artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ

会期:2023/10/06~2023/12/03

東京国立近代美術館[東京都]

展示を見ていて思ったのは、棟方志功は最初「わだばゴッホになる」といって油絵を始めたのに、なんで版画に転向してしまったのかということだ。初期の油絵(および疎開先の富山で描いた風景画)を見ると、続けていれば安井曽太郎や梅原龍三郎並みにはなっていたかもしれないと思う。だからといって版画に走ったのは失敗だった、とは思わない。なぜなら安井・梅原と肩を並べたところで世界には通用せず、しょせんドメスティックな洋画家に終わっていただろうから。ところが版画家としての棟方は、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞(1955)を、ヴェネツィア・ビエンナーレでは国際版画大賞(1956)を受賞し、世界の頂点を極めた。もっとも両ビエンナーレとも「版画部門」での受賞だが、それでも洋画家として国内に埋もれるよりはるかに大きな名誉を手にし、広く国際的に認められたのだ。

なぜ棟方は油絵を捨て、版画の道に進んだのか。思いつくまま理由を挙げてみると、まずこれは偏見かもしれないが、晴れた日が少なく色味に乏しい青森出身だから、単色もしくは少色の版画が向いていた説。でも子供のころから色鮮やかなねぶたに親しんでいたというから違うか。まあ、版画に転向してからは、ねぶたの力強い明快な線描表現から影響を受けたかもしれないが。また視力が弱かったので、油絵より目と画面の距離が近い版画を選んだ説。これは例の版面に目を近づけて一心不乱に彫る姿からの推察だ。

いま思いついたが、画面に絵具を塗る油絵はあまりに直接的すぎるので、頭を冷やすため彫りと摺りのプロセスが入る版画の間接性を求めた説。うなずけそうな気もするが、こじつけっぽい気もする。もっと単純に、版画のほうが性に合っていた説。もう少し詳しくいうと、油絵で公募展に落選し続けたころ、川上澄生の版画に出会い、眠っていた版画魂(?)が開眼した説。だんだん「メイキング・オブ・ムナカタ」の核心に近づいてきたぞ。でも実は、木版画のほうが画材も安いし、売りやすかったという経済的な事情説も考えられる。これがいちばん納得しやすいか。

ともあれ棟方は、版画を選んだことで唯一無二のスタイルを確立することができ、「世界のムナカタ」になったのであって、油絵では世界一はおろか日本一も難しかったに違いない。ま、結果論だけどね。ちなみに、東京国立近代美術館が棟方の個展を開くのは3回目で、これは横山大観や黒田清輝という近代日本の2大巨匠よりも多く、同館も「稀有な例」と認めている。おそらく版画なので作品数が多いのも理由かもしれない(贋作も多いといわれているけど)。今回は初期の代表的な連作《二菩薩釈迦十大弟子》(1939)をはじめ、青森県庁舎の壁面を飾った幅7メートル近い大作《花矢の柵》(1961)など約100点に加え、挿絵本なども展示。


生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ:https://www.munakata-shiko2023.jp


関連レビュー

わだばゴッホになる 世界の棟方志功|小吹隆文:artscapeレビュー(2017年02月01日号)

2023/10/05(木)(内覧会)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00066910.json s 10188397

高田冬彦「Cut Pieces」

会期:2023/09/09~2023/10/08

WAITINGROOM[東京都]

ホモエロティックな夢想とステレオタイプな男性性の解体。この二つは果たして両立し得るだろうか。これは欲望と倫理が両立し得るのかという問いでもある。三つの映像作品のインスタレーション的展示を中心に構成された高田冬彦の2年ぶりの新作個展「Cut Pieces」を見ながら、私はそんなことを考えていた。

会場に入ってまず目に入るのは《The Butterfly Dream》(2022)。タイトルが示唆するように「胡蝶の夢」をモチーフとする映像作品だ。木陰で昼寝をしている青年の夢に現われるのはしかし、ただの蝶ではなくハサミと一体化した蝶である。羽ばたきに合わせてチョキチョキと鳴るハサミが微睡む青年の周囲を舞い、衣服を切り刻んでいく。暴力的であるはずのその出来事は蝶のイメージによってか優雅にさえ見え、裂け目から覗く素肌と青年の寝息はエロティックだ。これが「胡蝶の夢」であるならば蝶は青年自身であり、そこではサディズムとマゾヒズムが自足し完璧な調和を描いていることになる。


《The Butterfly Dream》(2022)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]


だが、本当にそうだろうか。画面には時折、ハサミを持つ第三者の手が映り込み、ハサミの先端はたった一度だけだが青年の肌に触れて微かな跡を残す。その瞬間の不穏は、この映像を安全な夢想として眺めることを躊躇わせるに十分なものだ。画面から視線を外してふと横を見れば、そこには夢から抜け出てきたかのような蝶=ハサミの姿がある。《Butterfly Dream》で使われていた小道具が《Butterfly Scissors》(2022)というタイトルを付され展示されているのだ。しかし、夢の中では蝶として見られたその姿も、現実においてはハサミとしての存在感の方が優っている。不穏は夢から現実へと滲む。現実へと持ち出してはいけない妄想もあるのだ。その蝶=ハサミがアクリルケースで保護されていることに少しだけホッとする。


《Butterfly Scissors》(2022)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]


《Dangling Training》(2021)は白いウェアを着てテニスをしている男性の股間(しかし顔は映らない)にピンク色の照明が当たり、そこに男性器らしきシルエットが浮かび上がっているという映像作品。danglingは「ぶらぶらさせる」という意味の英単語で、その「ぶらぶら」と股間に広がるピンクの光とが合わさると、まるでピンクの蝶が羽ばたいているように見えなくもない。鑑賞者からするとどうしても股間に目が行ってしまうつくりになっているわけで、真面目に見ようとすればするほど馬鹿馬鹿しさが際立つ作品だ。美術作品としての映像に向けられる「真面目な」視線は、テニスプレイヤーの清潔かつストイックなイメージと股間の蝶の馬鹿馬鹿しさ、そして隠された男性器に向けられる(作家によって強制された)「性的な」視線の間で撹乱されることになる。


《Dangling Training》(2021)[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]


ところで、今回の展示では《Dangling Training》を映し出す3台のモニターの周囲に、いくつかのテニスボールが転がされていた。すでに《Butterfly Dream》と《Butterfly Scissors》によって蝶=ハサミのイメージを植え付けられていた私は、床に転がる玉を見て、股間に羽ばたく蝶=ハサミによる去勢のイメージを思い浮かべずにはいられなかった。


[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]


そんな妄想を裏づけるかのように、続く部屋に展示された《Cut Suits》(2023)のなかでは、ハサミを手にした6人の男たちが互いに互いのスーツを切り裂き合っている。しかもにこやかに。男たち自身による有害な、画一化された男らしさからの脱却。漂う親密さからは解放への悦びさえ感じられるようだ。股間の蝶から引き継がれたピンクを背景に戯れる男たち。その色彩はステレオタイプな男性性からの逸脱を表わしているようでも、性的欲望の発露を表わしているようでもある。


《Cut Suits》(2023)より


だが、男たちの営みが性的欲望に基づくものならば、画一化された男らしさからの脱却はおそらく成就することはない。脱却が完遂されてしまえば、お互いが性的欲望の対象となることはなくなってしまうからだ。あるいは、女を立ち入らせず、男たちが決して傷つくことのないその営みを、依然ホモソーシャルな戯れに過ぎないと批判することもできるだろう。欲望の対象として映像に映る男たちを見直してみれば、6人が6人とも細身で似たような体型をしていることにも気づかされる。その画一性からは、スーツを着た細身な男性へのフェティッシュな欲望の匂いを嗅ぎ取ることができるはずだ。実際、映像の最後に至ってもスーツは完全には剥ぎ取られないままである。しかも、展示空間において映像は延々と繰り返され、戯れが終わりを迎えることはない。映像が映し出されている支持体の周囲には、6人分にしてはあまりに多いスーツの残骸が山をつくっていた。スーツの残骸に囲まれた支持体は、終わりなきホモソーシャルを丸ごと葬る墓石であると同時に、フェティッシュな欲望を閉じ込めた永遠のユートピアでもあるのだ。


《Cut Suits》(2023)より


《Cut Suits》(2023)展示風景[撮影:山中慎太郎(Qsyum!)]



高田冬彦:https://fuyuhikotakata.com/
WAITINGROOM:https://waitingroom.jp/exhibitions/cut-pieces/


関連レビュー

高田冬彦「STORYTELLING」|木村覚:artscapeレビュー(2016年05月15日号)

2023/10/05(木)(山﨑健太)

ニュー・サウス・ウエルズ州立美術館

[オーストラリア、シドニー]

中国行きの予定が延期となり、確保していた日程を使い、シドニーを訪れた。15年ほど前、国際交流基金基金の企画展「Rapt!」(2006)のためメルボルンに向かう途中、トランジットで2時間くらい駆け足で回っただけの都市なので、一度はじっくりと滞在したいと考えていたからである。シドニーは、ハイドパークからロイヤル植物園まで、都心に緑地が連続的に展開されているが、その中間のあたりに 《ニュー・サウス・ウェルズ州立美術館》が建つ。


《ニュー・サウス・ウェルズ州立美術館》本館


本館は古典主義の外観をもち、ミケランジェロやレンブラントなど、外壁に偉大な芸術家や建築家の名前が刻まれる。いかにも美術館という王道のファサードだが、1911年に完成した後、1972年に北側のギャラリー、1987年にさらなる増築が行なわれており、内部に入ると、現代建築の空間が続く。常設のエリアでは、過去の絵画と現代のインスタレーションを同居させている。また奥のアジア美術のセクションには、日本の茶室が組み込まれていた。ほかにイラン人の写真家、ホダ・アフシャールの企画展や、ゲストによるコレクションの再構成が行なわれていた。


《ニュー・サウス・ウェルズ州立美術館》本館の常設展示室


常設展示室、アジア美術のセクション。ジティシュ・カラットによるガンジーの言葉を題材とした《Public Notice 2》(2007)


ホダー・アフシャールの企画展「A Curve is a Broken Line


本館と隣接して、昨年末にオープンしたのが、SANAAが設計した新館である。彼らは1990年代にもシドニーの現代美術館の新館を依頼されていたが、こちらは実現しなかった。しかし別のデザインになったものの、この《ニュー・サウス・ウェルズ州立美術館》新館は、文化開発を目指したシドニー・モダン・プロジェクトの一環として完成した。本館と比べると、作品は現代アートに特化し、SANAAが得意とする開放的なガラスの空間が多い。傾斜地のランドスケープと呼応しながら、さまざまな向きに振られた箱型のボリュームが、立体的に連鎖しつつ、配置されている。また異なる高さのレベルで、屋外のテラスや中庭に出ることができ、海や街並みの眺めも楽しめる。端的に言って、気持ちが良い空間の体験だった。なお、地下のオイルタンクのギャラリーは閉鎖中だっため、見学することができなかった。ちなみに、本館・新館ともに入場無料であり、誰もが自由に出入りできる。こうした意味では、SANAAが目指す公園のような建築に近い性格をもつ。その特徴を空間として巧みに引き出したのが、まさに新館のデザインである。


SANAA設計の《ニュー・サウス・ウェルズ州立美術館》新館



キムスージャ《Archive of mind》(2017)



ニュー・サウス・ウェルズ州立美術館:https://www.artgallery.nsw.gov.au/

2023/10/04(水)(五十嵐太郎)

菅野由美子展

会期:2023/09/19~2023/10/07

ギャルリー東京ユマニテ[東京都]

1980年代にニューウェイブのひとりとしてデビューして約40年。数年の中断を経て、「器」を描くようになってからも早20年近くが経つ。初めは身近なグラスや食器をひとつだけ、あるいは2つ3つ並べただけの、まるで17世紀スペインのボデゴン(厨房画)のような、素朴で静謐な静物画だった。2007年のコメントを見ると、「作為、意図、あるいは表現というようなものを極力排しながら、淡々と、普通に、ものがそこにあるさまを描きたい」と述べているように、もの派もニューウェイブも通過した後の普遍的な絵画表現を目指しているようにも映った。

ところが何年か描いているうちに、画面を極端に横長(または縦長)にしたり、背景を幾何学的に構成したり、遠近感を消したり、少しずつ表現に欲が表われてくる。ある意味初心を裏切っているようにも見えるが、しかし職人じゃあるまいし、5年も10年も同じモチーフを描き続けていればおのずと変化が訪れるもの。むしろ変化を受け入れないのは不自然だし、アーティストなら変化を恐れてはいけない。2年前の個展では、コロナ禍で会えなくなった友人たちからマグカップの画像を送ってもらい、それらを画面上で組み合わせて描くなど、彼女としては珍しく社会との接点を探ったりもしている。

そして今回、さらなる変化が見られた。ひとつの画面に同じ器がプロポーションを変えて何度も登場したり、同じ画面なのに器の影が右を向いたり左を向いたり、空間がねじれ、変容してきているのだ。たとえば《five_15》は、棚が大きく上段、中段、下段に分かれ、上の棚からそれぞれひとつ、4つ、8つの器が置かれている。ところが下段左の3つの器はサイズとプロポーションを変えて下段右と中段にも登場し、下段の右端のカップは幅が広がって上段に鎮座している。いや鎮座しているというより、パソコンのウィンドウのように嵌め込まれているといったほうがいいか。

《nine_1》は濃紺の地に9個の器が配されているが、縦長の画面にどれもほぼ同じ大きさで描かれているので遠近感がなく、左上の器だけ背景が黒いため影がなく宙に浮いているように見える。また、地が暗いのでわかりづらいが、ほかの器の影は右を向いたり左を向いたりてんでばらばら。要するに現実感が希薄化しているのだ。と思ったら、《two_28》のように、正方形の画面にふたつの器を奇を衒うことなくシンプルに描いた作品もある。さてこれからどのように変わっていくだろうか。



展示風景[写真提供:ギャルリー東京ユマニテ]


菅野由美子展:https://g-tokyohumanite.com/exhibitions/2023/0919.html


関連レビュー

菅野由美子展|村田真::artscapeレビュー(2021年11月01日号)
菅野由美子展|村田真::artscapeレビュー(2019年11月01日号)

2023/10/04(水)(村田真)

千葉奈穂子、アンティ・ユロネン、カイサ・ケラター「Dialogue With Land 土地との対話」

会期:2023/10/04~2023/10/15

工房親[東京都]

岩手県出身で、現在は山形県酒田市在住の千葉奈穂子は、2018年にフィンランドに滞在し、ラップランド地方を中心に撮影した。今回の工房親での展示では、そこで知り合った陶芸家、写真家のアンティ・ユロネン、アーティストで生物学者でもあるカイサ・ケラターとのコラボレーションを試みている。

千葉はこれまで、2019年に萬鉄五郎記念美術館八丁土蔵ギャラリーで開催した個展「父の家/Northern Lights」の出品作のように、古典技法のサイアノタイプ(青写真)を用いて、幼い頃の暮らしの記憶を甦らせ、封じ込めるような作品を発表してきた。それがフィンランド滞在を契機として、少しずつ変わり始めているように思う。被写体の細部までしっかりと描写したゼラチン・シルバープリントの黒白写真では、クローズアップや室内の情景を撮影した作品も含めて、より融通無碍なカメラワークを見ることができる。今回の展示には、東日本大震災後に継続して撮影している福島県南相馬市の写真が並んでいた。やはり南相馬市で撮影したアンティ・ユロネンの朽ち果てていく建築物の写真、ラップランドの神話的な記憶を再構築したテキストと写真とを合わせたカイサ・ケラターの作品とも相性がよく、東北とフィンランドという、似通ったところもある風土性が、互いに共振し合う時空間が形成されていた。

1990年代後半から続けてきた千葉の写真の仕事も、かなりの厚みを備えてきている。そろそろ写真集にまとめてほしいものだ。


工房親:https://www.kobochika.com/

2023/10/04(水)(飯沢耕太郎)