artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

川俣正「アパートメント・プロジェクト」1982-86 ドキュメント展~TETRA-HOUSEを中心に~

会期:2023/07/07~2023/09/07

ギャラリーエークワッド[東京都]

40年前に川俣正が日本各地で展開した「アパートメント・プロジェクト」を振り返るドキュメント展。川俣は1970年代末から、画廊に材木を組んでいくインスタレーションを矢継ぎ早に発表して注目を浴び、早くも1982年にはヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表のひとりとして参加する。だがそこで「いま世界は新表現主義の絵画ブームなのに、材木でインスタレーションしてる場合か?」との疑問にぶち当たる。そこで彼は作品づくりにリアリティを持たせるため、画廊や美術館から出て日常空間に「作品づくり」をスライドさせることを画策。帰国後、さっそく実現したのが「アパートメント・プロジェクト」だった。



TETRA-HOUSE 制作中の川俣正と学生スタッフ(1983) [撮影:曽我恵介]



第1号は、都内のアパートの一室を借りてインスタレーションした「宝ハウス205号室」。このとき訪れたのはわずか20人ほどだが、そのなかに写真家の安斎重男氏や宮本隆司氏、福岡市美術館と北海道立近代美術館の各学芸員がいた。安斎氏と宮本氏はこれを写真に撮り、ふたりの学芸員はそれぞれの場所でプロジェクトを行なうことを約束。翌1983年1月に福岡で「大手門・和田荘」を行ない、4月には所沢で「SLIP IN 所沢」、8月には札幌で「TETRA-HOUSE 326」を実現する。

翌年、川俣はACCによりニューヨークに移住したため、「アパートメント・プロジェクト」はこの4つで終了。その後、1986年にデン・ハーグの再開発地域に取り残された住居で行なった「スプイ・プロジェクト」を含めてもいいが、この「スプイ・プロジェクト」によって翌1987年のドクメンタ8への参加が決まったのだから、「アパートメント・プロジェクト」が川俣のその後の活動の方向性を決定づけると同時に、彼がアートワールドに飛び込むスプリングボードになった重要なプロジェクトであることがわかる。今回、札幌でのプロジェクトから40年になるのを機に、道立近代美術館の学芸員だった正木基氏がドキュメント展と記録集の出版を企画したというわけ。

パリに住む川俣も帰国し、会場入り口前に「テトラハウス」のインスタレーションを2分の1サイズに縮小して再現。ギャラリーには安斎氏や宮本氏による写真をはじめ、マケット、ドローイング、版画、掲載紙誌などが並ぶ。会場構成も川俣自身が手がけたが、仮設壁には塗料の下から文字がうっすら見え、使い回しであることがわかるようにあえてラフに仕上げている。ここらへんが川俣らしい。ちなみにぼくも福岡と札幌で行なわれたシンポジウムに参加したが、そのときの映像も流れている。ああ若い。



会場入り口のテトラハウス再現インスタレーション[筆者撮影]


公式サイト:https://www.a-quad.jp/exhibition/exhibition.html

2023/07/07(金)(村田真)

Under35/Over35

会期:2023/07/07~2023/09/12

BankART Station、BankART KAIKO[東京都]

パシフィコ横浜で開かれるアートフェア「東京現代」に合わせて企画された2つの公募展。「Under35」は35歳以下の若手作家を対象としたコンペで、BankARTではこれまで52組のアーティストを紹介してきた。今回はこれに加えて35歳以上を対象とする「Over35」のコンペも実施。てことは何歳でもどちらかに応募できるってわけだ。ただし作家本人だけでなく、マネージャー込みの応募となっているのがミソ。つまり作家・作品を客観視できる人を介在させることで敷居を少し高くし、併せて作品の制作・展示における責任の所在を明らかにする意図もあるようだ。ぼくはこの審査に関わったので、その前提の下に感想を述べたい。

まずBankART Stationの「U35」は、凡人(「ボンドマン」と読む)、佐貫絢郁、宇留野圭の3組。会場に入って最初に出くわす青緑色のでかいオブジェが、凡人を名乗る3人のアーティスト・コレクティブの作品。鉄パイプで骨組みをつくり、そこに金網をかぶせて粘土を盛り上げ、巨大な潜水艦を出現させようというのだが、粘土の量が足りないのか、構造上の問題なのか、潜水艦というより小屋に薄皮の粘土を被せたような印象だ。その微笑ましいショボさが凡人らしいのかもしれないが。

その奥の佐貫絢郁は、紙に水彩を中心に樹脂粘土による小さなオブジェも出品。これらは昨年から滞在しているタイのバンコクで始めた作品だそうで、水彩は主にアルファベットを絵の骨格として淡い色彩で塗り分けている。絵としてはいい感じなのだが、いかんせん紙に水彩というのは、35歳以下の若手アーティストが競い合うこういう場では弱い。まあ本人は「競い合う」などと考えていないだろうけど、見る側からすれば物足りなさを感じてしまうのだ。

いちばん奥が宇留野圭で、これが実に奇妙な作品。《密室の三連構造》は、3つの大中小の箱がクレーンのアームのような骨組みでバランスをとりながら支えられ、塔のように立っている。箱のなかは散らかった部屋のようなつくりで、照明やペットボトルなどが乱雑に置かれ、そのうちのひとつが暴力的に動くので塔全体が震えるのだ。なんだこれ? 《17の部屋─耳鳴り》はもっと謎で、表向きは人ひとりが入れるほどの箱というか小部屋というかが並び、それぞれ蛍光灯がついているので明るい。裏に回ると中小の箱が10数個左右対称に取り付けられ、やはりそれぞれに日用品が入っていて、各箱はダクトによってつながれ空気が送られているという。全体としては団地のような、機械のような、ゲーム機のような、つまり得体が知れないのだ。さらに得体の知れないのが最新作の《Keyway》で、角の丸い木材を塗装して組み立てた組木細工のような作品で、動きもしなければ光りもしない。ま、彫刻といえばそれまでだが、いずれにせよよくつくり込んでいる。



宇留野圭《密室の三連構造》展示風景[筆者撮影]


別会場の35歳以上は、蓮沼昌宏と島島(アイランズ)の2組。蓮沼といえば、パラパラ漫画の原理を応用したキノーラの作品で知られるが、今回はそれ以外にもキャンバスに油彩や、額縁の代わりにイリュミネーションで囲った賑やかな絵画もある。作品はいいのだが、蓮沼はキャリアは豊富ながらまだ今年42歳。作品が広く知られるようになってから10年も経っていないので、世代的には「U35」とそれほど離れていない。今回せっかく「Over35」を設けたのだから、「U35」との対比を際立たせるためにも60代、70代の高齢者を選んだほうがよかったような気もする。逆にいえば、蓮沼は作品本位で選ばれたってことだ。

一方の島島(アイランズ)は、台湾の劉時棟、香港の梁志和、日本の開発好明という3つの「島国」のアーティストによって(にわかに)結成された、全員50代という中年コレクティブ。彼らはいずれもアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)のレジデンス・プログラムに選ばれ、1999年にニューヨークで出会ったという。今回は23年ぶりに3人が再会し、開発がマネージャーとなって2人の作品を紹介。これは作品本位というより、マネージャーの企画力で選ばれた例だ。台湾と香港という緊張をはらんだ島のアーティストの作品を日本で見せることの重要さを思う。24年前に彼らが一堂に介したときとは世界状況が変わっているのだ。


公式サイト:https://www.bankart1929.com/u35/index.html

2023/07/06(木)(村田真)

スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた

会期:2023/07/07~2023/09/12

国立西洋美術館[東京都]

ヨーロッパのなかでもピレネー山脈に隔てられたスペインは、アフリカに隣接し、かつてイスラム圏に属したこともあるせいか文化的にちょっと異質なイメージがある。一般的にスペインといえば、フラメンコ、闘牛、アルハンブラ宮殿、現代ではサッカーが有名か。文学ではセルバンテスの『ドン・キホーテ』しか思いつかないが、美術だとベラスケス、ゴヤ、ピカソと1、2世紀にひとりくらい天才画家を輩出した国として知られる。そんなスペインのイメージを広く伝えてきたのが版画であり、今回は同館所蔵の版画を中心に、スペインという国のイメージの変遷をたどろうという企画だ。

最初は17世紀初頭に著された『ドン・キホーテ』の挿絵や版画が並ぶ。物語のおもしろさだけでなく、馬にまたがる貧相なドン・キホーテとロバに乗る太っちょのサンチョ・パンサのヴィジュアルは、それだけで「絵になる」せいか、ホガース、ゴヤ、ドーミエ、ダリなどが描いていきた。セルバンテスより少し後の17世紀を代表する画家といえばベラスケスだが、彼の作品は大半がスペイン国内にあったため、19世紀にプラド美術館が開館するまであまり知られていなかった。ゴヤやマネがこの巨匠の絵を版画にしたが、とりわけマネによるベラスケスの模写や援用が近代絵画の革新を生み出すことになる。

展示はその後、アルハンブラ、フラメンコ、闘牛と続くが、正直だんだん飽きてくる。だって「版画を通じて」なんだもん。スペインの特異なイメージを伝えるというコンセプトは悪くないし、ちょうど「ガウディとサグラダ・ファミリア展」も開かれていてタイミングもグッドなんだけど、そもそもの出発点がコレクションの版画を見せようということだから限界がある。蛇足だが、常設展示室の奥では小企画展「美術館の悪ものたち」をやっていて、こちらも版画中心だが、テーマを膨らませればもっとおもしろくできそう。ぜひ規模を拡大して企画展示室で見せてほしい。


公式サイト:https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023spain.html

美術館の悪ものたち

会期:2023年6月27日(火)~9月3日(日)
会場:国立西洋美術館 新館2階 版画素描展示室
(東京都台東区上野公園7番7号)

関連レビュー

ガウディとサグラダ・ファミリア展|村田真:artscapeレビュー(2023年07月01日号)

2023/07/03(月)(村田真)

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笹本晃《パフォーマンス記録映像 ストレンジアトラクターズ》(「森美術館開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」より)

会期:2023/04/19~2023/09/24

森美術館[東京都]

先月のレビューで森美術館の「開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」について取り上げたのだが、そのなかでも「浮いている」と思ったのが笹本晃の《パフォーマンス記録映像 ストレンジアトラクターズ》(2010)である。その理由はひとまず置いておいて、展覧会のなかで記録映像然として比較的小さなディスプレイで展示されていた本作を簡単に説明するならば、30分ほどで人間を4つの分類として語るレクチャーパフォーマンスの記録映像だ。

レクチャーがどのような場所で行なわれているかというと、長机が3つも入れば窮屈になりそうなインスタレーションの中でである。そこには天井から吊るされた10ばかりの赤いネット。一つひとつのネットには、ビデオカメラだったり、ラベルのないカップ酒のようなものが入っていて、その自重で赤い網はピンと伸びきっている。たまに笹本が網に触れて揺れる。ステンレスか何かの円と半円でできたシャンデリア、マイクが仕込まれた机、円座クッション、人がひとり入れるくらいの筒。笹本がたまたま触れたように思える机には、レクチャーで必要な備品が仕込んであったりする。この中を笹本は歩き回り、机や壁に貼った紙でダイアグラムを描いたり、話し続ける。その内容は実のところ多岐にわたる。お気に入りのドーナツについて、筒と人体の類似点、7人の霊能力者に会ったこと。しかしながら、最後に語られるのは、人間の4分類である。

人間の99.9%であり群れを好むノーム。研究室に籠る日常と日課に満足しているカフナー教授。あらゆるノームが魅了され奉仕するもノームに興味がなく無視するティンク。ノームに嫌悪されノームの群れからティンクを識別できるオッズ。オッズはかつて(別の生で)ティンクであり、ティンクはかつて(別の生で)オッズだったから相互に感知でき、カフナー教授はかつて(別の生で?)ノームだったから、ノームについて理解できると解説が入った。

例えばオッズの幼少期はノームによるいじめによって特徴づけられると語られるように、それぞれの性質は他者によって相互に浮かび上がってくるのだ。

この解説をするにあたり、笹本はこの四者がどういった次元で存在しているのかを図示していく。それが会場にあったドローイングに見える図だ。それぞれ、《ストレンジアトラクターズ─図 2011年1月9日》、《ストレンジアトラクターズ─図 2010年12月18日》、《ストレンジアトラクターズ─図 2010年1月31日》と別日に開催されたパフォーマンスのなかで描かれていることがわかるし、この図を見ることで、どこか傍若無人なレクチャーに、明確な再現性が担保されていることがまざまざと示される。空を飛ぶように生きるティンクに対置するように、オッズは99.9%の人間に嫌われながら地底に生きるという。なんて悲惨だと思ったのも束の間、しかし、オッズは人生で一度、土から飛び立つことができるらしい。でも、世界のあまりの明るさに眼がくらんでその出芽はうまくいくとは限らないのだと笹本は続ける。

笹本によるレクチャーは4つの分類を俯瞰するように話が進むが、後半になるにつれ、語りの主体はオッズの視点が強くなっていく。そしてつぶやく。「この人生の目的はカフナー教授をみつけること」。

「それぞれのグラフは重なり合っているのかもしれない」「それが可能なら きっと 私は他のタイプに会えるだろう」「もし可能なら 私は孤独から抜け出せるだろう」。

笹本がつくり出したオブジェのなかで繰り広げられる4分類についての問答は、ジョックやクイーン・ビーを頂点とした「クリーク」ないし「スクールカースト」に似た節がありつつも、それぞれの分類が、自身の振る舞いや努力の過多、能力の傾向の問題でないという点で、運命に近しい。結果、人種や年齢やジェンダーといったさまざまな要素を加味したインターセクショナリティーの観点をどこか想起させるが、そういった性質の話とも違う。なぜなら本作で人間は、筒でしかないという話も出ていたわけだから。

レクチャーの途中で、土から出たオッズの行方はいくつか例示されるが、そのなかでもノームの世界に入ることができた場合は幸運なようだ。ただし、ノームの外側にいた者がノームの内側に入ることとは、「内側と外側に同時に居るもの」というモチーフで重ねられていく。それはドーナツの穴であり、痔であり、孤独という言葉で語られる。

「この人生の目的はカフナー教授をみつけること」。カフナー教授はノームのあれこれを記述する存在だ。だからオッズが求める「カフナー教授をみつける」とは、ある意味での言語化、社会的な理解を得る糸口に出会うことそのものだとも考えられる。美術作品に対する「カフナー教授」がいるとしたら、それはキュレーターかもしれないし、たまたま作品に出会った鑑賞者の可能性もある。

映像は笹本による「あっち行け」の連呼で終わる。これはオッズがノームに言われてきた言葉のはずだ。本作にとってのカフナー教授はどこにいるのだろうか。わたしの完全な憶測だが、カフナー教授だけは、後天的に発生した存在に思われてならない。

本展で本作が浮いていたと思ったのは直観的なものだが、その理由を考えてみると、なぜこの展覧会にこの記録映像があるのかという視点がキャプションで触れられていなかったからだ(もう一方の笹本の作品《ドゥー・ナット・ダイアグラム》で紙幅が足りなくなったように思える)。その他方で本作は、「あっち行け」という幼げな口調の連呼が暗示するように、クラスルームで起こる悲惨な出来事そのものについて、そしてその相関関係が学校というよりも社会全体とどう連続するかも含意している。30分近くある小さなディスプレイの記録映像はなかなか通しで見られる対象ではないだろう。しかし、本展が「知識」を中心に据えていたことを念頭に置くと、カフナー教授の不在を巡るこの記録映像は重要な作品のひとつだったと思う。

本展は平日2000円、土日祝は2200円で観覧可能でした。


開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/02/index.html

2023/07/01(土)(きりとりめでる)

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開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会

会期:2023/04/19~2023/09/24

森美術館[東京都]

会場に入って最初に遭遇したのは「国語」と半立体で示された大きな文字と、ジョセフ・コスースの《1つと3つのシャベル》(1965)だった。シャベルの実物と、シャベルの写真と、英語の辞書に掲載された「シャベル」の定義が並んでいる。いずれも作家が作成したものではない。シャベルの絵だったら「美術だ」とわかりやすいだろうか。いや、美術とは、ものそのものではなく、何かを表現したものでしかなかったのだろうか。芸術はイメージのみでなく、概念そのものをこそ扱うという作品だ。なぜこれが国語と位置付けられたのか。

コンセプチュアル・アートの金字塔から入って、本展は150点以上の作品が所狭しとひしめいている。映像作品も多く、すべてを余すことなく視聴しようとしたら休憩を挟みながら1日必要なほどだ。しかしながら、その多くが収蔵作品ということもあるからか、キャプションでの作品説明が行き届いているため、例えば、スーザン・ヒラ―による映像作品《ロスト・アンド・ファウンド》(2016)を30分見続けなくてはならない、と思う人はいないはずだ。

この作品は、さまざまな消失した、あるいは失われつつある言語を話す人々の話を収録し、その声とその波形を映像にしたものである。鑑賞体験の99%以上は結果的に英語を基点とした翻訳(日本語での字幕はきっと、英語からの翻訳だろう)で把握可能になるが、キャプションにあったとおり、それは帝国主義や植民地主義が押しつぶしてきた言語の歴史と表裏一体である。こうなってくると、背後にある、いまさっき見たコスースの英語の使用が透明な媒体に思えなくなってくる。だからこの二つは「国語」になくてはならなかったのだろう。

スーザン・ヒラ―の暗室を出てすぐにあるのは、米田知子の「見えるものと見えないもののあいだ」シリーズだ。例えば、フロイトの眼鏡のレンズを通してユングのテキストを見るという構図の写真であるのだが、活字にしても、それが誰にとってどう見えるのかという個人のありようが、無味乾燥な活字に意味を与える。

続くのはミヤギフトシの《オーシャン・ビュー・リゾート》(2013)。沖縄出身のある男はなぜアメリカに渡ったのか、だれをどう恋しく思っているのかを英語のモノローグで綴る。隣のイー・イランはボルネオ島のさまざまな織手と協働制作を行なっており、本展の《ダンシング・クイーン》(2019)は竹でできた巨大なタペストリーだ。そこにはABBAなど世界的な流行曲の歌詞が英語で織り込まれ、キャプションではABBAやレディ・ガガの音楽が「織手の生活へ寄り添ってきた」ものであることが示されていた(2021年のABBAのニューアルバムはマレーシアを含む世界40カ国と地域でiTunes1位を獲得した)。イランの作品とミヤギの作品、それぞれにとって一定の意味をもつ英語という言語で受容してきた文化のあり方に、四方八方へと心が揺さぶられる。

「国語」というより、コスースならイデア論を引いて「哲学」、ミヤギなら歴史を踏まえて「社会」なのではないかという疑問も確かにありつつ、「国語」とカテゴライズされることで作品が相互に反響し合っている。このように、作品が並ぶことで意味を引き出し合うキュレーションが本展の膨大な作品の並びにおいて、幾度となく現われていた。

すべてに触れることはできないが、収蔵品が多いこともあり、本展の作品の一端は森美術館のウェブサイト「コレクション」で詳細なキャプションと一緒に伺うことができる。アイ・ウェイウェイの《漢時代の壷を落とす》(1995)、ヴァンディー・ラッタナの写真作品「爆弾の池」シリーズなどなど、本展を見る機会が得られなかったという人にも、ぜひ見てほしい。

ただし、本展のなかで取り扱い上、ひとつ浮いていたと思われるのが、笹本晃の《パフォーマンス記録映像 ストレンジアトラクターズ》(2010)ではないだろうか。本作についてはいつか別稿で取り上げたいと思う。

本展は2000円で観覧可能でした。なお、土日祝は2200円だったそうです。



★──ユニバーサル ミュージック合同会社「ABBA、40年ぶりのニュー・アルバム『ヴォヤージ』が日本で42年5か月ぶりのTOP5入り!」(『PR TIMES』2021.11.10)2023.9.25閲覧(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001482.000000664.html



公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/02/index.html

2023/07/01(土)(きりとりめでる)

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