artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

小磯良平生誕120年 働く人びと:働くってなんだ? 日本戦後/現代の人間主義(ヒューマニズム)

会期:2023/10/07~2023/12/17

神戸市立小磯記念美術館[兵庫県]

初訪問の小磯記念美術館は、昭和を代表する洋画家のひとりである小磯良平(1903-1988)の画業を記念して、六甲アイランドに建てられた美術館。神戸市にあったアトリエを移築・復元し、その周囲を3つの展示室と付帯施設が囲むという、個人美術館としては異例の大きさだ。その小磯の生誕120年を記念して開かれているのが「働く人びと」。小磯は1953年、神戸銀行の壁を飾るために幅4メートルを超す大作《働く人びと》を制作した。以後《麦刈り》(1954)、《働く人と家族》(1955)、《働く人》(1959)など多くの労働者の姿を描いてきた。今回は小磯の働く人をモチーフにした作品を中心に、主に1950年代の小磯以外の画家による労働をテーマにした作品も含めて展示している。

敗戦直後は田中忠雄《鉄》(1948)や大森啓助《新生平和国家(群像)》(1948)など、戦前のプロレタリア美術を受け継ぐような作品が見られるが、やがて内田巌《歌声よ起これ(文化を守る人々)》(1948)や新海覚雄《構内デモ》(1955)のような労働争議や、桂川寛《小河内村》(1952)や中村宏《砂川五番》(1955)のような反対闘争を描いたルポルタージュ絵画が登場する。そんななか現われたのが小磯の《働く人びと》だ。

この横長の大作は左から農業、漁業、建設業という3つの場面に分かれ、それぞれに労働者と子育てする母子を描いたもの。ほかの画家による労働者の絵と比べて際立つのは、見惚れるほどの線描の的確さであり、ルネサンス絵画を思わせる均衡のとれた構成だろう。一言でいえば「古典的」。こうした傾向は同作に限らず小磯芸術の特質であり、極端にいってしまえば労働者への共感とか母子の愛情なんてことはどうでもよく、なにを題材にしようがひたすら絵画としての完成度だけを目指したんじゃないかとさえ思えてくる。戦争画だろうが、労働者だろうが、皇室からの依頼だろうが、なんでも引き受け、見事に描き上げてしまったのではないだろうか。

この卓越した技巧は首席で卒業した東京美術学校で培ったものだが、同級生だった猪熊弦一郎や岡田謙三らがスタイルをどんどん発展させて抽象に至ったのに対し、優等生の小磯は時代が移ろうが社会が変わろうが、終始この卓越技巧を捨てることなく保持し続けた。逆にいえば、技巧に縛られて抜け出せなかったのかもしれない。

東京美術学校=東京藝術大学はたまにこういう「天才」を輩出する。同展の最後のほうに唐突に登場する会田誠がそうだ。会田はここに、何千何万というサラリーマンの屍が山積みになった《灰色の山》(2009-2011)を出品しているが、「働く人びと」のテーマにこの作品を選んだ学芸員もなかなか趣味がいい。この群像表現というにはあんまりな死屍累々風景を描けるのは、現代では会田をおいてほかにいるまい。いや描ける描けない以前に、こんなバチ当たりな発想をするやつは会田以外にいないだろう。小磯と会田の違いは、その卓越技巧を正しく使うか、間違って使うかだ。小磯は正しく使い、王道としての群像表現を実現させたが、会田は間違った使い方をして邪道としてのスキャンダル絵画を連発している。だから会田の絵はおもしろいのだ。


小磯良平生誕120年 働く人びと:働くってなんだ? 日本戦後/現代の人間主義(ヒューマニズム):https://www.city.kobe.lg.jp/a45010/kanko/bunka/bunkashisetsu/koisogallery/tenrankai/hatarakuhitobito.html

2023/11/14(火)(村田真)

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MUCA展 ICONS of Urban Art 〜バンクシーからカウズまで〜

会期:2023/10/20~2024/01/08

京都市京セラ美術館[京都府]

MUCAとは「Museum of Urban and Contemporary Art」の略称で、コレクターのクリスチャン&ステファニー・ウッツが2016年にドイツ・ミュンヘンに開設した、アーバンアートと現代美術に特化した美術館。今回は1,200点を超えるコレクションから、バンクシー、JR、バリー・マッギー、カウズら10組の約60点を選んで展示している。ここでいう「アーバンアート」とは都市に介入するアートのことだろうから、グラフィティを含むストリートアートと同じと考えていい。

バンクシーは、エドワード・ホッパーの《ナイトホークス》を手描きでパロディ化した大作《その椅子使ってますか?》をはじめ、人魚姫を水面に映ったように歪めて立体化した《アリエル》、玄関マットに粗末なライフジャケットの布で「Welcome」と縫い込んだ《ウェルカム・マット》など、資本主義や西欧中心主義への批判精神を発揮している。しかしこれ以外は、有名な《少女と風船》や《愛は空中に》など大量生産された口当たりのいい小品が多く、彼の不穏かつ諧謔的な世界観はなかなか伝わらない。

このバンクシーの展示だけで会場全体の3分の1を占めるだろうか。その分ほかの作家たちが追いやられ、JRやスウーンなど2、3点しか出してもらえず、ショボい作家と勘違いされかねない。彼らの多くはバンクシーと同じく、お金のかかるアーバンアートを実現するために自作を切り売りして資金を得ている面もあるから、そんな商品=小品を展示して「これがアーバンアートだ」みたいにいわれても、そりゃ違うだろと。

そもそもアーバンアートを集めて美術館をつくる発想自体、矛盾している。彼らがストリートを活動の場にするのは美術館やアートマーケットに取り込まれないためであり、もっと多くの人たちに作品を見てもらいたいからだ。今回のカタログをざっと見ても、バンクシーは「ギャラリーやアートビジネスを拒絶している」し、JRは「美術館のない場所にアートをもたらす」ことを目標としている。また、バリー・マッギーは「作品を公共の場に置くことで、ギャラリーや美術館で展示するよりも多くの人に見てもらうことができると考えた」というし、スウーンは「自分の絵がリビングルームに飾られ、持ち主を喜ばせるだけになってしまうことを懸念し、在学中から公共の場に作品を置くようになる。さらには、自身の絵が美術館やギャラリーに飾られ、そこを訪れる人たちしか見ることができないことを危惧した」とのことだ。

ちなみに彼らの多くは1970年代生まれで、年齢が上がるほど美術館やアートマーケットに対する拒絶反応は強くなるようだ。同展で飛び抜けて年長のリチャード・ハンブルトン(1952-2017)は、みずからをコンセプチュアルアーティストと見なし、ニューヨークのストリートで不気味な「シャドウマン」を描き続け、名声が高まるにつれドラッグやヘロイン中毒に陥り、65歳で亡くなってしまった。キース・ヘリングもジャン=ミシェル・バスキアもそうだが、1980年代に活動したグラフィティ世代はさまざまな矛盾を抱えながら葛藤し、早逝する者が多かった。今回、ニューヨークの街角で見かけて以来40年ぶりにハンブルトンの「シャドウマン」を(美術館内とはいえ)見ることができ、悲惨ではあるけどその後を知ることができたのが最大の収穫かもしれない。


MUCA展 ICONS of Urban Art 〜バンクシーからカウズまで〜:https://www.mucaexhibition.jp

2023/11/14(火)(村田真)

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西野達《ハチ公の部屋》

会期:2023/11/12

渋谷駅前 忠犬ハチ公像[東京都]

渋谷駅前にあるハチ公が、こぎれいな部屋のなかでふかふかベッドに座っている。ハチ公像を取り込んだ西野逹の今日1日だけのインスタレーションだ。西野は有名なモニュメントを囲むように部屋をつくり、ホテルとして泊まることもできる空間に変えてきた。これまで実現したプロジェクトは、横浜トリエンナーレにおける中華街のあずまやをはじめ、シンガポールのマーライオン、ニューヨークのコロンブス像など世界数十カ所に及ぶ。今回はハチ公生誕100年記念ということで、銅像を管理する渋谷区が西野に働きかけたのかと思ったら、それ以前から西野はハチ公に目をつけていたそうで、両者の思惑が合致して実現の運びとなった模様。ただし1日のみの公開なのでホテルにはできず、片面を開けたコンテナでハチ公を囲むようなかたちで見せることになった。

昼過ぎに行ってみた。周囲にフェンスが設けられ、近づいて写真を撮りたい人は列に並ばなければならず、ぼくは10分ほど並んで正面に立つことができた。設営から撤去までわずか1日しかなく、しかもハチ公は動かせないので、あらかじめコンテナ内部に壁紙を貼り、ベッドやテーブル、椅子、照明などをセットした状態で夜中に運び込んで設営したという。銅像がつくられて約90年、たまにはベッドの上で休んでもらおうというアイデアだが、見事にハマっている。このコンテナを劇場に見立てれば、ハチ公の一人舞台という風情であり、コンテナを額縁に見立てれば、ベッドという台座に載ったハチ公の立体絵画と見ることもできる。また、ハチ公を一種のパブリックアートと見なせば、パブリックアートのパブリックアート化といえなくもない。



西野達《ハチ公の部屋》[筆者撮影]


ハチ公(1923-1935)はよく知られているように、東京帝大教授の上野英三郎が飼っていた秋田犬で、名前はハチ。主人の帰りを渋谷駅まで迎えに行っていたが、上野の死後も変わらず駅前で待ち続けていたため、「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになったという。これが美談として新聞に取り上げられて有名になり、1934年には彫刻家の安藤照による銅像が設置された。動物の銅像建立は異例のことだが、それだけ当時は忠誠心が尊ばれていた時代であり、また銅像がポピュラーなメディアとして機能していた時代だったのだ。

第2次世界大戦末期には金属供出によりいちど溶かされたが、戦後、安藤の息子の士によって再建された。しかし物資不足だったため、父照の代表作である《大空に》を溶かして使ったという。ちなみに、コンテナ内部に貼られたライラック色の壁紙には、この《大空に》をはじめ、上野博士や銅像建立当時の渋谷駅などの図像があしらわれているが、これも西野が描いたもの。細かいところまでおろそかにしない完璧な仕上げである。

関連レビュー

「西野達 別名 大津達 別名 西野達郎 別名 西野竜郎」西野達作品集出版記念展|村田真:artscapeレビュー(2011年01月15日号)

2023/11/12(日)(村田真)

ビジター・キュー

会期:2023/11/11~2023/11/12

MINE[大阪府]

「上演」と「展覧会」という制度的フレームは、「観客」「視線」を介してどのように批評的に交差しえるのか。展覧会というフォーマットのなかで、演劇性はどのように立ち上がるのか。

本展のキュレーションは、俳優の瀬戸沙門、美術家の武内もも、演出家の野村眞人からなる京都のアート・コレクティブ「レトロニム」(旧称「劇団速度」)。元マンションビルの各階と周辺の公園を会場に、美術家・俳優・演出家の5名が参加し、時に作品が「移動」しながら2日間のみ開催された本展は、そうしたひとつの実験だったといえる。会場の「MINE」は、京都と滋賀の県境にある共同スタジオ「山中suplex」が、別棟として大阪の市街地に展開するスペース。2022年12月から約1年間、外部のクリエイターを招聘して企画やイベントを行なってきた。

「ものの配置と秩序の再構築/テキストの設置」という対照的な手法ながら、「幽霊」「不在」「主体」といったキーワードから演劇を批評的に扱うのが、演出家の福井裕孝と俳優の米川幸リオン。福井は、生活家電や日常雑貨、これまでMINEを利用したアーティストの制作の痕跡など、展覧会の開催にあたって不要と判断されたさまざまな「もの」に着目。それらを展示会場から撤去する代わりに、「バックヤードの構成物のみでつくり上げたインスタレーション」を制作した。ペットボトル飲料、扇風機やドライヤーなどの家電、ハンガー、清掃用具、文房具などが几帳面に規則正しく並べられている。福井は昨年、京都の小劇場で同様に「ロビーやバックヤード、楽屋などにある備品や機材をすべて舞台上に集合させ、規則正しく並べた状態で上演する」という試みを行なっており、今回はその「展覧会バージョン」といえる。



福井裕孝《無題(MINEを収納する)》[筆者撮影]


「観客の目に触れるべきではない」「特に見られる価値がない」と判断される、通常は透明化されたものたち。福井は、そうした「展示」「上演」の幽霊たちを可視化し、居場所を与えると同時に、厳密な配置のルールによって空間を再秩序化する。むしろ、「もの」たちは自由なふるまいを許されず、秩序の再構築のために召喚されているのだとすれば、ここには、キュレーターが「作品」を、演出家が「出演者」を扱う態度こそがメタ的に問われているといえるだろう。そのとき観客に突きつけられるのは、「作品同士の関連性」でも「意味の解釈」でもなく、「意味を読み取るべき主体」としての自らの共犯性とナンセンスだ。

一方、米川幸リオンは、会場のあちこちに小さなテキストの紙片を設置した。見逃されるような小ささだが、換気扇の表面に、開いた窓の向かいにある壁に貼られた紙片に気がつくと、建物の細部に注視が向かっていく。「わたしは」という語りは、換気扇や障子の破れ目といった「これまで見えていなかった幽霊」が語り出し、ものが主語としてふるまい出すように見えてくる。あるいはノートパソコンの画面は、「わたしとあなたとの間にのみ起こる現象」としての上演について語り続ける。だが、画面に表示される文章は入力と消去を繰り返し、ノートパソコン自体もキャリーカートに載せられて会場内を「移動」し、紙片には「ゆくゆくは引き剥がされる」と記されるように、その「上演」自体、どこにでも貼り付け可能である一方、消去の痕跡すら残さず消えてしまう。まさに、「ビジター(観客)」が「キュー(きっかけ)」となって上演が立ち上がるが、それは「観客の視線」が存在する瞬間しか持続できない。



米川幸リオン《「わたしの」テキスト1~10》より[撮影:中谷利明]



米川幸リオン《ビジター・キュー「上演」のテキスト》[撮影:中谷利明]


移動性や仮設性、他者の介入が上演/作品を起動させることは、宮崎竜成の移動型作品《絵の成り立ちデバイス》へとつながる。宮崎は、可動する仮設壁に穴を開けた装置を自作。穴をのぞいて見えた景色を描いた絵を仮設壁に貼り、装置を移動して穴から見える景色が変わるたびに新たな絵を貼り替えていく。制作/展示が一体化した装置であり、展示会場に面した公園に設置された装置は、公園に来た人が自由に移動させてよい。「なんだろう」と穴をのぞく行為が「ビジター(観客)」を出現させ、その視線の痕跡を、時間のズレとともに、宮崎を介して見る者は共有する。



宮崎竜成《絵の成り立ちデバイス(インフラを数える)》[撮影:中谷利明]


そして、キュレーターのレトロニムは、各作品の前に「観客席として椅子を設置する」という仲介/介入を行なった。(長尺の映像作品をのぞいて)展覧会としては不自然さや違和感を与える仕掛けであり、椅子は両義性を帯び始める。文字通り居場所を与える一方、視点の固定化や「一人しか座れない」という独占性など制限と表裏一体だからだ。あるいは、椅子の脚の位置をテープで示しただけの床にスポットライトを当てた「透明な椅子」は、観客という存在を「不在」によってこそ浮かび上がらせる。



レトロニムによる「観客席(椅子とバミリ)」[撮影:中谷利明]


ただしそこには、「ジェンダーの不均衡な構造によって不在化された幽霊のような観客」もいるのではないかと問題提起するのが黒木結だ。黒木は、「作品」としてのサニタリーボックスをトイレに設置し、買い取り検討を要請するテキストを掲示した。黒木は以前、MINEでのイベントに参加した際、トイレにサニタリーボックスがないことに気づいた経験から、山中suplexのメンバーに対して会期終了後に買い取りをお願いし、不可の場合はその理由の回答を黒木自身のHPとSNSで公表するまでのプロセスを作品としている(12月6日の執筆時点でまだ回答は公表されていない)。



黒木結《サニタリーボックス》[撮影:中谷利明]


「サニタリーボックスの買い取り」は単に物品の購入で終わりでなく、ゴミの処分という継続的なケアワークまでを含む。「自分たちには必要ない」「男性に掃除させるのか」という理由ならば、「スタジオの外部の利用者や観客には必要な人もいる」という想像を欠いた男性中心主義の露呈にすぎない。サニタリーボックスに限らず、「見えていないこと」は無意識の排除であり、当事者にとっては抑圧にほかならないからだ。


ビジター・キュー:https://yamanakasuplexannex.com/programs/23015.html


関連レビュー

福井裕孝『シアターマテリアル(仮)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年10月15日号)
劇団速度『わたしが観客であるとき』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年01月15日号)
劇団速度『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年04月15日号)

2023/11/11(土)(高嶋慈)

アニッシュ・カプーア in 松川ボックス/オペラ『シモン・ボッカネグラ』/アニッシュ・カプーア_奪われた自由への眼差し_監視社会の未来

会期:2023/09/20〜2024/03/29
THE MIRROR[東京都]

会期:2023/11/15〜2023/11/26
新国立劇場[東京都]

会期:2023/11/23〜2024/01/28
GYRE GALLERY[東京都]


以前、筆者が監修した「戦後日本住宅伝説」展(2014)の調査で伺ったことがあった、宮脇檀の設計による住宅《松川ボックス》(1971)を再び訪れた。秋から清水敏男がディレクターを務めるアートギャラリー「THE MIRROR」として、内部が一般公開されたからである。コンクリートの箱の内部に木造のインテリアが挿入された入れ子状の建築は、変わらず心地よい居場所だったが、アニッシュ・カプーア展が開催されており、あまり見たことがなかった彼の激しく赤色が塗られた絵画作品は、空間を異化させるものだった。畳の上に置かれた鏡面状のオブジェも、ギャップが興味深い。この会場にヴェルディのあまり有名ではないオペラ『シモン・ボッカネグラ』(新国立劇場)が置かれていたのは、カプーアがその舞台美術を担当しているからだ。そして空間演出の予告編のように、この《松川ボックス》での展覧会を振り返ることもできる。


「アニッシュ・カプーア in 松川ボックス」展示風景


「アニッシュ・カプーア in 松川ボックス」展示風景


『シモン・ボッカネグラ』は、男ばかりが登場し、政争が軸になるというオペラには珍しい物語である。もっとも、鍵となる女性=アメーリアがひとり存在するので、逆に紅一点のソプラノも目立つ。そして主人公は、かつて政敵からひどい仕打ちを受けていたのだが、25年後に今度は逆の立場を経験する。さて、カプーアの美術は意外な起用だと思われるかもしれないが、すでにロンドンで上演された『トリスタンとイゾルデ』(2016)を彼は担当しており、今回のオペラが初めてではない。また演出のピエール・オーディは、彼と『ペレアスとメリザンド』や『パルジファル』でコラボレーションを経験しており、その特徴をよく知ったうえで依頼している。プロダクション・ノートによれば、ヴェルディのこの作品(「ボッカネグラ」は人名だが、直訳すると「黒い口」という意味)は、カプーアの抽象的かつ象徴的な表現に耐えるものだと考えたようだ。そしてオーディは、孤独と死がつきまとう主人公の人生を、エトナ山の近郊に住み、最後に火口に身投げした古代ギリシアの哲学者エンペドクレスに重ね合わせるという発想をカプーアに提示したという。

美術や衣装においてもっとも強烈な印象を与えるのは、赤・黒・白の3色だろう。赤と白は、物語の舞台となるジェノヴァの国旗、すなわち白地に赤い十字にちなむ。また黒は主人公の名前に含まれた色彩である。プロローグは、天井に届かんとする、おそらく10メートル以上の高さをもつ、赤と白の直角三角形のパネルが背景を構成していた。これらは港町ジェノヴァの船の帆を想起させるだろう。とりわけ異様なのは、第1幕から最後の第3幕まで、歌手たちの頭上にずっと存在している逆さの火山であり、その巨大さやぽっかりと穴が空いた火口、あるいは下降する運動によって、空間に緊張感をもたらしている。また幕間に現われる赤いイメージの不穏な背景幕は、《松川ボックス》で展示された絵画を想起させるだろう。そして最後は床面に溶岩のようなオブジェが広がり、吊られた火山が上昇すると、背後に巨大な黒い太陽が出現する。

かくして、絶えず舞台美術が凄まじい存在感を放っていた。初演(1881)のセットプランを見ると、総督宮殿の大会議室が細かい装飾とともにつくられていたが、今回はそうした具象的な表現とはまったく違う、カプーアの世界も巨大なスケールで楽しめるオペラになっている。


「アニッシュ・カプーア_奪われた自由への眼差し_監視社会の未来」展示風景


オペラを鑑賞した後、カプーアの個展「奪われた自由への眼差し_監視社会の未来」が始まったと聞いて、GYRE GALLERYに足を運んだ。壮大なオペラの舞台とは違い、小さい空間だが、そのサイズを生かしながら、『シモン・ボッカネグラ』の美術と共通するイメージの絵画や、どろどろした赤いインスタレーションを散りばめている。劇場では不可能だが、ギャラリーだと近距離で作品を鑑賞できることが嬉しい。またエスカレーターの吹き抜けにも、彼の作品が吊られていた。

ただし、ギャラリーで設定された主題は、監視社会と情動である。前者における現代社会の「ビックブラザー」(『1984』)から『シモン・ボッカネグラ』への補助線を引くのは難しいが、人間存在そのものに潜むカオティックな情動は、普遍的なテーマでもあり、オペラともなじむだろう。ダイナミックに舞台で展開されたカプーアの作品と、この展覧会を切り離して考えるのには、あまりに両者のイメージは似ている。


「アニッシュ・カプーア_奪われた自由への眼差し_監視社会の未来」展示風景



アニッシュ・カプーア in 松川ボックス:https://coubic.com/themirror/4453019/
オペラ『シモン・ボッカネグラ』:https://www.nntt.jac.go.jp/opera/simonboccanegra/
アニッシュ・カプーア_奪われた自由への眼差し_監視社会の未来:https://gyre-omotesando.com/artandgallery/anish-kapoor/

2023/11/06(月)、23(木)(五十嵐太郎)