフェ)は竪琴の名手で、死んだ妻エウリュディケーを取り戻すため冥界に下りて妻を連れ戻すが、最後に約束を破って後ろを振り返ったため妻は再び冥界へ戻され、オルフェウスも悲しんで身を投げるという神話。映画で印象的なのは冥界=鏡のなかに入っていくシーン(そこしか覚えてない)だが、その現実と冥界を分ける境界がこの鏡面だ。そして鏡面上のボタンの位置は、主を失った竪琴が星座になったという琴座のかたちを表わしているそうだ。また、ボタンとホールは男女の比喩かもしれない。考えているうちに鏡の向こう側にずぶずぶと引き込まれてしまいそうな作品。

2018/06/30(村田真)

都美セレクション グループ展 2018 複数形の世界のはじまりに

会期:2018/06/09~2018/07/01

東京都美術館[東京都]

「都美セレクション グループ展2018」を見る。世界5都市から集まったアーティストたちによる「蝶の羽ばたき」も、社会的役割としての性別とはなにかを考える「インビジブルな存在と私たち」も、グループとしては大きな意義があるが、作品としてピンと来るものがない。だが、最後に見た「複数形の世界のはじまりに」はピンと来た。グループとしての活動はよくわからないけど、そんなことはどうでもよくて、とにかく作品がおもしろい。

たとえば舟木美佳の《一千一秒物語》は、稲垣足穂の同題の文庫本を、間違って洗濯機にでも入れたかのように紙粘土状にしたもの。文字の読めない本の固まり。小野環の《再編/整頓/混沌》は、画集を切り刻んで小さな本や本棚をつくった「箱庭」。《粘土還り》も同じく画集を素材に、改修前の都美術館のまさにここギャラリーB周辺を再構築したもので、入れ子状になっているのだ。井上明彦の《ときの河原》も「この場所」を問題にした作品で、美術館の改修以前の床のタイルの目地に青いテープを貼り、拡張工事の記憶を甦らせている。これらの作品が、ギャラリー中央にしつらえたテラスの周辺にあたかも粘菌のようにはびこっている。このグループの名称は展覧会名と同じ「複数形の世界のはじまりに」というもの。つまりこの展覧会のために集まったグループであり、「ここで行う展覧会」そのものを主題にしているのだ。そこがおもしろいのだ。

2018/06/30(村田真)

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