2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー

亀山亮『山熊田』

発行所:夕書房

発行日:2018/02/20

これまでメキシコ・チアバス州のサバティスタ民族解放軍、パレスチナ自治区のインティファーダ(イスラエルの占領政策に対する民族蜂起)などを取材し、アフリカ各地の戦場を撮影した写真をまとめた『AFRICA WAR JOURNAL』(リトルモア、2012)で第32回土門拳賞を受賞した亀山亮の新作写真集は、やや意外なものとなった。今回彼が撮影したのは、山形との県境に位置する新潟県村上市山熊田。山間の集落に50人ほどが暮らす小さな村である。農業のほか、伝統的な「シシマキ」と呼ばれる熊猟、シナの皮の繊維で織り上げる「シナ布」などが主な産業であるこの村の四季の暮らしを、亀山は被写体との距離を縮めて丹念に撮影している。

そのまさに「山と熊と田」の写真群を眺めていると、亀山がなぜ取り憑かれたように村に通い詰めたのかがじわじわと伝わってくる。仕留めた熊も含めて、「山から手に入れたものはみんなで等分に分かち合う」山熊田の生活原理は、「グローバリゼーション」とは対極のものだ。利益優先で、便利さを追求してきた結果として、現代社会はさまざまな矛盾をはらみ、軋み声を上げている。亀山が撮影し続けてきた世界各地の「紛争」もその産物と言えるだろう。彼は、もう一度人の暮らしと幸福の原点とは何かを問い直し、つくり直すきっかけとして、この村にカメラを向けたのではないだろうか。

とはいえ福島第一原子力発電所事故の余波で、熊の体内から放射能が検出され、地球環境の温暖化で野生動物の生態系も大きく変わるなど、村の暮らしも次第に現代社会の毒に侵されつつある。そのギリギリの状況になんとか間に合ったという歓びと、それがいつまで続くのかという不安とが、この写真集には共存している。写真がモノクロームで撮影されていることについては、微妙な問題を孕んでいると思う。モノクロームの深みのある画像は、美しく、力強い。だが、それはともすればややノスタルジックな感情も呼び起こしてしまう。カラー写真の生々しさを、あえて活用するやり方もあったのではないだろうか。

2018/02/20(火)(飯沢耕太郎)

安村崇『1/1』

発行所:オシリス

発行日:2017/12/15

安村崇の「1/1」のシリーズは、前に個展(MISAKO&ROSEN、2012)で見たことがある。その時は面白い試みだとは思ったが、あまりピンとこなかった。だが今回写真集として刊行された『1/1』を見て、その目に鮮やかに飛び込んでくる印象の強さに驚きを覚えた。おそらく、ギャラリーの展示が精彩を欠いていたのは、壁に並ぶ作品が一度に目に入ってくることと、作品以外の要素(ノイズ)が作用して、このシリーズの純粋性が損なわれてしまうからではないだろうか。しかし、写真集のページをめくって一点一点の作品を味わうことで、安村が4×5インチ判の大判カメラのファインダーを覗いて被写体と対面している視覚的体験を追認しているようにも感じられた。

安村が撮影しているのは「主に地方の公園や港、市民会館など公共の場」の壁、床面、屋根などであり、それらの表面の凹凸や色彩が、一切の妥協なくまさに「1/1」の画像に置き換えられている。にもかかわらず、清水穰が写真集の解説の文章(「イクイヴァレント2017──安村崇によるスティーグリッツの再解釈」)で指摘するように、「その厳格な方法論から見れば人間的な要素を一切排除した極北の写真」であるはずなのに「まさにそのことによって、人間くさい世界を回帰させる」という逆説が生じてくる。そこに写っているのは、経年変化で趣味の悪さがさらに露呈してしまった「公共の場」の、身も蓋もなく散文的な外観であり、日本社会の縮図ともいうべき眺めなのだ。

安村がデビュー作の「日常らしさ」(1999、「第8回写真新世紀」グランプリ)以来追い求めてきた、写真を通じて具体的な世界を「見る」ことの探究が、また一段階先に進んだのではないだろうか。

2018/02/19(月)(飯沢耕太郎)

カタログ&ブックス│2018年2月

展覧会カタログ、アートにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。

石膏デッサンの100年─石膏像から学ぶ美術教育史

著者:荒木慎也
発行:アートダイバー
発行日:2018年2月1日
定価:2,200円(税抜)
サイズ:A5判変型、256ページ、ソフトカバー
デザイン:木村稔将

美大受験をする者なら誰もが経験する「石膏デッサン」。膨大な時間をかけて修練し、ようやく美大に入ってみ ると、石膏デッサンを否定する教育方針にあぜんとした経験があるはずです。「はたして、石膏デッサンは必要なのか?」。この議論は長く続いていますが、その言説は膠着しています。 本書は、日本の美術が石膏像を受容して以来、美術教育にどのように用いてきたかといった、教育者や作家た ちの苦闘の歴史を捉え直すことで、構築的な美術教育のかたちを目指し、新たな創造への足がかりとします。 日本の美術は、いかに西洋を受容し、近代化してきたのか。その曲がりくねった歴史と、そこに生じた熱量とを、 石膏像を媒体にスリリングに読み解いていく本書。教育者はもちろんのこと、美大受験を控えた受験生、さらに は日々制作と向き合うアーティストに読んでもらいたい書籍です。

紙背 3号

編集・発行人:山﨑健太
発行:紙背編集部
発行日:2018年1月21日
定価:1,204円(税抜)
サイズ:文庫判、464ページ
装丁:岡部正裕(voids)

artscapeレビュワーの山﨑健太氏が編集・発行人を務める演劇批評誌の第3号。山本卓卓『その夜と友達』、山田百次『小竹物語』、小田尚稔『悪について』、三浦直之『BGM』といった気鋭の劇作家による戯曲と、それらの作品をめぐる論考を収録。「地点」主宰の三浦基氏によるエッセイ「走り続ける」も必読。


「第20回 DOMANI・明日展 未来を担う美術家たち」カタログ

発行:文化庁
アートディレクション:見増勇介
デザイン:見増勇介+竹内敦子
発行日:2018年1月
サイズ:A4判変型、144ページ

将来の日本の芸術界を支える人材育成のため、若手芸術家が海外の大学や関係機関などで行なう研修を支援する「新進芸術家海外研修制度」の成果発表のための展覧会「DOMANI・明日展」の展覧会カタログ。雨宮庸介、西尾美也、やんツーなど、出品作家の作品と言葉を全点フルカラーで掲載。展覧会は国立新美術館にて2018年3月4日(日)まで開催中。

安齊重男による日本の70年代美術

発行:国立国際美術館
執筆・編集:中井康之(国立国際美術館学芸課長)
デザイン:西岡勉
発行日:2017年10月
価格:2,000円(税抜)
サイズ:A4判変型、238ページ

1970年、安齊は同世代の作家たちが生み出す一過性の作品を35mmカメラで記録し始めます。後に「もの派」と称される芸術運動体の揺籃期は、安齊の眼を通して知られますが、その眼は直ぐに同時代の他の新しい芸術動向にも向けられました。日本の現代美術の変革期を捉え続けてきた安齊重男の仕事を紹介します。

「縫うこと、着ること、語ること。」日記

著者:長島有里枝
デザイン:有山達也+岩渕恵子
表紙+展示風景写真撮影:加納俊輔
制作・発行:デザイン・クリエイティブセンター神戸
発行日:2017年3月
価格:非売品(KIITOにて無料配布、送料自己負担で郵送対応あり
サイズ:A5判変型、96ページ

KIITOアーティスト・イン・レジデンス2015-2016(招聘作家:長島有里枝)の成果物として、「縫うこと、着ること、語ること。」日記を発行いたしました。
本冊子で初公開となる滞在制作中の日記をはじめとして、成果発表展で発表した作品や展示風景写真も含んだ、96ページの冊子です。

2018/02/14(水)(artscape編集部)

野村次郎『茜と梅』

発行所:赤々舎

発行日:2017/11/01

野村次郎は「日常」を撮影し続けている写真家だ。身近な人物たちや周囲の状況、日々の移ろいなどをカメラにおさめていく行為は、もはや日本人の写真表現のベースになっていて、これまでも多くの作品が発表されている。だが、野村が刊行してきた写真集『遠い眼』(Visual Arts、2009、第7回ビジュアルアーツアワード受賞作)、『峠』(Place M、2012)、そして本作『茜と梅』を見ると、そこに漂っている空気感が、ほかの写真家たちの「日常写真」とはかなり違っていることがわかる。中判カメラで撮影され、モノクロームにプリントされた写真の一枚一枚は、鋭いエッジのナイフで切り出されたような緊張感を湛え、タナトスの気配が色濃く漂っている。写真を見ていると、じわじわと「怖さ」に捕われてしまうのだ。

野村は一時期「引きこもり」になり、精神的に不安定な時期を過ごしたことがあった。その後、「茜ちゃん」と出会って結婚し、犬を飼い始めて小康を得る。だが、精神状態の微妙な変化に対応する日々はいまも続いているようだ。野村にとって、写真を撮ることは、ともすれば向こう側に大きく振れてしまう自分自身を保ち続けるための緩衝剤の役目を果たしているのではないだろうか。本作に登場する「茜ちゃん」と彼女を包み込む世界は、ほのかな微光に包まれているように見える。ぎりぎりの綱渡りでつくり上げられてきた写真たちにも、以前に比べると柔らかなふくらみがあらわれてきた。撮り続けることと生きることとのバランスをうまく保ち続けて、繊細だが強い吸引力を持つ作品世界を、より大きく育てていってほしいものだ。

2018/02/13(火)(飯沢耕太郎)

三木清、大澤聡編『三木清文芸批評集』

発行所:講談社

発行日:2017/09/09

昨年、三木清(1897-1945)の著作が立て続けに刊行されたのは印象的な出来事であった。そこには『人生論ノート』のようなベストセラーや、晩年の遺稿『親鸞』なども含まれるが、そのなかでひときわ輝きを放っていたのが、大澤聡の編集による講談社文芸文庫刊の三部作である。先行する『教養論集』(1月刊)、『大学論集』(4月刊)に続く本書『文芸批評集』の刊行をもって、同三部作は昨年9月に完結をみた。

いわゆる京都学派のメンバーとして知られる三木清は、パスカル研究をはじめとする哲学的な業績によって知られる一方、文芸批評にも多大な精力を注いだ。その背後には当人の内発的な動機もあろうが、それ以上に外的な事情が関わっている。1930年に治安維持法で逮捕・検挙され、大学の辞職を余儀なくされた三木は、同年以降、文芸誌や新聞をみずからの主戦場とすることになった。それが後年の三木の著述スタイルに及ぼした影響については、小林秀雄との関係を論じた本書解説に詳しい。

肝心の内容だが、まず強調しておくと、本書はたんなる過去の歴史的資料として読まれるべきものではない。とりわけⅠ「批評論」とⅡ「文学論」にまとめられたテクストは、いずれも批評や文学をめぐる原理的な洞察に満ちており、平易な文体によって綴られたその内容はいまなおアクチュアリティを失っていない。

例えば巻頭を飾る「批評と論戦」(1930)を見よう。「批評」は一方的でありながらも「何等かの程度で相手を認めようとする」のに対し、「論戦」は双方的でありながら「どこまでも相手を排撃しようとする」。「批評と論戦とはこのように区別されるけれども、現実に於ては多くの場合二つのものは混合されるか或いは混同されるかしている」。そのような認識のもと、批評を論戦に変えることを戒め、あくまでもそれを相互批評に導くことの必要性を説く三木の主張は、いまなお(あるいはSNSが普及した現代においてこそ?)傾聴に値するものである。

また「通俗性について」(1937)の冒頭には次のようにある。「評論、文学、また哲学においても、もっと一般人に分り易いものにするということが問題になっている。いわゆる通俗性の問題である」。これもまた、現代においてなお解決をみない切実な問題のひとつであろう。三木はこうした「通俗性」の要求がともすれば「俗悪」に流れ、著者固有の文体・思想を喪わせてしまう危険性を指摘するいっぽう、「自分の文体を放棄する」ことが「真の文体」の発見には必要である、というより高次の指摘を付け加えることを忘れない。三木にとっては、分かり易さを求める読者への迎合(=俗悪)も、それに無闇に抵抗する著者の姿勢(=モノローグ)も、共にしりぞけるべきものである。通俗性を歴史的・時代的に規定される「大衆」の問題として読みかえ、そこに来るべき民衆(大衆)の姿を想像する三木の姿勢は、私たちが何度でも立ち戻るべきものであるだろう。

2018/01/22(月)(星野太)

文字の大きさ