2019年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

小野祐次「Vice Versa - Les Tableaux 逆も真なり - 絵画頌」

会期:2018/12/12~2019/02/02

シュウゴアーツ[東京都]

教えられることの多い展示だった。1963年、福岡県生まれ、フランス在住の小野裕次のコンセプトは単純である。美術館等に展示された絵画作品を、わざわざ窓を開けてもらって自然光で照らし出し、大判カメラで正対して撮影する。そうすると、絵画の表面に当たった光によって、画家が描いた図像はほぼ消失し、キャンバスのマチエールやその上に塗られた絵具の層などが、額縁とともにくっきりと浮かび上がってくる。かつて画家たちがその絵を描いた時と同じ光の条件を追体験することで、まさにそれが絵画として生成していくプロセスが、リアルな物質感を伴って引き出されてくるといってもよい。

観客は小野の写真作品に、なんとも判然としないぼんやりとした像を見るわけだが、それがルーベンスやホルバインやフェルメールやモネの名画であることを知っていても知らなくても、その視覚的体験そのものが充分に面白く魅力的だ。「二次元の絵画を二次元の写真に還元する」というシンプルな行為によって、絵画がほんの数ミリほどの絵具の層が生み出すイリュージョンであることが暴かれるだけでなく、結果として、それがじつに豊かな想像力の広がりを生み出すことに驚きつつ感動した。光そのものを撮影の対象とする写真作品は、これまでもたくさん制作されてきたが、小野の試みは物質としての絵画を被写体とすることで、その可能性をさらに一段階、拡張・増幅したものといえるだろう。絵画に対するオマージュであると同時に、銀塩写真の表現力を褒め称える行為でもあるこの連作は、今後もさらなる厚みを持つシリーズに成長していくのではないだろうか。

2018/12/19(水)(飯沢耕太郎)

吉村芳生 超絶技巧を超えて

会期:2018/11/23~2019/01/20

東京ステーションギャラリー[東京都]

吉村芳生のまさに「超絶技巧」の極致というべき画業の数々を見ていて、思い起こしたのは高橋由一(1828~1894)のことである。

言うまでもなく、高橋由一は幕末から明治初期にかけての西洋画のパイオニアのひとりであり、日本の近代絵画の成立に決定的な役割を果たした。その由一にとって、写真と絵画との区別はほとんどなかったのではないだろうか。彼は、友人から借りた石版画があまりにもリアルであることに驚き、西洋画の習得を志すのだが、もしそれが写真であったとしても同じように反応したに違いない。由一は写真を下絵にした絵を何枚も描いているし、横山松三郎撮影の写真印画に油彩で着色を施している。つまり、由一の《鮭》や《なまり節》の油彩画は、まさに「写真よりも写真らしい絵画」をめざして描かれていたのではないだろうか。

吉村芳生の絵画作品にも同じことを感じる。「写真的なリアルさ」を極限まで肥大化させ、写真そのものをペンや色鉛筆で克明に写し取っていくことによって、写真と絵画の境界線は次第に溶け合い、写真でも絵画でもない奇妙な眺めが出現してくる。高橋由一の油彩画が、どれもリアルだが魔術的としか言いようのない物狂おしさを感じさせるように、吉村の巨大な花や新聞紙に描かれた自画像にもまた、写実を超えた“魂”が宿るようになる。高橋由一以来の写真と絵画の交流の歴史の成果が、吉村の画業に突然変異のように出現し、恐るべき厚みと密度で展開していくことに、何度も驚嘆の目を見張るしかなかった。

特に興味深く見たのは、1970年代後半~80年代に制作された「河原」「ROAD」「SCENE」などと題されたモノクロームの作品である。これらは白黒写真をグリッド状に区画し、その濃淡をそのまま引き写すことによって制作されたものだが、あたかも「アレ・ブレ・ボケ」のプリントのように見える。そのモチーフも佇まいも中平卓馬の『プロヴォーク』時代の作品とそっくりなこれらの作品を見ると、吉村がまさに同時代の空気感に鋭敏に反応していたことが伝わってくる。

2018/12/18(火)(飯沢耕太郎)

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明石瞳「流れ者図鑑」

会期:2018/12/11~2019/12/23

サードディストリクトギャラリー[東京都]

明石瞳は1980年、千葉県生まれ。2002年に東京ビジュアルアーツ写真学科を卒業し、2004年にリクルートが主催するガーディアン・ガーデン「第23回写真ひとつぼ展」でグランプリを受賞している。その後はあまり発表の機会を持つことがなく、今回のサードディストリクトギャラリーでの個展は、東京では13年ぶりになるという。

壁に横一列に並ぶモノクロームのプリントを見て、その変わりのなさに驚きとともに安心感を覚えた。明石は主に身の回りの人物たちにカメラを向け、彼らの呼吸を感じられるようなごく近い距離で、その身振りや表情に鋭敏に反応しつつ、衒いなくシャッターを切っていく。ヌードの写真が多いのは、性愛にかかわる場面の切実さ、テンションの高さに強く惹かれるものがあるからだろう。30歳代後半になり、東京から福岡に移り住むなど、彼女を取り巻く環境そのものは変わってきているが、写真との付き合い方には揺るぎないものがある。むしろ「流れ者」としての自分の生のあり方を全うする覚悟を決めた、明るい肯定感が会場全体に漂っていた。

切れば血が出るような生々しい身体性、他者との不器用な関係の持ち方にこだわり続けている写真家も、考えてみれば随分少なくなってきた。今や絶滅危惧種とでもいうべき、純血プライヴェート・フォトの可能性を、これから先も個展や写真集の形で、ぜひ体現し続けていってほしいものだ。

2018/12/17(月)(飯沢耕太郎)

澤田知子「影法師」

会期:2018/12/01~2019/12/28

MEM[東京都]

澤田知子の新作は映像作品である。東京・恵比寿のギャラリーMEMの会場では「影法師」と題する「4分31秒ループ」の作品が上映されていた。和紙のようなざらついた質感の白い平面に「影法師」がぼんやりとあらわれ、間をおいて少しずつ消えていく。シンプルな構成だが、さまざまな形の「影法師」があらわれては消えていく様には、観客のイマジネーションを刺激する奇妙な魅力が備わっていた。静止画像の写真作品では、その微妙な揺らぎが失われてしまうわけで、動画の映像作品にする必然性があったということだろう。

ところで、映し出される「影法師」の正体は澤田知子自身だと思うのだが、そのことはどこにも明示されていない。前作の「FACIAL SIGNATURE」(2015)から、澤田は「どうやって人は人を判断するのか」というテーマに取り組んでいるが、本作もその一環だという。たしかに、「影法師」はリアルな写真による描写よりも曖昧であり、不確定性が強まっている。その捉えどころのなさこそが、澤田が本作を制作した最大の理由だろう。結果的に、そのコンセプトが映像作品としてとてもうまく実現していた。

澤田の写真を通じての自己探求の営みも、もう20年以上続いている。そのあいだ、作品のクオリティをしっかりとキープし続けているのも驚くべきことだ。そろそろ、まとまった展示を見てみたいのだが、どこか名乗りをあげる会場はないのだろうか。

2018/12/13(木)(飯沢耕太郎)

題府基之「untitled(surround)」

会期:2018/12/02~2019/01/20

MISAKO & ROSEN[東京都]

題府基之は本作「untitled(surround)」からデジタルカメラで制作し始めた。多くの写真家にとってそうだが、デジタルカメラが「きれいに写り過ぎる」ことは、むしろ作品作りを難しくするようだ。題府はデジタルカメラの「ホワイトバランス」機能を逆用することで、その難題を切り抜けようとした。色味の設定をカメラまかせにすることで、画面全体が青みがかったり、逆に赤みが強まったりする。それとともに、フレーミングをわざと不安定にすることで、「崩れたバランス」を取り込もうとしている。結果的に、彼の新たな試みは、これまでとはやや違った雰囲気のシリーズとしてまとまった。

被写体そのものも、かなり違ってきている。これまでは部屋の中で撮影することが多かったが、今回は横浜市青葉区の実家の周辺を中心に、「郊外」の光景にカメラを向けている。本人のコメントによれば、「撮影エリアがホンマタカシと中平卓馬の中間」ということのようだ。だがエリアの問題だけでなく、縦位置に引き伸ばした、住宅や自販機やブロック塀など、身も蓋もない、そっけない眺めは、たしかにホンマや中平の写真を彷彿とさせるところがある。とはいえ、題府の「untitled(surround)」には、「いま」の空気感が確実に写り込んでおり、被写体の選択、配置もじつに的確だ。新たな「郊外写真」の可能性を感じさせるシリーズとして、成長していきそうな予感がする。

なお展覧会と同時期に、フランスの小説家、詩人のミシェル・ウェルベックと共作した写真文集『大型スーパー 11月(Hypermarché-November)』が「The Gould Collection Volume Three」としてパリと東京で発売された。題府の「Project Family」、「Still Life」、「untitled(surround)」の3シリーズから抜粋した写真と、ウェルベックの詩が合体している。写真とテキストとの絡みが絶妙で、見応え、読み応えのある本に仕上がっていた。

2018/12/13(木)(飯沢耕太郎)

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