artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

サントリー美術館新収蔵品 コレクターの眼 ヨーロッパ陶磁と世界のガラス

会期:2017/01/25~2017/03/12

サントリー美術館[東京都]

近年サントリー美術館に寄贈された2人のコレクターのコレクションを紹介する展覧会。ひとつは、野依利之氏によるヨーロッパの陶磁器で、もうひとつは故・辻清明氏による古代から近代にかけての世界のガラス器だ。
「ヨーロッパ陶磁」と聞いて筆者が想像していたのはマイセンやセーブルなどの高級磁器だったのだが、野依氏の寄贈品はマヨリカウェアやデルフトウェアなどの錫釉陶器が中心。展示を見て少々驚いたと同時に、日本でヨーロッパの錫釉陶器をまとめて見る機会はそうそうないので興奮する。展示でとても興味深いのは、意匠と技術の変遷。16世紀から17世紀のイタリア錫釉陶器にはヨーロッパ的な意匠や紋章が施されたものが多い。スペインの陶器にはイスラムの影響が色濃く見える。他方で、デザインの形式には中国磁器──とくに芙蓉手──が影響している。これがデルフトウェアになると器の形も、意匠も形式も中国磁器を模したものが中心になる。1602年に東インド会社を設立したオランダは、アジアとの貿易で大量の磁器を輸入するようになり、そのデザインを模した陶器がたくさんつくられたのだ。東洋磁器の模倣がより顕著になるのは17世紀半ば。中国の内乱でヨーロッパへの磁器輸入が途絶え、その代替品としての需要が増大したからだ。磁器の原材料であるカオリンが得られないため(知られていなかったため)製品はあくまでも陶器であったが、次第に素地は薄く、釉薬は白くなり、酸化コバルトで絵付けした上に透明釉を掛けた製品はかなりよく染付磁器を再現している。色絵磁器を模した製品もなかなかの出来である。ただし、野依氏のコレクションは置物、装飾陶器が中心なのでその質が高いということに留意しておく必要がある(デルフトの主要な製品は実用的で簡素な食器類だ)。寄贈品には他にエミール・ガレの陶器も(これも錫釉だ)。
ガラス器を寄贈した辻清明氏のコレクションは古代ローマからオリエント、中国、ヨーロッパ、日本の和ガラスにまで及ぶ。展示品を見ると、凝った造形よりもガラスという素材、質感に魅力を感じていたのではないかと思われる。
ヨーロッパ陶磁を寄贈した野依氏はガレやドームなどアール・ヌーボーのガラスを扱う美術商。ガラス器を寄贈した辻清明氏は陶芸家。ガラス商が陶磁を愛し、陶芸家がガラスを愛でたというのは、面白い。どちらのコレクションも見ていて幸せな気持ちになるのは、作品に対するコレクターの愛が見えるからだろうか。
なお、本展ではすべての作品の写真撮影が可能となっている。[新川徳彦]

2017/01/24(火)(SYNK)

イギリスからくり玩具展 ポール・スプーナーとイギリスオートマタの現在

会期:2016/12/03~2017/01/22

八王子市夢美術館[東京都]

ポール・スプーナー、マット・スミス、キース・ニューステッドらイギリス現代オートマタ作家の作品を紹介する展覧会。筆者が彼らの作品を最初に見たのは1996年。コヴェント・ガーデンのロンドン・トランスポート・ミュージアムを訪れた帰りのことだった。事前の知識もなく、たまたま同所にあった現代オートマタのミュージアムに入ったのだが、ユーモラスに動く小さなカラクリ人形の数々にたちまち魅了されてしまった。彼らの作品には日本を含めて世界中にファン、コレクターがいるそう。本展では株式会社モーレンが所蔵する約60点のオートマタ、スケッチ、関連作品などが出品されている。
ポール・スプーナーらイギリス現代オートマタ作品の魅力のひとつは機構の妙。一般にカラクリ人形はその機構を見せずに精巧な動きで人を驚かせることが多い。機構を見せる場合はそれがいかに複雑で精緻なものであるのかを誇示する。それに対して、スプーナーらの作品は内部機構や仕掛けを覆うことなくそのまま見せている。しかも、カムやクランクを用いたその仕組みはけっして複雑なものではなく比較的単純で分かりやすいのだ。2つめの魅力は動きの妙。単純な機構で複雑な動作をする……のではなく、じつは動き自体も比較的単純。単純なのにユーモラスで楽しい。クランクをひとつ回すだけでそうした動きが実現されていることに驚かされる。3つめはストーリー。単純な動きの中に込められた物語、社会風刺がなによりも彼らの作品の魅力だろう。たとえば「透明人間のベッド」(ポール・スプーナー&マット・スミス、1995)は、誰もいないベッドがグラグラ揺れるだけの作品なのだが、透明人間の男女のハネムーン・ベッドという設定。「スパゲッティを食べる男(オリジナル)」(同、1999)は、スパゲッティが満ちたバスタブに浸かった男がスパゲッティをフォークでひたすら口に運びつづける、飽食に対する警告をテーマにした作品。「玉の輿」(同、1992)は、工場経営者の御曹司が女工に求婚する場面。女工の前にひざまずいた御曹司が手にした箱にはダイヤモンドの指輪。それを見た女工は驚きで眼が飛び出す。ところが二人の下では高級品と安物の2つの棺桶がくるくると回っている。これはふたりの身分の差は墓場まで続くというイギリスの階級社会を風刺しているのだそうだ。
本展の展示構成は、このような作品の魅力を引き出すべく、よく工夫されている。ほとんどの作品はじっさいに動かすことができる(直接手で回すことはできないが、展示台正面のボタンを押すとクランクにベルトで連結されたモーターが回るしくみ)。キャプションを読めば英国流のウィット、風刺を学ぶことができる。また機構模型と解説パネルによってカラクリの仕組みを体験するコーナーが設けられているのもいい。小さな子供たちから老人まで、来場者の年齢層が幅広かったことも納得の展覧会だった。[新川徳彦]


展示風景

2017/01/18(水)(SYNK)

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デザインの解剖展 身近なものから世界を見る方法

会期:2016/10/14~2017/01/22

21_21 DESIGN SIGHT[東京都]

デザインの方法論ではない。デザインの解説でもない。「デザインの解剖」である。すなわちデザインの腑分けである。すなわち、外側から内側へと順々に商品を構成する部位を取り出し、一つひとつをデザイン的な視点から分析してゆく。そういう展覧会である。「解剖」の対象は、株式会社明治の5つの製品──きのこの山、明治ブルガリアヨーグルト、明治ミルクチョコレート、明治エッセルスーパーカップ、明治おいしい牛乳。「解剖」のフォーマットはほぼ共通。最初に商品とその市場、歴史の解説からはじまり、ネーミング、ロゴタイプ、商品コピー、イラストレーション等々、表面的に観察可能な要素を分析する。ここまではよくあるデザインの展覧会だ。しかし「デザインの解剖」が解剖たるゆえんは、それが表面的な観察にとどまらないところにある。視点は商品の皮膚の下、すなわちパッケージの素材、構造、内袋・内蓋へと進み、中身──チョコレートや牛乳、アイスクリームなどの製法、組成の分析に至る。とくに最後のそれは一般的な意味での「デザイナー」による仕事ではないが、菓子、加工食品において、かたち、味、舌触り、食感もまた入念に「デザイン」されていることが示される。広義の「デザイン」は視覚だけではなく五感すべてに訴えるものなのだ。
グラフィックデザイナー・佐藤卓の企画による「デザインの解剖」シリーズの最初の展覧会は2001年。銀座松屋7階デザインギャラリー1953で開催された「デザインの解剖①=ロッテ・キシリトールガム」だ(今回は大人の事情によりこの「解剖」は展示されていない)。以来、富士フイルムの「写ルンです」や「タカラ・リカちゃん」等々の「解剖」が行なわれてきた(こちらは展示されている)。また佐藤は武蔵野美術大学の客員教授として、カリキュラムに「デザインの解剖」を取り入れている(本展でもその成果が紹介されている)。「解剖」の対象が私たちに身近な大量生産品であることや、外から内へと分析を進める手法はシリーズを通して変わらない。担当者へのインタビューがなされている部分もあるが、基本的には外部からの目線で考察されている。
本展で取り上げられている商品はいずれもロングセラーブランド。5つのうち最も新しい商品「明治おいしい牛乳」でも発売は2002年で、若干のデザイン修正を経ながらすでに14年にわたって売られ続けている。それゆえ5つの商品はいずれもデザインとしても成功していると言ってよいと思われる。しかしながら、興味深いことにここではデザインの理由は分析されても、その評価には言及されていない。これを、良いデザインには理由がある、と読むこともできるかもしれないが、それは本展の本質ではないだろう。展覧会導入部の解説パネルの佐藤卓によるテキストによれば、本展の意図するところは「ものを通して世界を見る」ための「方法」であり「OS」なのだ(改めて展覧会のサブタイトルを見よ)。「商品を外側からとらえていくと、商品と社会との関係を広くとらえること」ができ、「商品開発の歴史的な経緯、社会や市場の中での位置づけ、不特定多数の人々の嗜好、そして販売される国の言語や文化がなんらかの形で反映されていることが浮かび上が」る。ひとつの商品が世の中に出て行くまでにいったいどれほど多くの制約、要求を乗り越えていかなければならないのか。売られ続けていくなかでどのような変化が生じているのか。そうした制約や変化は、商品やパッケージ、それらの原材料を取り巻く環境、社会の変化、技術の変化にどれほど深く関わっているのか。作家性が強いデザイナーの仕事ではなく(もちろんデザイナー自身、時代と社会の産物ではあるが)、多くの人々がそれがデザインされているということを意識しないようなありふれた商品に焦点を当てて詳細に分析することによって、私たちは社会をより深く知ることができるのではないか。「解剖」のプロセスを順に追ったあとで、こんどは展示を逆順に見ていくと、本展がデザインを見せる展覧会であると同時に、「世界を見る方法」を「デザイン」したものであることがよく分かるだろう。[新川徳彦]

2017/01/16(月)(SYNK)

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董其昌とその時代─明末清初の連綿趣味─

[東京都]

会期: 2017/01/02~2017/02/26  東京国立博物館
会期: 2017/01/04~2017/03/05  台東区立書道博物館

14回目となる東京国立博物館と台東区立書道博物館の連携企画は、明時代に文人として活躍した董其昌(1555~1636)の書画の特集。董其昌は書においてははじめ唐の顔真卿を学び、王羲之ら魏晋の書にさかのぼった。画においては元末四大家から五代宋初の董源にさかのぼり、宋や元の書家の作風を渉猟。文人画の伝統を継承しつつものちに奇想派と呼ばれることになる画家たちの作品の先駆けとなる急進的な描法による作例も残した。董其昌が生きた時代は明王朝から清王朝への移行期。清の康煕帝と乾隆帝が董其昌の書画を愛好したことで、その影響は大きく、その理論と作風は江戸期の日本の書画にも反映されているという。展示は東博会場と書道博物館会場でそれぞれ董其昌前夜から同時代、日本を含む後世への影響までを国内所蔵作品により6つの章で紹介している。出展作品の中でとくに興味深く見たのは、「行草書羅漢賛等書巻(東博会場)」、「臨懐素自叙帖巻(書道博物館会場)」。いずれも唐代の書家・張旭、懐素らがはじめた狂草とよばれる、草書をさらに崩した書だ。
董其昌には書画に関する優れた鑑識眼を持ち、後代にまで影響を与える作品を残した書家としての評価がある一方で、人物的には大いに問題があったようだ。35歳で科挙に及第した董其昌は10年後にいったん官職を辞しているが、その後官職への復帰と辞職をくりかえすなかで権力を濫用し、高利貸しなどによって蓄財、それを広大な邸宅の建築、書画の蒐集や趣味に費やし、美しい女性たちに囲まれて暮らした。本展図録のコラム「画禅室余話─董其昌の光と闇─」では、董其昌の人物面について、こうした興味深いエピソードがいくつか紹介されている。[新川徳彦]


2017/01/10(火)(SYNK)

世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画

会期:2016/11/16~2017/01/09

サントリー美術館[東京都]

「秋田藩士が中心に描いた阿蘭陀風の絵画」ゆえに「秋田蘭画」とよばれる作品の、中心的な描き手であった小田野直武(1749~1780)と、第8代秋田藩主・佐竹曙山(1748~1785)、角館城代・佐竹義躬(1749~1800)らの業績を辿る展覧会。秋田蘭画の特徴は、西洋画のような影や細部の描写、近景と遠景の対比、遠景においては銅版画のようなタッチで、代表的な作品は小田野直武「不忍池図」。和洋折衷の不思議な印象の作品だ。「不忍池図」は知っていたが、恥ずかしながら、『解体新書』の図を描いたのがこの小田野直武であるということを本展で初めて知った。鉱山調査で秋田藩を訪れた平賀源内と知り合った直武が江戸に上り、源内のネットワークを通じて蘭学者と出会い、『解体新書』の表紙、挿画を手がけることになったのだという。
直武が江戸に上ったのは安永2年(1773年)末。理由は不明だが、帰藩を命じられたのが安永8年(1779年)。翌安永9年(1780年)に直武は32歳で亡くなっている。源内も同じ年に獄死。佐竹曙山も程なく亡くなり、秋田蘭画創始に関わった人物が相次いで世を去ったことになる。秋田蘭画が再び光が当てられるようになったのは20世紀以降。秋田出身の日本画家・平福百穂によって「再発見」された。「秋田」という文脈で評価されたこともあって、直武、曙山らの死によって秋田蘭画の系譜は途絶えたとされる。しかし本展第5章「秋田蘭画の行方」でもその後継者として司馬江漢(1747~1818)が挙げられているように、直武、曙山の洋風画は江戸で江漢に継承され、江漢は亜欧堂田善(1748~1822)に影響している。直武が洋風画を描いたのは江戸に上がってからのことであり、直武の主、佐竹曙山は18歳まで江戸藩邸で暮らしている。直武に洋風画を教えた源内はもちろん江戸の人だ。「武士と印刷展」(印刷博物館、2016/10/22~2017/1/15)で諸藩主の印刷事業の多くが江戸で行なわれていたとあったが、「秋田蘭画」もまた江戸の武士の文化の上に成立したと考えられようか。直武らの作品には日本画の顔料の上にアラビアゴムを塗るなどして油彩画を模す試みがあるという。直武、曙山、義躬は、江漢、田善とほぼ同年代だ。直武らがもっと長く生きて油絵の具を手にしていたら、江漢同様に油彩画や銅版画を手がけたであろうか。そうであれば日本美術史もまた異なる展開をしただろうかと想像する。[新川徳彦]

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2017/01/09(月)(SYNK)

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