2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ST Spot 30th Anniversary Dance Selection vol.2 ダンスショーケース

会期:2017/11/09~2017/11/12

STスポット[神奈川県]

横浜のSTスポット(認定NPO法人STスポット横浜)が30周年を迎えた。日本の演劇とコンテンポラリーダンスを支えてきた、小さいが重要な劇場である。かつて、ゲスト・キュレーターのサポートを得ながら、若いダンス作家たちが20分ほどの作品を創作し上演する「ラボ20」という企画があった。日本のコンテンポラリーダンスの作家たちにとって「ラボ20」はダンスの孵卵器だった。様式的統一性がない、各自の手法を思考錯誤しながら踊るコンテンポラリーのダンサーたちは、多くが自作自演であり、踊る以外では表現できないものを抱えてしまったという切実さがあの頃のSTスポットを満たしていた。4組の新作が立て続けに上演された本企画は、あのときの切実さを蘇らせていた。Aokidは額田大志(ヌトミック)と踊った。音声の出るキーボードやドラムを額田が演奏しながら、Aokidが踊る、というのが基本的なセット。だが、まるでAokid本人が描くイラストレーションのように、リズムやメロディは軌道を逸脱し、ダンスはAokidが得意とするブレイクダンスを飛び出してしまう。調子っぱずれの浮遊感は、ときどき目を見はるように美しい瞬間を生み出した。モモンガ・コンプレックスは、3人の女性ダンサーたちが白い全身タイツで顔だけ出して、音楽担当の男性に支配されているようで支配しているような不思議な関係性をベースにして踊る作品。調子が外れているところは、Aokidのパフォーマンスにも似ているのだが、モモンガ・コンプレックスには女性特有の自意識が漂っていて、その痛痒さが独特だ。自分の滑稽さを、隠しきれずに晒しきれずに、曖昧なまま時は進む。身体を観客の前に置くことが本来持っている滑稽さへと通じているようで、そうしたダンスの本質的な部分に触れているような気がしてくる。岡田智代はこのSTスポットで「LDK」「Parade」といった主要作品を上演してきた作家だ。モモンガ・コンプレックスの白神ももこの出で立ちとは対照的な「妖艶さ」が不思議に漂う舞台は、岡田でしか達成できない舞台の緊張感を引き出していた。舞台上のダンサーが何かを「見る」仕草によって、観客の意識が誘導されてゆくという岡田らしいデリケートな戦略も印象的だった。最後に岩渕貞太は、急逝した室伏鴻のダンス的極みへ応答しようとする果敢な試みを舞台で見せた。岩渕は室伏と交流のあった最も若いダンサーの一人だろう。手足の長く、若い身体が、室伏独特の呼吸の仕方で身体を捻り、ポーズを取る。室伏にしかできないと思い込まされてきたダンスが、濃密に舞台を満たしていった。
すべての上演を見た後に、コンテンポラリーダンスは、これ以上メジャーにならなくても良いのではないかということを思った。各自のきわめてヘンテコな切実さが、身体の集中と方法的なアプローチとともに、舞台に結晶化しているのであれば、それで良い。非言語的であるがゆえに社会性が貧弱になりそうになる、とてもいびつな表現たちだけれど、だから良いのではないか。こんな場が必要だと切実に思っている人々に、きちんと届いてさえいるならば(そこはしかし、実際、問題があるだろう。ダンスの分野でどんなことが起こっていて、どんな価値を発信しているのかをもっと社会に伝えて行く必要があるはずだ)。

2017/11/11(土)(木村覚)

イキウメ『散歩する侵略者』

会期:2017/10/27~2017/ 11/19

シアタートラム[東京都]

『散歩する侵略者』は2005年初演のイキウメの代表作。この秋には黒沢清監督により長澤まさみと松田龍平の主演で映画化もされ、今回はイキウメとしては3度めの再演となる。すでに十分な人気と実力を兼ね備えるイキウメだが、近作ではますます充実した活動を展開している。この5-6月に上演された『天の敵』では舞台上に複数の時空間を配置する作・演出の前川知大の手つきが冴えわたり、俳優たちもそれに十二分に応える好演を見せた。このタイミングでの代表作『散歩する侵略者』の再演は、劇団としての継続的な活動の成果を反映し、傑作の再演に向けられた期待を大きく上回る舞台となった。

物語は数日間行方不明だったある男(浜田信也)が戻ってくるところからはじまる。まるで別人のようになってしまった夫に戸惑う妻(内田慈)。やがて夫は告げる。実は自分は地球を侵略しに来た宇宙人なのだと。折しも街では特定の概念が理解できなくなる奇病が流行。それは彼ら宇宙人が「概念」を収奪した結果だった──。

今回の再演では、夫婦の再生、国と個人との対立などさまざまな要素が詰め込まれた作品の、また新たな側面が浮かび上がって見えた。再演の度に発見があるのが傑作の傑作たるゆえんだろう。

舞台となる「日本海に面した小さな港町」は「同盟国の大規模な基地がある戦略的に重要な土地」であるとされ、物語の背景には隣国との軍事的な緊張の高まりがある。図らずも2017年の現在を反映したかのような再演となったわけだが、真にアクチュアルな意味を獲得してしまったのはむしろ、「概念」の収奪という設定の方だ。

言葉の意味が骨抜きにされるとき、社会はその成立基盤から揺らいでいく。地面に大きく亀裂が入った舞台美術(土岐研一)は東日本大震災後の日本を思わせると同時に、今まさに足元に広がりつつある裂け目をも可視化していた。見える世界、拠って立つ場所の違いが生む断絶は深刻だ。ラストシーンの二人の「すれ違い」はまったくもって他人事ではない。


イキウメ『散歩する侵略者』
左から浜田信也、安井順平
撮影:田中亜紀
公式サイト:http://www.ikiume.jp/

2017/11/08(水)(山﨑健太)

庭劇団ペニノ「地獄谷温泉 無明ノ宿」

会期:2017/11/04~2017/11/12

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

じつは第60回岸田國士戯曲賞を受賞した後、書籍をぱらぱらめくったときは、あまりピンとこなかった作品だが、本物の演劇は凄まじいものだった。山里の、家主がいない、ひなびた宿で、それぞれ何かが欠けた人物たちが交差する、異様な一夜を恐るべき実在感で演劇化していたからである。東京からやってきた人形遣いの謎の親子(小人症の父と母がいない息子)をはじめとして、目が不自由な男、言葉を発しない宿の三助、そして疑似家族的な老女と年が離れた2人組の芸妓など、あまりにシュールな設定に思われるのだが、確かに彼らはここにいると感じさせる演技だった。つまり、舞台では演劇という形式でしか立ち現われないものが表現されており、それは脚本を読む行為とは別物である。筆者が観劇した国内最終公演では、息子役の俳優が体調不良につき、代役を立てていたことを考えると、本来のメンバーならば、さらに迫力を増していたのだろう。ともあれ、父役を演じるマメ山田は、当て書きの脚本であり、彼以外の配役を想像しがたい。

物語が進行していくと、親子は言いしれぬ闇を抱えていることがうかがえ、彼らの子どもの人形による劇もあまりに不気味なもので、不穏な雰囲気が漂うなか、朝を迎えるまでに決定的な事件が起きるのではないかという緊張感を観客に強いる。さて、建築の立場からは、四場面(宿の玄関、上下の部屋、脱衣場、浴場)を体験できる回り舞台が素晴らしい。これは単に素早く場面の数を増やす装置というだけではなく、部屋から部屋への移動によって空間的な連鎖が巧みに演出されていた。そして温泉で本当に役者たちが裸になって入浴するシーンも忘れがたい。まさに裸で勝負する本気の舞台であることにあっけにとられた。公演は海外にもっていった後、舞台装置を解体するらしい。小人症の俳優が必要であることに加え、大がかりなセットだけに、将来の再演が難しそうな怪作である。

2017/11/07(火)(五十嵐太郎)

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017 神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』

会期:2017/11/03~2017/11/05

京都芸術センター[京都府]

沖縄出身の祖父が移住したペルーで生まれ、川崎で育った神里雄大。近年では、ペルー、沖縄、メキシコ、小笠原といった各地での取材を元に、移動や旅、家族やルーツ、島、文化的ハイブリッドを主題とした演劇作品を発表している。本作では、1年間のブエノスアイレス滞在を経て、現地で見出した俳優やダンサーによる、スペイン語での上演が行なわれた。
会場に入ってまず目を奪われるのは、秀逸な空間設計である。天井には万国旗が吊るされ、屋台やバーカウンター、コンテナとタイヤ、二段ベッド、寝袋の置かれた「二等客室」の床、ミラーボール、教会のベンチ、花輪の飾られた棺桶などが舞台装置のように散りばめられている。観客は、セットの一部として置かれた椅子やソファに座ったり、二段ベッドに上って観劇する。幕開け前のざわめきと、流れる陽気なラテンナンバー。元小学校の講堂が、「旅」、「人の集い」、そして「死」が渾然一体となった祝祭的な空間へと変貌する。私たちは、たまたま隣り合った見知らぬ観客同士と肩を並べ、「船旅の旅客」や「屋台やバーに集う客」といった一時的な役割を演じることになる。


神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』 2017 京都芸術センター
撮影:井上嘉和 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

客席と舞台の反転は、幕が開けるとより鮮明になる。俳優たちは、奥行きのないペンキ絵の背景や「書き割り」の舞台装置といった平面的な舞台空間の中にいるのだ。そこに登場するのは、父親の生前の希望により遺灰を海に撒きにきた男と、夫の死後、精神を病んで引きこもり状態にある母親、遺灰を撒くための船を出す男、彼から「犬」のように蔑まれる連れの男の4人である。車内に閉じこもったまま一言もしゃべろうとしない母親、散灰の是非をめぐって意見が対立する男たち。彼らはどこにも行くことなく、状況は遅々として進展しない。一方、憑かれたように話し続ける彼らの語りには、過去の回想や人づてに聞いた話が入れ子状に侵入し、空間や時間の隔たりが圧縮されて自在に移動する。神戸港からパラグアイに移住した「セニョール・ソノダ」が語った、移民船や水葬の話。どこまでも続く大豆畑で星を見ながら迎えた朝。観光で沖縄を訪れた友達から聞いた、那覇の路地裏にある屋台。そこで焼き鳥を焼く若い男は、昼間は沖縄戦の遺骨の発掘をしているという。あるいは、小笠原諸島へ向かう船旅と、戦争を挟んで日本とアメリカの統治権が何度も交替した島の歴史とともに生きてきたバーのマスター。ペルーからチリへの山越えの国境付近にある教会と、そこでの人身売買。
いくつものエピソードが断片的に語られていくうちに、これは誰の記憶なのかが曖昧になってくる。生と死の境界すらも。長い坂道を振り返ると霧のなかに浮かんで見える街のように、全ては夢の中の光景のような浮遊感をたたえ、同時に鮮烈な原色の色彩に彩られている。その感触は、ここではない外部へと連れ出そうとする言葉に抗うように痙攣や停滞、投錨された不動性を表出する身体に加えて、全編がスペイン語で上演されていたことも大きい。神里の戯曲は、独特の詩的跳躍力や比喩の密度を豊潤に湛えた言葉が大きな魅力だが、日本語で書かれた戯曲をあえて異言語で上演することで、母語への密着から引き剥がされた「距離」が発生する。その空隙は、私たちの無自覚な前提を相対化しながら、国境、昼と夜の境、海と撒かれた灰の境、生者と死者の境が明確に区別できずに溶け合った時空間を差し出すのだ。


神里雄大/岡崎藝術座『バルパライソの長い坂をくだる話』 2017 京都芸術センター 
撮影:井上嘉和 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

2017/11/05(日)(高嶋慈)

SPIELART「WHISPERING BODIES」

会期:2017/10/29~2017/11/11

ミュンヘン市立博物館[ドイツ]

ミュンヘン中心部、多くの観光客が訪れるヴィクトアリエン市場のすぐそばにミュンヘン市立博物館はある。ドイツ語のキャプションしかないせいか観光ガイドでの扱いは小さいが、バリエーションに富んだ展示品は見応えがある。「WHISPERING BODIES」は同館を舞台とするオーディオガイドツアーだ。1995年以来、ミュンヘンで2年に1度開催されている舞台芸術祭SPIELARTのプログラムのひとつとして「上演」された。


撮影:山﨑健太

ツアーは3つのパートから構成される。まずはAlejandro Ahmedによる『CHOREOGRAPHIC ADHERENCE TO NON-OBLIVION』。「忘れないための振付け」とでも訳すべきだろうか。タイトルの通り、鑑賞者はさまざまな身ぶりを要求される。踊り手を象った人形と同じポーズを取り、胸像と向き合って自らの顔を撫で回し、棺桶と並んで横たわる。自分自身の身体への意識が展示品のモノとしての手触りを生々しく呼び起こし、遠い過去に触れる体験が自らのいなくなった未来への思考を触発する。

José Fernando Peixoto de Azevedoによる『CONTENT. MANIFEST.』は常設展「ミュンヘンの国家社会主義(National Socialism in Munich)」が舞台だ。「あなたが展示を見て歩くことで私は存在する」と語りかける声。ナチスの行為を生々しく伝える展示のところどころで写真を撮るよう指示される。それがもうひとつの展示になるのだと。後ろめたさを覚えながらシャッターを切る。だが展示を見終え外に出た私は「写真をすべて消してください」と指示される。手元に写真は残っていない。記憶を伝えるのはあくまで人間なのだ。

Suli Kurban による『What I See?』は人形劇の常設展を主な舞台とするオーディオ・スリラー。展示には無数の人形が並び、これを見るだけでもこの博物館を訪れる価値は十分にあるだろう。さて、想像してみてほしい。その人形たちが一斉に話しかけてくることを。言葉の意味がわからないのが一層怖い。だがそこにあるのは単純な恐怖ではない。過去からの声なき声を聞けという重圧と、その声を理解できないがゆえの罪の意識。それはほとんど畏れと言ってもいい感情だ。
私の身体は歴史の流れの只中にあるのだということをまざまざと突きつけられる体験だった。


撮影:山﨑健太
公式サイト:http://spielart.org/index.php?id=24&vid=297

2017/11/05(日)(山﨑健太)

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