2018年12月01日号
次回12月17日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

バッドアート美術館展

会期:2018/11/22~2019/02/11

Gallery AaMo[東京都]

ひどい絵ばかりを集めた美術館が実在するそうだ。ボストンにあるバッドアート美術館で、通称MOBA(モバ)。コレクションは800点を超え、今回はそのなかから100点以上が初公開されている。会場は東京ドームシティ内のギャラリーアーモ。英語表記は「AaMo」で、AはArt、Amusementのイニシアル、aMoはand Moreだそうだ。展覧会も会場もキワモノっぽいが、これがなかなかアートについて考えさせてくれる。むしろキワモノゆえにアートの枠組みが浮かび上がってくる、というべきか。

ひとくちに美術作品といってもピンキリで、最良のものは美術館やギャラリーで見られるが、最悪のものはまとめて見る機会がない。ならば最悪のものばかり集めようというのがバッドアート美術館だ。でも最良に比べて最悪を決めるのは難しい。なぜなら最良のものは厖大な作品の山の頂点にわずかしかないけれど、最悪のものは広大な底辺に無数に存在するからだ。いや底辺だけでなく、頂点のすぐ下にとてつもない最悪の作品が埋もれているかもしれず、いってしまえば頂点を除くすべてに最悪の可能性があるのだ。そんな最悪の山からどれを選ぶのかが悩ましいところ。ウィキペディアの「バッドアート美術館」によれば、「オリジナルであり、かつ真面目な意図を持った作品でなければならないが、同時に重要な欠点をそなえていなければならず、何より人を退屈させるものであってはならない」というのが選択基準らしい。重要なのは最後の「人を退屈させない」ことだろう。「笑える」といいかえてもいい。

実際どんな作品が集まっているのかというと、端的にいえばヘタな絵、変な絵、失敗作など。大半は素人で子供の絵もあるが、わざとヘタに描いた絵や故意に笑いをとろうとした作品はNGだ(NGはノーグッドだがバッドではない)。抽象がないのはわかるが(退屈だから)、アウトサイダーアートがないのは意外だ。すでにアートとして認められてしまったからだろうか。作品の横にはタイトル、作者名、制作年、素材などを記したキャプションがついていて、曲がりなりにも展覧会の体をなしているが、ところどころ2段掛けにしてあるし、大半は額縁に入ってないし、額縁がついてるものもかなり安物だし、絵の脇にしりあがり寿によるツッコミのフキダシがついていたりもする。これってひょっとして、ナチスによる「頽廃芸術展」に似てなくないか?

「頽廃芸術展」は前衛嫌いのヒトラー率いるナチスが、おもに表現主義絵画を美術館から押収して「頽廃芸術」の烙印を押し、狭い会場に並べて壁に侮辱的なコメントを記して嘲笑の的にしたというもの。その後、作品は外国に安く売り飛ばしたり、焼却された例もあったという。もちろんバッドアート美術館の場合、本人や遺族の了承を得て収集・展示されているはずだが、作者の意に反して笑いのネタにされているものもあるんじゃないか。逆にいまの時代、これらの作品が高く評価され、億単位で売買される可能性だってないわけじゃない。……それはないか。

2018/11/21(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00046978.json s 10151047

岩根愛「FUKUSHIMA ONDO」

会期:2018/11/17~2018/12/02

Kanzan Gallery[東京都]

岩根愛は、青幻舎から上梓した『KIPUKA』におさめられた、深みと広がりを備えたハワイの写真群を、いくつかのギャラリーで断続的に展覧会を開催するという形で展開している。10月の銀座ニコンサロンでの「KIPUKA」展に続いて、東京・馬喰町のKanzan Galleryでは、「FUKUSHIMA ONDO」展が開催された(キュレーションは原亜由美)。

岩根はハワイの「BON DANCE」に魅かれて、2006年から取材を続けてきた。その過程で福島の相馬盆唄の唄、踊り、太鼓や笛などを伝え、「FUKUSHIMA ONDO」として流布させるきっかけをつくった日系一世の4家族にたどり着く。今回の展示の中心は、それらの一家を撮影した家族写真の画像を、彼らが過ごしていた居留地の草むらや森に投影した作品である。ほかに、やはり岩根が長年にわたって撮影してきた日系移民の墓石群や「マウイ島に残された最後のサトウキビ畑」の写真、キラウエア火山の溶岩流をテーマとした映像作品《Fissure8》などが展示され、会場の中央には「FUKUSHIMA ONDO」の踊り手たちの手の動きをクローズアップで捉えた、長さ5mのパネルが置かれていた。

銀座ニコンサロンの展示でも感じたのだが、複雑に枝分かれし、異なる地域や時代を飛び越え、結びつけていく「KIPUKA」の写真群を、それほど大きくないスペースで見せるのはやや無理がある。だが、あたかも巡礼のようにギャラリーを回っていくことで、観客は、大きな会場で作品を見るのとはまた違った視覚的体験を味わうことができるではないだろうか。東京・西麻布のKana Kawanishi Photographyでも、同時期にパノラマ作品を中心にした「KIPUKA—Island in My Mind」展が開催された(11月24日〜12月22日)。これらの連続展の延長として、例えばハワイや福島での同作品の展示も考えられそうだ。とはいえ、やはりもっと広いスペースで、まとめて作品を見てみたいという気持ちも抑えがたい。

2018/11/18(日(飯沢耕太郎)

みくになえ「glare」

会期:2018/11/14~2018/11/25

72 Gallery[東京都]

みくになえの写真展のタイトルになっている「グレア現象」というのは、「車のヘッドライトの光が重なる時、人の姿が見えなくなる」状況を指す言葉だという。みくには、自動車教習所で免許取得の講義を受けている時に教科書でこの言葉を知り、強いインスピレーションを受ける。そこから「ヘッドライトの光が重なる時、失われた魂が再び浮かび上がることもあるんじゃないか」と妄想を膨らませて制作を開始したのが、今回の出品作「glare」である。

みくにの作品は、筆者も審査員のひとりである第34回東川町国際写真フェスティバルの「赤レンガ公開ポートフォリオオーディション」でグランプリを受賞して、今回の個展が実現した。だが、今年8月の受賞時にはまだ作品のクオリティが不十分で、実際に展示ができるかどうかが危ぶまれていた。その後、カメラを精度の高い一眼レフに変え、連続撮影などの手法も取り入れ、さらにスライド上映や展示の仕方もブラッシュアップすることで、見応えのある展示が実現した。あくまでもカメラの機能に身を委ねて、「人の姿が見えなくなる」という現象そのものを定着した写真群は、意図的な「絵作り」を禁欲的に避けることで、逆に観客のイマジネーションを喚起する魅力的な作品として成立していた。ユニークな思考力と実践力とを併せ持つ写真作家の登場といえるだろう。

多摩美術大学芸術学科出身のみくになえには、制作行為をきちんと言語化できる能力も備わっている。今後はそれを活かして、テキストと写真(映像)とを融合させた作品に向かうことも考えられるのではないだろうか。

2018/11/17(土)(飯沢耕太郎)

主観主義写真における後藤敬一郎

会期:2018/11/14~2018/12/01

スタジオ35分[東京都]

日本では「主観主義写真」と称されるSubjective Photographyの理念は、1950年代にドイツのオットー・シュタイネルトが提唱して世界中に広がった。現実世界をそのまま忠実に再現・描写するのではなく、写真家の主観性、創造性を強調する彼の主張は、第二次世界大戦前の実験的、前衛的な写真のあり方を、戦後に再び再構築しようとする試みであった。日本では1956年に日本主観主義写真連盟が結成され、『サンケイカメラ』主催で国際主観主義写真展が開催されている。

名古屋在住の後藤敬一郎もその有力作家のひとりで、同時期に、抽象的なオブジェや風景写真を盛んに発表していた。もともと、後藤は日本におけるシュルレアリスムの拠点のひとつであった名古屋で、戦前から前衛写真家としての活動を続けており、戦後は1947年に高田皆義、山本悍右らと写真家グループ「VIVI」を結成するなど、「リアリズム」が主流だった当時の写真界にあって異彩を放つ存在だった。今回の「主観主義写真における後藤敬一郎」展は、1970年代まで旺盛な創作意欲を発揮し続けた彼の、1950年代の活動を中心としたもので、当時のヴィンテージ・プリントのほか、ネガから新たにプリントした未発表写真も多数展示されていた。

スタジオ35分では、以前にも日本主観主義写真連盟のメンバーのひとりだった新山清や大藤薫の展覧会を開催しており、 今後も「主観主義写真」にスポットを当てた展示を企画していくという。これまでは、戦前の「前衛写真」への郷愁といううしろ向きのベクトルで捉えられがちだった「主観主義写真」だが、国際主観主義写真展には大辻清司、石元泰博、奈良原一高らも出品しており、むしろ次世代の新たな写真表現を切り拓く運動だったという見方も出ている。今後の掘り起こしをさらに期待したいものだ。

2018/11/16(金)(飯沢耕太郎)

アメリカ近代写真の至宝 ギルバート・コレクション展

会期:2018/11/09~2018/11/28

フジフイルム スクエア[東京都]

アメリカ・シカゴ在住のアーノルド&テミー・ギルバート夫妻は、1968年から集中してアメリカ近代写真のコレクションを開始した。自身もアマチュア写真家で、アンセル・アダムス、アーロン・シスキン、ブレット・ウェストンら近代写真の巨匠たちとも親交のあった彼のコレクションは、特にニュー・バウハウスを前身とするシカゴ・インスティテュート・オブ・デザイン出身の写真家たちの作品を多く含む貴重なものである。そのうち1050点が、息子のジェフリー・ギルバートの斡旋で1986年に京セラ株式会社によって購入され、京都国立近代美術館に寄贈された。今回のフジフイルム スクエアでの展示は、そのなかからアメリカ近代写真の創始者のアルフレッド・スティーグリッツやポール・ストランドの作品を含む約70点を厳選したものである。

京都国立近代美術館の「ギルバート・コレクション」は質量ともに国内の美術館所蔵の写真作品の白眉と言えるが、なかなかその全貌を見る機会はない。その意味で、ダイジェスト的な展示には違いないが、その一部が東京で公開されるのはとてもありがたい。特に一般の観客にとっては、アンセル・アダムス、イモジェン・カニンガム、エドワード・ウェストンなどの大判カメラを使用した風景写真のヴィンテージ・プリントを目の当たりにする機会はなかなかないので、とても有意義な展示になった。デジタル・プリントも年々進化して、モノクロームの銀塩プリントと比較しても遜色ないレベルに達しているが、それでも黒の深みや諧調の豊かさにおいては見劣りがする。さらに、どのようにも加工できるデジタル・プリントの場合、モノクローム表現の基準をどこに置けばいいのかが曖昧になりがちだ。まさに「ザ・スタンダード」というべきアメリカ近代写真の巨匠たちの作品を、ぜひ目に焼き付けておいてほしい。

2018/11/14(水)(飯沢耕太郎)

文字の大きさ