五十嵐太郎:著者で見る|美術館・アート情報 artscape

2018年08月01日号
次回9月3日更新予定

artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

『ジェイン・ジェイコブズ─ニューヨーク都市計画革命─』

ジェイン・ジェイコブスのドキュメント映画である。彼女はモダニズムの都市計画を批判し、市民運動を牽引した著述家である。強引な手法で再開発を遂行したロバート・モーゼスと彼女を対照的に描く構図は、アンソニー・フリント『ジェイコブズ対モーゼス──ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』(鹿島出版会、2011)とほぼ重なるが、やはり映像ならではのインパクトが楽しめる。例えば、チャールズ・ジェンクスの著作『ポスト・モダニズムの建築言語』の冒頭で、モダニズムの死として象徴的にとりあげられた《プルーイット・アイゴー団地》の爆破、そして同様に失敗したほかの団地がダイナマイトで構造上の重要な箇所が破壊された後、自重で崩れていくシーンが続く。またジェイコブズやモーゼスが実際にしゃべる様子も初めて目撃した。前者はわかりやすく聴衆に語りかけ、後者はふんぞりかえって偉そうにしており、悪役のイメージが増幅される。

この映画のプロデューサー、ロバート・ハモンドは、ニューヨークのハイラインのNPOを設立し、その取り組みによってジェイン・ジェイコブズ・メダルを贈られた人物である。廃止された高架の線路をパブリックスペースに転用し、マンハッタンを南北に縦断する楽しい歩行の体験をもたらしたプロジェクトだ。なるほど、彼女の思想を受け継ぎ、歩行者のためのストリートを現代的な手法で実現したものである。映画では、マンハッタンを南北に切り裂くローワー・マンハッタン高速道路の計画阻止のエピソードがクライマックスとなるが、ジェイコブズは公聴会で逮捕されたものの、その事件によってかえって英雄となり、中止に持ち込み、モーゼスの終わりの始まりとなった。このとき高速道路の両側に凄まじい断面パースによって巨大建築が連続するドローイングも制作されていたが、ル・コルビュジエのパリ中心部の都市計画と同様、実現されなくて良かった暴力的な建築である。

ともあれ、この映画は当時の貴重な映像とともに、20世紀における都市論の転回点を改めて学ぶのに絶好の作品と言える。なお、原題は「CITIZEN JANE」であり、孤独な大富豪の生涯を描いた名作「市民ケーン」をもじったものだろう。

2018/04/30(月)(五十嵐太郎)

《島根県芸術文化センター グラントワ》《江津市庁舎》

[島根県]

益田市に向かい、前からずっと見たかった内藤廣が設計した《島根県芸術文化センター グラントワ》(2005)を訪れた。遠景では切妻の大屋根が印象的な建築だが、日本的なものを記号的に表現するようないやらしい感じは受けない。むしろ周囲の低層の住宅街に対し、土を盛るなど、ランドスケープの操作によって適度に切り離しつつ、浅い水盤をはった中庭の広場に面して、美術館や芸術劇場が付随し、小さな街のような複合施設になっている。また正面をひとつにせず、各方角から回廊へのアクセスを可能とし、街との連続性も失わない。外から見える屋根や石州瓦は、建築のキャラクターを与えるとともに、落ち着いた雰囲気だが、大ホールに入ると、エッジのあるコンクリートの巨大な塊に驚かされる。内外ともに建築の力を感じさせる、王道の傑作だ。 展示室がそれぞれに個性をもつのも興味深い。例えば、日本画のコレクション展「余白の美」を開催する展示室Aはホワイトキューブでなく、なんとベンガラ色だった。また子供服から始まったランバンの展開と近代の女性服を紹介する「ランバンと子供の装い」展の展示室Cは、現代アートにも対応できる天井の高い部屋であり、弧を描く天井から光を導く。一方で1960年代以降、森英恵が蝶のモチーフをどのように用いたかを振り返る展示室Bは、こぢんまりとした空間である。そして和歌山県立近代美術館のコレクションを特集した「モダン・アートに出会う5つの扉」展を開催する展示室Dは、もっとも面積が広く、随時、間仕切りを設けて、フレキシブルに使えるホワイト・キューブだった。

益田市から松江に戻る途中、吉阪隆正が手がけた《江津市庁舎》(1962)に立ち寄った。海に向かってヴォリュームが張りだすダイナミックなピロティだが、足もとを観察すると、吉阪らしい装飾的なテクスチャーや不思議な形がある。島根県に作品が多い菊竹と吉坂の薫陶を受けたのが、内藤廣であり、それが《グラントワ》に結実したと考えると、感慨深い。

《島根県芸術文化センター グラントワ》の印象な切妻の大屋根


中庭


石州瓦


大ホール


内観


《江津市庁舎》




装飾的なテクスチャー


2018/04/28(土)(五十嵐太郎)

《島根県庁舎》《島根県民会館》《島根県立武道館》《島根県立図書館》《島根県立美術館》

[島根県]

久しぶりに島根の建築めぐりを行ない、改めて松江の中心部に20世紀半ばの建築がよく残されていることに感心させられた。例えば、松江城を背景にして、《島根県庁舎》(1959)と《島根県民会館》(1968)が対峙する。いずれも《大分県庁舎》で建築学会賞(作品)を受賞した安田臣が手がけた、戦後モダニズムが輝いていた時代の作品だ。前者はかなり耐震補強をしているが、重森完途の庭園も残っている。注目すべきは、ほかの地方や東京では解体の憂き目にあうことが少なくない菊竹清訓の才気ほとばしる建築が、いくつか現役で使われていることだ。まず県庁の西側には、《島根県立武道館》(1970)と《島根県立図書館》(1968)が並ぶ。菊竹の脂がのっている時期だけに、ダイナミックな造形に惚れ惚れとする。前者は両サイドの斜めの壁柱群が大きな武道場を持ち上げ、そこに鉄骨を飛ばして屋根を架ける。後者は吹き抜けと雁行する部屋群に対し、斜め方向に軸をもつ大屋根をのせている。回廊のスラブも先端が薄い。

城の北側にも菊竹による《田部美術館》(1979)があり、列柱を進むと、コールテン鋼の大屋根の建築が出現する。よく見ると入母屋の形態だが、独特のプロポーションをもつ。その屋根の下に吹き抜けを設け、スロープ沿いに空間を体験していく。彼の後年の作品としては《島根県立美術館》(1999)も存在するが、作風はだいぶ違う。《川崎市市民ミュージアム》(1988)に近いタイプだが、これは湾曲したガラス面によって、宍道湖に面する抜群のロケーションを最大限に生かし、風景が楽しめる。特に夕陽の映り込みが美しいらしい。ちょうどリニューアルしたばかりで、パブリックスペースは現代的にアップデートされていた。企画のエリアでは全国を巡回している「エヴァンゲリオン」展が開催されていたが、こちらは特筆すべき空間ではなかった。むしろ、2階の常設のエリアが工夫されており、奈良原一高の「肖像の風景」を紹介する企画は、展示デザインにも力が入っていた。



安田臣《島根県庁舎》


安田臣《島根県民会館》


菊竹清訓《島根県立武道館》




菊竹清訓《島根県立図書館》


菊竹清訓《田部美術館》

菊竹清訓《島根県立美術館》


2018/04/27(金)(五十嵐太郎)

『パシフィック・リム:アップライジング』『レディ・プレイヤー1』

[全国]

日本のサブカルチャーに対するリスペクトが込められた2つの映画が公開された。2035年を舞台とした『パシフィック・リム:アップライジング』と2045年の荒廃した世界を描く『レディ・プレイヤー1』である。前者はギレルモ・デル・トロによる作品の第二弾(監督は別)、後者は権力者がメディアを締め付け、フェイク・ニュースが跋扈する現在の社会状況に問いかけを発した『ペンタゴン・ペーパーズ』で話題になったばかりのスピルバーグが立て続けに発表した新作だ。いずれも日本の特撮・アニメの影響が大きな役割を果たしている。『パシフィック・リム』の操縦型のロボットは、そもそも日本のサブカルチャーのお家芸であり、システムがハッキングされる続編の展開などは「新世紀エヴァンゲリオン」のプロットが想起されるだろう。また『レディ・プレイヤー1』は、古今東西の漫画、アニメ、ゲームから引用した、さまざまなキャラを散りばめているが、レースで『AKIRA』のバイクが活躍したり、最後のハイライトでメカゴジラとガンダムが対決するシーンが印象深い。物語の仕立て自体は、ゲーム世界における仮想現実×古典的な闘争劇だが、高密度の情報量は、サブカルチャーの経験値の豊かさによって鑑賞体験が大きく変わるだろう。

近年のハリウッド映画は、中国の市場を意識し、日本人よりも中国人がはるかに大きな存在感をもつが、『パシフィック・リム』でも、人型巨大兵器イェーガーの無人化と量産体制では中国の企業が登場し、『レディ・プレイヤー1』でも映画版では中国人の少年が主要なメンバーのひとりだった。とはいえ、『パシフィック・リム』の終盤は、怪獣が日本に集結し、富士山に向かう。俳優の布陣からは日本人のプレゼンスが後退したが、聖地として描くことで、怪獣を生みだした日本へのリスペクトにも配慮していた。怪獣やロボットなど、オタク文化は戦後日本のサブカルチャーが築きあげたものであり、21世紀を迎え、グローバルなマーケットにおいて再活用されている。一方、日本政府が掲げる官製のクール・ジャパンは、クリエイターを置いてけぼりにして、目先のイベントだけに執心しているようだが、はたして十年後、数十年後の未来に何を残すことができるのか。

2018/04/23(月)(五十嵐太郎)

《障害の家》プロジェクト

京島長屋[東京都]

東京スカイツリーがどこからでもよく見える墨田区の一角を訪れ、大崎晴地による《障害の家》プロジェクトを見学した。2015年のアサヒアートスクエアの展示において、建築家とともに提唱していたものである。今回の展示では、関東大震災後につくられた老朽化した長屋が並ぶ街区において、2つの会場が用意された。いずれも解体予定の2階建ての建物だが、外観は手を加えず、その内部を徹底的に改造した。ひとつは水平の梁を残したまま、複層の斜めの床を新しく挿入し、上下の移動ができるように丸い穴があけられた。梯子や階段はない。斜めの床が接近する箇所の穴ゆえに、自らの腕の力を使い、身体能力を駆使して移動する。また下から見上げると、各層の円がすべて揃う視点も設けられている。

もうひとつは二軒長屋を仕切る中央の壁を抜くことで可視化される平面の対称性を生かしつつ、1階の天井(と2階の床)を外し、代わりにそれよりも低い天井と、以前の2階よりも高い床をつくり、3層の空間に変容させた。1階の天井と2階の床の間の本来、人が入らない空間が膨らんだとも言えるだろう。したがって、1階は立つことが不可能であり、はいつくばって動くしかない。また通常は隠された押し入れはむき出しとなり、両側の家を行き来するための空間となる。そして片側の新しい3階の床は瓦を敷き、その上部の屋根はスケルトンになっていた。

いわば既存の家屋に手を加えるリノベーションだが、建築と決定的に違うのは、役立つ機能に奉仕していないことだ。むろん、かつてバーナード・チュミは、プログラム論の文脈において不条理なリノベーションを提唱している。が、それはミスマッチであろうとも、何かの役割を想定していた。一方、《障害の家》は、使い方というよりも、訪問者の身体性に直接的に働きかけ、覚醒させることに賭けている。すなわち、バリアフリーではなく、バリアフルな家。荒川修作の建築的なプロジェクトを想起させるが、大崎はかつて彼をサポートしていたという。が、荒川がまっさらな新築をめざしていたのに対し、これは増改築である。それゆえ、日常的な空間の異化効果が加わっている。

第一会場


第一会場、二軒長屋を仕切る壁が抜かれて、対称性が可視化される




第一会場、上下の移動ができるようにあけられた穴



第二会場の1.5階

2018/04/22(日)(五十嵐太郎)

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