artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

Jewyo Rhii「Of Hundred Carts and On」

会期:2023/08/31~2023/10/27

Barakat Contemporary[韓国、ソウル]

会場に入ると単管で組まれた大きなラックにキャンバスから剥がされたと思われる油彩の画布やキャンバスが吊り下げられている。ペインティングを見ていると、そのうちの1枚である白い木製のパネルには「Dear My Love - anticapitalism」で始まる手紙調の文面があった。

「どうしてる?」から始まって、行くあてもない二者が寒い冬の日に別れざるをえなかった状況が綴られている。でも、ずっとあなたのことを考えていて、きっとあなたも同じだということに賭けると。二者とも仕事も見つけられないけど、また絵を描き始めたこと。また漢江で会いましょう。だれにも邪魔されず、あなたに温かく心地よい寝床を用意すると。


会場写真[筆者撮影]


1階にはほかにもクリップでドローイングなど紙片を留めて吊り下げることができるラックや、ガラスの運搬やペンティングの運搬に使われるような台車もあった。台車にあった作品のひとつには「アーティストになってごめんなさい」と書かれていた。

地下に降りると巨大な金属製のラックや運搬用の巨大な木枠(クレート)がいくつも積み重なり、そびえ立っていた。ガラスのオブジェ、大きなポールを立てるための土台のようなもの、版木に見えるもの……あらゆるものがエアキャップなどで梱包されている。これらはすべてひとりの作家によって制作されたものなのだろうか。


会場写真[筆者撮影]


会場写真[筆者撮影]


本展は1971年生まれのイ・ジュヨの代表作である映像インスタレーションとしての《Love your depot》(2019-)を中心としたものだ。本作はまた、プロジェクトでもある。手紙で示唆されてる二者というのは、作家と作品。

行くあても貰い手(就職)もない作家と作品は、どれだけ愛し合っていても、ずっと一緒にはいられなかった。そこで展開したのが本作だ。漢江沿いに巨大な倉庫を構え、あらゆるアーティストが自身の作品を理解し、それぞれの作品の運命を決定するのに十分な猶予を与え、芸術作品に対する判断を保留することを可能にする機関として「Love your depot」をつくり上げたのだ。そこに収蔵された作品はプロジェクトのリサーチ対象となり、「Love your depot」のウェブサイトではたびたびその作品や作家についてのトーク動画がアーカイブされている。本展にある作品は、ジュヨによって制作されたものだけでなく、そのプロジェクトに寄せられた、判断保留状態の作品たちなのである。

本作品の特徴を挙げるならば、この判断保留という態度だろう。保留はそのときのマジョリティにのみ寄与することがあるという点で避けられるべき局面もあるが、本プロジェクトでは平等が徹底されることによって、既存市場の破壊行為につながっている。しかし、それは作品が選定された結果ではない。例えば、展覧会に向けて作品をつくった後、その作品が誰かに購入されたり、引き取られたり、自身の所有するスペースが存在しなければ、その作品は破棄せざるをえない。そんな刹那的な判断条件、すなわちその瞬間だけの商品価値、資本力だけに依拠し、作品は失われている。このプロジェクトと収蔵された作品たちは、おそらく、これから何らかの傾向を伴いながらも、それ以前に瞬間的な価値に基づいて残ってきた、過去それまですべての作品の偏りを照らし出すことになるのだろう。

本展は無料で観覧可能でした。


Jewyo Rhii「Of Hundred Carts and On」:https://barakatcontemporary.com/exhibitions/37-jewyo-rhii-of-hundred-carts-and-on/

2023/10/10(火)(きりとりめでる)

激動の時代 幕末明治の絵師たち

会期:2023/10/11~2023/12/03

サントリー美術館[東京都]

「十九世紀の江戸では、浮世絵をはじめ、狩野派や南蘋派、文人画など多彩な作品が描かれ、まさに百花繚乱の様相をみせていました」

カタログの第1章冒頭の一節だ。「浮世絵」「狩野派」「南蘋派」「文人画」と、当時の絵画の分け方はジャンル別だったり流派別だったり、基準が統一されていないことがわかる。それが明治になると「日本画」「洋画」「版画」などに分類され、全体で「絵画」として括られ、さらに彫刻を(のちに工芸も)含めて「美術」としての体裁が整えられていく。そうなると確かに西洋風にスッキリはするのだが、そこで抜け落ちてしまった猥雑で混沌とした表現や分類不可能な折衷様式は、いま見るととても新鮮に映るだけでなく、これからの美術を考えるうえでも大きな示唆を与えてくれるように思えるのだ。

そんな幕末・維新の激動の時代につくられた異色の絵画展だから、おもしろくないわけがない。まず登場するのが、狩野一信の《五百羅漢図》(1854-1863)計100幅のうちの6幅。狩野派の画法に則りつつ、個性的すぎる五百羅漢たちが餓鬼や畜生らとともに濃密に描写される。極彩色の衣装に西洋的な陰影が施され、いったいいつの時代の、どこの国の絵なのかわからなくなる。若冲の《動植綵絵》(1757)にも匹敵する空前絶後の大連作だと思うのだが、国宝はおろか重文にも指定されていないのはなぜだろう(芝増上寺の所蔵で、港区有形文化財には指定されているけど)。

狩野了承の《二十六夜待図》(江戸時代、19世紀)は、左上に出る月が阿弥陀・観音・勢至(菩薩)の三尊として描かれ、海を挟んで下方の家々に明かりの灯る表現が斬新で美しい。《五百羅漢図》の第49幅・第50幅といい、ここには出ていないが葛飾応為の《吉原格子先之図》(1816-1860)といい、この時代にはしばしば夜の風景が描かれていた。テネブリズム(夜景表現)は西洋だけのものではなかったのだ。安田雷洲の《赤穂義士報讐図》(江戸時代、19世紀)も闇夜の出来事を表わしたもの。赤穂浪士が吉良上野介の首を討ち取った場面を洋風に描いているが、これはオランダの聖書の「羊飼いの礼拝」の挿絵に基づいており、幼児イエスを吉良の首に、それを抱える聖母マリアを大石内蔵助に変えているのだ。バチ当たりな翻案。

雷洲はほかにも多くの洋風画や銅版画が出ていて、前後期合わせて28件の出品点数は最多。なかでも《江戸近国風景》(江戸時代、19世紀)や《東海道五十三駅》(1844)は、銅版と木版の違いがあるとはいえ、北斎や広重の風景画よりはるかに写実的だ。きわめつきは、信州の善光寺地震を主題とした《丁未地震》(1847)で、崩れる家屋や逃げまとう群衆の姿が真に迫っている。モノクロでサイズが小さいのが難点だが、江戸のカタストロフィ絵画としては異例のリアリズム表現といっていい。ところがカタログを見ると、その8年後に起きた安政江戸地震を伝える《武江地震》(1855)も、題や日付をちょこっと変えただけで同じ版を使い回しているのだ。このいいかげんさ、おおらかさがなんともいえない。

浮世絵もこの時代、大きく進展した。浮世絵というと江戸の大衆芸術と思いがちだが、実のところ幕末維新に大きな発展を遂げ、明治期には部数もはるかにたくさん出たはず。役者絵、美人画、名所絵に加え、激動の時代を伝えるジャーナリスティックな浮世絵や、世相を反映して妖怪画、残酷絵なども登場した。開港後の横浜の商館内部を表わした五雲亭貞秀の《横浜異人商館座敷之図》(1861)、維新後の洋風建築を描いた二代歌川国輝の《第一大区京橋商店 煉瓦石繁栄図》(1873)、巨大怪魚の描写で知られる歌川国芳の《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》(c. 1851)など、枚挙にいとまがない。この時期、影をひそめたのは取り締まりが厳しくなった春画くらいか。

同展は幕末・維新期の絵画を扱っているとはいえ、高橋由一や五姓田派の油彩画は出ていないし、日本画でも狩野芳崖や橋本雅邦らアカデミズム系は排除されている。それらはやはり「近代」に属するからで、ここではそれ以前の「激動の時代」ゆえのエキセントリックな表現や、大衆に支持されたグロテスクな表現にスポットを当てているのだ。これを日本のマニエリスムと呼んでみたい気もする。


激動の時代 幕末明治の絵師たち: https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2023_4

2023/10/10(火・祝)(内覧会)(村田真)

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パワーハウス博物館と現代建築群

[オーストラリア、シドニー]

シドニー中央駅の周辺からダーリングハーバーのエリアまでを散策した。ジャン・ヌーヴェルによる《ワン・セントラル・パーク》(2014)は、周りが中低層の街並みのなかで、印象的なデザインをもつ高層の建築なので、遠くからも目立つランドマークである。最大の特徴は、壁面の緑化と、大きな鏡面板を水平に張り出すことによって光を反射させ、低層の商業エリアの吹き抜けに差し込むことだ。なお、レベル4のフロアには、シドニー日本文化センター(国際交流基金)が入り、ギャラリーでは佐々木愛の個展「渡りの道しるべ」を開催していた。彼女の絵画群のほか、特徴とする砂糖細工のドローイングがガラス面に施されていた。


ジャン・ヌーヴェルによる《ワン・セントラル・パーク》(2014)


佐々木愛個展「渡りの道しるべ」


この建物の向かいはシドニー工科大学(UTS)のキャンパスであり、近くに興味深い建築が集中する。UTSビジネススクールの《ドクター・チャウ・チャック・ウィング棟》(2014)は、オーストラリアに存在するフランク・ゲーリーの唯一の作品だ。3Dプリンターの造形がそのまま巨大化したように層が重ねられたぐにゃぐにゃの外壁は、強烈なインパクトを与える。内部の階段も、まるで銀色のオブジェだった。もっとも、そこにいた学生は普通に使いこなしている。近年、日本の大学でも学生集めを意識し、デザインに力を入れた施設が増えているが、ここまで大胆な建築はない。


フランク・ゲーリーによる《ドクター・チャウ・チャック・ウィング棟》(2014)


そのすぐ先にあるのが、発電所を転用した《パワーハウス博物館》(1988)であり、とにかくデカい。ゆったりとした、さまざまな可能性に満ちた空間だが、さらに拡張を予定しているようだ。1879年のシドニー万博に由来するコレクションを所蔵し、古今東西の工芸やデザインのほか、機関車、飛行機、宇宙探査などの乗り物もそのまま館内に展示している。また蒸気革命、科学の原理、未来のファッション、気候変動などのトピックも、常設展示の重要なテーマだった。そして企画展としては、シドニー・ワールド・プライド2023を記念する「ABSOLUTELY QUEER」展、ユキ・キハラの「PARADISE CAMP」展、さまざまな分野におけるドローイングの力を提示する「A LINE A WEB A WORLD」展を開催していた。


コレクション展より、乗り物展示のエリア(パワーハウス博物館)


コレクション展より、工芸デザインに関するセクション(パワーハウス博物館)


コレクション展より、蒸気機関に関するセクション(パワーハウス博物館)



ユキ・キハラ「PARADISE CAMP」展(パワーハウス博物館)


ここからダーリング・スクエアに足を運ぶと、以前、展覧会で模型を見たことがある円形プランの建築が視界に入る。隈研吾による《ダーリング・エクスチェンジ図書館》(2019)で、飲食店との複合施設だった。割り箸をぐるぐる巻きにしたように、木材を貼り付け、その一部が手前の公園にまで伸びていく外観は、確かにフォトジェニックだが、図書館の内部空間に特筆すべき点はなく、本当に木材を外皮の装飾として使うことに振り切っている。


隈研吾による《ダーリング・エクスチェンジ図書館》(2019)



パワーハウス博物館:https://powerhouse.com.au/

2023/10/06(金)(五十嵐太郎)

開館35周年記念 福田美蘭─美術って、なに?

会期:2023/09/23~2023/11/19

名古屋市美術館[愛知県]

安井賞を受賞した1989年の大作《緑の巨人》から、本展のために制作した5点の最新作まで、34年にわたる作品のなかから計56点を展示。新作を除いて出品作品の大半は見たことがあるので、これまでの軌跡を代表作で振り返る「還暦」記念展といっていいだろう(本人は嫌がるだろうけど)。作品は年代順ではなく、「福田美蘭のすがた」「名画─イメージのひろがり」「名画─視点をかえる」「時代をみる」というテーマ別に並んでいる。驚くのは、年を追うごとに磨きをかけてきているとはいえ、時代によってコンセプトも描画技術もそれほど変わりがないこと。裏返せば、20代のころからすでに完成の域に達していたということで、これじゃあ年代順に並べても意味がない。

福田の絵の特徴は、テーマがなんであれ現実の人物や風景を見て描くのではなく、写真やマンガや絵画などすでにある画像に基づいて制作すること。たとえば《ゼレンスキー大統領》(2022)は、当然ながら本人を前にして制作したのではなく、おそらく報道写真を見て描いたものだ。初期の《緑の巨人》のコメントに、「伝統的絵画からコミックまで、視覚による情報として誰でも知っている既存のイメージで作品をつくっていこうとした」とあるが、この姿勢はいまでも守られている。

ただし、写真や名画を丸写ししているわけではない。《ゴッホをもっとゴッホらしくするには》(2002)は、名画ならぬ贋作をより本物らしく描き直すというアクロバティックな試み。きっとゴッホ作品と贋作を見比べながらゴッホになりきって描いたに違いない。また、モナリザが寝そべっている《ポーズの途中に休憩するモデル》(2000)や、林のなかで裸の女性と着衣の紳士がくつろぐ《帽子を被った男性から見た草上の二人》(1992)は、パッと見なんだかわからないが、すぐにだれもが知っている名画を異なる視点から描き変えたものであることに気づく。この場合、福田はポーズするモデルを参照したかもれないが、それより《モナリザ》や《草上の昼食》を凝視し、3次元化し、絵のなかに入り込んでヴィジョンを得たことのほうが重要だ。

福田にとって「なにを描くか」「どのように描くか」といったことは重要だが、それより実は「どこまで描けるか」がいちばんの問題なのではないかとふと思う。アイデアが浮かんだとき、たいていそれは突拍子もないものだが、それを自分は絵にできるかどうか自問してみる。簡単に絵にできそうなアイデアだったら、ほかのだれかがすでにやっているかもしれないので採用せず、描くのが難しい、だれも思いつきそうにない、実現できそうにないアイデアこそ作品化しているのではないかと思うのだ。陳腐な言い方をすれば「不可能に挑戦」しているわけだが、なぜそんなことをするのかといえば、うまく描き上げたときの喜びに勝るものはないからだろう。一種の征服欲というか、高い山ほど登りたくなるように、うまい絵ほど描きたくなるみたいな。あくまで憶測にすぎないが。

もし福田にライバルがいるとすれば、それは最近になって登場したAIに違いない。「ゴッホの贋作をもっと本物らしく」とか「モナリザをその場で休憩させて」とか入力すれば、それなりの絵柄が出力されるだろう。もちろんそこにはマチエールがないし、描く楽しみも描き上げた喜びも得られないが。ほかにも、写楽の浮世絵をリアルに肉づけした《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》(1996)にしろ、ロシアの大統領をモディリアーニ風にアレンジした《プーチン大統領の肖像》(2023)にしろ、福田の絵の多くはAIの得意とするところ。その意味で、福田はAI絵画の先駆者ともいえるのだ。しかしAIが追いついてきた以上、これからはAIでは描けない、AIの追従を許さない絵画を目指すしかないだろう。


開館35周年記念 福田美蘭─美術って、なに?:https://static.chunichi.co.jp/chunichi/pages/event/fukudamiran


関連レビュー

福田美蘭展 千葉市美コレクション遊覧|村田真:artscapeレビュー(2021年11月01日号)
福田美蘭 展|村田真:artscapeレビュー(2013年08月15日号)

2023/10/06(金)(村田真)

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超老芸術展 -遅咲きのトップランナー大暴走!-

会期:2023/10/03~2023/10/08

グランシップ6階 展示ギャラリー[静岡県]

いま個展を絶賛開催中のデイヴィッド・ホックニーや横尾忠則は、半世紀以上にわたって華やかな第一線で活躍してきた「長老」芸術家だが、ここに集められた「超老」芸術家は、退職後に突然作品をつくり始めたり、何十年も人知れずコツコツと絵を描き続けてきた知られざる人たちだ。老後のアマチュア美術家ともいえるが、その熱量と方向性は趣味の域をはるかに超えてとんでもない境地に達している。サブタイトルにあるように、まさに「遅咲きのトップランナー大暴走!」なのだ。

清水信博(1950-)は障害者支援施設に入居後、テレビに映る女性のお尻を撮影して紙に描いている。といってもすべて着衣で、膝から後頭部までの後ろ姿だが、臀部は一様に丸くて大きい。「尻フェチ」か「マザコン」か。色彩も豊かで、数百枚も並ぶと圧巻。見原英男(1936-2023)は漁師や水産加工所で働き、70歳で退職後いきなりカツオの木彫りをつくり始めたという。その数300点以上。さすがにカツオを釣り、タタキをつくっていただけあって、かたちも色も正確だ。



清水信博 展示風景[筆者撮影]


ガタロ(1947-)は33歳から清掃員として働き始め、拾ってきたクレヨンなどで清掃道具や靴をスケッチするようになる。5年前から毎日描いているというしぼった雑巾の数百枚に及ぶ連作は感動的。岩崎祐司(1946-)は自転車店を経営しながら独学で木彫を始め、50歳からダジャレと木彫を融合させた「パロディ笑彫」をつくっている。太った人が横たわる彫刻には「マツコリラックス」、長髪の青年がスクーターに乗る姿には「リョーマの休日」、サイを背負い投げする像には「サイは投げられた」といったタイトルがつけられている。木彫技術はウマすぎずヘタすぎず、くだらないダジャレにピッタリ合っているのだ。



ガタロ 展示風景(すべて雑巾のドローイング!)[筆者撮影]


田中利夫(1941-)は、朝霞の米軍基地近くにあった実家に出入りする娼婦と米兵の記憶をもとに、10年前から朝霞の裏面史を紙芝居に描いて伝えてきた。紙芝居の絵はプリミティブながらコラージュなどの手法も使い、よくできている。小八重政弘(1954-)は、石材加工会社で働きながら拾い集めた石に人の顔を彫るようになった。退職するまでにつくった作品は約3,000点。笑い顔あり泣き顔あり、それが数百点も凝集するさまは不気味だ。



小八重政弘 展示風景[筆者撮影]


総勢22組、作品は計1,500点を超す。この「質より物量」「考える前に手を動かす」精神は、凡庸な日々を送るわれわれに揺さぶりをかける。会場にはやはりというか高齢者が多く、ずいぶん賑わっているなと思ったら、出品作家の何人かが自作の前で待ち構え、来場者を捕まえて解説しているのだ。もう話したくって仕方がないのだろう。こうした光景は功成り名を遂げた「長老」芸術家の展覧会では、オープニングでもない限り見られないことだ。


超老芸術展 ─遅咲きのトップランナー大暴走!─:https://artscouncil-shizuoka.jp/choroten

2023/10/06(金)(村田真)