2018年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

第6回新鋭作家展 影⇄光

会期:2017/07/15~2017/08/31

川口市立アートギャラリー・アトリア[埼玉県]

アトリアが主催する公募展「新鋭作家展」は、作品プランとファイルによる1次審査と、作家のプレゼンテーションによる2次審査が行なわれるが、ユニークなのは制作にあたってテーマや素材を川口市に取材したり、ワークショップや協働制作など住人との交流を推奨していること。いわば「サイトスペシフィック」で「ソーシャリー・エンゲイジド」な作品が求められているのだ。しかも選ばれてから作品発表まで1年近く制作期間を設けるなど、とても丁寧につくっている。なんでそんなこと知ってるかというと、今回ぼくも審査に加わったからだ。で、選ばれたアーティストは佐藤史治+原口寛子と金沢寿美の2組。タイトルの「影⇄光」は、偶然ながら両者とも光と影(闇)をモチーフにしていたのでつけられたという。
佐藤+原口は、川口市の妖しげな夜のネオンを背景に影絵で遊ぶ映像を、大小10台ほどのモニターやプロジェクターを使ってインスタレーション。川口の街の表情を採り入れつつ視覚的にも楽しめるため、プレゼンでは一番人気だったが、映像の見せ方や展示空間の使い方をもう少し工夫すればもっと楽しくなったと思う。それに対して金沢は、新聞紙を鉛筆で塗りつぶして宇宙を描いていくという地味ながら壮大な計画。100枚を超す新聞紙(見開き)をつなげて、10Bの濃い鉛筆でところどころ白い点(星)を残しつつ真っ黒に塗りつぶし、高さ5メートルほどある壁2面を覆う宇宙図を完成させてしまった。星や星座を表わす白いスポットに、新聞の見出しの「トランプ」とか「難民」といった時事的なキーワードや、広告の絵柄を入れ込むという技も見せている。その根気強さ(執念というべきか)には圧倒される。これはやはり経験の違いか。

2017/08/09(水)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00041171.json s 10138907

遠藤利克展─聖性の考古学

会期:2017/07/15~2017/08/31

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

美術館の個展なのに、出品はわずか12点。でも作品の総重量でいえばこれほど重い個展もないだろう。いや物理的に重いだけでなく、見たあとこれほどずっしりと重く感じる個展も少ない。作品の大半は木の彫刻で、表面が焼かれて黒く焦げている。形態は大きく分けると舟のかたち、円筒形またはドーナツ型、箱型などだ。円筒形といっても、例えば《空洞説(ドラム状の)─2013》は高さが2メートル以上あるので内部をのぞくことはできず、中央がやや膨らんだ黒い壁の周囲を回るだけ。圧巻は、薄暗い部屋に12個の巨大な円筒を円形に並べた《無題》。並べ方はストーンヘンジを、12という数は時計を思い出させ、時間とか永遠を想起させる。遠藤は火や水といったエレメンタルな要素を用いて、モダンアートで切り捨てられた物語性や神話的思考を甦らせたといわれるが、それと同時に、もの派以上にモノそのものに語らせることのできる作家だと思う。
今回は水を使った作品も2点出品しているが、そのうちの《Trieb─振動2017》は、手前から鏡、水の入った壷を2個並べ、奥に鉄の壁を立てている。壁に近づくとなにかモワッと圧力を感じた。おそらく壁の向こうに大量の水がたたえられているに違いない。これまで遠藤は何度か土中に大量の水を蓄えるインスタレーションを発表し、水の気配を感じてほしいみたいなことを述べていたが、ぼくはいままでまったく気配を感じることができなかった。ところが今回、初めて「圧」を感じることができた。なぜか一歩前進したような安心感を覚えると同時に、そこに立ってることが恐ろしく感じたりもした。

2017/08/09(水)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00040815.json s 10138906

渡辺篤個展「わたしの傷/あなたの傷」

会期:2017/08/04~2017/08/27

六本木ヒルズA/Dギャラリー[東京都]

渡辺は自身の深刻な「ひきこもり」体験から、心の傷をテーマに作品制作を続けるアーティスト。昨年の「黄金町バザール」でも発表したプロジェクト「あなたの傷を教えてください」は、広く募集した「心の傷」を円形のコンクリートに記したもので、内容は失恋、虐待、イジメ、性同一性障害などさまざま。それをそのまま見せるのではなく、いったんハンマーで割って、金継ぎの技法で修復するところに心の傷の「経験者」渡辺のアーティストたるゆえんがある。今回はそのシリーズに加え、ひきこもっていた実家のモルタル製のミニチュアを壊して金継ぎで再生した作品や、それを母とともに修復する映像、そして1畳サイズのコンクリートの部屋に1週間閉じこもるというパフォーマンスを、3年後に再演した《7日間の死》のドキュメントも出品。小さな密閉空間に閉じこもるという行為は昔から修行としても行なわれてきたし、現代でも飴屋法水みたいにパフォーマンスとして行なうアーティストもいるが、ひきこもりが閉じこもるというのは説得力がある。でも再演するというのはどうなんだろう。いっそ3年にいちどトリエンナーレ方式で閉じこもるというのもおもしろいかもしれない。それにしても一番の驚きは、恰幅がよく人当たりもいい渡辺がひきこもりだったという事実だ。

2017/08/06(日)(村田真)

ねぷた祭

[青森県]

平川の新市庁舎コンペの審査後、弘前に移動し、ねぷた祭を見たが、初めての経験である。まず驚かされるのは、歩道で場所とりを行ない、勝手に椅子を置き、市民が観覧している公共空間の使い倒し方だった。ねぷたのパレードは車道を使うわけだが、歩道を占拠し、観客席に変容させるプログラムの書き換えである。そしてヤンキー魂溢れる、ねぷた群のダイナミックな可動デザインは、まさにヤンキーバロックだ。下手な現代美術よりも迫力があり、しかも圧倒的な大衆性を獲得している。

2017/08/05(土)(五十嵐太郎)

神になったオオカミ~秩父山地のオオカミとお犬様信仰~

会期:2017/07/15~2017/09/03

埼玉県立川の博物館[埼玉県]

ニホンオオカミが最後に捕獲されたのは、1905(明治38)年、奈良県東吉野村。いまからおよそ110年も前の出来事である。以来、公式には「絶滅」したとされているが、目撃談や遠吠えの証言がなくはないことから、野生のニホンオオカミの生存を信じている人は、いまも少なくない。本展は、動物としてのオオカミと信仰としてのオオカミの両面から人間とオオカミの関係性を探り出したもの。国内では3体しか現存していないというニホンオオカミの剥製をはじめ、頭蓋骨、神社の護符、奉納された絵馬、民話や童話などの資料が展示された。小規模とはいえ、密度の濃い充実した展観である。
恐怖の対象であると同時に崇拝の対象でもある両義性。日本人にとってオオカミは襲われる可能性が高い野生動物であり、にもかかわらず、あるいはだからこそというべきか、神聖な動物でもあった。言い伝えられている民話や童話の多くは、人間を襲う凶暴な動物としてではなく、人間に近しい動物としてオオカミを表象している。人間がオオカミを助け、オオカミもまた人間を助けるような互恵的な関係性が語られているのだ。あるいは奥多摩や秩父には畑を荒らす猪や鹿を退治する「お犬さま」としてオオカミを崇める信仰がある。本展で詳しく紹介されているように、三峯神社は全国の「お犬さま」にお赤飯をお供えする「お焚上祭」を毎月19日に現在も行なっている。この日、全国各地に潜んでいるオオカミがお赤飯を食べるために集まってくるというのだ。
むろん科学的な観点からこの信仰の非現実性を批判することはたやすい。けれども信仰の醍醐味は科学の客観的な世界観とは本来的に別次元にあるのであり、私たちの現実社会が科学だけでなく信仰によっても重層的に構成されているのだとすれば、オオカミの信仰をたんなるロマンティシズムとして切って捨てることはできなくなる。むしろ、そこには科学的な世界観には到底望めない深さと広がりがあるのではないか。
本展では、三峯神社の「お焚上祭」や動物園で飼育されているオオカミの生態が映像で紹介されている。注目したのは、そのモニターを囲む壁面に展示された写真。いずれも雪深い秩父や奥多摩の山肌を写した写真で、かつて、そしてもしかしたらいまも、オオカミが棲息していると言われるエリアである。なだらかな稜線が重なる景色はいかにも典型的な冬の山だが、不思議なことに、映像を見ながらそれらの写真を一瞥すると、その山肌がオオカミの躯体に見えるのだ。冬枯れの黒い木立がオオカミの体毛のイメージと重なるのかもしれないし、山脈の量塊性がオオカミの力強い筋肉の剛性を連想させるのかもしれない。いずれにせよ重要なのは、オオカミは単なる動物にすぎないわけではなく、そのイメージが山あるいは自然そのもののイメージと重複するという事実である。自然のなかにオオカミが生きているというより、オオカミのなかに自然があると言ってもいい。
それは、自然科学的には「絶滅」したのかもしれない。だが信仰やイメージのうえでは、いまも確かに「生きている」のである。瀕死の現代美術が目指すべきはオオカミなのではないか。

2017/08/04(金)(福住廉)

文字の大きさ