artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

林勇気「君はいつだって世界の入り口を探していた」

会期:2022/09/08~2022/09/19

クリエイティブセンター大阪[CCO](名村造船所大阪工場跡地)[大阪府]

かつて造船所だった巨大な工場跡の3フロアを舞台とする、映像作家・林勇気の過去最大規模の会場での個展。5点の新作を中心に、近年の林が取り組んできたデジタルメディアをめぐるテーマ──再生機器や電気の安定供給に依存する脆弱性、映像=光の非実体性、保存媒体の複数性や非耐久性、コピー/オリジナルの失効、アーカイブ、記憶、過去の再演、「水/氷」「器」のメタファーなど──が散りばめられ、相互参照し合う集大成的な展示であると同時に、全体としてひとつの作品のように構成されている。そこに、かつて「造船のまち」として栄えた北加賀屋という地域の記憶と、工場跡に隣接する川の風景が重なり合い、会場全体が「見えない川」の流れに浸されているような圧倒的な鑑賞体験をもたらす。

起点となるのは、まず2階で出迎える《Our Shadows》。夕闇の旧造船所の光景、ビジネスホテルの一夜。コップの水に浮かぶ氷。机の上に置かれた氷は溶け、水溜りとなり、その不定形な形を通して、町歩きや昼食などある一日の光景が映される。iPhoneでこれらの映像を撮影している語り手は、「双子のB」に「ビデオの往復書簡」として見せるために撮っているのだと言う。映像を共有するプラットフォームとしてのYouTube。「再生回数1回」の映像が蓄積されていくアーカイブ。「ラップトップで映像を編集していると、時間と空間に触れているような感覚になる」と語り手/撮影者は語り、水溜りごしの映像を指がなぞる。凍結された過去は「再生」の瞬間、時間が溶け出して不定形な「水溜り」となり、あるいは「双子のBと一緒に映像鑑賞する私」は、手元のコップの水=溶けた過去の時間をまさに味わっている。そして、壁には「双子の男児の写真」がそっけなく、だが謎かけのように貼られている。これは、林自身の幼少期の家族写真なのか?「双子のB」は存在するのか?「写真」は真正性の保証/起源の捏造のどちらに加担するのか?「双子」が意味するものとは何か?



林勇気《Our Shadows》(2022)[撮影:麥生田兵吾]


双子、対、鏡像、コピー、類似と差異。実は、上述の映像は、林自身の経験を元に、「指示書(台本)」に従ってパフォーマーが演じ直して撮影したものだ。さらに、3階の《Their Shadows》では、この「他者による過去の再演」を、さらに別のパフォーマーが演じ直して撮影した「コピーのコピー」が重ね合わされている。店舗、工場、公園、水辺や水面、足元の地面と靴。不安定に揺れる映像は多重露光的に重なり合い、同期とズレを繰り返しながら、元造船所の壁や床を染め、かつて使用されていた箪笥や椅子などの家具の表面を侵食し、手洗い場の鏡や鏡台に反射して像が複製されていく。その傍らに置かれた、その名も《ビデオアーカイブシステム》という作品では、本展出品の映像すべてがモニターで閲覧できる。反射、複製、増幅、入れ子状の再生システム。そしてテーブルやちゃぶ台の上に置かれた「二対の空のコップや器」は、かつてそれを使っていた誰かの記憶とともに、「映像のコピー」が注がれるのを待つ「保存容器としての記録メディア」を示唆する。



林勇気《Their Shadows》(2022)[撮影:麥生田兵吾]




林勇気《Their Shadows》(2022)[撮影:麥生田兵吾]


点在するモニターでは、日常風景の映像が氷の塊を透かして映し出され、ラテン語の「私は見る」を語源とする《video》と名づけられている。過去の凍結としての「氷」はさらに、4階の近作《15グラムの記憶》につながっていく。《15グラムの記憶》は、「祖父の遺品のフロッピーディスク」に保存されていた「祖父がデジカメで撮影した近隣の川の写真」を、語り手の「私」がたどり直し、「現在の川」を撮影し直した映像と「祖父の撮影手記」の朗読を重ねた映像インスタレーション。「捏造された起源」としての「他者の記憶」とその再演行為、「水/氷の状態変化」「保存容器としてのコップ」のメタファーを通して、「デジタルデータの撮影/保存(形式や媒体の複数性)/再生/紙への出力/機器やデータの劣化」といった動態や循環について親密な作法で語る、秀逸な作品である。そして「再演」を通した「他者の記憶のコピーと共有」は、再び2階の《Our Shadows》へと還流していく。また、「日常的な事物の膨大な切抜き画像が川の流れのように浮遊するアニメーション」という林の代表的シリーズ「もうひとつの世界」の最新作は、まさに「時間の流れと消失」を宇宙的スケールで映し出す。



林勇気《15グラムの記憶》(2021)[撮影:麥生田兵吾]




林勇気《another world - vanishing point》(2022)および会場風景[撮影:麥生田兵吾]



[撮影:麥生田兵吾]



最後に、本展のもうひとつの仕掛けについて触れておく。チラシやHPでは予め、「開館後約30分間は、順次、映像機器の電源を立ち上げ、閉館30分前より徐々に電源を落とし、蝋燭の灯火のみで鑑賞する」旨が告知されていた。林はその名も「電源を切ると何もみえなくなる事」と題した個展(2016)で、「1日3回、決まった時間に映像機器の電源が落とされる」という操作を展示に組み込み、映像メディアの物理的基盤、映像=光の非実体性、検閲や規制といった暴力的な介入について示唆していた。この過去展では「電源のON/OFF」という「状態」が半自動的に創出されていたが、本展では、ON/OFFの操作を林自身が行ない、その作業に観客が立ち会う時間がつくられた。

特に、電源を切った暗闇のなか、鏡台や鏡のそばに置かれた蝋燭の灯はさまざまな思索を誘う。鏡による光の反射、像の複製、映像の原始としての影絵の発生。それは、電源を落とされ、「死んだ」映像に代わる「別の光の再生」であり、その灯すらもやがて燃え尽きて消えていく。ここで、蝋燭の灯をともす行為が林自身の手で行なわれることが肝だろう。それは、命を絶たれた映像への追悼であり、鎮魂であり、自らの手で命を奪ったことへの贖罪として供えられた灯なのだ。闇に沈む床置きのプロジェクターやモニターは、墓石や墓碑のように見えてくる。「電源のON/OFF」という日常的な行為の時間だが、灯火の仕掛けもあいまって、林による表現としての強度を備えていた。

さらに、「電源のON/OFF」の行為は、展覧会という場が持続的に機能するためには不可欠だが、通常は観客の視線から隠されている。「エッセンシャルであるにもかかわらず不可視化されている」という意味でそれは、ケア労働的と言ってもいい。林の振舞いは、「誰が展覧会を持続的に支えているのか」というケア労働的な問いの射程をも照らしていた。



[撮影:麥生田兵吾]


公式サイト:https://chishima-foundation.com/projects/yukihayashi_exhibition/

関連レビュー

林勇気「15グラムの記憶」|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年10月15日号)
林勇気「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月15日号)
林勇気「電源を切ると何もみえなくなる事」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年05月15日号)

2022/09/08(木)(高嶋慈)

NT Live『プライマ・フェイシィ』

会期:2022/08/05〜

TOHOシネマズ日本橋ほか[東京都ほか]

直視すべき現実に目を向けさせ、聞かれるべき声に耳を傾けさせる。イギリスのナショナル・シアターが厳選した傑作舞台をスクリーンに届けるナショナル・シアター・ライブ(NT Live)で8月5日に日本公開された『プライマ・フェイシィ』は演劇にその力があるのだということを、そしてその力によって社会を変えようとするつくり手たちの強い意志を、まざまざと感じさせる傑作だ。

被告人弁護を専門とする弁護士のテッサ。彼女は裁判の場における駆け引きに長け、ときに証人の証言の信憑性に疑問符をつけることで依頼人の勝利を勝ち取ってきた。疑わしきは罰せず。それが法律上の正義であり、彼女の正義だった。大手事務所から移籍を打診され、同僚のダミアンとは「いい感じ」になり、公私ともに順風満帆に思えた日々。しかしある日、性的暴行の被害者となった彼女は自らが信じていた法制度の矛盾に直面することになる──。

作者のスージー・ミラーはオーストラリア出身で現在はイギリスでも活動する劇作家。もともとは人権や子供の権利に携わる活動をする弁護士として活動していたミラーは、『プライマ・フェイシィ』はロー・スクールに通っていた頃の考えから生まれた作品だと戯曲の前書きで書いている。執筆する勇気と、届けるにふさわしい社会的環境を待っていた作品が#MeTooの光のもとで実現したのだと。2019年にシドニーで初演されたこのひとり芝居は数々の賞を受賞し2021年に再演。2022年には今回ナショナル・シアター・ライブの1本として上映されたジャスティン・マーティン演出/ジョディ・カマー出演によるプロダクションがロンドンのハロルド・ピンター劇場で上演され、同プロダクションは2023年にブロードウェイでの上演も決まっている。

性的暴行にあって動揺するテッサは職場での人間関係や自身のキャリア、そして何より性的暴行事件で被害者が勝訴することの難しさ(それは彼女自身が誰よりもよく知るところだ)を考えて警察に駆け込むべきか苦悩する。弁護士として考えれば今回のケースを性的暴行として立証することはきわめて困難だ。相手は同僚のダミアンであり、彼女がダミアンと「いい感じ」になりつつあったことは彼女の友人も知っている。当日は仲良くデートをしているところを複数の場面で複数の人に目撃されてもいる。ダミアンとは以前にもセックスをしていて、それどころか当日も一度、合意の上で行為に及んでいる。その後、酩酊し気持ちが悪くなったテッサは二度目の行為を拒絶するが、ダミアンはそれを無視して無理矢理に行為に及んだのだった。それまでの関係がどうであれ、同意なき性行為はすべて性的暴行である。だが、それを証明するのは当事者二人の証言だけだ。おそらく裁判には勝てない。そう知りながら、彼女は裁きの場に臨む決断をする。

タイトルの『プライマ・フェイシィ』はもともとはラテン語で「一見して」というような意味を持つ。法律用語としては例えば「prima facie evidence=(反証がないかぎり十分とされる)一応の証拠」というようなかたちで使われる言葉だが、日本語では「明白な(ひと目見てわかる)」とも「一見したところでの」とも訳されうる言葉だ。テッサと彼女の視点に寄り添う観客には「明白な」真実も、裁判の場においては反証可能性の残る仮の真実でしかない。作者自身の言い換えでは“on the face of it”。直訳すれば「それに直面して」というところだろうか。この言葉はテッサの置かれた状況を示しているようでも、彼女の物語に向き合う観客に向けられているようでもある。

ひとまず予定された自身の証言を終えるテッサ。だが、ダミアンの弁護士は彼女の証言や記憶の曖昧さを責め立てる。それはテッサ自身も弁護士として用いる戦法であり、ゆえに予想されたものでもあったのだが、彼女はうまく応じることができない。裁判の場においては論理的に整合した証言が求められるが、それを可能にする理性や意志を踏みにじり破壊する行為こそが性暴力だからだ。

この作品のクライマックスでテッサは、長年にわたる男性中心の社会のなかで築き上げられてきた現行の制度が、いかに女性の体験を反映していない理不尽なものであるかを訴える。ともすれば演劇のセリフとしてはあまりに直球の社会批判の言葉はしかし、彼女自身に起きた出来事に照らしたものであるがゆえに、強く聴衆に訴えかける力を持つ。裁判の聴衆と重なりあった劇場の観客は彼女の言葉に耳を傾けざるを得ない。ほとんどこの言葉を聞かせるためだけに、この作品は書かれたのだと言ってもよいだろう。

テッサは裁判に負ける。だが、テッサの母親や付き添いの婦人警官らは彼女に連帯の意志を示す。テッサの言葉は、そして『プライマ・フェイシィ』という作品は、男性原理の支配する裁判所という法の場の外側で人々に働きかけ世界を変えようとしている。法律の専門家であるカレン・オコネルがCurrency Press版の戯曲に寄せた前書きは ‘Making law from women's lives’ と題されていた。女性の生に根ざした法をつくること。テッサの裁判記録が仕舞い込まれると、同じ棚に並ぶ無数のファイルが光り出す。それは現在までの戦いの記録だ。livesを人生の意味に取るならば、その意味するところはあまりに重い。

『プライマ・フェイシィ』の東京での上映はひとまず終了したが、これまでナショナル・シアター・ライブの作品のほとんどは再上映されている。重いテーマを扱いつつ、観客を掴む力を持った作品だ。機会があればぜひ鑑賞していただければと思う。英語が読める方には優れた前書きがついた戯曲もおすすめしたい。ジョディ・カマーが出演する映画『最後の決闘裁判』(リドリー・スコット監督、2021)も近いテーマを扱った作品だ。合わせて観るのもいいだろう。




NT Live:https://www.ntlive.jp/primafacie

2022/08/23(火)(山﨑健太)

Surrender ゆだねる力展─能動と受動の間で

会期:2022/06/17~2022/07/31

Gallery 9.5(HOTEL ANTEROOM KYOTO内)[京都府]

本展は、アーティスト、エンジニア、AI研究者などからなるコレクティブ「 Qosmo コズモ 」による展覧会だ。ステイトメントで明示されていたのだが、同時期に同じく京都で個展を開催していたブライアン・イーノが提唱した「ジェネラティブ・ミュージック」へ連なる系譜として本展は企画されている。

「ジェネラティブ・ミュージック」よりも広い領域を指す「ジェネラティブ・アート」は自律的なシステムやソフトウェアの主体的な挙動を利用するものであるが、そういったシステムに対して人間がどのような切れ目、枠組み、終わり方、ループの仕方を形づくるかという点が、これらの作品化において重視されてきた。Qosmoは特にそのシステムにAIを組み込むことにより、ソフトウェア自体ではなく、人間対非人間というスケールを作品に与えてきた。

例えば出展作の《Suspended Identity》(2022)は二つのモニターとフロントカメラが対面するように並んでいるインスタレーションで、それぞれのフロントカメラは互いの様子を写し合っている。いずれのカメラも外界の情報を収集のうえAIが学習し、自身の内部状況を変化させているのだが、その変化には2種類の志向性が設定されている。外界の模倣、模倣による内部変化の減少をトリガーとした差異化。この動きはフィードバックループを繰り返していくことになる。顔色を窺いながら同質化するコミュニケーションの比喩でもあると思う半面、それではあまりにも他者としてのAIに、ジェネラティブである構造に人間を見出す方法でしか作品を閉じることができていないと自身の想像力の欠如を思うのであった。

観覧は無料でした。


公式サイト:https://qosmo.jp/surrender-kyoto/


関連レビュー

BRIAN ENO AMBIENT KYOTO |きりとりめでる:artscapeレビュー(2022年10月01日号)

2022/07/31(日)(きりとりめでる)

BRIAN ENO AMBIENT KYOTO

会期:2022/06/03~2022/09/03

京都中央信用金庫 旧厚生センター[京都府]

ブライアン・イーノの大規模なインスタレーション展ということであったが、いずれの作品も基本的には光源か音源による観賞上の正面性が強く存在する。なので、観賞者は暗闇の中に浮かぶ映像や音をどこかのソファーに座ったり、定位して体験することになる。というか、暗いのでたくさんいる人の中を無闇に歩いて回るわけにはいかない。とにかく人が多かった。

多くの人を安全に移動させるために黒いTシャツを着たスタッフたちがライブ会場のように黙々と誘導し続ける。ジョセフ・アルバースのように設計の色彩配色がLEDで転々と配色を変えながら光る《Light Boxes》であったり、スクリーンセーバーのように明確な形象を結ぶことのない映像である《77 Million Paintings》や、ある人の顔を見ていると思いきや気付いたら違う人になっていた! という《Face to Face》のように、つねに捉えどころがない映像、そして盛り上がりも溜めもない音は、いくらでも体験していられる。とりわけ、背もたれのある立派なソファーが並んでいた《77 Million Paintings》では、子供部屋に流れるプラネタリウムのように作品は人々の眠気をさそっていた。そうではあったのだが、わたしは自分の後に待ち構える次なる観賞者のことを背中に感じ、ある程度の作品の構造的なるものを把握したような気がしたら、そそくさとその場を後にした。睡眠という観賞は、見ることも聞くことも放棄しながらも、ほかの観賞者の存在を忘れて作品に身を任せた結果だなと思い、羨ましく感じた。

入場料は平日は2,000円、土日は2,200円でした。なお、本イベントの収益の一部はイーノが設立した気候変動問題の解決を目的とした慈善団体「EarthPercent」へ一部が寄付されるそうです。


公式サイト:https://ambientkyoto.com/


関連レビュー

Surrender ゆだねる力展─能動と受動の間で |きりとりめでる:artscapeレビュー(2022年10月01日号)

2022/07/31(日)(きりとりめでる)

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紅花の守人〜いのちを染める

会期:2022/09/03~未定

ポレポレ東中野ほか全国劇場にて順次公開[全国]

鮮やかな赤色を日本の伝統色では「紅(くれない・べに)」と呼ぶ。そもそもこれは中国・呉の国から伝来した藍という意味から「呉藍(くれあい)」と呼ばれ、後に「紅(くれない)」に変化した言葉だと言われる。藍はご存じのとおり、青色の染料だが、当時、日本でもっとも使われていた植物染料だったことから、ここでは染料全般を指す言葉として使われたのだろう。藍は庶民に広く親しまれた植物染料だったのに対し、紅は皇族や貴族ら高貴な身分にしか許されない特別な植物染料だった。なぜなら、金に匹敵するほど希少で高価なものだったから。現在、紅はもちろん藍ですら植物染料そのものが希少になってしまったが、実は山形県・最上川流域の小さな農村で原料の紅花生産と加工が密かに守り継がれているという。本作はその生産者たちを4年の歳月をかけて追ったドキュメンタリー映画だ。


©映画「紅花の守人」製作委員会
ナレーション:今井美樹
監督:佐藤広一
プロデューサー:髙橋卓也
唄:朝倉さや 音楽:小関佳宏
企画・製作:映画「紅花の守人」製作委員会
配給:株式会社UTNエンタテインメント
2022年/日本/85分/カラー/DCP/16:9


染料の紅がどのようにつくられるのかを知る人はどのくらいいるだろうか。この映画では、紅花の花びらを一つひとつ手で摘み取るシーンから始まる。非常に素朴で地味な作業だ。そして摘み取った花びらを丁寧に水洗いし、揉み込み、日陰で発酵させる。そして発酵が進んだ花びらを臼に入れて突き、手で丸めて平らに伸ばして、天日干しをする。保存と輸送に適したこの形を「紅餅」と呼び、これが消費地に運ばれて染色に利用されてきた。こうした昔ながらの生産と加工を淡々と繰り返す紅花農家をはじめ、大手繊維製品メーカーを辞めて草木染めを追究する京都在住の染織作家、紅花を使ったレシピ開発に臨む料理研究家、紅花摘みの体験をする近隣の小学生たちなど、紅を巡るさまざまな物語が交差し紡がれていく。特に染織作家がインタビューで語る紅に対する熱い思いは、“紅に魅せられた人”という形容がぴったりだった。

かつて平安時代の皇族や貴族らは自身が夢中になったからこそ、庶民に対し「禁色」のお触れを出して紅を独占した。もちろん現在、化学染料だけで染色は事足りる。それなのに紅花生産と加工が守り継がれている意味は何なのだろう。それは目にした人にしかわからない、得も言われぬ魅力が紅にはあるからなのかもしれない。




公式サイト:https://beni-moribito.com

2022/07/28(木)(杉江あこ)