2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

プレビュー:時差『隣り』

会期:2017/08/30~2017/09/03

green & garden[京都府]

「時差」は、特定の演出家や劇作家によるカンパニーではなく、複数のアーティストが同じコンセプトを共有しながら、それぞれの作家による新作公演をプロデュースする企画団体である。京都の若手制作者である長澤慶太によって2016年に立ち上げられた。第1回目の企画「動詞としての時間」では、精神科医の木村敏の著作を読み、「臨床哲学」の言葉を手がかりに、演劇、ダンス、映画作品を制作している。参加アーティストは、和田ながら(演出家)、城間典子(映画監督)、村川拓也(演出家、ドキュメンタリー作家)、岩淵貞太(ダンサー、振付家)であり、京都在住もしくは京都で発表歴のある気鋭のアーティストが名を連ねる。
今回の「動詞としての時間」第2回公演では、城間典子による映画『隣り』が上映される。この作品は、城間の幼馴染であり、統合失調症と診断された女性との共同制作による。映画は2つのパートから構成され、1)幼馴染の女性が、10代の頃、心のバランスを大きく崩した冬から春にかけて、彼女自身が「劇映画」として再現するパートと、2)その4年後に城間が再び彼女を訪ね、現在の様子を撮影したドキュメンタリーから成っている。発病当時、京都造形芸術大学の映画学科に在学中だった城間と、過去に演劇部に所属し、俳優を志していた彼女とのあいだで、1)の劇映画をつくることは自然な成り行きだったという。編集は城間に任されたが、4年かかっても終わらず、再び城間が彼女を訪ねたことを契機に2)が生まれた。そこには、一緒に劇映画の編集作業を行なう二人の様子とともに、通院を続け、絵を描きながら家族とともに暮らす彼女の日常生活が記録されている。本人の再現による「劇映画」とドキュメンタリーから成る構造は、ドキュメンタリー/フィクションという単純な二元論の解体についての問いを提起する。加えて、親密な関係のなかでカメラを向けるという被写体との距離感、病を抱えて生きることの困難とそこに寄り添って眼差しを向ける営みについてなど、さまざまなトピックを喚起する映画になるのではと期待される。
公式サイト: http://kyotojisa.wixsite.com/jisa

2017/06/30(金)(高嶋慈)

《広島平和記念資料館》

[広島県]

本館は改修工事中だが、東館は展示がリニューアルされている。パノラマ的な風景写真、原爆投下の前後やその瞬間を表現する円形の都市模型へのプロジェクション、インタラクティブな映像・情報検索のシステムなど。悪くないけど、すごく良いわけでない。文字が多すぎるかな。

2017/06/24(金)(五十嵐太郎)

クエイ兄弟 ─ファントム・ミュージアム─

会期:2017/06/06~2017/07/23

渋谷区立松濤美術館[東京都]

米国出身で、現在はロンドンを拠点に幻想的な人形アニメーションを制作しているクエイ兄弟の作品を紹介する回顧展。1947年に米国ペンシルベニア州で生まれた一卵性双生児のスティーブン・クエイとティモシー・クエイの兄弟は、1965年にともにフィラデルフィア芸術大学(PCA)に進学し、イラストレーションを専攻。1969年に英国のロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)に進学したときもイラストレーション専攻であった。PCA在学中よりすでに自主的にアニメーション映画を制作していたクエイ兄弟だが、1979年、RCAで映画を専攻した友人キース・グリフィス(1947-)の勧めで、英国映画協会より資金を得て、本格的に映画制作を始めた。今日まで、彼らはコマ撮りによる人形アニメーションと実写映画、そして両者を融合した作品を創り続けている。彼らに《ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋》(1984)というタイトルの作品があるように、東欧アニメーションなどの作品に影響を受けた、シュールで幻想的な作風が特徴だ。松濤美術館での展示は、初期のイラストレーションと、彼らがデコールと呼ぶ人形アニメーションの場面を再構成したボックス、これまでに制作した映像やインスタレーションのパネルによる紹介と、映像ダイジェスト版の上映で構成されている。また、兄弟が影響を受けたというポーランドのポスターも出品されている。展示の見所はやはりデコールの数々だろう。なかでも丸いレンズ越しに見る形式のそれらは、怪しい見世物小屋を覗き見るかのような印象を抱く作品だ。
ところで映像作品なら理解できなくもないのだが、イラストレーションやドローイングを彼らはどのように共同制作しているのだろうか。本展コーディネーターである株式会社イデッフ代表 柴田勢津子氏によれば、彼らはほんとうに二人で描いているとのことだ。なるほど、神奈川県立近代美術館<葉山館>で行なわれた公開制作の記録映像(https://youtu.be/LqNvm743qOI)を見ると、確かに、二人が、なにか打ち合わせるでもなく淡々と絵を仕上げてゆく様子が写っている。柴田氏の話では、映像作品においても兄弟のどちらが何をするという明確な役割分担があるわけではないのだという。さらに、これまで彼らは2週間以上離れていたことがないという話まで聞くと、一卵性双生児であるクエイ兄弟のあいだにはなにか言葉以外の不思議なコミュニケーションの手段が存在するのではないか、そして二人の存在自体が彼らの奇妙な作品の一部なのではないだろうかと思われてくる。
なお、映像作品に関しては、7月8日から28日まで、渋谷・イメージフォーラムで合計30作品が上映される。[新川徳彦]


会場風景

2017/06/16(金)(SYNK)

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オープン・スペース 2017 未来の再創造

会期:2017/05/27~2018/03/11

NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)[東京都]

今年もメデイア・アートの新作が揃うが、過去にもあったような試みのバージョンアップ的なプロジェクトよりも、その作品自体が科学や社会のトピックに絡み、なおかつ美しさをもつタイプが好みである。それゆえ、アメリカにおける女性と銃弾に関する意外な切り口を提示するオーラ・サッツの《銃弾と弾痕のあいだ》の映像とインスタレーションが印象に残った。

2017/06/09(日)(五十嵐太郎)

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メットガラ ドレスをまとった美術館

「メットガラ」とは、毎年5月の第一月曜日にメトロポリタン美術館で開催されるファッションの祭典。米ヴォーグ誌の編集長で、同館の理事でもあるアナ・ウィンターが、同館の服飾部門の活動資金を募るために、同館の企画展に合わせて開催している。この映画は、2015年の「メットガラ」の開催に向けた過程を、アナ・ウィンターと、企画展「鏡の中の中国」の担当キュレーター、アンドリュー・ボルトンとの2人に焦点を合わせながら追跡したドキュメンタリーである。ファッション界の知られざる内実を開陳するという点では、同じくアナ・ウィンターの編集者としての仕事に密着した『ファッションが教えてくれること』(September Issue、2009)に近いが、この映画の醍醐味は、むしろ現在の美術が抱えている問題を浮き彫りにしている点にある。
それは、美術が他分野との共生を余儀なくされているという問題だ。ファッションがアートか否かという問題はかねてから議論の対象となっていたが、この映画はむしろアートとファッションの互恵関係をありありと照らし出している。豪華絢爛なレセプションには名だたるセレブリティーたちが招待され、彼らに引き寄せられたメディア関係者が展覧会の情報を世界中に発信する。事実、「鏡の中の中国」展は興行的には大成功を収めたようだから、アートとファッションの共犯関係は、アートという美の殿堂に参画することを目論むファッションだけでなく、アートにとっても比べ物にならないほどのパブリシティを誇るファッションと手を組むことは十分にメリットのあることなのだろう。
しかし、そのような共犯関係は必ずしもすべての人間に歓迎されるわけではない。この映画の最大の見どころは、アンドリュー・ボルトンが提案した展示計画に、彼の同僚であるメトロポリタン美術館のキュレーターらが難色を示したシーンにある。美術の専門家である彼らは、あまりにもファッションに傾きすぎた展示計画に、収蔵品が「壁紙」になりかねないと懸念を表明するのだ。残念ながら、この場面はこれ以上深く追究されることはなかったが、ここには美術とファッションをめぐる価値闘争の実態が見事に体現されている。すなわち旧来のキュレーターにとって主役はあくまでも美術作品であり、ファッションと連動したオープニング・レセプションはそれこそ「壁紙」にすぎない。この短いシーンには、守るべきは美術であり、そのための美術館であるという、おそらくは国内外の美術館のキュレーターないしは学芸員が共有しているはずの頑なな信念が立ち現われていたのである。
ファッションと連動した美術館の産業化──。それが21世紀の資本主義社会を美術館が生き残るための生存戦略のひとつであることに疑いはない。だが重要なのは、資本主義の論理と美術の専門性を対比させたうえで、その戦略を肯定するか否定するかではなく、美術館を双方の生存をかけた結節点として捉え返す視点ではないか。現代社会における美術は、もはや他の文化領域との「共存」の段階にはなく、いまや「共生」の水準にあると考えられるからだ。生物学で言う前者は、縄張りに侵入してこないかぎり他者を攻撃しない状態を指し、同じく後者は一方が欠落すると、もう一方の生存が危うくなるほど緊密に結びついた相互扶助の状態を意味している。美術が何かしらの寄生先を不可欠とする文化領域であることは言うまでもあるまい。だがファッションにしても、ファストファッションの隆盛以降、「共存」を嘯く余裕は失われたといってよい。紙媒体に立脚したファッション雑誌にしても、同様の窮状にあることは否定できない。だからこそアナ・ウィンターは「共生」を求めてアートにアプローチしているのだろう。
「美術」や「ファッション」という狭義の分類法は、いまや縄張りを牛耳る既得権を持つ者にとってすら足かせにしかなるまい。近々のうちに、「造形」ないしは「つくりもの」という上位概念をもとにして制度や歴史、批評を組み立て直す作業が求められるに違いない。

2017/06/01(木)(福住廉)

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