2019年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ARICA『孤島 On the Island』

会期:2019/01/31~2019/02/04

北千住BUoY[2019/02/03(日)]

会場は佐藤研吾/In-Field Studioが築半世紀以上の店舗に対して必要最小限のリノベーションを施した北千住BUoYであり、2階はカフェになっている。地下はボーリング場の風呂場がまだ残っており、ARICAの4年ぶりの新作はその痕跡を活かした作品になっていた。すちわち、会場が『孤島』のためにつくられた舞台美術のように見えたのである。そして巨大なドレス=拘束具としての切断された家具をのせた、つねに傾く正方形の台と格闘する安藤朋子の登場。これは寓話としての島だろう。生と死の宙吊りになった彼女の身体に、記憶を語るあらかじめ録音された声と、西原尚が激しくモノを鳴らす生の音、そして福岡ユタカの演奏がかぶさっていく。筆者はすでに「RealTokyo」のサイトでも、『孤島』のレビューを書いたので、ここでは建築的な視点からもう少し論じたい。

けっして水平になることがない可動の空間装置は、かつてクロード・パランが提唱した斜めの機能、もしくは荒川修作+マドリン・ギンズの建築的な作品を想起させた。不安定な台は、ガタガタと動き、安藤が場所を変えると、すぐに重心がずれて別の方向に傾く。斜めの機能とは、従来の建築が絶対的な条件とした水平と垂直に代わる、第三の軸としての斜めの空間を提唱し、そのダイナミックな運動性を積極的に評価するものだ。島は人工的な構築物ではない。ゆえに、知的なテキストとは逆に、不規則な地盤のうえで、絶えずバランスをとりながら立つことが要請され、生の身体性がむきだしになる。その緊張感に満ちた舞台だった。さらに建築的な視点を加えると、動く建築からパワード・スーツ的なアイデアまでを横断したアーキグラムも頭をよぎった。

2019/02/03(日)(五十嵐太郎)

イスラエル・ガルバン+YCAM新作ダンス公演『Israel & イスラエル』

会期:2019/02/02~2019/02/03

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

卓越した技術を誇るフラメンコダンサー、振付家のイスラエル・ガルバンと、彼の神髄と言えるサパテアード(足の裏全体、かかと、爪先などでリズムを刻むテクニック)を機械学習したAIが共演するという、異色のダンス公演。ガルバンとYCAMは約2年間かけて共同制作を行なった。まず、観客に手渡すデバイスの振動を通じてサパテアードを触覚的に伝えたり、照明や音響の変化へと拡張する試み。また、ガルバンの全身の動きをモーションキャプチャーで記録し、そのデータを元に「新たな生命体」が踊る映像も制作された。さらに、徳井直生を中心とするクリエイティブスタジオ「Qosmo」が参加。フラメンコシューズに組み込んだセンサーで足の部位やステップの強さを解析し、AIに学習させてサパテアードの生成モデルを作成し、開発したソレノイド(電磁力によって機械的な運動をするデバイス)が床を叩くことで、ガルバンのサパテアードを「再現」した。

冒頭、現われたガルバンは、小石が敷き詰められたスクエアのなかで、複雑かつ高速の華麗なステップを次々と披露していく。足さばきとともに飛び散る小石の音と軌跡が、水面に広がる波紋や水しぶきのように、彼のサパテアードを聴覚的、視覚的に増幅させる。身体の運動のみをシンプルに提示した導入部の後、サパテアードは、会場全体を体感的に包むような重低音や、照明の色やパターンの変化へと拡張される。中盤では、AIが学習したサパテアードをソレノイドが床を叩いて表現し、「分身」あるいは「もうひとりのダンサー」としてガルバンとの「かけ合い」を見せた。終盤、ガルバンは姿を消すが、「無人」となった舞台上では、蠢く細胞の分裂のような映像をバックに、ソレノイドの刻むリズム、その音響的増幅、そしてめくるめく照明の変化が音と光の饗宴を見せる。



[撮影:守屋友樹 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

単体で踊る身体の提示から、テクノロジーとの共演を経て、もはや生身の身体が存在しない世界でどこまで「ダンス」を感じられるか。ストーリーは明快で、もちろんガルバンの驚異的な技術も堪能できる。だが、本公演を見る限り、「ガルバンのサパテアード」を「リズム」という音楽的な要素に還元し、音響と光の饗宴として増幅し、スペクタクルとして拡張しただけの印象は拭えない。学習したAIは、人間のダンサーが生み出すパターンよりも複雑かつ多彩なステップを生成できるのか? 模倣を通した学習は「オリジナル」を越えていくのか? AIに「即興」という概念は理解できるのか? 「肉体的疲労や衰え、死」の概念のないAIに「ダンス」の創出は可能なのか? こうした問いの触発には至らず、身体表現とテクノロジーをめぐる問いの深化には繋がらなかった点が惜しまれる。



[撮影:守屋友樹 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

むしろ興味深かったのは、上演中/上演後のポストトークにおける、「(女性)通訳者」の置かれた位相(とその反転)である。中盤、YCAMスタッフの大脇理智が登場し、自己紹介を語るシーンがある。エンジニアとしてデバイス開発に携わったこと、ダンサーとしての活動も個人的に行なっていること、ガルバンの舞台を見た印象などだ。彼の言葉は、傍らに立つ通訳者により、英語とスペイン語に変換される。だがその声は、ガルバンが刻むサパテアード(及びその機械的増幅)と、「通訳」を遮って話し続ける大脇の声によって二重、三重にかき消されてしまう(この「自己紹介」は何度も執拗に繰り返される)。



[撮影:守屋友樹 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

一方、ポストトークで彼女は、ガルバンの話すスペイン語を日本語に通訳する。ここでやや珍しく興味深いのは、女性通訳者がガルバンの言葉を伝える際、「私」ではなく「僕」という一人称を用いていたことだ(言い慣れなさの印象と相まったこの奇妙さは、通訳者が男性の場合は特に意識されないだろう)。性差と主体を撹乱させるような一人称の使用は、彼女を、単に他者の言葉を媒介する通訳者としての副次的な立場から、演劇性を帯びた存在へと接近させる。「サブ音声」として文字通り抑圧された状況から、「演劇的なプレーヤー」への接近。ガルバンと対話相手の狭間で、彼女だけがただ一人、別の異なる位相で「発話」しているように見えた。彼女はその一人称の(確信犯的な)使用を通して、他者の言葉のただ中に身を置きながら、その内部において、自らの置かれた位相の転換を密かに図っていたのではないか。公演の本題とは離れたメタな位相で、「通訳、媒介、言語の所有者、一人称とジェンダー、その逸脱的使用と演劇性」についての問いを触発される機会だった。

2019/02/03(日)(高嶋慈)

遠山昇司 フェイクシンポジウム『マジカル・ランドスケープ』 ロームシアター京都

会期:2019/02/02~2019/02/03

京都市北文化会館[京都府]

「フェイクシンポジウム」、つまり「演劇」としてシンポジウムを「上演」する斬新な試み。演出と構成の遠山昇司(映画監督)は、誰かの水曜日の出来事が書かれた手紙を転送、交換する参加型アートプロジェクト「赤崎水曜日郵便局」(2014)のディレクターを務めるなど、舞台や展示のプロデュースも手がけている。「フェイク」と冠された本シンポジウムでは、実際の研究者、作家、編集者らが基調講演やパネリストを務める一方、遠山による複数の秀逸な仕掛けにより、京都をめぐる都市景観論や生活史についての議論としても、「リアル」と「フェイク」の境界を問う試みとしても非常に刺激的なものだった。

会場に入ると、舞台下手には講演台とマイク、中央にはスクリーンが設置されており、いかにも「シンポジウム」然とした設えだ。暗い舞台上に、冒頭、詩的な朗読を行なう女性の声が流れてくる。かつて、目の前に広がる自然を「風景」と呼んでいたこと。霧深い森を抜けて海へ、昇る朝日を誰よりも早く目にする鳥、海辺に打ち上げられたクジラ。彼は弱まる鼓動とともに、地球の反対側で沈む太陽を想像する。「その風景が、私の名前です」と声は告げる。スクリーンには丸い黄色の光が柔らかく投影され、網膜に映る光=視覚の獲得の謂いのようにも、明滅しながら弱まる光は命の鼓動と終焉のようにも見える。静かな導入に続き、開会のアナウンスとともに、スクリーンには「第一部 基調講演」の文字が表示される。だが、ライトに照らされた講演台は無人のまま、姿を見せない「声」だけが響く。2ステージある公演は、初日と2日目で登壇者の顔ぶれが異なり、私が観劇した初日では、基調講演『「京」の輪郭』を惠谷浩子(奈良文化財研究所景観研究室研究員)が行なった。



[撮影:松見拓也]

惠谷の講演は、京都という都市景観の生成を、周囲を山や琵琶湖に囲まれた盆地という自然条件に基づき、「地方(じかた)=生産の場」「町方(まちかた)=消費の場」、そして両者の境界であり橋渡しとなる「エッジ=集積と加工の場」という構造から分析する、クリアなものだった。盆地内の市街地と山間部との境目に位置する「エッジ」の集落のフィールドワークが紹介され、山間部から運ばれた自然物資がそこに集積し、数寄屋文化を支えた北山杉、祇園祭のちまき笹、鞍馬炭など商品として加工され、市内へ運ばれて消費されていたことが示される。市内とは徒歩約2時間の距離で結ばれていた「エッジ」は、京都の文化の「ブランド」を支えていた。また、明治期、岡崎に開発された琵琶湖疏水も、琵琶湖の水を市内に供給する浄水池としての役割に加え、発電所での電気の生産や、疏水の水を使用した近代庭園の誕生など、産業と文化の両面で機能していたことが分かる。さらに、ブラックバスなど外来種の放流で絶滅の瀬戸際にある琵琶湖の魚が、疏水を通ってこれらの庭園の池に生息しており、「エッジは地方の生き物のレフュージア(待避地)」でもある」という指摘も興味深い。



[撮影:松見拓也]

続く「第二部 パネルディスカッション」では、モデレーターを福島幸宏(京都府立図書館)、パネリストを惠谷、遠山、大月ヒロ子(IDEA R LAB代表)、影山裕樹(編集者)、星野裕司(熊本大学准教授)が務める。ここでも登壇者たちは姿を見せず、「声」のみが流れる。ディスカッションでは惠谷の議論を引き継ぎつつ、越境、循環、景観の保存、文化的遺伝子、ランドスケープとそれを支えているシステム、平面上の横移動/地層を剥いでいく縦の軸、「エッジ」の形成がセンターを明確化するという反転、「エッジ」の持つ曖昧さや弱い景観をどう読み解くか、といった多彩なトピックスが提示された。ここで興味深いのは、スクリーンに(一見無関係に見える)写真のスライドショーが淡々と投影される仕掛けだ。それらの写真は、京都市内や近郊と思われる路上や建築、寺社、段々畑、水辺、お盆の光景などのスナップなのだが、姿の見えないパネリストたちの「声」が響き続けるなか、もうひとつの「声」として併走し、雄弁に語り始める。あるいは、暗闇で語り続ける「声」が、自然条件と人為的営みが重層的に作用した「風景」の表層を、視線を貫通させて見るように要請し、意味の複層を剥いで読み取る視線がじわじわと醸成されてくる。スライドショーには、ガレキの山、原爆ドーム、海軍兵学校のあった江田島に残る砲塔、歴史記述について問題提起を行なうモニュメントなどが挿入され、「京都の景観」に留まらず、「景観と政治性」の複雑な問題へと思索を誘う。

そして「第三部 マジカル・ランドスケープ」では、ピアノの伴奏にのせ、豊かな自然を歌詞に盛り込んだ校歌が聴こえてくる。スクリーンの上昇とともに、背後を覆っていた幕が開き始める。すると、ピアノの弾き語りをする女性と、テーブルに着席した「パネリスト」たちの姿が幕の向こうに現われた。「事前録音を流しているのか」「覆面ではないか」という疑問がよぎる講演やディスカッションは、幕を隔てて、リアルタイムで進行していたのだ。素朴な調べ、崇高感さえ漂う照明の光線と相まって、奇妙な高揚感に包まれる時間が流れた。



[撮影:松見拓也]

ラストで初めて「幕が上がる」という仕掛け。「幕の向こう側(=虚構の世界)にリアルがあった」という反転。「フェイク」と「リアル」を何重にも転倒させる秀逸な仕掛けだ。この仕掛けは、「フェイクとリアルの境界はどこにあるのか」「フェイクであること(またはリアルと感じさせること)を担保するのは何か」という問いを次々に喚起させる。また、あえて「フェイク」と冠し、「シンポジウム」を「演劇」と見なすことで、「シンポジウムの形式の異化と拡張」という両側面の効果がある。1)「シンポジウム」という学術的なフレームの異化。進行台本の用意、「司会」と各パネリストに期待される「役割」の割り振りや「キャラ付け」(例えば盛り上げるための「反論者」)は、演劇的なフレームへと接近する。2)詩の朗読や映像の投影、音響や照明効果など、「演劇」の枠組みを使うことで、「シンポジウムで語られる話題」を感覚的・身体的に拡張し、想像的な余白を広げることができる。「レクチャーパフォーマンス」は舞台芸術の一形式として定着しつつあるが、その多人数バージョンとも言える「フェイクシンポジウム」には、アカデミックな場の拡張としても、演劇形式の更新としても、さらなる可能性が潜んでいるのではないか。そう思わせる可能性と刺激に満ちた公演だった。

2019/02/02(土)(高嶋慈)

KAC Performing Arts Program『シティⅠ・Ⅱ・Ⅲ』

会期:2019/01/25~2019/01/27

京都芸術センター[京都府]

「戯曲の上演」を、演劇の演出家ではなく、あえてダンサーやパフォーマンス集団に託した意欲的な企画。カゲヤマ気象台による「都市」をテーマとした三部作の戯曲『シティⅠ』『シティⅡ』『シティⅢ』をもとに、京都を拠点とする3組のアーティストがそれぞれパフォーマンス作品を発表した。3つの戯曲には直接的な繋がりはなく、抽象度の高い難解な印象だ。だが、例えば、「きれいで真っ白なまま、廃墟になった街」「私たちは地面の下に夢を押しこんだので、この国はときどきすごく大きく揺れる」「その後、この国は隣の国と小規模な武力衝突をした」(『シティⅠ』)、カタカナ英語の人物が「約10年前に恐ろしい出来事が起こり、以後は英語を話す。ジャパンと呼ばれた国については何も覚えていない」と語る(『シティⅡ』)など、3.11(及びその「健忘症」や想像される近未来)に対する応答として書かれたことを示唆する。

『シティⅠ』は、ゆざわさな(ダンサー)がプロデュース、渡辺美帆子(演劇作家)がドラマトゥルク、川瀬亜衣(ダンサー)が振付を手がけるという複合チームで制作。「姉」と「弟」の会話やモノローグが大部を占めるが、台詞を「無音の字幕」でスクリーンに投影し、相対した出演者たちが画面を見つめたり、「手紙」の形で読み上げる。また、『シティⅡ』においても、ベタなカタカナ英語で発声された台詞を、一言ずつ「日本語の通訳」で反復するなど、「書かれた台詞」を自らに引き付けようとするのではなく、戯曲の言葉からどう距離を取り、どう異化してみせるかがさまざまに試みられていた。『シティⅠ』では、家電や家具など生活用品が散乱し、荒廃感や終末感がどことなく漂う空間で、男女のダンサー2名と小学生女子、それぞれの身体性を活かしたしなやかなソロやユニゾンの時間が流れていく。ただ、「お…」「た…」「かえり」「だいま」の応答のラストシーンを、「食事をよそう母」と「帰宅した家族」が食卓を囲む「一家団欒の風景」のノスタルジーに帰着させてしまった「演出」は、やや安易ではないか。



『シティⅠ』 撮影:前谷開

一方、『シティⅡ』は、野外での「フィールドプレイ」を通して土地やモノを身体的に触知していくパフォーマンスを展開するhyslomが担当。戯曲の内容を身体をはって愚直なまでに実行していくのだが、縄梯子にぶら下がりブランコのように揺らして落下する、水を張った巨大な釜に顔面ダイブする、ふんどし姿になり、吊られた氷の塊を炎で炙って溶かすなど、ナンセンスの極みのようなパフォーマンスへと変換される。「遊び」の無邪気な装いのなかに、見る者の平衡感覚や皮膚感覚、痛覚を刺激するような不穏感がじわじわと醸成されていく。



『シティⅡ』 撮影:前谷開

捩子ぴじん(ダンサー)による『シティⅢ』は、第17回AAF戯曲賞受賞記念公演のリクリエイション。佐久間新と増田美佳の2名のダンサーによる、時に危険性さえはらむデュオが、強度のある時間を立ち上げる。とりわけ意表をつくのがラストシーン。「背景」として掛けられていた、ビル群を描いた「絵画」が取り外され、倒れかかるのを受け止める、横倒しの回転ドアのようにクルクル回し、その下をくぐり抜ける、裏面に組まれた支えの角材に手足をかけロッククライミングのようによじ登る、といった逸脱的な運動が繰り出される。「表と裏と言うと二次元のイメージだが、実はもっとたくさんの次元での表と裏があるのではないか」という台詞に対する、身体レベルでの呼応とも取れる。



『シティⅢ』 撮影:前谷開

「書かれた戯曲」と「実際の上演」のあいだには、逐語的な再現だけではなく、無限とも思える「伸びしろ」が広がっている。そこに、自らの身体でどう介入し、あるいはズラし、意味の層を上書きし、未知の風景を立ち上げていくか。3組の公演を通して、「戯曲の上演」ではなく、「戯曲と上演」の(従属的ではない)創造的な関係について再考を促す機会となった。

2019/01/26(土)(高嶋慈)

シアターコモンズ ’19 シャンカル・ヴェンカテーシュワラン「犯罪部族法」

港区立男女平等参画センター・リーブラ リーブラホール[東京都]

初めて訪れた田町のリーブラホールにて、シアターコモンズが企画したシャンカル・ヴェンカテーシュワラン演出の「犯罪部族法」を観劇した。日本ではほとんど見る機会がないインドの作品である。冒頭はカースト制を暗示するように、静かに男が掃除する場面が続く。ホウキでチリを円形にはいていくさまは儀式的でもある。そしてイギリス支配時の法が、カースト制につながっていたことを踏まえ、異なる文化的な背景をもつインドの南北の二人が、それぞれの差別の意識と経験を語る形式をとって、ときにはユーモラスに演劇は進行する。だが、よくできた物語をなぞるものではない。じっと観客を見つめる演者(これも観客と演者の役割の交代である)、舞台上の二人が互いの役を演じること、カースト制がもたらす本当の悲劇の表象不可能性、レクチャーのようなデータの提示、水の受け渡しなど、まさに問いかける演劇である。

演劇の後、同じ会場において、シアターコモンズ ’19のオープニング・シンポジウム「未来の祝祭、未来の劇場」が開催された。ディレクターであり、司会をつとめた相馬千秋は、オリンピックを控え、都市をサバイブするツールとしての演劇というテーマを説明し、高山明はドイツの体験をもとに脱演劇としてのブレヒトとルター(「演劇」ではなく、「演劇ちゃん」という言葉!)、シャンカルはインドのジャングルでの実践(都市から離れた場所ではあるが、意外に集落が密集し、人は多いらしい)、そして安藤礼二は折口信夫の可能性を語る。特に終盤の高山の意思表明が印象に残った。すなわち、いわゆる「演劇」の解体を受け入れること(あるいはそれへの期待?)、俳優ではない一般人が参加する場合にどこまで自分が彼らの生活に関与するのか、固定した演劇の観客層ではない人にどうやって接続するかなどである。演劇が終わり、そして始まるのかもしれない。

2019/01/20(日)(五十嵐太郎)

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