artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

虫めづる日本の人々

会期:2023/07/22~2023/09/18

サントリー美術館[東京都]

江戸時代を中心に虫を描いた作品を集めたもの。虫の絵というとすぐ思い浮かぶのは、最近国宝に指定された若冲の《動植綵絵》(c.1757-1766)のなかの《池辺群虫図》(c.1761-1765)、《芍薬群蝶図》(c.1757-1760)あたりだが、この展覧会には出ていない。同じ若冲の《菜蟲譜》(c.1790)は出ているが、期間限定だ。もちろん若冲以外にもたくさんある。

西洋では虫の絵というと、博物誌を別にすれば、17世紀の静物画に描かれたハエやチョウが思い浮かぶくらいで、日本の比ではない。そもそも西洋で虫というのはとるに足りない邪魔な存在なので、愛でる気持ちなどこれっぽっちもなかったはず。日本人は虫の音を言語と同じように意味ある音として聞くが、西洋人は無意味な雑音にしか聞こえないとどこかで読んだことがある。だから西洋では虫は無視されたのだ。

展示は、鎌倉時代の《蝶蒔絵香合》(13-14世紀)から能装束、陶器、現代の「自在」と呼ばれる動く彫刻まであるが、大半は絵巻や掛け軸、浮世絵、図譜など絵画だ。ざっと見たところ、いちばん多く描かれているのはチョウで、やはり見栄えがいいからだろう。三熊花顛の《群蝶図巻》(18世紀)や松本交山の《百蝶図》(19世紀)などの細密描写が美しい。チョウに続いて多いのはトンボ、バッタ、クモ、セミあたりか。ちなみに当時はカエルやカニ、トカゲ、コウモリまで虫として扱われていた。意外と多いのがホタルだが、特性上白い点や線で表わされることもあっておもしろい。いずれにせよ、虫は小さいせいか主役として登場することは少なく、たいていは花鳥風月のおまけか、虫狩りの人たちとともに描かれる。なかには歌麿の《夏姿美人図》(c.1794-1795)や上村松園の《むしの音》(c.1914)のように、虫本体がどこにも描かれておらず、気配だけの虫の絵もある。

同展は作品ばかりでなく、演出もなかなか凝っている。入り口を通るとき虫の音が聞こえてくるのはよくあるが、階段を降りた吹き抜け空間の上方に光を点滅させてホタルを表わしたり、展示室の空きスペースに紙細工の虫を吊り下げてスポットライトを当てたり、作品鑑賞に集中していると見過ごしてしまいそうなところにも、ちょっとした仕掛けが施されているのだ。こういう目立たないところに趣向を凝らすのも、それを見つけて楽しむのも、「虫めづる日本の人々」ならではのセンスかもしれない。



展示風景



公式サイト:https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2023_3/index.html

関連記事

伊藤若冲《菜蟲譜(さいちゅうふ)》11mに並んだ小さな命──「河野元昭」|影山幸一:アート・アーカイブ探求(2008年07月15日号)

2023/07/21(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00065871.json s 10187076

私たちは何者? ボーダーレス・ドールズ

会期:2023/07/01~2023/08/27(※)

渋谷区立松濤美術館[東京都]

なかなかユニークな展覧会だった。人形を題材に、ここまで風呂敷を広げられるのかと感心した。民俗学的な側面もありながら、工芸や彫刻、玩具、そして現代美術まで、さまざまな分野をボーダーレスに飛び越える媒介として人形を扱っている点が興味深い。ヒトガタと書く人形は、まさに人の写しなのだ。だからこそ人に付いてまわり、人が関わる分野すべてに関係する。古くは呪詛や信仰の対象となり、雛人形や五月人形のように子どもの健康を願い、社会の規範を教える存在となり、また生人形のように市井の人々の生活や風習を描く展示物となった。本展はそんな日本の人形の歴史を順に追っていき、観る者に人形とは何かを考えさせた。


【後期展示】《立雛(次郎左衛門頭)》(江戸時代・18〜19世紀)東京国立博物館蔵[Image: TNM Image Archives]


私自身、人形との関わりを振り返れば、雛人形もそうだが、もっとも思い出深いのは子どもの頃に遊んだリカちゃんだろう。赤いドレスを着たリカちゃん1体と、確かスーパーマーケットのような模型のセットが家にあり、それらで友達と何度もごっこ遊びをした。子どもが大人の真似事をするごっこ遊びも、いわば、社会の規範を学ぶ一過程である。あの頃、私も含めた少女たちは、少しお姉さんになった自分の理想の姿をリカちゃんに投影して遊んでいたような気がする。そういう点で、リカちゃんは現代っ子の写しなのだ。

人の写しであるからには、人形はさまざまな面を負ってきた。戦争が色濃くなった昭和初期から中期にかけては、騎馬戦に興じる軍国少年たちを象った彫刻や、出兵する青年たちに少女たちがつくって渡したという「慰問人形」があった。慰問人形は粗末な布で手づくりされた人形とも言えないほどの出来なのだが、これは少女たちの写しであり、青年たちは出兵先でこれを見て、自らを鼓舞する力を得たのだという。また昭和初期から百貨店を彩り始めたのがマネキンだ。人々の消費の媒介として、マネキンはもはや当たり前ものになった。さらに人形は性の相手にもなる。本展の最後にはなんとラブドールの展示まであった。あまり見る機会のない、等身大の女性と男装した女性の姿をした2体のラブドールを間近にし、意外にも洋服を着た外観が普通であることに拍子抜けした。しかしどこか虚ろな眼差しがラブドールらしさを物語っている。何らかの理由でこうしたラブドールを必要とする人がおり、彼らはラブドールに家族や恋人のような愛情を注ぐのだという。人の代わりとなってさまざまな場面で人を演じる人形は、いまも昔も、人にとって欠かせないものであり続けるのだろう。


川路農美生産組合《伊那踊人形》(1920〜30年代)上田市立美術館蔵[撮影:齋梧伸一郎]


高浜かの子《騎馬戦》(1940)国立工芸館蔵[撮影:アローアートワークス]




公式サイト:https://shoto-museum.jp/exhibitions/200dolls/

※会期中、一部展示替えあり。
前期:2023年7月1日(土)~30日(日)
後期:2023年8月1日(火)~27日(日)
※18歳以下(高校生含む)の方は一部鑑賞不可。

2023/07/15(土)(杉江あこ)

artscapeレビュー /relation/e_00065884.json s 10186493

デイヴィッド・ホックニー展

会期:2023/07/15~2023/11/05

東京都現代美術館[東京都]

出品作品127点。うち東京都現代美術館の所蔵品は91点なので、大半が同館コレクションとなる。お、すげえな、単館のコレクションで「ホックニー展」がほぼ成立するんだと一瞬感心しそうになるが、うち90点はリトグラフやエッチングなどの版画かフォト・コラージュ(2点)で、タブローは1点のみ。版画美術館か? 展覧会全体でも油彩もしくはアクリルのタブローは16点だけで、しかも初期のブリティッシュ・ポップや西海岸の青い空、プール、シャワー、友人たちを描いたいわゆるホックニーらしいタブローはその半分しかない。なーんだがっかり……と思うのは早計だ。確かに昔ながらの「ホックニー展」を期待していた向きには寂しいが、その代わり、21世紀以降に手がけた大作が何点も見られるのは嬉しい限り。なにしろ日本では27年ぶりの大規模な個展なので、これらの近作は初公開となる。

ホックニーがデビューした1960年代初頭は抽象絵画の全盛期。やがてミニマル・アートやコンセプチュアル・アートが台頭してアートシーンが行き詰まるなか、ホックニーはマティスのように明るい色彩の具象絵画を描き続け、大衆的な人気を集める。1980年代に入るとピカソのキュビスムに触発され、写真をたくさん貼り合わせてひとつの画面をつくる「フォト・コラージュ」を開始。ここから遠近法にとらわれない多焦点的な空間表現が広がっていく。いわばマティス的な色彩にピカソ的な造形が加わって、ある意味20世紀最強の画家になっていく。

だがホックニーのすごいのは、21世紀に入ってからも新しいメディアを制作に取り入れる貪欲さだ。1991年には早くもコンピュータ・ドローイングを始め、2010年からiPadで描くようになる。近作の《ノルマンディーの12ヶ月 2020-2021年》は、コロナ禍の1年を通してiPadで描いた風景画をつなぎ合わせ、長さ90メートルという長大な画面に再構成した作品。ここには四季折々の風景や1日の時間の移り変わり、天候の変化などが1枚の画面に次々と展開していき、日本の絵巻物やモネの連作を想起させる。でもタブローではなく紙にプリントだから、印刷物を見てるのと変わらないけどね。

手描きでは、50枚のキャンバスをつなげた《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》(2007)が圧巻。なにしろ4.6×12メートル以上というホックニー史上最大の超大作なのだ。しかもこれ、屋外でわずか6週間ほどで描き上げたというから驚く。描かれているのは郊外の林で、広角で木立全体を捉えながら枝の1本1本まで描き込んでいる。巨大画面は、いわば木を見て森も見るというミクロとマクロの視点を融合させるために必要だったのだろう。全体のイメージを画面ごとに分割して再構成しなければならないため、制作にはデジタル技術の助けを借りたというが、それにしても70歳にしてこれを1ヶ月半で描き上げるというのがすごい。カタログには、ビールを前にタバコ片手に微笑む満84歳の近影(2021)が載っている。まだまだやらかしてくれそうだ。


公式サイト:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/hockney/

2023/07/14(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00065822.json s 10186500

新山清:Vintage Photographs 1948-1969

会期:2023/07/05~2023/07/29

スタジオ35分[東京都]

先月、Alt_Mediumで展覧会を開催したばかりの新山清の作品を、今度は東京・新井薬師前のスタジオ35分で見ることができた。今回の展示でも、新たな切り口が提示されている。新山が残した1948年から1969年まで制作のヴィンテージ・プリントから、写真家の畠山直哉が20点をセレクトして展示したのだ。

畠山は、以前から新山の写真に関心があったようだが、スタジオ35分の酒航太の依頼によるセレクションは、多分に偶発的なものだった。だが結果的には、いかにも畠山らしい、厳密な造形意識と遊び心が融合した作品が選ばれており、新山清の作品世界の解釈に新たな観点を打ち出していた。畠山は展覧会に寄せたテキストで「歴史的及び文献学的なパースペクティブに基づく客観的価値判断は、ほとんどおこなわれておりません」と書いているが、おのずと畠山が追い求めていた被写体のフォルムを強調する、モダニズム的な写真創作の原理を体現した作品が中心になった。だがそれだけではなく、写真を撮ること、プリントすることの歓びが溢れ出ているような作品が多く、畠山自身も驚き、愉しみつつセレクトしている感触が伝わってきた。特に、新山が不慮の死を遂げる直前の、1969年に台湾で撮影したという岩や山羊の群れの写真に、心惹かれるものを感じた。

先にも書いたように、新山清の作品世界を多面的、かつ総括的に検証すべき時期が来ているのではないだろうか。より大きな会場での回顧展をぜひ見てみたい。


公式サイト:https://35fn.com/exhibition/kiyoshi-niiiyama-exhibition/

関連レビュー

新山清「松山にて」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2023年07月15日号)

2023/07/12(水)(飯沢耕太郎)

テート美術館展 光 ─ターナー、印象派から現代へ

会期:2023/07/12~2023/10/02

国立新美術館[東京都]

蔡國強の「原初火球」をやってる美術館の2階で「光」の展覧会とは、引火でもしたのか? 同展はイギリスのテート美術館のコレクションから「光」をテーマに作品を集めたもの。「テート美術館」とはあまり聞き慣れないが、イギリス美術に特化したテート・ブリテン、近現代美術専門のテート・モダンに、リバプールとセントアイヴスの分館を合わせた組織で、かつてのテート・ギャラリーのことだろう。だからコレクションはイギリス美術と世界の近現代美術が中心となる。

薄暗い第1室に足を踏み入れると、正面にターナーの晩年の絵が目に入る。確かにターナーの晩年の作品は海も空も船も人も光に包まれ溶け込んでしまっている。なかでも正方形に近い3点は、画面の周縁にいくに従ってボケて視野が円形になっている。これは望遠鏡でのぞいたような、あるいはピンホールカメラで撮ったようなイメージではないか。ターナーはもはや肉眼そのものが光学機器と化していたとしか思えない。おそらく「光」というテーマは、イギリスが生んだ唯一の大画家ターナーを起点に考えられたものだろう。その隣に巨大なエイリアンの卵みたいなオブジェが鎮座しているが、これはアニッシュ・カプーアの作品。各展示室に1点ずつ現代美術作品が置かれているのだ。でもカプーアの作品はタイトルこそ《イシーの光》(2003)ではあるけれど、光ってもいなければ闇に徹するわけでもなく、なんか中途半端。

その向こうにはウィリアム・ブレイク、ジョン・マーティン、ジョセフ・ライト・オブ・ダービーらの作品が続く。マーティンの《ポンペイとヘルクラネウムの崩壊》(1822)、ライトの《噴火するヴェスヴィオ山とナポリ湾の島々を臨む眺め》(c.1776-80 )という同主題のカタストロフ絵画が並ぶさまは壮観というほかない。全7室あるなかで、最初のこの薄暗い部屋がいちばん光り輝いていた。

第2室は、コンスタブルにラファエル前派と印象派を加えた構成。ラファエル前派はラファエロ以前の中世の職人に戻れっていう時代錯誤の集団だから、あまり光の表現には縁がなさそうだが、唯一ジョン・エヴァレット・ミレイの《露に濡れたハリエニシダ》(1889-90)は、朝露に輝く草木を描いた珍しい風景画。いわれなければラファエル前派だと気づかない。モネが2点あるのは納得できるが、印象派のなかでは目立たないシスレーも2点あるのはなぜだろうと思ったが、両親がイギリス人だからに違いない。アメリカ生まれのホイッスラーもイギリスに住んでいたせいか、《ペールオレンジと緑の黄昏──バルパライソ》(1866)が出ている。これがおもしろいことに、場所と朝夕の違いを除けばモネの《印象・日の出》(1872)とほぼ同じ構図で、モネより数年早いのだ。ちなみにこの部屋の現代美術は、穴の開いた鏡面6枚で組み立てた草間彌生による立方体の作品。

第3室のハマスホイを抜けて、第4室はドローイングや写真など紙作品が大半を占める。興味深いのは、金属球に窓が反射する様子を描いたターナーの紙作品。ロイヤル・アカデミーでの講義のために作成した図解で、本人こそ映っていないもののエッシャーの自画像を思い出す。第5室は、カンディンスキーからバーネット・ニューマン、マーク・ロスコ、ブリジット・ライリー、ゲルハルト・リヒターまで抽象絵画で統一されている。でも濡れた路面を想起させるリヒターの「アブストラクト・ペインティング」以外は「光」を感じさせない。

最後の第6、7室はオラファー・エリアソン、ブルース・ナウマン、ジェームズ・タレルらによるライトアート(懐かしい響き!)が勢ぞろい。でも本物の光を出されてもなんだかなあ、光を使わずに「光」を表現する作品が見たかった。こうして見ると、後半は抽象とライトアートばかりで、具象絵画が見当たらない。とりわけ、ターナーに次ぐイギリスの大画家ホックニーの作品がないのはなぜだろう。カリフォルニアの明るい日差しを描いた絵はともかく、カメラ・ルシーダをはじめとする光学機器を使った絵画技法の研究成果や、モネの連作を思わせる光の移ろいを描いた近年の大作はテートにもあるはずだ。それとも東京都現代美術館の「ホックニー展」に取られちゃったのか。


公式サイト:https://tate2023.exhn.jp/

2023/07/11(火)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00065870.json s 10186501