2019年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

刻まれた時間──もの語る存在

会期:2018/11/01~2018/11/11

東京藝術大学大学美術館[東京都]

芸大の陳列館や旧平櫛田中邸で開かれる彫刻科のグループ展は、毎年秋の楽しみのひとつ。こんなものどうやって彫るんだ!? という超絶技巧的な驚きから、これのどこが彫刻なんだ!? というコンセプチュアルな疑問まで、彫刻の概念を拡大してくれるからだ。今回も楽しめる作品が何点かあった。今野健太の《テノヒラNo.35》は文字どおり手のひらの石彫の断片を壁に掛けたもの。2本の指が下向きなので人体を思わせ、まるで先史時代の《ヴィレンドルフのヴィーナス》のようだ。田中圭介の《学習机》は、木製の机の端々をギザギザに彫って緑色に塗り、森のようにしたもの。机上の森か。あるいは緑のカビに浸食される机のようでもある。

小谷元彦の《ザルザル—警告と警戒》は、黒いテーブル上に本やリンゴとともに2台のモニターを置き、電話するチンパンジーを映しているのだが、お互いギャーギャーわめいたりあくびしたりするだけで話が通じているようには思えない。これは笑えた。同展にはほかにも竹内紋子がゴリラを彫っていたし、「藝大コレクション展」には沼田一雅による《猿》が出ていた。そもそも芸大の彫刻科の初代教授である高村光雲の代表作にも《老猿》があった。サルは彫刻家の比喩か。ついでにいうと、テーブル上の本やリンゴは知恵の象徴だが、同時期に同じ美術館3階で退任記念展を開いていた深井隆がよく使うモチーフでもある。してみるとこれは先輩へのオマージュだろうか。もうひとつついでにいうと、この深井隆展には、後輩たちが彫ったという着流しの「深井隆像」があって、その元ネタは高村光雲作《西郷隆盛像》にほかならない。

2018/11/11(村田真)

藝大コレクション展2018

会期:2018/10/02~2018/11/11

東京藝術大学大学美術館[東京都]

会場に入るといきなり正面の壁に久保克彦の《図案対象》が掲げられている。最近NHKで特集されたのでメインの場所に展示されたのかもしれない。久保はいわゆる戦没画学生の1人で、戦時中に東京美術学校図案科を繰り上げ卒業させられ、学徒出陣で戦死。《図案対象》は出征前に卒業制作として描かれたもの。大小5枚組のうち中央画面に戦闘機や船舶などが描かれているため、戦争画に分類されることもある。だが、厳密に計算された構図を吟味すればわかるように、これらの戦闘機や船舶は画面構成の上で必要な形態として用いられているにすぎず、戦意高揚を目的としたものではない。だいたい戦闘機は墜落中だし、船は転覆しているし。

でも今回のメインはこれではなく、柴田是真の《千種之間天井綴織下図》。計112枚の正方形の画面のなかにさまざまな種類の植物(千種)を円形に描いたもので、これを元に金地の綴錦がつくられ、明治宮殿の天井を飾った。戦時中はこの千種の間でしばしば戦争記録画が展示され、天皇皇后が見て回ったという。その後、戦火によって明治宮殿は焼失。残されたのはこの下図だけだという。最近修復を終えて今回お披露目となったもので、壮観ではあるけれど、しょせん装飾の下図だからね。

そのほか、高橋由一の《鮭》、原田直次郎の《靴屋の親爺》、浅井忠の《収穫》など日本の近代美術史に欠かせない作品もあれば、吉田博の《溶鉱炉》や靉光の《梢のある自画像》など、第2次大戦中という時代背景を抜きに語れない作品もある。おや? っと思ったのは《興福寺十大弟子像心木》。像そのものは失われて心木しか残っておらず、まるでフリオ・ゴンザレスの彫刻みたいにモダンに見えるのだ。

2018/11/11(村田真)

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水越武「MY SENSE OF WONDER」

会期:2018/11/06~2018/12/01

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

水越武はいうまでもなく日本の自然写真、山岳写真の第一人者であり、『槍・穂高』(1975)以来多くの写真集を刊行し、記録性と表現性とを合体させた新たな領域を切り拓いてきた。1988年末に北海道弟子屈町の屈斜路湖畔に移住し、自然と一体化した生活を営みながら写真家として活動している。彼の写真は山岳、原生林、氷河などのテーマ性をしっかりと確立し、一枚一枚の写真を厳密に選んで組み上げていくものだ。ところが、今回東京・築地のコミュニケーションギャラリーふげん社で開催された「MY SENSE OF WONDER」には、時期的にも主題的にもかなり幅の広い写真が集められていた。50年近い写真家としての経験を積み重ねるなかで、観客(読者)との写真を通じたコミュニケーションをより強く意識するようになり、エモーショナルな共感を呼び起こすような写真も積極的に取り入れるようになったということのようだ。

とはいえ彼の写真と、アマチュア写真家たちが趣味的に撮影する、いわゆる「ネイチャー・フォト」とのあいだには越えがたい距離がある。今回の展示は「人間の生活圏」で撮影された「水の音」(前期、20点)と、人間界から隔絶した自然を対象にした「光の音」(後期、20点)の2部構成で展示されていた。第1部と第2部の写真にそれほどの違いは感じられない。だがそこに一貫しているものこそ、まさに彼独自の「MY SENSE OF WONDER」なのではないかと思う。では、その「SENSE OF WONDER」とは何なのか。彼自身のコメントを引用すれば「それは自然への好奇心であり、自然の中で森羅万象に出会って驚き、感動し、それに加えて畏敬の念を持って不思議だと思う心である」ということになる。言っていることは単純と言えば単純だが、「好奇心」「驚き」「感動」「畏敬の念」を、つねに新鮮なエッジを保って発揮し続けることはそれほど簡単ではないはずだ。屈斜路湖畔の「森の生活」で鍛え上げた彼の「SENSE OF WONDER」は、いまや多様な被写体に対して融通無碍にその波動を広げつつあるのではないだろうか。

2018/11/10(土)(飯沢耕太郎)

ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代

会期:2018/11/03~2019/01/20

国立国際美術館[大阪府]

「80年代」にフォーカスを当てた企画が目につく今秋。金沢21世紀美術館を皮切りに巡回中の「起点としての80年代」展が作家数を絞ってテーマ別の構成を取ったのに対して、本展ではクロノロジカルに65名を見せるという総花的な構成となっている。「1980~81年」「1982~83年」というように2年ごとに区切り、制作年の順に作品を並べ、各セクションの頭には、例えばバブル景気、航空機事故、昭和天皇の崩御などメルクマールとなる出来事や社会現象を解説するパネルが掲げられる。だが、出品作は大半が絵画や具象的な彫刻であり、社会への直接的な言及や批評性は薄い。むしろ乖離や解説パネルの必然性への疑問を感じざるをえない。また、「制作年への準拠」に加え、基本的に「1作家1作品主義」であり、単調な見本帳のように均されていく印象を受けた。絵画画面の大型化、ペインタリーな筆触の強調、色彩性や触覚性、装飾性、レリーフ、キッチュ、引用や表象との戯れ(横尾忠則、中原浩大、森村泰昌、福田美蘭)といった共通項はうかがえるが、「80年代の時代の雰囲気」を伝えたいなら、商業的なイラストレーターや広告表現(「おいしい生活」)といった視覚文化を入れるべきだったのではないか。

ここで改めて展覧会タイトルに目を向けると、奇妙な欠落感に気づく。「ニュー・ウェイブ」から「関西」が消去されているのだ。だが、80年代の日本現代美術を歴史化するにあたり、いわゆる「関西ニュー・ウェイブ」の検証は避けては通れないだろう。作家ごとの解説パネルには、例えば「フジヤマゲイシャ」展という言葉だけが登場するのみであり、その中身や意義について踏み込んだ検証はなされない。メルクマール的な展覧会を「再現」し(現存しない作品は再制作もしくは資料で補い)、実作品と当時の言説の両面から検証するなど方法はあった。歴史化=羅列された年表化ではない。美術館の仕事は、微妙な「平等」主義や政治的「配慮」ではなく、議論の端緒を開くような斬新な視点と強固な枠組みの提示にあるのではないか。そこから、(賛同であれ批判であれ)見る者の思考が再起動するのだ。

関連レビュー

君は『菫色のモナムール、其の他』を見たか?森村泰昌のもうひとつの1980年代|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/11/03(土)(高嶋慈)

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植本一子『フェルメール』

発行所:ナナロク社Blue Sheep

発行日:2018/10/05

植本一子は一般的には写真家というよりは『かなわない』(2016)、『降伏の記録』(2017)などのエッセイ集の作者として認知されている。僕自身もそんなふうに思っていた。だが新作の『フェルメール』を手にして、彼女がとてもいい写真家であることをあらためて認識した。

植本は編集者の「草刈さん」と「村井さん」、デザイナーの「山野さん」とともに、世界中に点在するフェルメールの全作品、35点に「会いにいく」旅に出る。2018年3月20日〜26日および同年5月9日〜16日に、オランダ、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館からアメリカ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館まで、17カ所の美術館を巡り、現存するすべてのフェルメールの作品を撮影した。この撮影旅行が、どんな動機と目的で行なわれたかについての詳しい説明は最後までない。だが、掲載された写真を見て「旅の記録」として綴られた撮影日記を読むと、あえてそのことを詮索する必要もないように思えてくる。

植本は「末期ガンで入退院を繰り返していた」夫を亡くしたばかりで、この仕事が「新しい旅」へのスタートとなった。撮影にあたって、デジタルかフィルムのどちらで撮影するか迷いに迷って、結局フィルムに決める。本書の図版ページには、フェルメールの作品だけでなく、絵を見る観客たちの姿や旅の途中のスナップも挟み込まれ、そのことによって、旅のプロセスが立体的な膨らみを伴って浮かび上がってくる。写真と文章とを行きつ戻りつすることで、読者はあらためてフェルメールの絵の魅力に気づくとともに、ひとりの表現者の再出発に立ち会うことになる。判型は小ぶりだが、写真家としての次の仕事もぜひ見てみたいと思わせる、極上の出来栄えの写真集だった。

2018/11/02(金)(飯沢耕太郎)

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