artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ

会期:2023/10/03~2024/01/28

国立西洋美術館[東京都]

キュビスムは20世紀の初めにピカソとブラックが始めた芸術運動で、セザンヌの形態の捉え方やアフリカの仮面彫刻などに触発され、世界を立体(キューブ)や円柱といった幾何学的形態に還元し、面の集まりとして再構築していくスタイルを確立。ルネサンス以来の一点透視図法を否定する多焦点的なものの見方を提示し、20世紀美術に革命を起こした。……くらいの知識しか持っていなかったので、この展覧会はとても刺激的だった。

展示の最初はやはりセザンヌから始まり、ゴーガン、ルソー、アフリカ彫刻へと続く。同展はタイトルの頭に「パリ ポンピドゥーセンター」とついているように、大半の作品は同センターからの借りものだが、最初のセザンヌ、ゴーガン、ルソーはポンピドゥーの守備範囲ではないため国内で調達したもの。キュビスムへの影響を見るなら、もっとふさわしいセザンヌやゴーガンの作品がありそうだけどね。続いてピカソ、ブラックらの初期キュビスム作品が並ぶ。当然ながらMoMA所蔵の《アヴィニョンの娘たち》(1907)は出ていないが、1907〜1908年に制作されたピカソの《女性の胸像》や、ブラックの《大きな裸婦》および「レスタック」連作は、セザンヌやアフリカ彫刻からキュビスムが形成される過程が見てとれる。

いちばんの見どころは、1909〜1911年のピカソによる《裸婦》《女性の胸像》《肘掛け椅子に座る女性》あたり。切り子ガラスのように人物や背景が幾何学的に分割され、キュビスムといえば思い浮かぶイメージそのものだ。これら人物画に対抗するかのように、1910〜1913年にブラックは《円卓》《ヴァイオリンのある静物》など一連の静物画を制作。これも直線によりモチーフや背景が分割されているが、なぜか水平線は右肩下がりだ。キュビスムは理知的、幾何学的ともいわれるが、こうした画家のクセが出てしまうところが人間臭い。この時期二人は影響を受け合ったのだろう、1914年のピカソの《ヴァイオリン》とブラックの《ギターを持つ男性》を比べると、素人ではどちらがどちらの作品か区別がつかない。

1910年を過ぎると、ピカソとブラックのほかにもキュビスムの影響を受けた画家たちが続々と登場してくる。レジェ、グリス、メッツァンジェ、ドローネー夫妻らだ。レジェとグリスはキュビスムの造形表現をさらに進化させ、メッツァンジェは多焦点的な表現の帰結として時間と動きを与え、ドローネーはモノクロームに近かった画面に豊かな色彩をもたらした。ここらへんは大作が多く、また色彩や形態が多様化しているので見応えがある。

もともとピカソとブラックはカーンワイラーという画商がついていたが、それ以外の画家はサロン・デ・ザンデパンダンやサロン・ドートンヌといった公募展を唯一の発表の場としていたため、前者を「ギャラリー・キュビスム」、後者を「サロン・キュビスム」と呼ぶらしい。ギャラリー・キュビストは発表の場が限られていたので社会的広がりをもてなかったが、サロン・キュビストのほうはサロンを舞台に集団で展示を行ない、運動としてのキュビスムを推進していく役割を果たした。こうしてキュビスムは芸術的にも社会的にも大きな広がりを持つようになった一方で、運動がポピュラー化し、拡大解釈されて「だれでもキュビスム」化していったように思えてならない。

さらにキュビスムはデュシャン3兄弟、クプカ、ブランクーシ、シャガール、モディリアーニらパリに集う外国人画家たち(のみならず彫刻家たち)、いわゆるエコール・ド・パリの連中にも感染。もはやパリの芸術家にとって、キュビスムは避けて通れないハシカのような流行性疾病となり、やがて免疫がついて血肉化され、そこから立体未来派や抽象が誕生し、近代美術史に組み込まれていく。というような進歩史観はもう古いのか。


パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ : https://cubisme.exhn.jp

2023/10/02(月)(内覧会)(村田真)

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FUKI COMMITTEE / 東京風紀委員会 個展「Re:Real」

会期:2023/09/09~2023/09/24

Night Out Gallery[東京都]

桜丘町から代官山を進むJRの沿線は、時たま店の前に「ここでの撮影禁止」といった手製の看板があるほどに、人の作為を掻き立てる場所なのは間違いない★1。そして、グラフィティやステッカーが密集しているというわけではないが、すっと目を引くぐらいには楽しめる場所でもある。例えばステッカーは、フェンスの柱、電柱、標識の柱、看板の裏と、一度目につくと点々と貼られているのをつい眺めてしまう。サインのタイプが多く、同一のステッカーがリズムを伴って連続的に貼られているものが主だっているなかに、ナイトアウトギャラリーで個展が開かれた東京風紀委員会(Fuki Committee/以下、FC)のステッカーがとんと貼られていた。FC(その存在は匿名的であり、コレクティブだと思われる)にとってのステッカーは中心的な制作物であり、アートウォッチャーのはむぞう曰く、新宿、秋葉原にも点在しているという★2。FCのSNSを見ると、貼ってある場所の動画像がたまにシェアされていた★3。FCの個展で作品を見たとき、どこかで見た気がする……と思っていたのだけど、定期的に歩いている街中の急な階段にそのステッカーがあったのだった。


渋谷区の路上 2023年11月の様子[筆者撮影]


ステッカーをはじめとして、FCのペインティングやオブジェの軸には「ウユ」がいる(いなければ、それは目下ウユの不在という意味になるだろう)。ステッカーでのウユは眉を吊り上げ、口元をきゅっとしばり、画面中央に向かって指を反り上げて指す。腰にある手は拳を握り、かなりの前傾姿勢。スカートははためき、ポニーテールの揺れからもこのポーズが瞬時の動作であることが強調されている。そしてその右側には「ダメよ。ゼッタイ。」と書かれている。

これは近野成美や松浦亜弥といった女性タレントが時に凛々しく、時に笑顔で呼びかけてきた麻薬・覚せい剤乱用防止センターによる薬物乱用未然防止活動のキャッチコピー「ダメ。ゼッタイ。」のパロディだ(2013年以降、タレントの起用はなくなった)。ポスター「ダメ。ゼッタイ。」の図像の多くは、爽やかにスポーツを行なう人物やそれに憧れる姿であり、「人のあるべき姿」を示した啓発的な偶像の生成だといえるだろう★4。それに対して「ダメよ。ゼッタイ。」は、もっと直にステッカーを見ているあなた自身にたったいま呼びかける。なにがダメかはわからないけれど。それゆえ、「ダメよ。ゼッタイ。」というフレーズは間違いなく薬物乱用未然防止活動に由来するものだが、どちらかといえば犯罪抑止のための「にらむ目」「見張りステッカー」の系譜にある。もっとも有名なもののひとつは隈取をした歌舞伎役者が見得を切っている図像で「見てるぞ」と添えられたものだ。イラストレーターのオギリサマホによる「見てるぞ」ステッカー探求の記事が指摘する通り★5、「目」をトリガーに他者の存在に思い至らせるという構造のポスターやステッカーは多岐にわたる。しかし、その本意は「ここは監視されている」「ケアされている」「侵犯してはいけない領域だ」と伝えることにある。ただ、こういったメッセージを伝えたいなら重要なのは、貼られている場所の適切さだろう。不法投棄や万引きが起こりそうな場所の入口やここぞという死角。なんらかの人や集団のステイトメントであるということによって、その目は誰かの生きた目を代理することができるようになるのだ。

ではウユの目は何を代理するのか。というのは、「ウユ」とはそもそも、詐欺や賭博といった犯罪を遂行するための見張りをする者(ダチ)という意味をもつ。いままでの話に犯罪の幇助者という意味を加味すると、FCのウユとは何なのか。

本展は複数のペインティングで構成されており、その中央には工事現場で見かけるレンジ色の「ガードフェンス(トラ)」が鎮座していて、そのトラストライプの部分はさまざまな人物によるステッカーで覆われていた。

ところで、@ssmj6543による記録写真のほとんどはそのフェンス越しに撮影されたものだった。ペインティング(キャンバスやスケートボード)は壁面や窓際に整然と並んでいたため、フェンス越しでしか見れないということはなかったのだが、このようにペインティングと鑑賞者の間に障害物が存在する距離に立つことによってさらに明確になるのは、いずれのペインティングも、ウユがこちらを見ていたということにこちらが気づいた瞬間であったり、こちらがウユを盗み見ていたという、視線の瞬間的な状況が描かれているということである。


会場にあったインスタレーションのフェンス越しに撮影されたペインティング(東京風紀委員会《Re:REAL-00007U》2023) 展覧会風景[撮影:@ssmj6543


会場にあったインスタレーションのフェンス越しに撮影されたペインティング(東京風紀委員会《Re:REAL-00008U》2023) 展覧会風景[撮影:@ssmj6543


こういったキャンバスに描かれたウユのなかで、明らかに瞬間的な視線が描かれていない作品があった。それは《Re:REAL-00006U》という作品であり、ウユが机に向かって作業に没頭している様子が描かれたものだ。その構図はYoutubeの楽曲をストリーミングし続ける動画「lofi hip hop radio - beats to relax/study to」のアニメーション、「lofi girl」を参照したものだ。「lofi girl」は2017年に『耳をすませば』を下敷きにファン・パブロ・マチャドによって描かれたもので、楽曲が配信され続けるように、ヘッドフォンをつけた彼女はひたすら勉学に勤しむというループアニメーションのなかに登場する。



ここで本展のウユに話を戻そう。本展の会場にもlofiが流れていたのだが、ウユが「lofi girl」の構図を取るとき、そこに他者の視線がどこに存在するかを考えることが可能になる。たとえば本作での他者の位置とは、日本語圏では少なくとも2015年頃から散見されるようになるような、タイムラプスでの録画や生配信といったもので他者による作業風景を見る視聴者であり、それを見返しうるウユ自身だ。

作業風景のスマートフォンでの動画記録というものは、「集中を阻害する存在としてのスマートフォン」を気軽に手に取ることができないようにするための方法であり、他者に自己を積極的に監視してもらい、律するための「勉強法」として一般的なものになっている★6

ウユは「ダメよ。ゼッタイ。」と言いつつ、それが何に対してなのかは判然としないところがある。もちろん、時に手洗いレクチャーを行ない、マスクを着用したステッカーで現われたウユは、そういった社会的規律の順守を呼びかけるようでもある★7。しかし、時にそのステッカーが「落書き禁止を呼びかける看板」に貼られる★8といった状況にあるとき、ウユとは何者か。短く言ってみると、そこに何が犯罪かという判断はないのかもしれない。監視の監視、それが本展でのウユなのだろう。


本展は無料で観覧可能でした。



★1──2023年11月30日、渋谷区桜丘町に東急不動産が大規模複合施設「渋谷サクラステージ」を完成させる。桜丘町はいわゆる渋谷駅の裏側で、歩いていると駅のホームが至る角度から見えるにもかかわらず、JRをはじめとした駅への出入り口がほとんどないから、国道と線路で形取られた浮島のような場所だった。そこにJRの出口と直結する歩行者デッキが生まれることになる。ほとんどの窓にイラストレーションの大型出力シートが貼り付けられた巨大なビル群を見て、渋谷自体に興味はないが、桜丘町から渋谷駅が一気に身近になるのと同時に、人の流れも店も雰囲気も変わっていく予感がした。
★2──こちらのポストを参考にした(X[旧Twitter]:@hamuzou、2023.9.23)。
https://twitter.com/hamuzou/status/1705537257921548783
★3──FCのインスタグラム(Instagram:@fukicommittee)。
https://www.instagram.com/fukicommittee/
★4──「広報活動キャンペーンポスター一覧」(『公益財団法人 麻薬・覚せい剤乱用防止センター』)
https://dapc.or.jp/torikumi/62_poster.html
★5──オギリサマホ「街のあちこちで、にらまれる ……『にらむ目』ステッカーが我々に訴えかけるもの」(『散歩の達人』、2021.01.27)
https://san-tatsu.jp/articles/82742/
★6──「敵を最強の味方に!スマホで集中力爆伸び&映えもかなうタイムラプス勉強法」(『スタディサプリ 進路』、2020.11.27)
https://shingakunet.com/journal/exam/20201003000006/
★7──FCのインスタグラムより(Instagram:@fukicommittee、2020.4.13)。
https://www.instagram.com/p/B-6yp2ppt8G/?utm_source=ig_web_copy_link&igshid=MzRlODBiNWFlZA==
★8──FCのインスタグラムより(Instagram:@fukicommittee、2019.10.16)。
https://www.instagram.com/p/B3rjJX6jqpk/?utm_source=ig_web_copy_link&igshid=MzRlODBiNWFlZA==



FUKI COMMITTEE / 東京風紀委員会 個展「Re:Real」:https://nightoutgallery.com/fuki-committee-2nd-solo-show/

2023/09/24(日)(きりとりめでる)

ソー・ソウエン「Your Body is the Shoreline」

会期:2023/09/16~2023/10/14

√K Contemporary[東京都]

ここ最近、なんとか働きながら、わたしはソウルに断続的に滞在している。でもソウルといってもかなり森のほとり。最寄りのスーパーまでバスを乗り継いで20分くらいかかる(コンビニは徒歩20分)。鶏卵を買いたくて巨大なスーパーをウロウロしていたら、30個入りがあった。6個入りより断然お得。ただし、その卵ケースは下が再生紙、その上にプラスチックのカバーがふんわり掛かっていて、再生紙とプラスチックは30個の卵をサンドイッチしているだけで、両者を束ねる十文字に掛けてある結束テープが頼みの綱だった。買おうと持ち上げた途端、ぐにゃりと再生紙がたわみ、卵がケースからズルズルと落ちていきそうな気配を感じる。バスで帰るには荷が重いと、買うのをやめた。


展示風景[画像提供:√K Contemporary]


ソー・ソウエンの個展が東京の神楽坂にある「√K Contemporary」で開催された。間接照明の効いた広い空間に入ると、スポットライトを浴びた鶏卵が床に点在していた。卵はフロアのタイルの目地にうまく収まっていて不安定な様子はない。ものによってはお尻がひび割れていた。壁には二つのパフォーマンスのアーカイブ映像が掛かっている。

ひとつ目は屋外のポールの傍らに立つ人の映像だ。その人は上半身裸で、ポール(や木)と身体の間に卵を介在させている。卵が割れないように、愛しいものにこんな風に頬擦りできたらいいなというように。もう一方は女性のかかとと床の間に卵が挟まっている状態を撮影したもの。つま先立ちをしているのか、卵は案外割れない。とはいえ、スカートの裾から覗くかかとの様子からして、力加減をコントロールしているわけでもなさそうだった。程なく卵はピキっと音を立て、かかとはゆっくりと卵の殻を崩していき、黄身と白身をどろりと押しつぶしていく。

わたしは壁にもたれ掛かって映像をぼんやり見ていたが、足元を見ると、会場の壁際をぐるりと一周するように文字が書かれている。冒頭だけ抜粋しよう。


「《エグササイズ》 Eggsercise 傷つきやすい身体で生きていく理由が知りたい。くぼみやへこみ、柔らかいところ。どうしてこんな形をしているのか知りたい」。


展示風景[画像提供:√K Contemporary]


ソウエンは点描画で有名な作家だ。この卵をめぐる作品を見た後でペンティングを見ると、その1点ずつが、描かく対象を見つめた行為の軌跡に見えてくる。いくども、いくども、触れるように眼差したのだろうか。ひとしきり作品を見回ると、吸気と呼気が音声として会場に響いていることに気づく。ペインティングの掛かる壁の隅に設置されたスピーカーはソウエンの呼吸を伝えるものだ。点描画の反対側には「すいこむ はきだす」と鉛筆で書かれ続けたキャンバスがあった。無意識的な行為としての呼吸ではなく、何かがすいこまれ、はきだされているし、それを続けなくてはならないという、物質としての人間の静かな強迫観念がまとわりつく。「僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか」と彫りつけ続ける福岡道雄と比べれば、次の瞬間には忘れてしまいそうだが幾度となく襲ってくるような。こうなってくると、先の点描画も、触れるように眼差すというより、その描かれた対象が確固たる個物として眼差されたというよりも、すべてを点で描くことが、すべての自然、あらゆる事物が等価であるという立場に基づいた描画に思える。


展示風景[画像提供:√K Contemporary]


展覧会の順路は、このペインティングのフロアから地下へとエレベーターで向かう。真っ暗な会場に広がっているのは15個ほどのディスプレイに映し出された呼吸で上下するヘソの映像だった。ディスプレイごとにそれぞれの呼吸の音が流れているようだが、ディスプレイ同士の距離が近く、呼気の違いを辿ることができない。肌の色と質感、傷跡、脂肪の具合。区別可能なほどに異なる、個を直観させる身体的部位としてのヘソは、その一方で他者と十月十日つながった形跡でもある。哲学者のエマヌエーレ・コッチャが「生物と無生物の間にはいかなる対立もない。(中略)生はつねに無生物の再受肉であり、無機物の組み合わせであり、一つの惑星」★1だというときに、ヘソは過去のあらゆる生物の集合であり通過点であるゆえに、もっとも人体において個が表われる部位だろう。しかし、人はその生において平等ではない。

ソウエンはステートメントで「『わたしの身体はわたしのもの』という考えは(ジェンダー、階級などにおける)様々な闘争のもと確立されてきました」と、「わたし=身体」という前提が人類が獲得してきた革命の結果であると同時に、個人主義や大きな分断と隣接する契機となったことを記述する★2。呼気が主要なモチーフであることを加味し、例えばジャン=リュック・ナンシーもまたcovid-19がその生物(と無生物)の等価性に人類が立ち返る可能性を見出したが、それは叶わなかった★3ことが想起される。ソウエンの言葉は次のように続く。「本展が、上に述べた人類の革命の歴史に敬意を払いつつ、身体というわたしから近くて遠い場を探求する様々な実践を通して、生きることがもたらす傷やジレンマを眼差し、解きほぐしていく機会になることを願っています」。


ソー・ソウエン《Bellybutton and Breathing─お臍と呼吸》展示風景[画像提供:√K Contemporary]


なぜソウルで鶏卵はこんな傷つきやすい売られ方をしているのだろうか。聞くと、30個入りの卵は移動販売の名残らしい。わたしはどうしても30個入りの卵が買いたくて、今度はタクシーで帰ることにした(ソウルはタクシーがとても安い)。持ち上げた瞬間とてつもない緊張が走った。卵を食べるという人類の歴史は長い。紀元前約1万年前、狩猟採集民族であるクロマニョン人による壁画にはすでにタマゴが描かれ、彼らは放浪生活から定住生活へ移行するなかでメスの野鶏の家畜化を進めたし、紀元5世紀頃著された世界最古の料理書『料理大全』にはカスタードクリームのレシピが記載されている★4。ソウエンはなぜ卵に頬擦りすることにしたのか。それは、人類がもっとも手づから割ってきた命だからだろう。21日間温めたら孵化しただろう卵は命の象徴であると同時に、無生物でもある。人は人に対してどこまでも残酷になるにもかかわらず、かかとで割ってしまった卵へも時に罪悪感を抱くのであれば、この生物と無生物の等価性、曖昧さに立ち返ることは、あらゆる事物もまた自己と結びつくということに人が立ち返るひとつの方法になりうるのかもしれない。

ソウエンならこの30個の鶏卵をどうするのだろうと思った。会期中、ソウエンが会場と自身の体の間に卵を挟むパフォーマンスが行なわれた。その様子をもし見ていたら、ソウルのスーパーでのソウエンの振る舞い、すなわち、きわめてバナキュラーで個別具体的な卵とソウエンの付き合い方もまた想像できた気がする。


本展は無料で観覧可能でした。なお、まもなく京都で「FATHOM─塩田千春、金沢寿美、ソー・ソウエン」が開催されるそうです。



★1──エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』 (松葉類+宇佐美達朗訳、勁草書房、2022)p.11
★2──ステイトメントの全文はこちら。
https://root-k.jp/exhibitions/soh-souen-your-body-is-the-shoreline/
★3──きりとりめでる「湯田冴 個展『惑わせるもの When a meteorite crushed』」(artscape2023年01月15日号)を参照のこと。
https://artscape.jp/report/review/10182123_1735.html
★4──ダイアン・トゥープス『タマゴの歴史』(村上彩訳、原書房、2014)pp.41-47。


Soh Souen「Your Body is the Shoreline」:https://root-k.jp/exhibitions/soh-souen-your-body-is-the-shoreline/

2023/09/21(木)(きりとりめでる)

ほそくて、ふくらんだ柱の群れ ─空間、絵画、テキスタイルを再結合する

会期:2023/09/19~2023/09/29

オカムラ ガーデンコートショールーム[東京都]

昨年までオカムラ・デザインスペースRで展示を企画していた建築史家の川向正人の役割を、今年から筆者が担当することになり、会場も原っぱをイメージした「OPEN FIELD」という名前に刷新した。そして建築家の中村竜治、テキスタイル・デザイナーの安東陽子、アーティストの花房紗也香の3名に声がけし、異なる分野のコラボレーションによって新しい空間をつくることを依頼した。


「ほそくて、ふくらんだ柱の群れ」展示風景


花房は画家なので、当初は壁やカーテンが入る、ピクチャレスクなインテリア・ランドスケープが出現することを想定していたが、中村は三者を密接に結びつける柱の形式を提案し、予想を超えるチャレンジングな企画となった。すなわち、天井と柱身をつないで構造を安定させるテキスタイル製の柱頭と、自律性が強い絵画の平面性を解体するように柱身に巻き付いた絵は、それぞれ安東と花房にとって、初めて試みる表現である。通常、建築にとってテキスタイルは装飾的な役割を果たすが、ここでは摩擦力によって柱が倒れないように作用し、構造の要となる柱頭に変容した。


テキスタイル製の柱頭


また花房は、個人的な出産体験を踏まえ、半透明な筒状の絵画を構想した。今回は2枚の絵を描き、それぞれを5分割して筒にプリントしている。ゆえに、具象的なイメージではなく、抽象的な作品にしたという。もともと花房の作品は、絵の中に複数のレイヤーを重ねた室内が描かれることが多いが、今回は彼女の絵が断片化しながら室内に散りばめられ、柱の森をさまよううちにイメージが統合されるような鑑賞体験がもたらされた。


トークの準備中


ところで、中村によるエンタシスのある多柱の空間は、ギリシアや法隆寺など、古代の建築にも認められる。高さに対する柱間のプロポーションだけでいえばエジプトの神殿に近いが(神殿の柱は異様に太い)、一方で細い柱の整然としたグリッドの配置は、近代のユニバーサル・スペースとも似ていよう。だが、モダニズムに柱頭やエンタシスは存在しない。絵画が統合された建築は、前近代的でもある。そして手づくりのかわいらしい(おいしそうでもある)テキスタイルの柱頭は、職人が制作したロマネスクの柱頭を思い出させる。かくして「ほそくて、ふくらんだ柱の群れ」は、これまでになかった現代的なデザインと、クラシックな感覚を併せもつインスタレーションとなった。


中村による什器と、安東・花房の作品集


手前はオカムラの社内コンペで選ばれた麻生菜摘による什器。柱を切断し、積み木のように組み立てる


廊下からの風景



ほそくて、ふくらんだ柱の群れ ─空間、絵画、テキスタイルを再結合する:https://www.okamura.co.jp/corporate/special_site/event/openfield23/

2023/09/19(火)(五十嵐太郎)

生誕一〇〇年 大辻清司 眼差しのその先 フォトアーカイブの新たな視座

会期:2023/09/04~2023/10/01

武蔵野美術大学 美術館・図書館[東京都]

大辻清司の自宅・アトリエに残されていたプリント、ネガ、蔵書・資料などは、2001年の没後に武蔵野美術大学に寄託され、同大学の「大辻清司フォトアーカイブ」の手で、整理・研究・展示などの活動が行なわれてきた。2016年には大部の『所蔵作品目録』が刊行されたが、本展はその活動の一応の区切りを期して開催されたものである。

1940年代からの代表作から成る展示は、「原点」「シアター」「シークエンス」「他者たち」の4章で構成されている。全101点という作品数は、やや少ないように感じられるかもしれないが、長年にわたる研究の成果を踏まえて、的確かつ周到に選ばれている。例えば、「原点」の章に出品されている「太陽の知らなかった時」(1952)と題するシリーズに、これまでよく知られていた《新宿・夜》のほかに、子供たちや親子を撮影した「リアリズム写真」を思わせるスナップが含まれていること、「シアター」の章の「無言歌」(1956)シリーズに未見のヴァリエーションがかなりたくさんあることなど、新たな角度から大辻の作品世界を見直していこうという意図が随所に感じられる構成だった。写真という媒体の可能性を、つねに最大限に発揮しようとしていた大辻の表現意欲が充分に伝わってきた。「アート・アーカイブのひとつの在り方を示し、その先に何を見出すことができるのかを探る」という本展の方向性も、本展を通じて明確に見えてきたといえるだろう。

これまでの活動の成果を踏まえた、大辻の仕事の全体像を一冊にまとめた写真集の刊行も、そろそろ企画してもいいのではないだろうか。「大辻清司フォトアーカイブ」の今後の活動への期待は大きい。


大辻清司 眼差しのその先 フォトアーカイブの新たな視座:https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/20681/

2023/09/12(火)(飯沢耕太郎)