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映像に関するレビュー/プレビュー

ALLNIGHT HAPS 2021「彼は誰の街に立つ」#3 村上慧《広告収入を消化する》

会期:2021/11/13~2021/12/18

東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)[京都府]

制度と共謀しつつ、その間隙を突いていかにクリティカルな制度批判を打ち出せるか。

「広告収入を消化する」と題された村上慧の個展は、肉体を資本とする賃金労働と広告装置が支える消費資本主義のシステムを、自らの身体を文字通り駆使して鋭く照射する。

本展は、夜間に路上からガラス越しに鑑賞する展覧会シリーズ「ALLNIGHT HAPS」の一環。スクリーンに映る村上の裸の上半身が「広告ウィンドウ」となり、もうひとつの映像が入れ子状に投影される。「提供」の2文字とともに、HAPS、京都のギャラリーショップや書店、アーティストの明和電機のロゴが表示。事業の紹介、通販サイトの宣伝、テレビショッピングのノリでグッズ販売を行なう広告映像が流れる。



[撮影:前端紗季]



[撮影:前端紗季]


生ける「広告ウィンドウ」となった村上は、同時に、協賛スポンサーから支払われた「広告収入」でデリバリー注文したフードやドリンクを次々と口に運んでいく。消費価値を作り出す広告を、食料に交換して文字通り「消費・消化」する転倒の操作であり、自身の身体を広告媒体にして報酬を得る行為は、労働と資本の本質的関係をシンプルかつ鮮やかに可視化する。私たちは、自らの肉体を資本とする賃金労働に従事し、報酬として得た金銭で生命維持、すなわち資本としての身体を維持し続けているからだ。そして広告産業とは、消費資本主義を駆動させ続ける動力源にほかならない。

村上は、自作した発泡スチロール製の「家」を背負って国内外を歩いて旅するプロジェクト「移住を生活する」においても、都市の路上に身体を開きながら、不動産(家)の所有の観念、定住/移住や公/私の境界線をめぐり、既存の社会経済の構造や管理社会の間隙をユーモラスかつ鋭く問い直してきた。CMのスポンサーがギャラリーやアーティストである本展では、アートと商品経済の皮肉な関係も露呈されている。



[撮影:前端紗季]


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2021/11/14(日)(高嶋慈)

ホー・ツーニェン「百鬼夜行」

会期:2021/10/23~2022/01/23

豊田市美術館[愛知県]

あいちトリエンナーレ2019で発表された《旅館アポリア》、YCAMとKYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMNで展示された《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》に続き、アジア太平洋戦争期の日本をシンガポールという「外部」から再批評するシリーズの第3弾。小津安二郎や海軍プロパガンダアニメ映画の引用、セル画アニメの層構造への言及、ロボットアニメが描く「虚構の戦争」やVRに対するメディア批評を織り交ぜ、強烈な身体経験とともに歴史の力学を緻密に再構築してきた。本展「百鬼夜行」でホー・ツーニェンが召還するのは、アニメや漫画でおなじみの「妖怪」である。

展示前半では、闇の中を練り歩く奇怪な妖怪たちが、恩田晃によるおどろおどろしい音楽を背景に、アニメーションによる絵巻仕立てで紹介される。平安末期や幕末、コロナ禍の「アマビエ」など戦乱や災禍の時代に流行した妖怪が世相批判も担っていたように、既存の妖怪が批評的に読み替えられていく。例えば、山や谷で反響音を引き起こす「山彦(やまびこ)」は、共鳴壁で包囲してイデオロギーを増幅させるプロパガンダ装置の謂いとなる。全身に無数の目を持つ「百目」や障子に無数の目が浮かび上がる「目目連(もくもくれん)」は監視網のメタファーだ。油を欲しがる「油すまし」や「化け猫」は「1942年から45年にかけて東南アジアで多く見られた妖怪」とされ、石油資源を求めた日本の侵略に重ねられる。「塗り壁」は過去への道を阻む障壁、経典を食い荒らす「鉄鼠(てっそ)」は歴史資料を食べる妖怪とされ、歴史の健忘症の要因として読み替えられる。魑魅魍魎が跋扈する奇形的空間としての戦時期日本が現在にまで接続され、「百物語」の灯が消えた瞬間に「妖怪が出現する」演劇的な仕掛けも痛烈だ。



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]


展示後半では、百の妖怪のうち「のっぺらぼう」「偽坊主」、そして変幻自在な「虎」に焦点が当てられる。戦争末期、カモフラージュのため多くの日本兵が僧侶に化け、スパイ養成機関「陸軍中野学校」は、変幻自在で顔のないスパイ=のっぺらぼうを生み出した。戦争責任回避のため僧侶に変装した辻政信と、一方、戦友の慰霊のため僧侶として生きることを決意した小説『ビルマの竪琴』の水島上等兵。「マレーの虎」もまた多重的に分裂した像を見せる。シンガポール攻略の司令官の山下奉文と、中野学校出身のスパイから軍の諜報活動に勧誘された日本人の義賊、谷豊の2人である。作品中の映像は、記録画像/映画(フィクション)の引用/アニメが多重露光的に重なり合い、輪郭が曖昧にブレ、虚実の境界を揺るがせることで、「これが(隠された)真実だ」というプロパガンダとの同質化を回避する。彼らの「顔」は匿名的に消去されているが、僧侶姿の元水島上等兵が現地に残る決意を竪琴の演奏で戦友たちに伝えるシーンでは、顔の表情が回復され、「のっぺらぼう」が、戦争による人間性の抹消も示していたことに改めて気づく。



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]


また、「虎」は、時代の要請を受けて変幻自在に何度でも蘇る。千人針に縫い込まれた「虎」。「マレーの虎」のひとり、谷豊は戦時中にプロパガンダ映画で英雄化され、1960年代のテレビドラマや、日本が経済的にアジアに進出した80年代には映画で、「怪傑ハリマオ」として蘇る。タイガーマスクや『うる星やつら』のラムちゃんなど、ヒーローや超自然的能力を持つ存在もこの列に加えられ、時代の無意識的な欲望とその亡霊性が示される。



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]


展示全体を通して、「過去への遡行」としての妖怪像を提示する本展。ちなみに、百の妖怪のうち、家の障子を震わせる「家鳴(やなり)」は《旅館アポリア》で展示会場の日本家屋を暴風雨/空襲のように揺らす仕掛けも示唆し、「不可知の雲」のビジュアルは《未知なる雲》(2011)のセルフパロディであるというように、ホー自身の「過去作」も取り込まれている。

妖怪が見せる変幻自在なトランスフォームは、アニメが得意とするところであり、本展は、《旅館アポリア》と《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》の前2作に比べると、エンターテイメント色が強く楽しめる。だが、なぜそもそもホーは、戦時期日本を対象化するにあたり、「妖怪」を参照したのか。例えば、「道に迷った」を「狐に化かされた」と言い換える表現があるように、妖怪(姿が見えず、人智の及ばない存在)のせいにすり替えることで、主体や責任の在りかを曖昧化してしまう。「さまざまな妖怪が戦前の日本に取り憑き、現在も目を眩ませて健忘症を引き起こす」、すなわち「行為の主体性と責任」が見えないことこそが、本作の指し示す、真に恐るべき事態である。

関連レビュー

ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(後編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
あいちトリエンナーレ2019 情の時代|ホー・ツーニェン《旅館アポリア》 豊田市エリア(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年09月15日号)
ホー・ツーニェン『一頭あるいは数頭のトラ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年03月01日号)

2021/11/06(土)(高嶋慈)

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阿部航太『街は誰のもの?』

グラフィティは80年代前半ニューヨークで最初のピークを迎えたが、ニューヨークがジェントリフィケーションによって下火になるのと引き換えに、世界各地に飛び火していく。そのひとつがブラジルのサンパウロだ。この映画はサンパウロのグラフィティやスケートボードなどのストリートカルチャーを、デザイナーの阿部航太が追ったドキュメンタリー。

グラフィティを扱った映画は『WILD STYLE』や『INSIDE OUTSIDE』など、フィクション・ノンフィクションを問わず何本もあるが、違法にもかかわらず公共空間に書くことの意味を問うたり、依頼制作の合法的グラフィティ(それは「グラフィティ」ではなく「ミューラル=壁画」という人もいる)との違いについて語られることが多い。この映画も違法行為を繰り返すグラフィティライターを追いかけ、インタビューしていくなかで、タイトルにあるように、次第に街(公共空間)は誰のものなのかを問うようになっていく。ライターたちの言い分は、自分たちは無償で街を美しく飾っているのになにが悪い? ということだ。これはニューヨークでもヨーロッパの都市でも同じで、公共空間イコール自分たちの場所(だからなにやってもいい)という考えだ。実際、映画には路上で服や食べ物を売ったり、大統領に反対するデモを行なったり、地下鉄でギターをかき鳴らしたり、ホームレスが窮状を訴えたり、思いっきり街を活用している例が出てくる。

こういうのを見ると、やっぱりラテン系は騒がしいなと疎ましく思う反面、うらやましさを感じるのも事実だ。だいたい日本人は公共空間をみんなの場所(それはお上が与えてくれた場所)だから、自分勝手なことをしてはいけないし、自己表現する場所でもないと考えてしまう。だから、ゴミ拾いくらいはするけれど、街を美しくしようとか楽しくしようとか積極的に行動することはあまりない。これを国民性や文化の違いとして片づけるのではなく、表現の自由に対する自己規制や無意識の抑圧として捉えるべきではないかと思ったりもした。日本の街にグラフィティが少ないのは、必ずしも誇るべきことではないのだ。

さて、映画は後半以降グラフィティから離れてスケートボードの話に移るが、スケボーも同じストリートカルチャーではあるものの、とってつけたような蛇足感は否めない。映画としてはグラフィティだけでまとめたほうがよかったように思う。


公式サイト:https://www.machidare.com

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絵が生まれる場所──サンパウロ、ストリートから考えるまちとデザイン|阿部航太:フォーカス(2020年02月15日号)

2021/11/01(月)(村田真)

語りの複数性

会期:2021/10/09~2021/12/26

東京都渋谷公園通りギャラリー[東京都]

インディペンデント・キュレーターの田中みゆきの企画による「語りの複数性」には8人の作家の作品が出展されている。作品はそれぞれに「語りの複数性」、つまり世界の捉え方の多様さを体現するもので、どれも興味深く見た。だが、私にとって個々の作品以上に面白かったのは、展示を順に観ていくことで立ち上がるトータルとしての鑑賞体験だった。建築家の中山英之によって構成された会場を進んでいくことで、鑑賞者である私のなかに世界を捉えるための複数の方法が自然とインストールされ、モードが変更されていくような感触があったのだ。

最初の部屋に展示されているのは川内倫子の写真絵本『はじまりのひ』とそれを壁面に展開したもの。この部屋には加えて、目が見える人と見えない人が一緒に『はじまりのひ』を読んだ読書会の成果物として、目が見えない4人が『はじまりのひ』を読んだ体験を言葉や立体造形などで表現したものが展示されている。展示全体の導入としての具体的な「語りの複数性」の提示だ。

次の展示空間に続く廊下部分に展示されているのは真っ白な空間で落語を演じる柳家権太楼を撮った大森克己の連続写真《心眼 柳家権太楼》。そこに写っているのは全盲の人物が主人公の『心眼』という演目を演じている姿らしいのだが、声が聞こえない写真から私がそれを知る術はない。

だが、百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》に出演しているろう者の木下知威は、対談相手である百瀬の口唇の形を頼りに、つまりは視覚を使って百瀬の言葉を「聞き取り」、自身には聞こえない口唇の動きを伴う声を発していた。やがて百瀬の発話には口唇の形は同じでありながら別の音が混ざっていき、それは聴者である私にとっては奇妙な言葉に聞こえるのだが、しかし木下は何事もないかのように会話を続ける。いや、実際に木下にとっては何事も起きていないのだ。百瀬の声がカットされるに至って彼女の言葉を私が知る術は字幕しか残されていないが、それでも二人の会話は続いていく。

続く映像作品も対話を映したものだ。山本高之《悪夢の続き》では二人一組の出演者の一方がこれまでに見た悪夢について話し、もう一方がその続きを考えてハッピーエンドにするというルールで対話が行なわれる。続きを考えるはずが相手の夢に対して別の解釈をしはじめる人、ハッピーエンドが思いつかない人、提示されたハッピーエンドに対してあからさまに納得していない顔で「なるほど」と応じる人、などなど。なかにはコンセプトをきちんと実現している対話もなくはないのだが、多くの対話には何らかの形で「うまくいかなさ」が滲み、それが微苦笑を誘う。

小島美羽の作品は小島が遺品整理や特殊清掃の仕事を通して触れてきた孤独死の現場から要素を抽出しミニチュアとして再構成したもの。あらゆるコミュニケーションには不全が潜在しているが、小島のミニチュアにはそれが凝縮されているように思えた。誰にも見られずに誰かが亡くなった孤独死の現場のミニチュアをよく見ようと覗き込むことの後ろめたさ。その行為は見過ごされた死の穴埋めにはならないが、それでも知ろうとする態度にはつながっている。

緻密な世界を覗き込む姿勢は岡﨑莉望の緻密なドローイングへの鑑賞態度に引き継がれ、岡﨑の線の運動は展示空間を泳ぐようにダイナミックに吊られた小林沙織《私の中の音の眺め》の五線譜のそれへとつながっていく。音を聴いたときに浮かんだ情景、色彩や形を描いたものだというそのドローイングを見ていく私の体には自然と、五線譜に導かれるようにして運動が生じている。音は視覚と運動へと変換される。

導かれた先には最後の作品、山崎阿弥《長時間露光の鳴る》が展示されている部屋がある。そこで聞こえてくるのはそこにある「窓から視界に入る範囲と、聞こえてくる音の源泉を録音範囲として、複数の時間と季節、天候のもとで」録音した音を編集したもの。一瞬、窓の外の街の音が聞こえてきているのかと錯覚するが、音に集中しはじめるとそれは私に見えている風景とは一致せず、むしろ窓の外の風景の方がずれているような奇妙な感覚が生じてくる。

この部屋は展示空間の突き当たりにあり、ということは、鑑賞者である私は来た道を今度は逆に辿っていくことになる。すでに作品はひと通り見終えているので真っ直ぐに出口に向かってもいいのだが、順路を逆に辿りながら見ていくことで作品が別の姿を現わすこともある。例えば、初見ではその緻密さに目が行った岡﨑莉望のドローイングが、小林沙織《私の中の音の眺め》の後に見ると線の運動としてより強く体験される、というように。「語りの複数性」ということがさまざまなレベルで体感される優れた企画と会場構成だった。


「語りの複数性」:https://inclusion-art.jp/archive/exhibition/2021/20211009-111.html

2021/10/28(木)(山﨑健太)

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アントワーヌ・ヴィトキーヌ『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』

2017年、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる《サルバトール・ムンディ》がオークションで、美術作品の最高額を大幅に更新する約510億円で落札されて世界を驚かせた。しかもこの作品、2005年にわずか13万円で売買された代物。その後、修復してレオナルドの真作である可能性が高いと判断されたとたん、一気に値が釣り上がり、最終的に510億円で落札されることになった。わずか12年間で40万倍(!)にも高騰したことになる。この映画は、なぜ作品価格がこれほど釣り上がったのか、その裏ではなにが起きていたのか、そしてこの作品は現在どうなっているのかを、関係者の証言を交えながら追跡したドキュメント。 以前から専門家のあいだでは、レオナルド工房の《サルバトール・ムンディ》という絵があるといわれていたが、レオナルド本人が制作に関与したかどうかは不明だったし、そもそも作品自体も見つかっていなかった。裏を返せば、レオナルドの真作がどこかに存在する可能性がゼロではなかったことが、今回の狂騒のキモだ。

発端は、ニューヨークの美術商が競売会社のカタログを見て「これはひょっとして」と思い、13万円で購入。美術商はこれを知り合いの修復家に預けたが、彼女は修復の範囲を超えて加筆修整まで施してしまう。その甲斐あってか(?)、ロンドンのナショナル・ギャラリーで複数の専門家が鑑定したところ、真作であるとの意見が多数を占めたため、同館の「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」に新発見の真作としてお披露目された。ナショナル・ギャラリーといえば美術界の権威中の権威、彼らがお墨付きを与えたということで、2013年には別の美術商が100億円で購入し、ロシアの大富豪に157億円で転売する。これが不当な売値であるとして富豪は美術商を提訴。ここまでで上映時間の半分以上を費やしている。

そして2017年、大富豪はオークション会社のクリスティーズにこの作品を委ねるのだが、クリスティーズの「煽り」がすごい。まず、美術オークションは通常「古典」「近代」「現代」の時代別に行なわれるが、《サルバトール・ムンディ》は古典美術ではなく現代美術の部門で扱われたのだ。理由は、現代美術の顧客は古典の知識が乏しいこともあってさほど真贋にこだわらないこと、また、芸術性よりも話題性のある作品、値の上がりそうな作品に興味を示すからだ。さらにクリスティーズは、オークション前の内覧会で作品の脇にカメラを据え付け、絵に見入る人たちの表情を捉えてPV化した。暗い背景の中で呆然と見つめる者、驚嘆する者、涙を拭う者などさまざま。同名のよしみか、ディカプリオも登場する。そんな宣伝効果も手伝ってか、《サルバトール・ムンディ》はオークション史上最高値の510億円で何者かによって落札された。

映画の終盤は、これを落札した人物と、《サルバトール・ムンディ》の行方を追う。落札者はその後、サウジアラビアの皇太子ムハンマド・サルマーンと噂される。同国のジャーナリスト殺害に関与したと疑われるヤバイ人物だ。作品は2019年にパリのルーヴル美術館での大規模な「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」に出品される予定だったが、所有者側は《モナ・リザ》の隣に展示されることを望んだのに対し、美術館側はあくまで「参考作品」としての扱いだったため交渉は決裂、出品されずに終わった。結局この作品、超高値で売買されたにもかかわらず真作か否か曖昧なままで、落札されてから一度も公開されていない。ひょっとしたら、皇太子は偽物をつかまされたってんで頭にきて破棄したんじゃないかとぼくはにらんでいる。そもそもイスラム国の指導的立場の人間が、救世主イエス・キリストの絵を大枚はたいて買うこと自体ありえない話。所有者の素行を見る限り、この絵を標的に「ダーツ遊び」しても不思議じゃないからなあ。

ぼくは実物を見たことないけど、報道を読んで《サルバトール・ムンディ》にレオナルドの手が入っている可能性はフィフティ・フィフティだと思っていたが、映画を見た後は限りなくゼロに近くなった。結局この映画が教えてくれるのは、レオナルドの偉大さでも芸術の奥深さでもなく、世界を躍らせるアートマーケットの耐えられない軽薄さであり狡猾さである。

公式サイト:https://gaga.ne.jp/last-davinci/

2021/10/22(金)(村田真)