2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

ヨコハマトリエンナーレ2017 「島と星座とガラパゴス」

会期:2017/08/04~2017/11/05

横浜美術館、横浜赤レンガ倉庫1号館、横浜市開港記念会館、ほか[神奈川県]

「ヨコハマトリエンナーレ」(以下、ヨコトリ)といえば、2014年に行なわれた前回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」を思い出す。美術家の森村泰昌をアーティスティック・ディレクターに迎えた同展では、まるで美術界の流行に背を向けたように硬質な、お祭り騒ぎやアート・ツーリズムや市場原理とは対極の価値観を打ち出した。「そうか、ヨコトリは逆張りで行くのか。それなら存在意義がある」。当時そのように理解した筆者にとって、今回の最大の関心は、ヨコトリがどのような路線を取るのかだった。今回は一人のディレクターを立てず、三木あき子、逢坂恵理子、柏木智雄が共同でディレクションする形式を取った。テーマは「島と星座とガラパゴス」。従来の国際的枠組みが揺らぐ一方、SNS等の発達で大国や中央集権の論理に抗う小さな共同体が現われて、世界が島宇宙化している。その孤立した島宇宙を接続していくことで、新たな可能性が開けるのではないか、ということだ。各会場を巡って感じたのは、まさに島宇宙のごとく多様な作品が並んでいること。記者発表時に逢坂は「個展の集合体」と述べたが、まさにその通りだ。今回のヨコトリはテーマを打ち出すのではなく、現場での議論を促し、そこから何が生まれるのかを見守っているよう。つまり芸術祭をプラットフォームとして再定義したということか。最後に個々の展示で筆者のお気に入りを挙げる。横浜美術館の、カールステン・ヘラー、トビアス・レーベルガー、アンリ・サラ&リクリット・ティラヴァーニャのチーム、風間サチコ(日本)、ブルームバーグ&チャナリン(南アフリカ、英国)、ワエル・シャウキー(エジプト)、ザオ・ザオ(中国)、横浜赤レンガ倉庫1号館の、小沢剛(日本)、クリスチャン・ヤンコフスキー(ドイツ)、宇治野宗輝(日本)、ドン・ユアン(中国)が素晴らしかった。

2017/08/03(木)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00040923.json s 10138519

広島平和記念資料館(東館)常設展示

広島平和記念資料館(東館)[広島県]

広島市現美のモナ・ハトゥム展と合わせて、広島平和記念資料館へ。今年4月にリニューアルされた東館の展示を見る。インタラクティブなタッチパネル式の展示・情報検索システムや、デジタル技術を駆使した映像展示が「目玉」となっている。特に、真っ先に観客を出迎える後者は、廃墟となった広島市内のパノラマ写真が取り囲む中、円形の都市模型にCG映像がプロジェクションされるというもの。被爆前の木造家屋が立ち並ぶ市街地の様子が上空からの俯瞰で映し出される。現在の平和記念公園がある中州にも、もちろん建物が密集している。川を行き交う船も見え、聴こえてくる蝉の鳴き声が「平和な朝」を演出する。カメラが地上へ近づき、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)付近へズームインする。原爆投下地点の「目標確認」の擬似的なトレース。次の瞬間、カメラは急速に上空に戻ると、投下されたリトルボーイとともに急下降する。閃光、爆風によって一瞬で吹き倒される建物、そして一面を覆う爆発の火炎と煙。だがそこに炎に焼かれる人影はいない(人間が「いない」無人空間であるかのように描かれる)。ならばこれは、「ここに(自分たちと同じ尊厳をもった)人間はおらず、実験場である」と見なすことで原爆を投下しえた米軍の視点に同一化しているのではないか。
カメラのめまぐるしい急上昇/急下降、「映像酔い」を起こさせるほど視覚に特化した体験。CGをふんだんに盛り込んだアクション映画やゲームを思わせる娯楽性さえ孕んだ、スペクタクルとしての可視化。「過去の見えづらさ」「接近の困難」をたやすく凌駕してしまうそこには、「表象の透明性」への疑いは微塵もない。結局のところ、制度化された展示空間の中で、私たちは、誰の視点に同化して見るよう要請されているのか? この反省的な問いの欠如こそが問われている。


展示風景

2017/08/02(水)(高嶋慈)

画廊からの発言「新世代への視点2017」

会期:2017/07/24~2017/08/05

ギャラリー58+コバヤシ画廊+ギャラリーQ+ギャラリイK+ギャルリー東京ユマニテ+ギャラリー川船+ギャラリーなつか+ギャルリーソル+藍画廊[東京都]

バブル崩壊後の1993年に始まり、今年で25年目(隔年開催の時期もあるので回数でいうと18回目)を迎えた「新世代への視点」。たしか初年度のサブタイトルは「10画廊からの発言」だったように記憶しているが、参加画廊が少しずつ増減したため「10」を除いたものの、今年は再び10画廊に不時着した模様。振り返ればこの4半世紀に画廊界は大きく変わったが、かろうじて貸し画廊が踏ん張っていられるのは、この「新世代への視点」を開催し続けてきたからではないか。もしこの企画が続いてなければ貸し画廊の存在感はもっと薄くなっていたはず。そう考えるとこの夏、初回から参加していたギャラリー現となびす画廊が相次いで閉廊したのはなんとも寂しい限りだ。
もちろん、いくら展覧会の意義を高く評価したところで、いい作家、いい作品が出ていなければ説得力がない。そこで目に止まった作品をいくつか。まずギャラリー58の水上綾。会場に入ると灰紫色に覆われたモノクロームの抽象画が並んでいる。と思ったら、目を凝らすと白や赤の点が浮かび上がってきて、なんとなく霧のなかに浮かび上がる夜景か、飛行機の上から見た港の風景のようにも見えてくる。白い点はキャンバスをサッと削った跡のようで、なかなかのテクニシャンのようだ。
コバヤシ画廊の幸田千依は清新な水浴の絵で注目を浴びたが、今年のVOCA展では打って変わって木立から遠望した風景画を出品し、VOCA賞を受賞したことは記憶に新しい。今回は水浴図4点と木立から見た風景2点の出品。前者は構図もサイズもバラエティに富んでいるが、後者は縦長と横長の違いはあるものの構図も色彩もほとんど同じで、遠くには小高い山に囲まれた海が見え、瀬戸内海あたりを想起させる。2点とも光(太陽)は画面中央の上から射し、黄色とオレンジ色の光輪を伴っている。水浴図が青、緑を中心としているのに対し、こちらは黄色とオレンジの暖色が支配的。そのせいか、ふと嫌なものを連想してしてしまった。核爆発。まさか作者はそのつもりで描いたんじゃないだろうけど、この白い球は不吉だ。パッと見て瀬戸内海を想起したのも、ひょっとしたらヒロシマを思い出したからかもしれない。考えてみれば太陽はつねに核爆発を起こしているわけだし、あながち的外れな連想でもない。そう思って過去の作品を見直してみると、水浴に気をとられて気づかなかったが、多くの画面の中央に発光源(太陽や火)を据えていたことがわかる。水だけでなく火も主要モチーフだったのだ。
ギャラリーなつかの原汐莉は、具象・抽象を問わずさまざまなかたちに切った板に布を貼り、着色している。色はきれいだが、いまさらシェイプトキャンバスでもあるまいし、と思ったら傍らにドローイングを発見。日付の入ったダイアリーのページにその日に思いついたイメージを描いたもので、ここから図柄をピックアップして拡大し、作品化しているそうだ。そういえば絵画化したものは上下が水平に切れてるものがいくつかあるが、それはダイアリーの罫線によってドローイングをフレーミングしているから。絵画も美しいけど、ドローイングのほうが興味深い。
ギャラリー川船の山本麻世は、壁に掛けた同ギャラリー所蔵の30点ほどの近代絵画に、紅白の工事用テープを絡めている。タイトルは「川底でひるね」というもので、地下にあるこのギャラリー(京橋)はかつて川底に位置していたと想定したインスタレーション。紅白のテープは、川底に隠れていそうなゴカイとかウズムシみたいな細長いグロテスクなかたちに編まれていて、それが絵の周囲をのたうち回り、何点かの絵を飲み込んでさえいる。このバケモノの造形はあまりいただけないが、ギャラリーのコレクションを持ち出して自分の作品に採り込んでいる暴力性は評価したい。ほかにも額縁にカラフルな樹脂製品をはめ込んだり、パレルゴン(作品の付随的な要素)に興味を抱いているようだ。以上4人の作品に共通しているのは、ダブルイメージやダブルミーニングなど多様な見方、多彩な解釈を受け入れる包容力を備えていることだ。

2017/07/29(土)(村田真)

命短し恋せよ乙女~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿

会期:2017/07/01~2017/09/24

弥生美術館[東京都]

「貴女、もう地獄に落ちてますよ」。シンガーソングライター・吉澤嘉代子の《地獄タクシー》(2017)は、女性解放を唄った名曲である。タクシーに乗り込んで空港へ向かう女は、「レースの手袋に滲んだ赤黒い染みを隠して、重い鞄を抱きしめた」。鞄の中に詰められているのは、亭主の首。だが、「窓の外を見遣ると、豊かな麦畑の黄金がそれはそれは美し」く見えるほど、女の気分はじつに晴れやかだった。抑圧からの解放と破滅の道が表裏一体であること。吉澤が軽やかに歌い上げているのは、地獄の釜の底に自由と解放を見出さずにはいられない女の切実な心情である。
本展は、明治大正時代の文学者や画家、詩人や俳人らの恋愛事件を当時の新聞記事や写真、小説など、数々の資料によって振り返ったもの。文学士・森田草平との心中未遂の後、洋画家・奥村博史と「結婚」ではなく「共同生活」をした、女性解放論者の平塚らいてう。そのらいてうが創刊した『青鞜』に執筆し、夫の田村松魚がいながら、『青鞜』の表紙絵を描いた長沼智恵子(後の高村智恵子)との恋仲が噂された、バイセクシュアルの小説家・田村俊子。そして二度目の駆け落ちでソ連に亡命し、スパイの容疑で収監、刑期を終えた後、ソ連でアナウンサーや演劇の仕事につき、当地で生涯を終えた女優・岡田嘉子。いずれも現在の姦しい不倫騒動が霞んで見えるほど劇的かつ濃厚、まさしく「事実は小説より奇なり」とも言うべき事件簿ばかりで、いちいち面白い。
展示で強調されていたのは、現在とは比べ物にならないほど頑強な「家制度」の力。家長たる男子を絶対視する家制度においては、個人の自由恋愛はそれを蔑ろにするご法度として罪悪視されていた。恋愛から結婚ではなく結婚から恋愛という手順が自明視されていた時代だからこそ、ある者は家制度の束縛に身を滅ぼすほど煩悶し、ある者はそれからの離脱に人生を賭けたのだった。言い換えれば、家制度が社会の核心に蔓延っていたがゆえに、それをよしとしない者たちは、たとえその外部が地獄だとしても、その釜の底を歩む道を選び取ったのである。
翻って現在、家制度の権勢は失われ、自由恋愛を阻む障壁の一切は取り払われたかのように見える。しかし、そうであるがゆえに、いわば地獄行きのタクシーに乗り込むような覚悟と情熱もまた、大きく損なわれてしまったのではなかったか。おびただしい数の資料群とともに展示されていたマツオヒロミによるイラストレーションは、竹久夢二や徳田秋聲との恋愛で知られる山田順子や前述した田村俊子を主題にしたものだが、流麗な線と艶やかな色彩によって女性の柔らかな肢体や着物の柄を丹念に描き出す力量は見事というほかない。あわせて展示されたラフ原稿を見ると、完成作の線とほとんど大差ないことにも驚かされる。だがその一方で、その耽美的な絵肌にいささか物足りない印象を覚えたのも事実である。というのも、マツオが描き出す女性像は、いずれも妖艶な魅力を確かに備えている反面、本展で詳しく紹介されている女性たちが醸し出す「業」を、ほとんど見出すことができないからだ。言ってみれば、天国で優雅に佇むような美しさは湛えているが、地獄の底を這いつくばりながら歯を食いしばって生きるような根性は到底望めないのである。
むろん、それは個人を疎外してやまない家制度の束縛から解き放たれ、自由恋愛を謳歌する現代の女性たちの等身大の姿なのかもしれない。彼女たちが100年以上も前の人間模様にある種の親近感を覚えることができるようにするための工夫とも考えられる。だが、かりにそうだとしても、そのようにして展示に含められた現代性を看過することはできない。なぜなら、そのような現代性は明治大正時代の展示構成にも少なからず暗い影を落としているように思われるからだ。
その暗い影とは、本展における伊藤野枝と阿部定の欠落である。前者は、言うまでもなく、雑誌『青鞜』に寄稿していた婦人解放運動家にして大杉栄と並ぶ無政府主義者で、事実、平塚らいてうと同様、野枝は結婚制度を拒否しつつ、大杉とのあいだに4人の子どもを設けたが、関東大震災の混乱に乗じた憲兵隊によって大杉とともに虐殺された。同じく『青鞜』に寄稿していた神近市子が大杉の喉元を刃物で刺した「葉山日陰茶屋事件」で野枝の名前を知る人も少なくないだろう。後者は、前者よりやや年少の芸妓・娼妓で、昭和11年(1936)に、性交中の愛人の男性を絞殺したうえ、男性器を切断して持ち逃げた「阿部定事件」で知られている。両者はともに家制度から逃れながら自由恋愛を実践し、結果として社会の大きな注目を集める事件を引き起こした点で共通しており、その意味で言えば、本展で紹介される資格を十分に備えているが、どういうわけか本展には含まれていない。厳密に言えば、阿部定事件があったのは昭和だから、明治大正時代の恋愛事件簿を取り扱う本展にはそぐわなかったのかもしれない。だが、平塚らいてうがいて伊藤野枝がいないのはどう考えても不自然であるし、自然主義文学運動を牽引した島村抱月と愛人関係にあった女優の松井須磨子がスペイン風邪で亡くなった抱月の後追い自殺を遂げた事件や、『婦人公論』の記者・波多野秋子と不倫関係にあった文学者の有島武郎が軽井沢の山荘で心中した事件を目の当たりにした以上、来場者の想像力が情死の極致とも言うべき阿部定事件に及ぶのは、至極当然の成りゆきではないか。
政治性とセクシュアリティ──。伊藤野枝と阿部定が本展からあからさまに排除されたのは、おそらく彼女たちが近代の美術館が露骨に忌避するこの2つの条件をものの見事に体現しているからだ。前者はアナキズムの運動家という点であまりにも政治的であり、後者は男根を直接的に連想させるという点であまりにも性的にすぎる。明治大正時代の恋愛事件簿を総覧した本展は、基本的にはその醍醐味をあますことなく伝えることに成功していると言えるが、伊藤野枝と阿部定を等閑視することによって、結果的にその本質的な魅力を半減させてしまっているのではないか。平成を視野に収めすぎたがゆえに、明治大正の濃厚な色彩がいくぶん脱色されてしまっていると言ってもいい。
ところが、改めて確認するまでもなく、男であれ女であれ、人は誰しも性的存在であり、なおかつ「個人的なことは政治的なことである」というフェミニズムの大前提を持ち出すまでもなく、抑圧された女性が解放を求めるとき、政治性とセクシュアリティを無視することは決してできない。それらは、ある種の生きにくさを痛感させられているあらゆる人々にとっての問題のありかを示す道標であり、同時に、解放のための闘争の現場でもある。とりわけ戦後の現代美術が、こうした基本的な問題設定を忘却の彼方に沈めてきたことを思えば、地獄行きのタクシーに乗らなければならないのは、もしかしたら「美術」そのものなのかもしれない。

2017/07/22(土)(福住廉)

artscapeレビュー /relation/e_00040448.json s 10138546

怖い絵展

会期:2017/07/22~2017/09/18

兵庫県立美術館[兵庫県]

ドイツ文学者の中野京子が2007年に上梓したベストセラー『怖い絵』。同シリーズの第1巻発行から10周年を記念して開催された同展では、約80点ものヨーロッパ近代絵画や版画が展示された。本展の功績は「恐怖」を切り口に、絵画を「読み解く」楽しみを観客に伝えたことだ。もちろんこれまでの展覧会でも作品のそばにキャプションを添えて簡単な解説を行なってきた。しかし、美術鑑賞の大前提として、観客の自由な感性による美術鑑賞を最優先し、説明は最小限に控えるべき、という価値観があったのではないか。本展ではその大前提を覆して、作品が持つストーリーや背景を積極的に紹介していた。特に神話画、宗教画、歴史画など、日本人に縁の薄い西洋画ジャンルでは、この方法が有効だ。今後の西洋美術展の見せ方にも影響を与えるのではなかろうか。また本展を通じて知ったもうひとつの驚きは、神話画や歴史画のダイナミックな表現が、後のハリウッド映画に少なからず影響を与えていたということ。これは音楽にもいえることで、19世紀ロマン派のクラシック音楽を現代に継承しているのはハリウッド映画だ。芸術がもともと持っていた娯楽性の部分を映画に譲ったことが、20世紀の難解な前衛芸術を招いた原因のひとつなのかも。そのような推論を巡らせながら本展を見ると、さらに興味がそそられた。

2017/07/21(金)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00041215.json s 10138523

文字の大きさ