村田真:著者で見る|美術館・アート情報 artscape

2018年08月01日号
次回9月3日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

岩佐又兵衛 浄瑠璃物語絵巻

会期:2018/04/27~2018/06/05

MOA美術館[神奈川県]

いちどは行ってみたいと思いながら、なかなか行く機会がなかった美術館のひとつに熱海のMOA美術館がある。とくに昨年、杉本博司と榊田倫之の主宰する新素材研究所が改修工事を手がけてからぜひ行かねばと思い、ようやく実現。駅前からバスで山を登り、エントランスに到着。ここからエスカレータを乗り継ぎ、太平洋を見下ろすテラスを通って美術館に入る。鳴門の大塚国際美術館も似たようなアプローチだが、上昇しながらトンネルをくぐって天にいたると比喩的に捉えれば、むしろ弟子筋に当たるMIHO MUSEUMのイニシエーションに近いかもしれない。いずれにせよMOAのほうが早いけどね。前に来たことがないのでどこまで改修したのかわからないが、外観も内部もとてもすっきりしていて思ったよりきれいだ。全面的に改修したのだろうか。

いま特別展示しているのは岩佐又兵衛の《浄瑠璃物語絵巻》。これは「義経説話の一つで、奥州へ下る牛若と三河矢矧の長者の娘浄瑠璃との恋愛譚を中心に、中世末期には浄瑠璃節として、盲目の法師によって盛んに語られていた」物語だという。ぜんぜん知らなかったが、ひとつわかったのは「浄瑠璃」がこの女性の名に由来することだ。とにかくその絵巻全12巻を公開しているのだが、瞠目すべきは物語よりなにより、登場人物の着ける衣装や寝室の調度などが極彩色の高価な顔料で濃密に描き込まれていること。このディテールに対する情熱はなんだろう。MOAはほかにも又兵衛の《山中常磐物語絵巻》を所有しており、そちらのほうも義経伝説に基づく物語で、義経の母の常盤御前が山中の盗賊に惨殺されたり、それを義経が仇討ちしたりする話だが、首が飛んだり胴体が輪切りになったり凄惨な殺戮シーンが見ものなのだ。ほんとはこちらを見たかったのだが、昨年リニューアル後に公開されたばかりなので、しばらく見られないだろう。

2018/05/20(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00043935.json s 10147180

地域のなかのアートな居場所 Aplus×ATLIA

会期:2018/04/07~2018/05/20

川口市立アートギャラリー・アトリア[埼玉県]

川口市内の旧芝園中学校の校舎を共同スタジオとして借りているアーティストたちの作品展。今回は後期の展示で16人出品しているから、全体で30人規模の大所帯だ。ま、そのうち2、3人活躍する人が出てくればいいほうだろう。いまのところ期待が持てるのは、窓ガラスや鏡に風景をプリントする鈴木のぞみと、大理石模様を克明に描く石黒昭くらいか。

こうしたスタジオのシェアやアーティストの支援活動を行っているのが、「アプリュス(A+)」という、アーティストによるNPO。今日は「アートな出会いとその先へ」と題して、アプリュス代表の柳原絵夢とスタジオアーティスト、ゲストとしてBankART代表の池田修らが参加するトークが行われた。柳原氏によれば、こうした活動を始めたきっかけは、予備校で教わった講師がいまや伝説の「スタジオ食堂」にいたからだという(だれだ?)。なるほど、それでアーティストたちに単にスタジオで制作するだけでなく、オープンスタジオやワークショップを通して地元の人たちと交流したり、地域活動に参加することを求めているのか。それに対して池田氏は、アーティストにとって重要なのは作品づくりで、地域活動に引っぱられすぎないようにと助言。これはまったく同意見で、作品をつくるためにスタジオを借りたのに、いつのまにか社会活動家になっていたとしたら本末転倒というものだ。

その後、バスで芝園スタジオを見学。アトリアからはけっこう遠いが、最寄りの蕨駅からすぐなので足の便は悪くない。校舎だったので教室がスタジオとして使えるし、教室ごとに水道もあるので便利。絵画、彫刻、陶芸、木工など入居アーティストのやっていることは多彩だが、窯や工具を貸し借りできるのはこうした共同スタジオの最大の利点だ。横浜より都心に近いのに、家賃はずっと安い。これはいい。

2018/05/19(村田真)

人体—神秘への挑戦—

会期:2018/03/13~2018/06/17

国立科学博物館[東京都]

NHKが主催に入っているのは、NHKスペシャル「人体 神秘の巨大ネットワーク」を放映していたからだろう。いわばこの番組の実物版。そのせいか平日なのにかなり混雑している。展覧会が「日曜美術館」で紹介されれば入場者は急増するというから、いまだにテレビの力はあなどれない。展示構成は、第1章は「人体理解へのプロローグ」として、ヴェサリウスの解剖図譜『ファブリカ』やレーウェンフックの顕微鏡などにより人体研究の歴史をたどり、2章から循環器系、神経系、消化器系、運動器系などに分けて、動物の標本や人体模型、写真、映像などで「人体の神秘」を紹介している。途中4カ所に、まるで関所のようにレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖手稿が展示され、ありがたく拝見する仕組みだ。

へえーっと思ったのは、動物の標本は表に堂々と展示してあるのに、ヒトの心臓とか脳とか臓器の標本は仮設壁の裏に回らないと見られない仕掛けになっていること。隠してるわけじゃないけど、わざと見にくくしているのだ。そのくせヒトの頭蓋骨や骨格標本は堂々と見せている。この違いはなんだろう? 骨はカワキものだから許されて、肉はナマものだから表に出せないのか? それとも臓器提供者への配慮か、あるいは宗教的な問題でもあるのか。でも少し隠すことでかえってスケベ心が刺激されるし、淫靡なイメージを増幅しかねない。いずれにせよ裏に回れば見られるわけで、意図がよくわからない。

2018/05/16(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00043448.json s 10147178

木野彩子レクチャーパフォーマンス ダンスハ體育ナリ? 其ノ弐 建国体操ヲ踊ッテミタ

会期:2018/05/12

聖徳記念絵画館[東京都]

明治期に美術界では「書は美術なりしか?」という論争があったが、舞踊界では「ダンスは芸術か、体育か?」という問いかけがあるそうだ。現状では芸術ではなく、体育に組み込まれているらしいが、そのことを戦前の「建国体操」を復元することで振り返り、ダンスと体育の差異を探ってみる試みだ。講師の木野彩子は、お茶の水女子大学の舞踊教育学科を出て保健体育の先生をやっていたダンサーというから、まさに芸術と体育を股にかけてきた人。そういえば大野一雄も長く体育教師をやっていたっけ。

会場は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館の会議室だが、絵画館前で待ち合わせ、バスガイド姿の木野が建設中の国立競技場や建国記念文庫をザッと案内。神宮外苑にはご存知のように、いま建て替え中の巨大な競技場をはじめ、野球場、ラグビー場などスポーツ施設が整備され、また絵画館には、明治天皇と皇后の事績を記録した80点の絵画が常設展示されている。この外苑で戦時中、学徒出陣の壮行会が行われた。なぜここを会場に選んだかが徐々にわかってくる。では館内へ。

会議室では、学ランに着替えた木野がダンスと体育、体育と神宮外苑、体操ブームと戦争との関係などについてレクチャー。日中戦争が始まった1937年に成立した「建国体操」を復元し、木野が模範演技。その後みんなで踊ってみた。はて、体操は「踊る」というのかな?  動きは空手みたいに拳を突き出す動作が多く、戦闘的な印象だ。ダンスと体操は身体を動かすという点では同じだが、ダンスがみずからの自由意志で動くのに対し、体操は全員が決まった動きを強要される点で決定的に異なり、むしろ戦闘訓練に近いのではないか。ほかにも「日本体操(やまとばたらき)」という創作体操もあって、「みことのり」「いやさか」「みたましずめ」「天降り」などの動作があるのだが、動きがほとんどなく声を出すだけで、身体訓練というより精神的な鍛錬を目指しているのではないかとのこと。このように戦争中に体操ブームが起こったのは、1940年に予定されていた東京オリンピックが中止になったからだそうだ。

重要なのは、体操が国家の必要により身体を鍛えるのに対して、ダンスは国家や社会の要請から脱していくことに本質があるのではないかとの指摘。何年か前、深夜クラブでのダンスが禁止されて問題になったが、国家は国民の身体を統制したがるのだ。最後に木野は1964年の東京オリンピックを見た杉本苑子の文章を朗読した。「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。オリンピックの開会式の進行(行進?)とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった」。2年後にはまた東京オリンピックが開かれる。

2018/05/12(村田真)

水野暁—リアリティの在りか

会期:2018/04/15~2018/07/01

高崎市美術館[群馬県]

明治から現代までの写実絵画を集めた平塚市美術館の「リアルのゆくえ」展で、現代のほうで目に止まったのが水野暁だ。近年は写実絵画ブームだそうだが、その多くが「どうだスゴイだろ」といわんばかりの技巧を誇示するような絵でヘキエキするが、水野はそんな写真丸写しの表層的リアリズムとは一線を画している。というより、むしろ正反対の位置にいるといっていい。もともと西洋の写実絵画は、固定した1点から見た瞬間の静止像を画面に写すことで成り立つ。これが遠近法だが、この原理に則って写真が生まれたのだから、その写真を絵に描くというのは本末転倒というか、屋上屋を重ねるような滑稽さが伴う。

それに対して水野は、たとえば山を描くとき、何時間も何日間も何カ月間も、ときに何年間も(もちろん断続的にだが)その山を見続けて描き続ける。当然ながら午前と午後とでは太陽が動き、天気も変わる。やがて季節が変わり、風景も徐々に変化していくが、それもすべて描く(上書きするというべきか)。つまりその山の絵は、何年何月何日何時何分の一瞬の姿ではなく、2年3年の時間が積み重なった現象の集積になるのだ。実際に何年もかけた《Rebirth—果樹について—》(2009-12)、《The Volcano—大地と距離について/浅間山—》(2012-16)、《故郷の樹》(2015-18)などは、そうやって完成させたものだろう。いや、そうやって描き続ければいつまでたっても完成しないはず。だからどこかの時点で時間の流れを断ち切らざるをえず、そこを「完成」としなければならない、そういうジレンマを抱えている。

まあそこまでならかろうじて想定内だが、この展覧会を見て驚いたのは、水野がさらに一歩進めて、すべての動きを定着させようとしていること。パーキンソン病の母をモデルにした《Mother》では、不随意運動を伴う手足の動きを千手観音のごとく描き込んでいる。こんな人物画は初めて見た(しかし長時間露光の写真ではこれに近いものが得られるはず)。ただしこれは未完成で、これからどこまで手足の動きや顔の表情が増えていくのか、それをどうやって「絵」として完成させるのか、させないのか。水野はリアリズムを極めつつ、すでにリアリズムを超えつつあるといえるだろう。タイトルの「リアリティの在りか」は、平塚で問われた「リアルのゆくえ」のひとつの解答かもしれない。

2018/05/11(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00043865.json s 10146308

文字の大きさ