2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

村松卓矢『バカ』

会期:2016/12/15~2016/12/23

大駱駝艦・壺中天[東京都]

まさかのトランプ大統領選勝利はいうまでもなく、世の中「バカ」がまかり通っている。そんな中での村松の新作タイトルが『バカ』。舞踏はあえて「バカ」になることで舞踏家が世界の暗部を照らし出してきた。だから村松のタイトルは舞踏の正統的な自己表現とも言えるのだが、なにぶん、愚かしさが世界のあちこちで幅を利かせている状況で舞踏の「バカ」はどう機能しうるのかが気になる。最初は魚、次に動物と人間と、ダンサーたちは顔にマスクをつけて踊る。村松演じる老人は次に現れる金属の爪をつけた人間(→ロボット)に座を奪われる。なるほど「生命の神話」とでも言えそうな物語が、本作の流れを作ってゆく。ロボットの次は、鬼の形相の白髪の女が座を奪い、その女によって老人に似た赤子(村松)が出産される。村松は寝そべって、「バカ」「アホ」などと罵る声を浴び続ける。最後は、体をあげ満面の笑顔でその声を受け止める。「笑顔」と言ってみたが、なんとも言えない「全肯定」の表情なのだ。その表情は、単に「バカ」を批判することも、事も、単に「バカ」を利用して生きることも超えて、あるいはそれらを包摂して、人類のバカさ加減とともに生きることを表明しているかのようだった。こういう表現が舞踏ならばできる。舞踏は強いと思わずにはおれなかった。日本のダンスを牽引してきた室伏鴻も黒沢美香もいない世界で、まるで草っ原のようだと思うこともあるのだけれど、大駱駝艦の底力を感じる。淡々と地道に一歩一歩進んでいる彼らは、時代錯誤のように思われることもあるやもしれない(来年は結成45年を迎えるそうだ)が、むしろ時代とちゃんと一緒に生きているのだ。

2016/12/22(金)(木村覚)

南村千里『ノイズの海』

会期:2016/12/15~2016/12/18

あうるすぽっと[東京都]

オーセンティックな芸術家像とは相容れない人物が(たとえば非西洋人が、女性が、そして障害を持つ人が)芸術の場を更新するという美術史ならば周知の傾向と並べてみるほかに、本作のダンスを受け止める術はない。南村千里の新作は、もし「ろう者でもあるダンス・アーティスト」という前提なしに見たら、ライゾマティクスのハイクオリティな装置による刺激的なイメージに圧倒される分、ダンスとしては印象に薄いという感想しか残らなかったかもしれない。ただし、この前提こそ看過できぬものなのだ。とはいえ、そうである限り、既存の批評軸で評定しても意味がないような気がしてくる。否定であれ肯定であれかつてのダンス史と向き合いながら、そこにない何かを提示することが通常、作家に求められているものだとして、南村の振り付けには歴史への応答が希薄で(南村が学んだイギリスにおける何らかの流派への応答は行なわれているかもしれないが、私はそこに疎い)、それより何かもっと別のトライアルに挑戦しているように感じる。ただし、それがどんなポイントなのか、俄かにはわからない。客席に注意を向けると、手話の手に気づく。聞こえない人が客席に存在することを前提に、普通はダンス公演を作らない。その「普通」に慣れた体で、聞こえない人とともに見ている目の前の光景を判断してよいものかどうか戸惑う。とはいえ、舞台には音声も用いられており、健常者の聴覚が無視されているわけでもない。だが、強烈な振動を伴う大音量もあり、そこでは「聞く」のとは異なる視聴(つまり振動を感じること)が想定されていそうだ。それを、さて、聞こえない人はどう「聞く(感じる)」のだろうと、耳を塞いで見たりするが、想像が膨らむだけで実感はわかない。聞こえない人にも聞こえる人にも開かれた公演であるということは、誰にとっても感知し得ない空白が必ず残るということでもある。この批評し難さ、批評の疎外状態が、まず、何よりも本作を興味深いものにしている。直接の関連があるかないかはともかく、今後「2020」へ向けて、このようなコラボレーションが顕著になることだろう。そうした傾向がダンスを変えていくのか、一種の流行に過ぎないのか。どっちに転ぶのかは、ダンスの内容もさることながら、観客の多様性をどう生じさせ、それによって鑑賞の質をどう変容させていくかという視点にオルタナティヴなダンスの道筋を見るか否かにかかっていることだろう。

2016/12/15(木)(木村覚)

東京芸術祭2016 ワン・チョン『中年人』

会期:2016/11/18~2016/11/19

東京芸術劇場シアターウエスト[東京都]

めちゃめちゃ面白かった。出演者のオススメで観に行った東京芸術祭の一プログラム、アジア舞台芸術人材育成部門2016(のうちの国際共同制作ワークショップ上演会)のなかの一作。プロデューサーは宮城聰。「アジアの若い演劇人が出会う土俵(リング)」(宮城)に、アジアの若い演出家、役者、ダンサー、パフォーマーが集まり、クリエイションを展開するという企画。異なる国籍の演劇人が集まり、20分ほどの上演作品を作るのは、それだけで苦労を伴う活動だろう。けれども、異なる国籍の演劇人が集まれば自ずと面白い作品ができるなんてはずはなく、結局は個々の作家の力量にすべてはかかっている。その点で、ワン・チョンのチームは圧倒的だった。20分ほどの上演で行なうのはほぼひとつ、三人の男と一人の女がひたすらキスしまくるのだ。冒頭、男と男が道端でがんつけ合う。むき出しの感情が顔を近づける。一触即発!と思うと二人はキスしてしまう。「なに? これ!」の事態に観客は戸惑い、失笑。しかし、これは序曲。別の男二人が現れ、二人も友達の挨拶みたいにキスする。男と女も濃厚なキスを挨拶みたいにする。「キス」は演劇におけるありふれた仕草のひとつ。しかし、それは大抵「男女の宥和」や「クライマックス」「ハッピーエンド」の記号であって、キスそのものが取り上げられ、繰り返されることは珍しい。例外を探すなら、ピナ・バウシュのレパートリーにはありそうだ。それでいえば、かつて三浦大輔がほとんど「している」のではと思われる劇を作ったことも思い出す。性器を展示することよりも穏便な行為に思われるかもしれないが、「キス」は実際かなり効果的だ。男と男が、男と女が、おじさんと若者がむちゅむちゅやっていると、こちらの気持ちがムズムズしてくる。途中には、観客にキスの相手を求める場面があって、一人の巨体の男性が立候補したり、そればかりか、アフタートークの際には、演出家のチョンにキスしたいと舞台に上がる男性が出てきたりと、若干乱行的な状態に近づきもする。チャンが宗教家だったら、そうした社会的自制の解除を人心掌握に利用するのだろうが、これは演劇であり、架空の設定を用いて自分たちの生を振り返るという演劇らしい機能を十分に活かす作品だった。焦点はコミュニケーションにあった。コミュニケーションの微妙な軋轢や行き違いが、キスという手段のみで進められるとしたら? そもそも誰とでもキスする社会はユートピアか、デストピアか。始終爆笑しながら、観客はその架空の世界にのめり込む。最後に生きた犬が現れ、犬と人とのキスへと展開するとさらに大きな笑いに包まれた。「ジェンダー」のみならず人と動物にまでキスが拡大したわけだ。私たちはどこまでキスできるのか? これは比喩的で架空の(つまり演劇上の)問いではあるが、キスは私たちの肉体で行なう現実のものでもある。だから、私たちの現実に突きつけられた問いでもある。良い作品とはこういう作品だ。

2016/11/19(土)(木村覚)

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 篠田千明『ZOO』

会期:2016/11/11~2016/11/13

京都芸術センター講堂[京都府]

受付で荷物を預けると、会場となる講堂に入る。人工芝とその間には通路が。あちこちに棕櫚が置かれ、南国のムード? いや、ここは「動物園」なのだ。いわゆる客席はなく、観客は芝生にしゃがむか、立っているかすることになる。まずその空間に、めまいのような快楽を覚える。「動物園」は、いわゆる劇場と異なり、視線の誘導が単純な一方向ではない。観客はしばらくの間、あたりをうろうろし、自然を自由にぐるぐる回す。囲いにはヘッドマウントを付けた半裸の男が居る。男の見ている画像は近くのモニターが映し出している。パフォーマーはあと二人の女性。二人は床に寝そべり、自分の輪郭を床にトレースする。そんなところから、舞台は始まった。とはいえ、本物の動物園がそうであるように、物語の筋のようなものはない。観劇という形態が生き物の観察へと変換される。旭山動物園のペンギンの行進を模した、アナウンス音声も盛り込んでのシーンなどが設けられることで、オルタナティヴな演劇へと篠田は観客を導く。それは「人間を観察する」演劇であり、言い換えれば「人間を展示する」演劇だ。しかも、人間が人間を観察する/展示するという対等な次元を超えており、非人間が観察するための展示になっている。自ずとそれは人間じゃないものとして人間を展示することにもなる。例えば、エサが配られると、ヘッドマウントの男(前が見えない)に観客は餌付けを行なう。これまで演劇とは、人間が人間に向けて行なう何かであった。『ZOO』は、そういう「演劇」をやめてみるレッスンみたいなものだった。最後のシーン。薄暗闇で、三人が聞き取れない言語で会話をする。まるで、密林の山奥で文明以前の暮らしを覗くような体験。世界から取り残され、心もとない気持ちにさせられるのは、三人ではなく、観客のぼくたちだ。それはまるで宇宙から地球を見つめるような寂しさだ。『ZOO』は、そんな孤独な視点を展示した作品だった。

公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN

関連フォーカス

舞台芸術を支えるローカルな土壌と世界的同時代状況への批評性──KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN|高嶋慈:artscapeフォーカス

2016/11/11(金)(木村覚)

Chim↑Pom 「また明日も観てくれるかな?」

会期:2016/10/15~2016/10/31

歌舞伎町振興組合ビル[東京都]

昨今「地域アート」という言葉が躍っている。ただいろいろ見ていくと、都市型の芸術祭と過疎地型のそれでは様子が違う。都市型の特徴は過疎地型のように開催する土地への振り返りに乏しく、その代わりに国際性を謳いがちで、テーマは外から持ち込まれる。するとそれは、規模が大きいだけで一般の美術展とさほど変わらなくなる。過疎地型は最初から自分たちの「過疎」というネガティヴな問題を隠そうとはしない。けれども、都市型の場合、問題はいくつもあるのだろうが、内側の問題を開くよりも外から持ち込んだテーマでそれを覆ってしまいがちだ。それは、単にキュレーターや作家の想像力の欠如を指摘して済むものではなく、フェスティバル主催者である地域行政の思惑などが絡まり合った結果であり、それゆえに、その場のポテンシャルが十分引き出されぬまま、淡く虚ろな鑑賞体験しか残さない、という事態が起こる。けれども、都市には過疎地とは異なる見どころやパワーが潜んでいるはず。Chim↑Pomは活動の最初期からずっとそのパワーと向き合ってきた。本展は、歌舞伎町振興組合ビルを展示会場かつ展示作品とするプロジェクトで、オールナイトのイベントが2夜実施された。一種の「家プロジェクト」だけれど、都市型らしい騒々しさがあり、イベントでは窓を開け放して爆音で音楽を鳴らしたりしたそうだが、近くの交番からの中止要請はなかったそうだ。そもそも悪い場所だから、これくらいの悪さは悪さに入らない? そう考えると、あちこちでいかがわしく淫らなことが行われているとしても、つまらない干渉を互いにしないし、だからみなが個性的に街を闊歩している歌舞伎町は、日本には珍しく国際的な雰囲気を漂わせた寛容な世界なのだ。Chim↑Pomはそこで、五階建てのビルの各階の床を2メートル四方ほどくり抜き、吹き抜けを施すという乱暴さを発揮する。《性欲電気変換装置エロキテル5号機》、《SUPER RAT-Diorama Shinjuku-》など初期作品の発展型となる展示もあり、吹き抜けに映写される《BLACK OF DEATH》含め、Chim↑Pomはずっと都市のパワーと付き合ってきたんだよな、と再確認させられる。これは紛れもない地域アートであるはずだ。しかし、これはいわゆる「地域アート」ではない。「地域アート」では行政による介入は不可避であり、その結果、できないことばかりが増えていく。ぼくたちはそうやって自分たちの首を絞めている。Chim↑Pomが巧みなのは地域の当事者と直に接触するところで、そうすると通らないのものも通ってしまう。たまたま歌舞伎町振興組合の組合長と卯城竜太がカメラ越しにトークしている場面に出くわした。都市型芸術祭には、こういう当事者との直接的な接触があるようでないのだ。その場は、善悪を決めつけずに相手と付き合う歌舞伎町的流儀の話で盛り上がった。なるほど「善悪を決めつけない」場というものこそ、アートの場ではないか。
公式サイト:http://chimpomparty.com/

2016/10/26(水)(木村覚)

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