artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

第11回ヒロシマ賞受賞記念 アルフレド・ジャー展

会期:2023/07/22~2023/10/15

広島市現代美術館[広島県]

2018年にヒロシマ賞第11回の受賞者としてアルフレド・ジャーが選ばれたことが発表されたが、コロナ禍に加え、美術館の改修が入り、受賞記念展はかなり遅れて2023年に開催された。これは3年に一度の賞であり、モナ・ハトゥムによる第10回の受賞記念展が2017年だったから、丸1回分飛んだ格好となる。「美術の分野で人類の平和に貢献した作家の業績を顕彰」するヒロシマ賞の趣旨から言えば、ジャーはいつ選ばれてもおかしくなかったが、展覧会が遅れている間に、ロシアによるウクライナ侵攻が発生し、結果的に彼の活動がさらに意味をもつタイミングになった。

通常はコレクション展に使う北側のエリアを会場とし、前半は広島に投下された原爆をモチーフとする作品を中心に構成されていた。特に新作《ヒロシマ、ヒロシマ》(2023)の映像は、広島の空を飛ぶドローン(=原爆のまなざし)が真上から原爆ドームに近づく。そしてむき出しになった屋根の鉄骨がホイール状に見えることが認識されると、類似した形状のサーキュレーターが、突如、背後から出現し、鑑賞者に向かって強い風を吹き付ける。階段を降りると、円形の中庭において生誕を祝福したり、難民の生を想う作品が続く。最後のパートにおける《サウンド・オブ・サイレンス》(2006)と《シャドウズ》(2014)は、鑑賞者が強烈な光に晒され、写真ジャーナリズムのインパクトを目に焼き付ける。《ヒロシマ、ヒロシマ》と同様、鑑賞者が距離を置いて安心して見ることを許さず、作品が突き刺さるように、身体に入り込む。ジャーは建築家としてのアイデンティティももつが、中庭を室内化したり、インスタレーションを効果的に挿入するなど、空間の使い方が巧みである。



《ヒロシマ、ヒロシマ》(2023)



《サウンド・オブ・サイレンス》(2006)の展示ボックスを外から見る




《われらの狂気を生き延びる道を教えよ》(1995-2023)



なお、広島市現代美術館は、2023年3月にリニューアル・オープンしたが、外観の印象は変わらない。側面にカフェと多目的スペースのガラス空間を増築したほか、ショップの移動、設備の補修、機能の更新、劣化した部分の改修、新しい什器の導入などが行なわれた。やはり、黒川紀章によって設計され、1989年にオープンした元の公共建築は、日本が豊かな時代であり、内装に良い材料を使っていたらしい。また館内のピクトグラムやフォントのサインも更新しつつ、街の文字を探索するプロジェクトをメディアライブラリにおいて展示していた。



増築された側面(広島市現代美術館)



中庭に屋根をかけ、室内化した展示室(広島市現代美術館)



美術館のプランをかたどった什器(広島市現代美術館)



街中のフォントを調査し、館内のサインに生かす「新生タイポ・プロジェクト」(広島市現代美術館)



公式サイト:https://www.hiroshima-moca.jp/exhibition/alfredo_jaar/

2023/07/30(日)(五十嵐太郎)

尻博2023

会期:2023/07/20~2023/07/31

文房堂ギャラリー[東京都]

会場の文房堂ビルに着くと、エレベーター前には人だかりができている。え、まさかこれみんな尻博? そう、みんな尻に吸い込まれていくのだ。さほど広くない会場には50人以上は入っているだろうか。男性が大半だが、女性もいる。と思ったら尻を出しているではないか! あ、尻出し男もいる。作品だけでなく、本物のお尻も鑑賞できるんだから、入場料千円でもこんなに人が集まるんだ。

てわけで、コロナ禍の2020年に始まった「尻博」も、4回目を迎える今回は秋葉原から神保町に場所を移しての開催となった。出品は写真、絵画、彫刻、イラスト、映像、花器とさまざま。お尻のドアップ写真が多いなか、三島哲也と吉岡雅哉の絵画は貴重だ。三嶋は古典技法を駆使して官能的な尻を写実描写し、吉岡雅哉は軽快なタッチの尻画というか、もはや猥画としかいいようのない絵を出している。いいのか? 映像は、お尻に風鈴つけたり尻の上でかき氷つくったり、季節感あふれる作品もある。また、尻博と上野木型製作所の共同企画として、3Dスキャン技術と5軸マシニングセンターのNC切削(なんだそれ?)により、男女の尻を彫刻した等身大リアル《OTOKOJIRI》《ONNAJIRI》なんてのもあって楽しめる。

それにしても、なぜわれわれは尻に敷かれるのか? じゃなかった、尻に惹かれるのか? なぜ「乳博」でも「股博」でも「ヘソ博」でもなく、「尻博」なのか? なぜ男だけでなく、女も異性の尻に惹かれるのか? 心情的には理解できるけど、いまだ言語化できずにいる。


公式サイト:http://www.bumpodo.co.jp/gallery/exhibition.html

2023/07/29(土)(村田真)

磯谷博史「復元の、複数」

会期:2023/07/07~2023/07/30

POST/limArt[東京都]

磯谷博史の作品を初めて見たのだが、親しみやすさと、写真を使うアーティストとしての思考と実践のクオリティの高さとをうまく結びつけた作風に、とても心惹かれるものを感じた。なお今回の出品作は、2022年4月から6月まで小海町高原美術館で開催された個展「動詞を見つける Find Your Verb」展に出品されていた「着彩された額」シリーズから選ばれている。

被写体となっているのは、磯谷の周辺に生起した「名前のない出来事」である。マルボロの煙草の箱が2個、透明傘の先のあたりに溜まった雨滴、砂糖にたかる蟻たち、逆光気味に撮影された植物の葉などの対象物の選択は、アトランダムに見える。だが、そこには細やかで注意深い配慮を感じる。それらの写真は、セピア色に着色して大きく引き伸ばし、木製のフレームにおさめて展示していた。注目すべきなのは、そのフレームの1辺を、その画像の元々の色を選んで「着彩」していることだ。そのことによって、作品の鑑賞者が、セピア色の画像を想像力で「復元」することをめざしている。それはまた「撮影された瞬間から過去となっていく写真を、現在につなぎとめる」ということでもある。

黒っぽいフェルトなどを巧みに使ったインスタレーションも含めて、磯谷がもくろんでいるのは、個人的な経験に収束しがちな発見の歓びを、写真という装置を介することで、風通しのいい出来事として万人に開いていくということだろう。多くの写真家たちが、スナップ写真などを通じて、日常に潜む謎を写真によって検証していくことを試みてきたのだが、磯谷はそのレベルを一段階引き上げて、的確かつ刺激的な写真インスタレーションとして実現してみせた。


展示風景[写真提供:POST/limArt]


展示風景[写真提供:POST/limArt]



公式サイト:http://post-books.info/news/2023/7/7/exhibition-hirofumi-isoya

2023/07/28(金)(飯沢耕太郎)

成相肇『芸術のわるさ──コピー、パロディ、キッチュ、悪』

発行所:かたばみ書房

発行日:2023/06/10

2010年代、東京でもっとも批評的な展覧会を手がけていたキュレーター/学芸員は誰か──この問いをどのような水準で受け取るかにもよるが、わたしにとってその答えははっきりしている。成相肇(1979-)である。

本書『芸術のわるさ』は、その成相肇による初の著書である。目次を一瞥してみればわかるように、本書の中心をなすのは、かつて成相が企画した「不幸なる芸術」(switch point、2011)、「石子順造的世界」(府中市美術館、2011-2012)、「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン」(東京ステーションギャラリー、2014)、「パロディ、二重の声」(同、2017)といった展示の図録および関連原稿だ。それらに加えて、学生時代からの専門である岡本太郎についての論文や、他館の図録に寄せた原稿が、「コピー」「パロディ」「キッチュ」「悪」の全4章に編成されている。

成相が手がける展覧会はいつも、美術館ではなかなか取り上げられることのない対象を中心に据えてきた。展示物の3分の2が「非ファインアート」(188頁)であったという「石子順造的世界」にしても、かつて白川義員とマッド・アマノのあいだで争われた「パロディ裁判」(1971-1987)を大きく取り上げた「パロディ、二重の声」にしても、鑑賞者が一般的に想定する「現代美術展」とはまったく異なる光景が、そこでは広がっていた。これを小さな自主企画などではなく、公の美術館で堂々とやってのけるところに、成相肇という学芸員の真骨頂がある。

そして──これが重要なことだが──成相は文章がめっぽう巧い。いわゆる「論文」調のものはもちろんのこと、本書の随処に見られる「口上」をはじめ、アイロニーやユーモアを交えた文章を書かせたら、おそらく美術業界で右に出るものはいない(それは本書を読めば一目瞭然である)。本書刊行の詳しい経緯については詳らかでないが、これを創業第一書に定めたかたばみ書房の眼力には、ひとりの読者として唸らざるをえない。

念のため、本書の掲げる「芸術のわるさ」についても一言付言しておこう。あとがきでも明らかにされているように(377頁)、本書タイトルに含まれる「わるさ」とは、単に道徳的な「悪さ(=悪意・悪行)」のみならず、遊戯的な「わるさ(=悪戯)」の謂いでもある。後者の「わるさ」を能くしたものとしては、マルセル・デュシャンから赤瀬川原平まで、さまざまな先達の名前が挙がるだろう。本書が掲げる4つのキーワード(コピー、パロディ、キッチュ、悪)のなかで、この意味での「わるさ」ともっとも縁が深いのが「パロディ」である。げんにこのパートは本書の白眉と言ってよいものであり、前掲の「パロディ裁判」の判例を中心に展開される立論は必読である。

かつての鶴見俊輔による限界芸術論をはじめとして、いわゆるファインアート/非ファインアートの境界を問う試みは過去にもさまざまなされてきた。しかし展覧会という場そのものを、こうした思索のための空間に仕立て上げることはけっして容易ではない。本書は、石子順造をはじめとする先達のさまざまな理論的仕事に棹さしつつも、この問題を美術館という制度のど真ん中で展開してみせた、きわめてユニークなキュレーター/学芸員の活動の軌跡である。

2023/07/24(月)(星野太)

宇留野圭「Keyway」(BankART Under 35 2023)

会期:2023/07/06~2023/07/23

BankART Station[神奈川県]

立方体の三つの小さな木造の部屋がワイヤーとバネとトラス状の構造物で支えられている。中位の部屋には白い樹脂でできた骨のようなものが天井から吊られていて、そこそこ大きな衝撃音を立てながらモーターで振れ回る。その白い物体の重量感と動きの激しさで作品全体が左右に揺れ続けていた。振動は不規則で、見始めてからの数分間は近付くことが憚られるほどだ。


宇留野圭《密室の三連構造》(2021)©BankART1929[撮影:中川達彦]


展覧会名である「Keyway」とは、機械の部品と部品を結合するために掘られた溝、「キー溝」「接合歯形」と「鍵の行く先」のことを指すとハンドアウトにあった。会場にある作品たちは、何らかの技術を表象したり、技術そのものを提示したりするというよりは、「機械」という言葉がどこかしっくりくる。

美術史家のアンドレアス・ブロックマンは、21世紀は「機械」の時代ではないと断りを入れたうえで、20世紀の芸術における「機械」が何であったのかを振り返っている。ここでの機械とは、ジョルジョ・アガンベンによる次のような装置概念を援用したものだ。

「私は文字通り、生き物の身振り、行動、意見、言説を捉え、方向付け、決定し、傍受し、モデル化し、制御し、確保する能力を何らかの形で持つものを装置と呼ぶことにする」★1。アガンベンの解釈では、装置は社会的実践の空間を「道具、物、小道具、粗品、そして様々な技術」で埋め尽くし、主観性は「装置」の産物として現われるのである★2

そして、本稿にとって重要な「機械」のことを、ブロックマンは「主体」と同じく「装置」の産物であり、主体によって名付けられ、構築されたものなのだという。主体(通常、自らを「生き物」と認識する)は、機械が外部にあり、他者であるかのように語るが、それは主体の技術上のドッペルゲンガーであり、装置の働きの補完的な産物なのだと★3

20世紀のなかで目立つことも定まることもなかった「マシン・アート」をブロックマンはこうまとめている。マシン・アートはマシン(それらを構築する装置の前に主体が設置するスクリーン)を構築し、それらを明確にするものであり、マシン・アートの作品は、装置を当然視せず、問題視するよう促すものであり、マシンとアートの出会いは、奇妙さ(と親しみ)、距離(と近さ)、拒絶(と愛、または親密さ)によって特徴付けられると★4。例えば本作がマシン・アートだとして、問題とする「装置」は何なのだろうか。

舞台美術のシミュレーションとして存在する《17の部屋 - 耳鳴り》(2021)も、「密室」として現われる《密室の三連構造》(2021)も★5、壁ひとつで隔てられた、放置された空き家の連なりのようだと思った。

経済学者の大泉英次は、イギリスなど他国と比較して、日本の住宅はスクラップ&ビルドを前提とし続けてきたため「既存住宅の流通市場が成長、発達する余地はまったくない」と言う★6。戸建住宅も舞台美術と同様に、ある一定の役目を終えた部屋を引き継ぐ者は誰も存在しない。転売するにも、貸し出すにも需要が見込めない部屋たちはこの20年で2倍となり、300万戸を超え、その多くは物置きとして放置されている。空き家は防災性・防犯性を低下させ続け、埃と虫の死骸が積み重なり、衛生面も悪化していくのだ★7


宇留野圭《17の部屋 - 耳鳴り》(2021)©BankART1929[撮影:中川達彦]


宇留野圭《17の部屋 - 耳鳴り》(2021)©BankART1929[撮影:中川達彦]


《17の部屋 - 耳鳴り》には監視カメラがいくつも設置されている。そのカメラが映すのは、清掃されることもない空間だが、その監視能力に防犯性の向上が仮託されているかのようだし、パイプオルガン状になった空調により不穏な音が響く状況は、いまにも倒壊しそうな風の抜けを感じる。

しかし、そんな部屋の壁の向こう側には清潔感のある静謐な白い部屋が端正に並んでいる。先ほどまで見ていた、壁も床も照明もまちまちだった思い思いの部屋とは異なり、こちらは規格化されていて、まるで既存住宅が一斉に集合住宅へ建て直されたかのようだった。

本展ではほかにも作品が展示されていたが、今回取り上げた2作品は、行き場のない既存住宅を抱えスクラップ&ビルドを描く機械でもあるのだろう。ゆえに、これらの部屋の鍵の行方といえば、解体されるその日まで誰かの家で使われずにしまわれているか、管理会社の棚の中で次の居住者を待ちわびているはずだ。


右側の作品は《17の部屋 - 耳鳴り》(写真2、3枚目)の反対側に位置する ©BankART1929[撮影:中川達彦]



★1──以下から孫引きした。
Andreas Broeckmann, Machine Art in the Twentieth Century, London: The MIT Press, 2016, p.28.
★2──同上、pp.28-29。
★3──同上。
★4──同上、pp.29-30。
★5──「舞台美術」と「密室」については以下の作品説明を参照した。
『宇留野圭』(BankART1929、2023)
★6──大泉英次「住宅双六の国際比較」(『北摂総合研究所報』1、追手門学院大学北摂総合研究所、2017、pp.29-33)
★7──国土交通省がまとめた以下の資料に詳しい。
「空き家の現状について」(『国土交通省』)2023.9.25閲覧(https://www.mlit.go.jp/common/001172930.pdf




公式サイト:https://www.bankart1929.com/u35/

2023/07/23(日)(きりとりめでる)

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