2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

あうるすぽっと+大駱駝艦プロデュース『はだかの王様』

会期:2016/08/25~2016/08/28

あうるすぽっと[東京都]

アンデルセンの童話「皇帝の新しい服」をベースに、大駱駝艦の田村一行(振付・演出)が、夏休みに大人も子どもも楽しめる舞踏に挑んだ。多数のワークショップを小学校や中学校で行ない、子どもが出演する舞台『田村一行のとんずら』を作ってきた田村にとって、「子どもも楽しめる舞踏」という難題は、簡単ではないが克服できるものと映っただろう。驚きだったのは、いわゆる子どもっぽい演出はほとんどなかったこと、しかも、正攻法で攻めたという以上に、「はだか」というモチーフに「白塗り」という舞踏らしい特徴を重ねて見る批評的野心が垣間見えたことだ。冒頭で、舞台に現われた役者たちは肌を白く塗ってゆく。「これから舞踏がはじまるよ」と告げているようだ。お話は、衣服=見栄・虚飾を軸に進む。仕立て屋の作る「バカには見えない服」=「はだか」は、ここでは「舞踏家の白い肌」となる。ただし、そうなると、「虚栄の果てにはだかを新しい衣服と思い込む愚かな王様」が「舞踏」ということになってしまう。もとのお話と異なる点として、新しい衣服のための布は王様から仕立て屋に渡されていた。そうであるなら、王様は自らを騙すように自らにはだかの服を着せたのではないか? そう推測できる。しかし、なぜ? テーマは舞踏でありその虚構性ということなのか? そのあたりが難解に思えた。
ところで、王様がはだかであることを指摘するのは子どもだ。虚栄と知りつつ逃れられない大人に対し、子どもはそれが虚であると無邪気に告げる。大人にとって自らの愚かさを振り返るものだとして、では子どもはそんな「はだかの王様」のお話をどう読むのだろう。子どもにとってみればいつもの自分が舞台化されているわけだ。まさに、という場面があった。男たちが客席に現れて「お前たちのなかで◯◯(の内容を失念してしまった。失敬)出来る者はおらぬか」と語りかけるともなく客席に言葉を投げる。それが劇の言葉と介さずに「出来るよ!」と一人の男の子が客席から立って男たちの方に迫ってきた。第四の壁という演劇的お約束を意に介さない彼こそ「王様をはだかと呼んだ子ども」そのものだ。この子どもがその場でほとんどスルーされてしまったのは少し残念だった。こんなところを考えると「大人も子どもも楽しめる」とは難題だ。大人は嘘を楽しむ。子どもは嘘を暴きたがる。前者は劇の嘘を愛し、後者は劇の嘘を見抜く。劇の構築と解体。ここではその二つのベクトルが緊張を保って進まざるをえない。ぼくは解体する子どものエネルギーに加担したくなるが、舞台作品が解体の一途を辿ることは自己否定に陥ることになろう。ただし、この緊張に迫っている本作には、次へと向かう予兆があったと思うのだ。

2016/08/26(金)(木村覚)

鈴木ユキオほか「公共ホール現代ダンス活性化事業」

会期:2016/08/01~2016/08/03

東京芸術劇場[東京都]

上演作品だけが舞台芸術批評の対象ではないはずだ。例えば、ワークショップ(以下WS)というものがある。批評の埒外とされがちだが、作品の内在分析にとどまらず、作家の狙う芸術と社会との関係性を批評しようとする際、WSはその重要な1項目となるのではないか。WSは、アーティストの芸術観や思想が凝縮された形で、しかも、一般の参加者にも理解できるような仕方に整理された上で表現される場である。そもそも、上演作品は観客を受動的にするのに対して、WSは観客を能動的な参加者にする。その点で、WSには観客のあり方(もちろん、それに基づいた観客とアーティストの関係)を更新する可能性が秘められてはいないか。ぼくは今後、機会を見てWSを見学あるいは参加し(あるいはBONUSで企画し)、批評に試みてみようと思う。以下は、その最初の試みである。
「ダン活」の全体研修会(アーティストプレゼンテーション)を見てきた。「ダン活」とは一般財団法人地域創造による「公共ホール現代ダンス活性化事業」のことである。地域の公共ホールにダンス作家を派遣して、公演を行なったり、WSを行なったり、WSを経た後地域住民と公演を行なったりする活動である。この日は、派遣登録した6組の作家がプレゼンテーションし、客席側の公共ホールの関係者たちと実際に体を動かした。作家は、鈴木ユキオ、田畑真希、赤丸急上昇、東野祥子、田村一行、セレノグラフィカ。WSというものは「動かす/動かされる」という権力関係の発生する場である。ダンスは自由で生き生きとした表現の場と見られる一方、動きを支配する教師側と支配される生徒側とに分かれ、生徒側に自由はないということが起きる。学ぶとはそういうものだと言う者もいるだろうし、生徒とは嬉々としてそうした関係の渦中で学ぶ者だと言うこともできよう。体を動かすだけで十分に快楽がある。すると、作家の促しに答えるだけで満足は得られる。ただし、WSが単に受講者に与えるだけではなく、受講者とともに作るものとするなら、この状況は受講者を受け身にしすぎている。興味深かったのは、鈴木ユキオと田村一行という舞踏をルーツに持つ二人が、ともに「動かされる」自分を意識して欲しいと受講者に促していたことだ。受け身である(リアクションの状態)とはどういうことなのか。さらに興味深かったのは田村が、ひとを構成するのは多様なアクションに対するリアクションではないか、社会との多様な刺激への応答こそ自分であると言えるのではないかという趣旨の発言をしていたことだ。ダンスが社会へ貫通していることを示すこうした言葉こそ、ダンスの作家は発明しなければならないはずだ。

2016/08/02(火)(木村覚)

新聞家『帰る』

会期:2016/07/08~2016/07/10

NICA|Nihonbashi Institute of Contemporary Arts[東京都]

今作は「座る」作品だった。男女二人、向かい合わず、どちらも観客に顔を向けて座る。メロン(美術担当の川内理香子によって毎回異なる果物が用意されたという)が切られ、二人は食べながら話をする。対話というのではない。二人は交代で独り言のように話す。台詞は前回ほどではないけれども、耳に残りにくい。二人の言葉は、不安や、誠実さをめぐって、具体的には、傾いでしまったマンションとそこからの退去をめぐって紡がれている。言葉、その発話、食べること、座ること、また二人が横に並ぶこと。これらのどれもが等距離で並ぶ。「演劇」がしばしば演劇的身体の構築にその他のすべての要素を従属させてしまうのに比べると、新聞家の舞台はすべての要素が並立している。といいつつ、これはじゃあ「舞台」なのか。そもそも「演劇」なのかと問いたくもなってくる。観客は、ぼーっとしてくる。眠いわけではない。一般的な「演劇」のように一方向に収斂していない分、観客は集中力を求められ、いつか「苦い」ような顔になってしまう。(この状態をダンス史で形容するならば、イヴォンヌ・レイナーの「トリオA」みたいだと言ってみたくなる。レイナーはこの作品を観客に見ることの難しさに気づいてもらうために作ったという)換言すれば、いかに既存の演劇が「演劇」であることに縛られているかが新聞家を見ていると分かる。「ファッション・デザイナーではないひとが作る洋服」のように、洋服ではあるにはあるが「洋服らしさ」に縛られていない何かに身を包まれる。そんな風に、新聞家の演劇には「演劇」が引き算されている。この大胆なマイナスが、この作品を文学にも、朗唱にも、食事会にも、絵画にもする。ぼくにはこの作品は絵画的だった。果物を食べる男の肖像画と女の肖像画を二枚、50分かけて見続ける、そんな絵画的質を伴う鑑賞だった。ほとんど動かず座り続ける役者たち。目は自ずと凝視に変わり、細かい仕掛けに目を奪われる絵画鑑賞のよう。しかし、絵画が空間に質を閉じ込めたのに対してここでは質は時間のうちに閉じ込められている。要素の「並立」が生む、独自の演劇は、「演劇」よりもネット的情報需要に似ている。(この感じに似たものをあえて探すならば、core of bellsの「デトロイトテクノ人形」に似ている)多種類の情報ソースがどれもヒエラルキーなしに目や耳に飛び込んでくる状態。そこには「演劇的身体」に相当する「身体」は特にない。そんな「身体」を探そうとすると、途端に本作が「抜け殻」に思えてくる。抜け殻が初めて与える何か、それこそ新聞家が提示する演劇なのだ。アフタートークから類推するに、村社祐太朗はその「何か」に「愛」を見ているようだ。ヒエラルキーの支配を停止して初めて生じる見ること聞くこと。そこには対象への愛を生む余地がある。複雑で「モダン」な経路をくぐって実は愛へと達するのが新聞家なのだ。

2016/07/10(日)(木村覚)

大駱駝艦・天賦典式『パラダイス』

会期:2016/06/30~2016/07/03

世田谷パブリックシアター[東京都]

白を基調とした赤と緑の淡い色彩世界。「ゆるふわ」(信じられないかもしれないが、そんな女子向け形容詞が一番適切なのだった)の照明センスに、冒頭、驚かされる。「白」はダンサーたちの白塗り(本作のもう一つの基調は、男性のみならず女性ダンサーたちもほぼ全裸で白く塗られているところだった)とも反響する。舞踏らしからぬこの雰囲気が、大駱駝艦の今日的リアリティを強調している。20歳の観客があらかじめ情報に触れることなしに見たら、これはクレイジー・ホースと比べたくなる「奇怪なヌードショー」に映ることだろう。舞踏が積み重ねてきた歴史や伝統的側面を観客に反芻させるといった保守主義に一切与しない。だからこそのふわふわとした浮遊感。音楽になぞらえれば、その浮遊性はクラブ音楽的(テクノ音楽的)ということもできよう。短い動作をひたすら反復する。反復したら別の短い動作に変わる。起承転結のような展開は乏しく、「上げ」と「下げ」のみある。反復される短い動作は、GIFアニメのように淡々としている。そして、決してはみださない。ダンサーたちは、その鉄の掟のような「動作の反復」の奴隷である。はみださないのははみだせないからで、生物が遺伝子のプログラムに抗えないように、ダンサーたちは反復の連続というプログラム(振り付け)に抗えないようだ。タイトルの「パラダイス」とは、キリスト教的な背景を感じさせるもので、実際、知恵の実のごときリンゴをかじる場面も出てくる。パラダイスから追われても(そして自由を獲得しても)、人間の行なうことには限界があり、結局、遠く旅立ったようで、出発点に戻ってしまう。さて、大駱駝艦を見る際には、メタ的な物語から目をそらすことができないものであって、「ゆるふわ」な冒頭の色彩の下で、中心に直立する麿赤兒から放射線状に鎖が伸びてメンバーたちを縛っているさまは、このグループの師弟関係を連想させずにはいない。メンバーたちは鎖を外し、麿を置いて行く。ラストシーンでも、この「縛り」を「解く」場面が繰り返される。大駱駝艦ほど、若手と師匠が仲の良いグループは珍しい。それは単に師弟関係という以上に、世代の異なる者たちが共同で制作しているということでもあり、あらためて驚かされる。この仲の良さが、優しい「パラダイス」そのもののようでもある。

2016/07/01(金)(木村覚)

プレビュー:新聞家『帰る』

会期:2016/07/08~2016/07/11

NICA (Nihonbashi Institute of Contemporary Arts)[東京都]

昨年の1月から新聞家を見ている。作家の村社祐太朗のことは「モダニスト」と思っている。「方法意識が高い」といった程度の意味だが、その徹底ぶりはそんな大仰な呼び名をつい用いたくなるほど。役者が立ち、声を発し、やがて歩いて出て行くまでを、可能な限り「たまたまそうした」という程度の振る舞いにはならないよう村社は強く念じている。そう見える。とはいえ、張り詰めた舞台には、実は滑稽さがつきもの。「なぜ声が出るのか」への考察が深まると、声が出ることと出ないこととの間の薄皮一枚が気になってくる。薄いが皮には厚みがあって、そのありさまがほどかれると、ときに悶絶を禁じ得ぬほどおかしい。今回の上演に際してウェブ上で公開している「『帰る』に寄せて2 「単純化」」でも、そんな「薄皮」を村社は話題にしている。こういう些細すぎて、吹けば飛ぶような何かが人のうちにあるということを、そっと確認するように客に耳打ちしてくれるのが演劇というものならば、そしてその演劇に期待して、そう多くはないが、きちんと適度な数の人たちが客席を埋めるのならば、演劇には今日も存在意義があるように思う。あと、いつも会場を吟味して、美術の作家と共作して、毎度異なる方法上のチャレンジをちゃんとやっているのが素晴らしい。「演劇」をテンプレートとして全く捉えていない。だから見ていられるのだ。

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2016/06/13(月)(木村覚)

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