2018年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

さいたまトリエンナーレ2016

会期:2016/09/24~2016/12/11

さいたまトリエンナーレ[埼玉県]

◯◯トリエンナーレ(ビエンナーレ)が急増しているが見方がわからない。どうやっても、確保した時間内に展示のすべてを見きることはできない。映像作品が多いとなおさら、どこまで見たら見たことになるかわからない。ふと立ち止まったただの傍観者みたいにするほかないかとか、遠路はるばるやって来たのだから旅行客気分でいようかとか、いつまでもいわゆる「鑑賞者」の体裁を整えられず歯がゆい。とくに都市の場合、街中にすでに大量の情報が多層のレイヤーをなして存在しており、展示はそこに割り込む形になる。街にあふれるサインの方が刺激的で、アート鑑賞を気取るための静けさを獲得できない。都市にはレイヤーが多すぎるのだ。かたや、新潟や瀬戸内での展示は、レイヤーが乏しい。〈自然〉と〈人の営み〉と〈アート〉くらい。だから集中して見るし、結果として満足感が得られやすい。昨年、越後妻有アートトリエンナーレを大学生と見学旅行した際、ある学生が「スマホが繋がらなかったのが良かった」と言っていたのを思い出す。都市型のトリエンナーレはその点で不利だ。
さいたまトリエンナーレに行った。大宮区役所の岡田利規の展示、岩槻の旧民俗文化センター、武蔵浦和の旧部長公舎などを5時間くらいで巡った。都市型のトリエンナーレでしばしば起こる、会場エリアの地域性が反映されていないという批判には応答していて、どの作品もさいたまとその周辺を取り上げたものだった。岡田の作品は、役所職員のためのかつての厨房を劇場にし、かつてゴキブリやねずみの出た過去のその場の様子を台本化して役者が読み上げる、その様がカーテンをスクリーンにして映写された。あるいは岩槻ではアダム・マジャールが、駅のホームで電車を待つ人々を超低速の映像に収め展示した。「さいたま」を表象することは、越後妻有を表象するように「過疎」としてではないし、もちろん東京を表象するように「世界都市」としてでもない。同行したある学生が、この地域の特徴は「殺風景なところ」と称した。そう、まさに。行きの電車で見た高層マンションの群れ。「さいたまらしさ」とは、特徴のなさ、言い換えれば、日本の多くの街がそうであるような「のっぺらぼう」さなのだ。例えば、過疎地のトリエンナーレでは食が意外に重要なアイテムとなる。さいたまには食はあふれているが、ここでしか食べられないものは少ない(あるいは目に入りにくい)。とはいえ、多くの作家は「何か」を発見したくて掘り進む。その結果、縄文期に突き当たったのが高田安規子・政子《土地の記憶を辿って》。民家の障子などに、かつて住んでいただろう動物たちが描かれ、縄文期のこの場を想像させる。そうやって隠れたレイヤーを掘り起こす作業は確かにひとつのやり方だろう。でも、例えば縄文期というレイヤーは、さいたま以外のどの地域でも見出せるはずだ。
多数のレイヤーがありながら「のっぺらぼう」であるというさいたまのような地域の「地域アート」とは、過疎とも世界都市とも言い難い平均的な日本の暮らしを代表するものだし、その状況を批評すると結構興味深いものになりうるのではないか。けれども、市の事業としてある限り、どうしても「未来の発見!」のようなポジティヴなテーマを立てざるを得ず、結果「のっぺらぼう」というネガティヴな部分に向き合うことは難しくなる。しかし、ただの思いつきだが、あえて地元の悪口言い合うくらいのことをした方が、地元は盛り上がるかもしれない。本音を吐き出すことで、市民参加が促され、「未来の発見!」も進む、というものかもしれない。『翔んで埼玉』(魔夜峰央)の再ブームも記憶に新しい。そりゃあそんなことすれば、「ヘイトスピーチ?」との勘違いが起きたり、途端に騒がしい事態になることだろう。だからこそ秀逸な場のデザインが求められる。そういうところにアーティストの才が要請されるというものではないのかな。

2016/10/22(土)(木村覚)

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冨士山アネット『Attack On Dance』

会期:2016/10/20~2016/10/23

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

どうして自分はダンスを志すようになったのかを、10人のダンサーが次々あらわれて語るところから舞台ははじまった。とはいえ、この舞台での見所は、彼らのダンスではない。彼らの存在を通して、ダンスとは何か、ダンサーとは誰か、こうしたダンサーを生み出す社会とはどんな社会かを浮き彫りにする。そう、ダンサーが登場する前に「What is Dance ?」といった言葉が、狂言回し役の長谷川寧から口にされるように、今作はダンスの分野では珍しくコンセプチュアルな作品である。近年の長谷川の興味関心は、コンセプチュアルにダンスを探求するところに向かっているようで、今年2月には横浜で『DANCE HOLE』という出演者は観客のみという異色の作品を上演してもいる(フライヤーには「本作は出演者の居ないダンス公演」と銘打たれていた。そこでは観客は闇から聞こえてくる長谷川の指示通り動くことで、自ら踊り、踊りながら観客役もこなすこととなった。)。冨士山アネットといえば「ダンス的演劇(テアタータンツ)」と称し、ダンスの観客のみならず演劇の観客の心もつかむポップなセンスが定評を得てきたカンパニーである。いわゆるダンス作品を精力的に制作してきた長谷川が「What is Dance ?」と立ち止まっている。その問いがそのまま舞台になっている。10人のダンサーに長谷川は禁欲を求める。彼らが自分のダンスを踊るのは最後の5分くらいだ。そこに至るまでの間、彼らは、稽古日数や師匠の数、どれだけお金を積まれたらダンスをやめるかなどの質問に答えてゆく。客席からは、高額な衣装代を惜しまぬダンサーにため息が漏れたり、ダンスへの偏愛に笑いが起きたりする。彼らが各自のダンスを踊り終えると、スクリーンに「ダンスは世界を変えるのか?」との問いが映り、次に「世界はダンスを変えるのか?」に変わる。興味深かったのは、スポーツと比較しつつ、スポーツも無意味な運動だがダンスはもっと無意味ではないか、ダンスは社会的な意義がある運動なのだろうかと、長谷川が問いかけるところだ。ダンス中毒者たちが舞台に展示され、その生き様が露出される。彼ら(自分)は一体何者なのか?彼ら(自分)を生んだ社会とは?長谷川のやるせない思い、不安や戸惑いが伝わってくる。ダンスへの愛ゆえの疑いが舞台を推進させる。舞台上の人間の実存が取り上げられるということで言えば捩子ぴじんの『モチベーション代行』(2010-)と重ねたくなる。そう思うと、もっとダンサー一人ひとりのダンスへの愛憎を醜いまでに浮き彫りにしても良いような気もしてくる。社会科学的なエスノグラフィカルな方法を導入してもよいだろうし、あるいは、ダンス中毒者の物語としてもっとドラマ性を帯びた舞台にしても良いのかもしれない。ダンサーたちを社会的な現場に連れて行き、その場を彼らがどのようにダンスによって変えるのか、またその場によってダンサーがどう変貌するのかといったドキュメンタリーもあり得そうだ。本上演は、2015年2月の初演を経て、北京、サンパウロと上演を重ねた上でのものだという。確かに、このフォーマットは、いろいろな地域のいろいろなダンサーに登場してもらうことで異なる上演が生まれるという巧みなアイディアを含んでいる。そのフォーマットが、より研究的なものなり、あるいはダンサーという実存の物語としてよりドラマ的に深まっていくとしたら、と想像してしまった。こうした活動を続けて行った先で長谷川が見つけるものに期待してみたい。

関連レビュー

冨士山アネット『DANCE HOLE』:artscapeレビュー|木村覚

2016/10/20(木)(木村覚)

鈴木励滋所長『喫茶カプカプ』

喫茶カプカプ[神奈川県]

喫茶カプカプは横浜市旭区ひかりが丘にある。金曜日の午後13:30ごろ。ドアを開けると、奥に高齢の男性が一人。その隣の席の女性は白い猫のように、こちらに気づくとはにかみ、何かを小さい声でつぶやきながらいそいそと店の奥に消えた。
カプカプは障害のある方たちの作業所に併設された喫茶店で、介助スタッフがいるものの給仕は主に障害をもつ彼らに任されている。最初、スタッフの女性に席を促され座ると、注文を聞きに黄色い服の男性が現れる。注文を告げる。スタッフ女性の手が添い、注文表にチェックが入る。その間、ふわっとやわらかい時間が生まれる。白い服の白い肌の男性がゆっくりとやってきて、コーヒーとプリンを置いてくれる。そのゆっくりとした動作に、こちらの気持ちが沿ってゆき、木の葉の揺れを味わうみたいに、彼の所作を味わう。白い猫のような女性はコーヒーを淹れる担当だったのだろう。仕事が終わるとその場で独り言のような言葉をつぶやいている。その声は、まるくてちいさくて高くてかわいい。見回すと、作業所で作ったらしいアクセサリーやオブジェが店内にひしめいている。雑然としているのだが、全体のトーンがやわらかい。ことごとしくない。それでいて、こまかなしつらえがなされている。
所長の鈴木励滋さんは、アート、とくに演劇に精通している人物で、その彼曰く、この喫茶カプカプで起きていることは「演劇」であるそうだ。数日前に東京大学で行われた障害とアートをめぐるシンポジウム★1での、そうした発言が気になっての訪問。デリケートな場の細工があってのこの雰囲気なのではと、こちらのからだもゆったりしてくると、お客さんが次々現れ始め、いつの間にか、15席ほどが満席に近くなってきた。全員高齢者。通い慣れた感じでコーヒーを頼む。おしゃべりの輪がつながったり、ほどけたり、またつながったり。口に手を当てず咳をするおじいさんの無作法に、おばあさんたちが辟易したり。持参のおかしがくばられたり。そんな些細ないちいちが「演劇」としての「見どころ」に見えてくる。ひかりが丘団地は、他の多くの日本の団地がそうであるように猛烈な高齢化が進んでいるようで、そうした高齢住民と障害をもつ方たちとが、不思議と自然に混じり合っている。おじいさんが書類をもってやってきた。コピーを取りに来たそうだ。コピー機があるだけで、喫茶カプカプを訪れる導線もできる。あっちで「おかしを買うのに30分並んだ」話をしている。向こうでは嫌われたおじいさんが一人でコーヒーを啜る。店の奥では白い猫のような女性が高くまるい声でつぶやいている。元気の良いウエイトレスがコーヒーを配る。また奥では障害のある方同士のちょっとした諍いの声が漏れている。青年団の現代口語演劇みたいに、同時にあちこちで見逃せない出来事が起きている。その舞台のなかにちょこんと座って、波風立てないように「観客」を気取ることは叶わず、いただいたおかしを頬張り、隣のおばあさんとおしゃべりする。これが演劇だとしたら、相当に変わった、前衛的なそれだ。一時間後、席を立つまでの出来事は、たまたま起きたことのようだが決してそうではない。いちいちがこの場のしつらえによって引き起こされたものだ。コピー機しかり、雑然とした店内のものひとつひとつしかり。あるおばあさんは所長に「水だけ飲んで帰っていく人もいます。今度まかないのご飯食べに来てください」と言われたのがきっかけで通うようになったという。
純然たる観客はいない。むしろ、すべてが演者であるような空間。お客さんだけど単なるお客さんではない。給仕だけど単なる給仕ではない。劇場にいると観客として疎外されていると感じることがある。反対に、ここはすべてのひとを包摂しようとしている。所長の鈴木さんがここでの日々の出来事を演劇になぞらえていたとして、その真意は本人に伺う必要があるだろうけれど、それが演劇だと、単なる比喩ではなく演劇なのだと言うこと、そうやって既存の演劇概念を裏返して別の演劇もまた演劇であるとすること、淡々とその挑戦が行われていると感じた。「横浜市」と聞いてイメージする華々しい光が差し込んでいるとは言い難いひかりが丘で。

★1──シンポジウム「障害とアートの現在──異なりをともに生きる」(2016年10月9日、東京大学駒場キャンパス18号館ホール)

2016/10/14(金)(木村覚)

伊藤キム/フィジカルシアターカンパニーGERO『家族という名のゲーム』

会期:2016/10/01~2016/10/02

スパイラルホール[東京都]

伊藤キムの舞台という点では、予想通りの内容なのかもしれない。いまやほとんど使われなくなった名称である「コンテンポラリー・ダンス」の、日本における代表的な存在の一人が伊藤である。その特徴は日常性にある。今作では、その日常性が家庭の食卓という形であらわれている。四人の男女、彼らはときに父、母、娘、息子となる。散らばった日常の品々。それを手に取っては、その品物に関係ありそうでなさそうな言葉を口にする。日常性からつるっとすべり、はみ出る瞬間。ただし、それは日常に亀裂が走って真っ逆さまに落ちるといった事態というより(そうなれば舞踏になるかもしれない)、日常からずれて日常の重さから抜け落ちる瞬間なのだ。「回避」という言葉が浮かぶ。それは実に「伊藤キム」らしい。身体動作に起きるずれというよりは思考のずれにあえていえば伊藤キムのダンスはあり、それは「あれ、どうしてそうなるの?」といったずれの感覚として顕在化する。例えば小さな場面。着ぐるみを着た男に、女が不満を爆発させる(二人はつきあっているという設定でのこと)。爆発は増幅してゆく。着ぐるみに顔をうずめて女が話すほどにそうなる。そしてさらに彼女の声はくぐもる。その「ずれ」が「おかしい」という趣向なのだ。男は聞きとりにくいと愚痴をこぼす。女に対する男の愚痴は、観客の賛同が起こるというより、「不満」(内容)を「聞きとりにくい」(形式)にすり替える不誠実な態度として映る。日常性からの遊離が「空とぼけ」として起こるこの「ダンス」は、繰り返すが、舞踏のような非日常(異常なもの)との出会いを生むというよりも、「遊離してしまった自分」へと意識が向かうという意味で、ナルシスティックなものとなる。舞踏と比較する必要は必ずしもない。ただ、伊藤の行なう日常性とのナルシスティックな関わり方に、どんな価値をひとは見るのだろう。いかにも、これは日本の「コンテンポラリー・ダンス」だ。けれども、それでよいのか、という問いに現在の多くの日本のダンスは至っているのではなかったか。

2016/10/01(土)(木村覚)

立蔵葉子ほか『岸井戯曲を上演する。♯1』

会期:2016/09/24~2016/09/25

blanClass[神奈川県]

岸井大輔の戯曲を毎回一本選び、複数の上演者がそれを次々と上演する企画の第一弾(月一で1年続く予定)。取り上げられたのは「文(かきことば)」という短い作品。作品といっても叙述文で書かれたその内容は、口語文ではなく文語体で書かれた文でこそ戯曲は書かれるべきではないかとのメッセージ。さて、では「文(かきことば)」の言葉たちは台詞なのか、ト書きと解すべきものなのか、さもなければ、コンセプチュアルな仕掛けであり、ひとつのインストラクションと見るべきか。ジョン・ケージの『4分33秒』が楽譜というよりもプレイヤーへの指令であったように、これもひとつの指令か?ただ「これをしろ」と命じるわけではないので、頓知というか、禅問答というか、一個の解に収まらない問いであって、一種のゲームのごとき設えと見るべきか。観客は事前に戯曲を渡されている。だから、上演者のパフォーマンスは、観客には応答のゲームに映る?立蔵葉子は、「文(かきことば)」をそのまま戯曲として読んだ。読みながら、体がくねっと揺れたりする。揺れるルールがおそらくあって、そのルールには戯曲への応答が込められているのでは、と想像する。カゲヤマ気象台はパジャマ姿の二人が、ケンドリック・ラマーの曲「Alright」の英詞を自動翻訳にかけて出てきた日本語を読んだ。歌詞は書き言葉か? よく分からなかったが、パジャマの男がバグを含んだ自動翻訳の日本語を読みながら、役者が力を込めたり、抜いたりしているのは、どんな理屈からだろうとこの点にも謎が発生していた。ぼくには立蔵とカゲヤマ気象台の上演が戯曲への明確な応答に思えなかった。応答なのかもしれないが、どこにどう応答しているのかが判然としない。戯曲と上演が明確なポイントでつばぜり合いしているように感じられなかった。三組目の橋本匠はふんどし姿で、漢字の形をその由来について喋りながら漢字の形を体で表現する。これは(体が体現する)「文字を読む」という軸が明確で、身体を用いた上演とこの戯曲とが掛け合わされているのを感じられた。芳名帳に書かれた名前を悶絶ながら読み上げるシーンも印象的で、これによって戯曲と上演というレイヤーの上に、客席の人々というレイヤーが重ねられた。戯曲が上演に与える作用のみならず、演出が上演に与える作用もある。複数の上演者が連ねられることで、この日は演出に注目が集まった。とはいえ、うまく戯曲と上演がつばぜり合いしていないと(戯曲との連関が判然としない演出がなされていると)、お題への応答のゲームにならない。ゲームじゃなくても良い。良いけれども、ゲームの良さは誰が見てもどんな戦いがなされているかが分かることにあり、ゲーム化は観客の参加可能性を、民主化をもたらすだろう。その点の仕組みが気になった。次回以降の展開をフォローしたい。

2016/09/24(土)(木村覚)

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