artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

横尾忠則 寒山百得展

会期:2023/09/12~2023/12/03

東京国立博物館 表慶館[東京都]

東博というと日本の古美術のイメージが強いが、忘れたころに現代美術もやる。5年前の「マルセル・デュシャンと日本」は記憶に新しいが(デュシャンはもはや古典かも)、表慶館では20年ほど前に東京国立近代美術館の企画で「美術館を読み解く:表慶館と現代の美術」を開いたこともある。前者は日本美術とのつながりを示し、後者は建築空間に触発された作品を展示するという点で、どちらも純粋な現代美術展というより、東博および古美術との関係を強調するものだった。今回もなんで横尾忠則が東博で? と思ったが、「寒山拾得」をモチーフにした作品だと知って納得。

寒山拾得は奇行で知られる中国の超俗的なふたりの僧のこと。伝統的に寒山は巻物、拾得は箒を持ち、どちらもボロを身にまとい、妖しい笑みを浮かべた姿で描かれる。横尾はこの寒山拾得を自由に解釈し、徹底的に解体し再構築してみせた。巻物をトイレットペーパーに置き換え、箒の代わりに電気掃除機を持たせるのは序の口。便器に座らせたり、箒にまたがって空を飛ばしたり、大谷翔平やドン・キホーテを登場させたり、マネの《草上の昼食》や久隅守景の《納涼図屏風》を引用したり、やりたい放題。古今東西、現実と虚構を超えた世界が展開しているのだ。その数102点、これを85歳から約1年半で描き上げたというから驚く。

画家は年老いてくると自分のスタイルを繰り返したり(自己模倣ともいえる)、筆づかいや色づかいが奔放になったり(成熟とも衰退ともいえる)するものだ。ティツィアーノしかり、モネしかり、ピカソしかり。ところが横尾はもともと自分のスタイルがあったというより、既存の図像やスタイルを寄せ集めて独自の世界観を築き上げるスタイルだった。だから1980年代初めに画家としてデビューしてからも、当時流行していた新表現主義をベースに、美術史のさまざまな様式を引用・模倣しながら(タダノリ?)横尾ワールドを展開してきた。今回は表現主義風あり印象派風ありシュルレアリスム風あり抽象風あり水墨画風まであって、まったくスタイルというものに執着しない。むしろそれが横尾スタイルというものだろう。

ただ最近は身体的な衰えが明らかで、筆づかいも色づかいも奔放を超えて荒っぽく、もはやグズグズといっていいような作品もある。だが、だれもこれを批判することはできないだろう。なぜならこれらはもはや従来の絵画の価値観から逸脱し、いわば治外法権のアウトサイダーアートの領域に踏み込んでいるからだ。アウトサイダーアートというのは目指してできるものではないが、横尾は明晰な意識を持ってアウトサイドに踏み出しているように見える。いや、ここはやっぱり寒山拾得の境地に達したというべきか。



展示風景[筆者撮影]



公式サイト:https://tsumugu.yomiuri.co.jp/kanzanhyakutoku/

2023/09/11(月)(村田真)

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飯川雄大「デコレータークラブ:未来のための定規と縄」

会期:2023/07/14~2023/09/10

霧島アートの森[鹿児島県]

「壁で隔てられた向こう側で何が起こっているのか」を、どのように想像できるか。あるいは、誰にも気づかれなかったとしても、不確定な「向こう側」へ向けてアクションを起こせるか。既存の堅固なシステムの内部に寄生するように、別のシステムが走っていることを想像し、その駆動に参加することは、どのように可能か。飯川雄大の作品は、ポップな見た目やユーモアとともに観客の能動的な参加を誘いつつ、常に視覚の全能性を疑いながら、こうした示唆的な問いを投げかける。

本展は、千葉市美術館(2021)、兵庫県立美術館(2022)、彫刻の森美術館(2022-2023)に続く、大規模な飯川の個展。展示室に加え、野外彫刻が点在する広大な敷地にまで作品が展開する。建物や木立に一部が隠れ、全貌が見えないピンクの猫の巨大な立体作品《デコレータークラブ─ピンクの猫の小林さん》(2007-)や、忘れ物のように見えるが重すぎて持ち上げられない《デコレータークラブ─ベリーヘビーバッグ》(2010-)に加え、観客がハンドルを回すとロープが動き、展示空間のどこかで新たな事象が起きる《デコレータークラブ─0人もしくは1人以上の観客に向けて》(2019-)のアップデート版が制作された。

美術館に入る前から、エントランスの芝生の上にカラフルな太いロープが伸び、屋上へと続いている。館内に入ると、別の太いロープが観客を誘導するように展示空間へと続く。展示室内は一見何もないように見えるが、壁や天井からカラフルなロープがいくつも垂れ下がる。綱引きのように引っ張ると、際限なくロープが壁の穴から出てくる(だけだ)。特に太いロープは一人の力では引っ張れず、居合わせた観客どうしの協働作業が自然発生する。「わあ、動いてる!」という歓声に振り向くと、ロープがひとりでに穴の中へ吸い込まれていくのが目撃される。だがそれは私が引っ張ったロープなのか、別の誰かがどこかで引っ張ったロープなのか、判別できない。私が引っ張ったロープはどこかで「誰か」に目撃されたのか、誰にも目撃されないまま動いていたのかも、わからない。



[撮影:阪中隆文]


また、壁に取り付けられたハンドルを回すと、「ギギギ」という音と重い手ごたえが伝わる。展示室内の壁や天井には縦横無尽にピンと張られたロープからスポーツバッグがぶら下がり、外壁にもリュックが吊られているのだが、どのハンドルと連動して上下するのかは不明だ。さらに、別の外壁には滑車とロープを組み合わせてできた文字があり、観客が室内でハンドルを回すと、ロープが巻き取られ、文字を構成するロープの色が少しずつ変わっていく。



[撮影:阪中隆文]



[撮影:阪中隆文]


また、野外空間には、広大な敷地を縦断するように、蛍光ピンクの太いチューブが伸びている。《デコレータークラブ─未来の猫のための定規》と題された本作は、理論上は制作可能な「長さ400m、高さ270m、奥行き50mの猫の小林さん」の巨大さを体感的に想像するためにつくられた。



[撮影:阪中隆文]


ここで、飯川の参照項として、梅田哲也、金氏徹平、加藤翼の作品と比較してみよう。梅田哲也のインスタレーション作品でも、展示空間で「何かが(不意に)動く」のを目撃するが、「動力」は水の落下や重力といった物理現象、即席ミラーボールやターンテーブルの回転などである。対して、飯川の場合、観客の介入がないと何も起こらない。また、「穴を通したモノの交通により、内/外の境界を有機的に流動化させる」構造は、金氏徹平のドローイングや映像作品《tower (MOVIE)》(2009)および派生したパフォーマンス作品《tower (THEATER)》(2017)を想起させる。金氏の「tower」シリーズでは、直方体の構造物に空いた穴から、チューブやロープなどの物体、煙や風船(気体)、水(液体)が出現するが、「パフォーマーが内部で動かす/観客が外側から眺める」という境界線は強固に保たれたままだ。一方、飯川作品では、美術館という巨大な箱をひとつの上演装置と捉え、「展示室内部で観客がロープやハンドルを動かすと、“箱の外側”でモノの運動が上演される」ことで、内部/外部、観客/パフォーマーの境界を流動化させていると言える。だが、その「上演の観客」は不確定で「無人」に終わる可能性もあり、「上演のタイムライン」も不安定だ。

また、本展での新作では、これまでの「ハンドルを回す行為」から、「ロープを直接引っ張る行為」に変わった。ハンドルという媒介がなくなることで、直接的な体感が増すとともに、「固定ハンドル=個人作業」から解放され、協働作業に観客を巻き込む。そして「ロープを複数人で引っ張る」行為は、加藤翼の参加型作品を想起させる。ただ、加藤の場合、巨大な構造物をロープで引っ張り、「引き倒す(=ナンセンス)/引き興す(=震災からの復興)」という意味づけがあり、「引き倒し/引き興し」を皆で目撃する瞬間に最大のカタルシスが生まれるが、飯川作品では、どこで何が動くのかも「目的」すらも曖昧・不在であり、「動く瞬間を観客自身は目にすることができない」点に最大のポイントがある。

自分自身では「目撃者」となれず、どこか別の場所で「目撃者」を発生させてしまう(かもしれない)。飯川の作品は、二重の意味で観客の「観客性」を剥奪する。同時に、空調の配管や電気系統、順路といった「美術館の物理的システム」とは別に、まったく別系統で動くシステムが建築物のなかを複雑に走っていることを想像させる。「ロープ」は、そうした想像力の具現化を助けるための媒体である。「観客が能動的に動かす」ことで成立する飯川の作品だが、実は「想像力の起動」こそが賭けられているのだ。



[撮影:阪中隆文]


飯川雄大「デコレータークラブ:未来のための定規と縄」:https://open-air-museum.org/event/event-41150


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2023/09/10(日)(高嶋慈)

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織作峰子「光韻」

会期:2023/09/05~2023/09/10

金沢21世紀美術館 市民ギャラリーA/石川県政記念しいのき迎賓館 ギャラリーB[石川県]

石川県小松市出身の織作峰子は、このところ、自ら「箔フォトグラフィ」と名づけた技法を極めようとしている。故郷の石川の伝統工芸である金箔や銀箔、あるいはプラチナ箔などを地に敷いた和紙に、UVプリントで画像を吹き付けて定着していく。伝統工芸と最先端のデジタル印刷技術の結合というべきこの技法によって生み出される風景作品は、琳派や山水画などの美意識を取り入れた、華麗かつ繊細な風景表現に結びついていった。

それは、デジタル時代におけるピクトリアル・フォト(絵画的写真)の追求という側面も持つのだが、今回、金沢21世紀美術館と石川県政記念しいのき迎賓館で併催された展覧会では、風景作品だけでなく、「箔フォトグラフィ」のポートレートにもチャレンジしていた。金箔地のポートレートと聞いて、きらびやかだが、単調な作品になるのではないかとやや不安だったのだが、予想はいい意味で裏切られた。金箔という媒体は意外なほどの柔軟性があり、むしろ渋みすら感じさせるマチエールと、石川に関わりのある100人(織作の父母も含む)をモデルにしたポートレートのたたずまいが、しっくりと溶け合っていたのだ。

それとともに、モデルとなる人物たちの非凡さ、個性をこれみよがしに強調するのではなく、むしろ親しみのある「普通の人」として捉えていこうとするという織作の撮影の姿勢がうまく働いていて、味わい深いシリーズとして成立していた。風景だけでなく、ポートレートの表現としても、新境地を開きつつあるのではないだろうか。


織作峰子「光韻」:https://www.shiinoki-geihinkan.jp/event/index.cgi?mode=pickup&ctg=gly&cord=643

関連レビュー

織作峰子写真展─光韻─|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年11月01日号)

2023/09/08(金)(飯沢耕太郎)

アニメーション美術の創造者 新・山本二三展 ~天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女~

会期:2023/07/08~2023/09/10

浜松市美術館[静岡県]

浜松市美術館を訪れ、今年の8月に亡くなったアニメ背景美術の巨匠の展覧会、「新・山本二三」展の最終日に駆け込みで入った。1969年以降、彼は『サザエさん』(1969-)、『一休さん』(1975-82)、『未来少年コナン』(1978)から、『天空の城ラピュタ』(1986)、『火垂るの墓』(1988)、『天気の子』(2019)まで、数多くの作品を手がけ、ゲームの美術や絵本の挿絵も描いている。ジブリの宮崎駿のような有名性はないが、おそらく、ほとんどの日本人は知らない間に山本の絵に慣れ親しんでいるはずだ。また実際、会場では親子連れが目立ったが、親も子も楽しめる内容だろう。今回のタイトルに「新」と付いているのは、2011年に神戸市立博物館で始まった「日本のアニメーション美術の創造者 山本二三」展がその後も全国で巡回していたからだ。2014年に筆者は静岡市美術館で鑑賞し、映画館で大きく伸ばしても耐えられるよう、小さな絵に細部を緻密に描く手技に感心させられた。新旧両方の展示のカタログを比較すると、131ページから231ページに増えており、単純にボリュームからも内容が充実したことが確認できる。なお、前回の展示では、最初の会場であった神戸を舞台とすることから『火垂るの墓』を詳しく取り上げており、担当学芸員の岡泰正の論考は今回のカタログに再録された。



山本はもともとカメラマンに憧れ、絵を描くことが好きだったが、それでは食っていけないということで、夜学の大垣工業高校定時制建築科を卒業後、働きながら、アニメーションの専門学校に入ったという。彼が図面やパースの技術を学んだ経験は、キャラではなく空間を表現する背景美術の仕事に生かされており、今回の展示では高校時代の設計課題も紹介されていた。なるほど、しっかりと建築の室内外を描いている理由として納得が行く。展示全体を通していくつかのテーマが設定されており、第1章「冒険の舞台」(『ルパン三世 PART2』[1977-80]など)、第2章「そこにある暮らし」(『じゃりん子チエ』[1981-83]など)と続く。第3章「雲の記憶」(『時をかける少女』[2006]など)と第4章「森の生命」(『もののけ姫』[1997]など)では、「二三雲」と呼ばれる独特な雲の表情や、作品の世界観を決定する森や自然に注目する。そして第5章「忘れがたき故郷」では、2010年から2021年にかけて全100点を完成させたライフワークである、生まれ育った五島列島の風景画シリーズを取り上げる。なお、浜松市美術館では、特別に浜松城を描いたドローイングも出品されていた。





アニメーション美術の創造者 新・山本二三展 ~天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女~:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/artmuse/tenrankai/nizou.html



関連レビュー

「架空の都市の創りかた」(「アニメ背景美術に描かれた都市」展オープニングフォーラム)|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2023年07月01日号)
山本二三展|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2014年09月15日号)

2023/09/08(金)(五十嵐太郎)

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杉本博司 火遊び

会期:2023/09/05~2023/10/27

ギャラリー小柳[東京都]

コロナ禍でしばらく留守にしていたニューヨークのスタジオに戻ると、大量の印画紙が期限切れになっていることに気づいた、と杉本はいう。印画紙は期限が過ぎると劣化し、微妙なトーンが飛んでしまう。そこで杉本写真の売りのひとつである美しいグレーゾーンを諦め、明暗のコントラストの強い写真表現を試みることにした。それが印画紙に直接描く「書」だ。最初は暗室のなかで現像液を筆につけて印画紙に字を書き、一瞬光を当てると、文字が黒く浮かび上がってくる。次に定着液を筆につけて書いてみると、黒地に白い文字が現われてきた。暗室は文字どおり暗闇なのですべては手探りで進めなければならない……。杉本自身によるコメントを読むと、作品に至るまでの過程が手に取るようにわかり、説得力がある。

杉本が書に選んだ文字は「火」。なぜ「火」なのか、写真なら「光」ではないのか。とも思うが、あらためて比べてみると「火」と「光」はよく似ている。それもそのはず、「光」という字は「火」を「人」が上に掲げているかたちなのだ。もともと「火」は象形文字だし、「光」より絵画的でもあるから、書くとしたら「火」だろう。あるいはひょっとしたら「火遊び」というタイトルから先に思いついたのかもしれない。齢を重ねてからの火遊び、手遊び。最近はホックニーにしろ横尾忠則にしろ、超老芸術家の火遊びが盛んだし。

作品は大小合わせて14点。火以外にも「炎」や「灰」もあるが、いずれも力強い筆致で、撥ねや擦れや飛沫を強調するかのように運筆している。人が両手両足を広げて踊っているような火の字もあり、かつて抽象表現主義と張り合おうとした前衛書を思い出す。それにしても真っ暗闇のなか手探りでよく書けたもんだ。おそらく失敗した印画紙はこの何倍、何十倍もあるに違いない。帰りにエレベーターに乗ろうとして振り返ったら、入り口の脇に朱で「火気厳禁」の手書き文字が目に入った。あれ? こんなの前からあったっけ。


公式サイト:https://www.gallerykoyanagi.com/jp/exhibitions/

2023/09/07(木)(村田真)