artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

鳥公園の『abさんご』2022/蜂巣ももチーム・ワークインプログレス

会期:2022/08/27~2022/08/28

おぐセンター2階[東京都]

黒田夏子の小説『abさんご』を上演として立ち上げる。どう上演するのかまったく予想のつかない状態で、そもそもそんなことが可能なのかといぶかりながら向かった会場では、驚くべきことに相応の説得力を持ったかたちで『abさんご』の一部が上演されていた。だが、この企みはそれで成功だとはならないところが一筋縄ではいかない。

そもそも今回のワークインプログレスは研究プロジェクト「近代的な個の輪郭をほどく演技体──『abさんご』を経由して、劇作論をしたためる──」の一環として実施されたものだ。鳥公園は2021年から黒田夏子の小説『abさんご』に取り組んでおり、2021年度には読書会とワークショップを実施。2022年度は「『abさんご』の文体をいかに演技体に立ち上げることができるのか?」という問いのもと、鳥公園のアソシエイトアーティストである三浦雨林・和田ながら・蜂巣ももの三人の演出家が「それぞれに稽古場で方法を模索し、その取り組みを観察・記述しながら、劇作家の立場から西尾が劇作論を書く」ことが試みられている。西尾は戯曲の文体と上演における俳優の演技体を「『卵が先か、ニワトリが先か』というような相補的な関係」と捉えており、このプロジェクトを通して「テキストの文体と上演の演技体との間にどのような相互作用があるかを検討し」「ゆくゆく新しい戯曲の文体を開発する」ことを目指しているのだという。私は残念ながら立ち会うことができなかったが、すでに4月に三浦チームの、7月に和田チームのワークインプログレスが実施され、今回の蜂巣チームのワークインプログレスをもってひとまず演出家サイドの取り組みは出揃ったということになる。

『abさんご』はきわめて特異な文体をもった小説だ。例えば冒頭の一文。「aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと, 会うおとなたちのくちぐちにきいた百日ほどがあったが, きかれた小児はちょうどその町をはなれていくところだったから, aにもbにもついにむえんだった」。ひらがながやたらと多く、固有名詞が排除された文の連なりは慣れるまではひどく読みづらい。物語を抽出してそれを演じることはできるだろうが、それでは小説としての表われ、特異な文体が捨象されてしまう。いや、それはしかしあらゆる小説に言えることではないのだろうか。


[撮影:西尾佳織]


[撮影:西尾佳織]


プロジェクトそれ自体に対する疑問(なぜ『abさんご』か)はひとまず措いて、蜂巣チームのワークインプログレスがどのような上演だったかを見てみよう。蜂巣チームは研究協力者=俳優(?)の二人(鈴木正也、藤善麻夕帆)が『abさんご』のテキストを発話するための仕掛けとして、閻魔さま(の絵)に話しかけるという設定を採用していた。というのも、『abさんご』はある人物が過去を回想するかたちで書かれており、しかもそこには自らの意志というよりは周囲の状況によってこうなってしまったのだというような調子がそこはかとなく漂っているのだ。過去を振り返りながらも自らの(あるいはあらゆる人間主体の?)責任を回避しようとするように響く『abさんご』の文体はなるほど、人の善悪を裁く閻魔大王の御前で発せられるにふさわしい。蜂巣演出による上演は『abさんご』とはたしかにそういう話であったと思わされるに十分な説得力があった。


[撮影:西尾佳織]


だが、これは演技体というよりは演出の範疇の問題だろう。今回のワークインプログレスでは基本的に二人の俳優がいくつかの断片的な場面をそれぞれに上演するかたちをとっており、つまりテキストはモノローグとして発話されていた。もともとが一人称小説とは言えないまでも一人称的な視点から語られた小説である以上、それを発話するための生理さえ整えられれば発話は可能なのだ。ここには演技体の問題は入り込む余地がないように思える。


[撮影:西尾佳織]


ところで、演技体という言葉から私は例えば鈴木忠志のSCOTが持つような集団的な身体性を想定していたのだが、終演後の西尾の話によればそれは体よりはむしろ態、話しかける対象や話す内容によって変わってくるモードのことを指しているのだという。問題とされているのは西尾がこれまで取り組んできた「現代口語の『自然』な会話をベースとする劇作」であり、「自然な会話」以外の発話を誘発するような文体こそが目指されるものだということらしい。例として樋口一葉『たけくらべ』が挙げられ、三人で百人を演じるような演劇、人ではないものを演じる(出来事を立ち上げる?)演劇という話も出ていた。

であるならば、『abさんご』(の一部)をモノローグとして成立させてしまった蜂巣の上演はプロジェクトとしては失敗ということにはなるまいか。いや、閻魔大王に言い訳をするというのはひとつのモードではあるかもしれない。だが、ここで相手取るべきはやはり特異な記述のあり方であり、そこにあるものごとへの「態度」をどのように演技体へと変換するかということこそが取り組むべき課題だったのではないだろうか。すると、『abさんご』のテキストをそのまま発話するというアプローチ自体がすでに設定された課題と噛み合っていなかったのではないかとも思われる。しかし、だとすると小説をもとに上演のためのテキストをつくる必要があるわけで、それは果たして演出家の仕事だろうか──。


[撮影:西尾佳織]


疑問や検討すべき点は尽きないが、いずれにせよプロジェクトは継続中だ。予告されているスケジュールでは西尾による蜂巣試演会のレポートの締切が9月28日に設定され、2023年度末までには劇作論が執筆されることになっている。今後の展開にも注目したい。


鳥公園:https://bird-park.com/
鳥公園の『abさんご』2022/研究 「近代的な個の輪郭をほどく演技体──『abさんご』を経由して、劇作論をしたためる──」:https://bird-park.com/works/ab-sango2022/?pid=project

2022/08/27(土)(山﨑健太)

NT Live『プライマ・フェイシィ』

会期:2022/08/05〜

TOHOシネマズ日本橋ほか[東京都ほか]

直視すべき現実に目を向けさせ、聞かれるべき声に耳を傾けさせる。イギリスのナショナル・シアターが厳選した傑作舞台をスクリーンに届けるナショナル・シアター・ライブ(NT Live)で8月5日に日本公開された『プライマ・フェイシィ』は演劇にその力があるのだということを、そしてその力によって社会を変えようとするつくり手たちの強い意志を、まざまざと感じさせる傑作だ。

被告人弁護を専門とする弁護士のテッサ。彼女は裁判の場における駆け引きに長け、ときに証人の証言の信憑性に疑問符をつけることで依頼人の勝利を勝ち取ってきた。疑わしきは罰せず。それが法律上の正義であり、彼女の正義だった。大手事務所から移籍を打診され、同僚のダミアンとは「いい感じ」になり、公私ともに順風満帆に思えた日々。しかしある日、性的暴行の被害者となった彼女は自らが信じていた法制度の矛盾に直面することになる──。

作者のスージー・ミラーはオーストラリア出身で現在はイギリスでも活動する劇作家。もともとは人権や子供の権利に携わる活動をする弁護士として活動していたミラーは、『プライマ・フェイシィ』はロー・スクールに通っていた頃の考えから生まれた作品だと戯曲の前書きで書いている。執筆する勇気と、届けるにふさわしい社会的環境を待っていた作品が#MeTooの光のもとで実現したのだと。2019年にシドニーで初演されたこのひとり芝居は数々の賞を受賞し2021年に再演。2022年には今回ナショナル・シアター・ライブの1本として上映されたジャスティン・マーティン演出/ジョディ・カマー出演によるプロダクションがロンドンのハロルド・ピンター劇場で上演され、同プロダクションは2023年にブロードウェイでの上演も決まっている。

性的暴行にあって動揺するテッサは職場での人間関係や自身のキャリア、そして何より性的暴行事件で被害者が勝訴することの難しさ(それは彼女自身が誰よりもよく知るところだ)を考えて警察に駆け込むべきか苦悩する。弁護士として考えれば今回のケースを性的暴行として立証することはきわめて困難だ。相手は同僚のダミアンであり、彼女がダミアンと「いい感じ」になりつつあったことは彼女の友人も知っている。当日は仲良くデートをしているところを複数の場面で複数の人に目撃されてもいる。ダミアンとは以前にもセックスをしていて、それどころか当日も一度、合意の上で行為に及んでいる。その後、酩酊し気持ちが悪くなったテッサは二度目の行為を拒絶するが、ダミアンはそれを無視して無理矢理に行為に及んだのだった。それまでの関係がどうであれ、同意なき性行為はすべて性的暴行である。だが、それを証明するのは当事者二人の証言だけだ。おそらく裁判には勝てない。そう知りながら、彼女は裁きの場に臨む決断をする。

タイトルの『プライマ・フェイシィ』はもともとはラテン語で「一見して」というような意味を持つ。法律用語としては例えば「prima facie evidence=(反証がないかぎり十分とされる)一応の証拠」というようなかたちで使われる言葉だが、日本語では「明白な(ひと目見てわかる)」とも「一見したところでの」とも訳されうる言葉だ。テッサと彼女の視点に寄り添う観客には「明白な」真実も、裁判の場においては反証可能性の残る仮の真実でしかない。作者自身の言い換えでは“on the face of it”。直訳すれば「それに直面して」というところだろうか。この言葉はテッサの置かれた状況を示しているようでも、彼女の物語に向き合う観客に向けられているようでもある。

ひとまず予定された自身の証言を終えるテッサ。だが、ダミアンの弁護士は彼女の証言や記憶の曖昧さを責め立てる。それはテッサ自身も弁護士として用いる戦法であり、ゆえに予想されたものでもあったのだが、彼女はうまく応じることができない。裁判の場においては論理的に整合した証言が求められるが、それを可能にする理性や意志を踏みにじり破壊する行為こそが性暴力だからだ。

この作品のクライマックスでテッサは、長年にわたる男性中心の社会のなかで築き上げられてきた現行の制度が、いかに女性の体験を反映していない理不尽なものであるかを訴える。ともすれば演劇のセリフとしてはあまりに直球の社会批判の言葉はしかし、彼女自身に起きた出来事に照らしたものであるがゆえに、強く聴衆に訴えかける力を持つ。裁判の聴衆と重なりあった劇場の観客は彼女の言葉に耳を傾けざるを得ない。ほとんどこの言葉を聞かせるためだけに、この作品は書かれたのだと言ってもよいだろう。

テッサは裁判に負ける。だが、テッサの母親や付き添いの婦人警官らは彼女に連帯の意志を示す。テッサの言葉は、そして『プライマ・フェイシィ』という作品は、男性原理の支配する裁判所という法の場の外側で人々に働きかけ世界を変えようとしている。法律の専門家であるカレン・オコネルがCurrency Press版の戯曲に寄せた前書きは ‘Making law from women's lives’ と題されていた。女性の生に根ざした法をつくること。テッサの裁判記録が仕舞い込まれると、同じ棚に並ぶ無数のファイルが光り出す。それは現在までの戦いの記録だ。livesを人生の意味に取るならば、その意味するところはあまりに重い。

『プライマ・フェイシィ』の東京での上映はひとまず終了したが、これまでナショナル・シアター・ライブの作品のほとんどは再上映されている。重いテーマを扱いつつ、観客を掴む力を持った作品だ。機会があればぜひ鑑賞していただければと思う。英語が読める方には優れた前書きがついた戯曲もおすすめしたい。ジョディ・カマーが出演する映画『最後の決闘裁判』(リドリー・スコット監督、2021)も近いテーマを扱った作品だ。合わせて観るのもいいだろう。




NT Live:https://www.ntlive.jp/primafacie

2022/08/23(火)(山﨑健太)

ディミトリス・パパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』

会期:2022/08/10~2022/08/11

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

2019年の初来日で反響を呼んだ『THE GREAT TAMER』に続く、ギリシャ人演出家ディミトリス・パパイオアヌーの最新作の日本ツアー。台詞が一切ないまま、ギリシャ彫刻のように鍛え上げられたダンサーの身体美により、西洋美術や聖書、ギリシャ神話を思わせるイメージが次々と「活人画」として美しくもナンセンスに展開する魔術的なトリックは本作でも健在で、(後述する「開口部」の存在も含め)続編的といえる。タイトルの「TRANSVERSE ORIENTATION」とは、「蛾などの昆虫が、月などの遠方の光源に対して一定の角度を保ちながら飛ぶ感覚反応」を指し、光源が近距離の人工の光に替わると、角度が狂うという。

本作は2種類の「光(源)」の演出が印象的だ。舞台装置は一見シンプルで、上手側にドアと水道の蛇口、下手側の高所に1本の蛍光灯が付けられた横長の「壁」が設置されている。無機質な青白い光を放つ蛍光灯は、警告を発するようにバチバチと音を立てて明滅を繰り返し、何度も「修理」される。一方、オレンジ色の光で舞台を満たす投光機が台車に載せて運び込まれ、ダンサーたちのシルエットを動く「影絵劇」として変容させ、何度も観客席に向けて投射され、見る者の目をまばゆく眩ませる。光/影の対比、無意識の闇に対する理性としての光、その危機的失調、イリュージョンを生み出す光(源)など、本作のテーマが凝縮される。



[© Julian Mommert]


『THE GREAT TAMER』では、ベニヤ板を張り重ねた「舞台」の上で西洋美術史や聖書、神話から抽出したイメージが「白人の身体(ヌード)」によって演じられる一方、その「ヨーロッパの歴史的地層」のあちこちに開けられた「穴」「開口部」から、バラバラ死体や骸骨などグロテスクなイメージが噴き上がり、「ヨーロッパの抑圧された下部」を示唆していた。本作でも、「壁のドア」の向こう側から、「極端に小さい頭とひょろりと長い腕をもつ真っ黒な人間(?)たち」「スーツ姿に牛の頭部をもつミノタウロス」といった奇妙な者たちが「光の照らすこちら側」にやって来る。あるいは、ドアを開けると、向こう側は巨大な白い石を積み上げた壁で塞がれ、その「石」がこちら側に人間もろとも延々と吐き出され、奔流となって飲み込んでしまう。垂直から水平に置き換わったこの「ドア」は、「ヨーロッパ」という「理性の世界(光)」が抑圧してきた「無意識」「暗部」「異界的狂気」への通路なのだ。

また、『THE GREAT TAMER』と同様、上半身+下半身、右半身+左半身を「合体」させたダンサーによる「両性具有者」「半人半馬のケンタウロス」や「男性の人魚」といったジェンダーや種の境界を撹乱する身体が跋扈する。牛頭人身のミノタウロスは剣を持った男(テセウス)に「断首」(=去勢)されるが、後半でテセウスは、腕に抱えた牛頭から舌の愛撫を受けて悶絶する。



[© Julian Mommert]


ただ、前作以上に強く感じたのは、「ヨーロッパの精神文化が(真に)抑圧してきた二項対立かつ非対照的なジェンダー構造」はむしろ温存され、男性中心主義的視線がより強化されている点だ。ブラックスーツに身を包み、匿名化・均質化された男たちと、癒しであり欲望の源泉でもある「水」を与える神聖化された(唯一の)女性。男たちの集団は「巨大な黒牛」のシルエットと同化し、脚や尻尾を本物の牛のように操りながら、「闘牛」「野生の調教」に従事する。一方、荒ぶる牛の背に全裸でまたがり、股間の果実を裸の男に与える女は、エウロペかつエヴァであり、「男に略奪される女/男を誘惑する女」という両極に定型化されたイメージを二重に身にまとう。老いて太った全裸の女が杖をつきながらゆっくり舞台上を横切り、ドアの向こうに姿を消した一瞬後、ドアが開くと「均整の取れた肢体の若い女」に入れ替わっているシーンはマジカルだが、なぜ、女性のみ、「老/若」「醜/美」の対で眼差されるのか。

母乳か精液か判然としない白い濃密な液体を滴らせる聖母。「生きた噴水彫刻」として男たちのグラスに水を与える女性像。「水と女性」という定型化されたテーマは終盤、アングルの《泉》のように水を床に落下させ続ける女に変奏され、やがて水もろとも「床の下」に姿を消してしまう。スーツの男たちが床板を剥がすと、島影の映る美しい海景が現われる。照明が星のまたたく夕凪ぎの海を出現させ、スーツを脱いだ裸の男がその光景を見つめ続ける。舞台を文字通り支える物理的基盤であると同時に、イリュージョンを支える透明化された基盤が剥がされるが、その「イリュージョンの崩壊」自体が「幻想的な夕暮れの海景」という別のイリュージョンをつくりだす。だがそれさえも、「壁のドア」を開けて去っていく裸の男によって、文字通り亀裂を入れられる。上演中、常に「こちら側」に向けて開けられていたドアは、ラストで初めて「向こう側」の暗闇に向かって開かれた。(危険な)ドアは開け放たれたままだ。だが、(強固に蘇る)イリュージョンを自己破壊し、通路を自らの手で開いた「彼」は、「向こう側の抑圧された世界」とは何であるかに本当に気づいていただろうか。



[© Julian Mommert]




[© Julian Mommert]


関連レビュー

ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年08月01日号)

2022/08/10(高嶋慈)

あごうさとし×中西義照『建築/家』

会期:2022/07/29~2022/07/31

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

個人住宅の設計を手がける建築士の夫(中西義照)と、住まい方アドバイザーとして家づくりのソフト面を担当する妻(中西千恵)。公私ともにパートナーである二人が出演し、「もし自分たちの理想の家を建てるとしたら」というプロセスを会話で構築していく演劇作品。クレジットに「作|中西義照、中西千恵」、「演出|あごうさとし」とあるように、実在する更地を二人が見に行き、「この土地に家を立てるとしたら」という仮定の下で交わした会話がベースとなっている。出発点はフィクションだが、「家」を起点に、普段のそれぞれの仕事内容、互いを尊重し合う二人の距離感、「何を大切に生きるか」という人生観、子どもの成長や親の認知症など「家族」を取り巻く時間の流れを垣間見せる点ではドキュメンタリー演劇ともいえる。また、省エネ住宅の設計の基準値からは、個人の住宅というミクロな視点を通して、地球環境という大きな射程が見えてくる。

演出家のあごうは、実際のフリーアナウンサーが出演する前作『フリー/アナウンサー』において、個人史と「日本におけるアナウンス史」を交差させつつ、「個人の自由な意見を封じられたフリーアナウンサー」をどう抑圧から「解放」し、「個人の声」を回復できるかという希求を提示していた。「建築家」という単語がスラッシュによって「建築」と「家」に分断されつつ結合するタイトルに加え、実際の職業人が本人として出演する本作は、『フリー/アナウンサー』の延長線上にあり、続編ともいえる。



[撮影:金サジ]


上演は、何もない舞台空間=文字通りの「更地」から始まる。約60坪のこの更地は、比叡山の中腹に広がる住宅地にある。二人の発想が独創的なのは、「家」の設計にあたり、「好きな木をどこに植えたいか」という植栽計画の妄想から始まる点だ。紅葉が楽しめ、夏は日よけ/冬は日差しを室内に取り込む落葉樹に、実のなる木。「森に包まれた家」というコンセプトから、敷地の四隅に木を植え、ガラス壁を多用した十字架型の間取りになった。生活導線、それぞれの仕事場の確保と居心地良さのバランス。「ソフト面」を決めるプロセスでは、妻の投げかけが会話を主導していく。

一方、中盤では、夫が建築士の視点から、「パッシブハウス」(太陽光や通風を利用して温度調節し、住み心地の良さを追求した省エネ住宅)の設計思想と、外壁から逃げる熱や気密性の数値の基準について解説し、「計画中の家」についても数値をシミュレーションする。その傍らでは、舞台スタッフによって平台や箱馬が積み上げられ、「家」が着々と建てられていく。



[撮影:金サジ]



[撮影:金サジ]


そして終盤では、この「家=舞台」の上で、営まれるであろう「二人の暮らし」が再現される。起床、家事、複数の案件を進める在宅ワーク、必ず一緒にとる夕食、「一人の時間」を大切にする食後の趣味の時間。合間を縫って、個室が多く暗くて寒かった「前の家」の記憶、「もっと気持ちのよい家で子育てしたかった」という後悔が語られ、季節の巡りとともに、子どもの独立や田舎の親の認知症など「不在の家族に流れる時間」が会話からのぞく。「家」は抑圧の装置ともなりうるが、ここに希望しか感じられないのは、(辛い)記憶のない「未来の架空の家」に向けられているからだろう。本作はその「建設プロセス」を、まさに舞台上にフィクションを立ち上げていく時間として提示する。



[撮影:金サジ]


「家」の設計とは、「どのように生きたいか」「何を人生で重視するのか」という自身の価値観や気持ちの言語化であり、そのプロセスを「対話」として提示した本作。「家づくりの顧客には、あまり話し合えていない夫婦もいる」という作中の発言は、本作の肝を逆照射する。そして、あごうの前作『フリー/アナウンサー』が、視聴者との一方通行の関係を解消し、「個人の声の回復」を「対話」へ向けて開くことを希求していたことを思い起こせば、本作は単に演出手法上の継続的発展にとどまらず、まさに「対話への希求」に応答していたといえる。

関連レビュー

あごうさとし×能政夕介『フリー/アナウンサー』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年07月15日号)

2022/07/30(高嶋慈)

ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』

会期:2022/07/22~2022/07/31

吉祥寺シアター[東京都]

学校という空間の時間は螺旋状に流れている。授業や毎年の行事は繰り返しのようでいながら少しずつ違っていて、その担い手となる生徒たちもたとえば3年という定められた期間とともにその場所を通過していく。教師だけが例外だ。

ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』は2021年に全10話をもって完結したいつ高シリーズのキャラクターが再び登場する新作。吉祥寺シアターでの公演は7月31日で終了したが、8月28日まではアーカイブ配信が視聴できる。以下の文章には重大なネタバレが含まれるので注意されたい。また、いつ高シリーズ未見でも十分に楽しめる作品ではあるが、作中にはシリーズを知っていることでより楽しめる仕掛けもいくつか用意されている。いつ高シリーズの戯曲は多くがWEBで無料公開されているのでそれらを(特にvol.6とvol.2を)読んでから配信を観るのもいいかもしれない。vol.6『グッド・モーニング』については映像も8月28日まで無料公開されている。


[撮影:鈴木竜一朗]


舞台は文化祭当日。旧校舎の屋上に続く階段の踊り場ではダブチ(新名基浩)と机田(大石将弘)が本番の迫ったコントの練習をしている。しかし何やら屋上に出入りする悠(島田桃子)が行き来し、白子先生(大場みなみ)がやってきては茶々を入れとなかなか練習は進まない。悠は旧校舎の屋上から旧々校舎の屋上へとこっそり何かを移動させようとしているらしいが、旧々校舎の屋上に続く踊り場では息子のコントを見に来て校舎を間違えた(逆)おとめ(望月綾乃)と鉢合わせてしまう。物語はダブチと机田のコント、悠の隠し事、そしてかつてこの高校の生徒だった白子と(逆)おとめの再会という三つの筋が絡み合いながら進んでいく。


[撮影:鈴木竜一朗]


高校生が演じることを念頭に、高校生だけが登場する作品として書かれたいつ高シリーズは、高校生のスケールの世界を立ち上げながらその少しだけ外側を指し示すような物語だった。対して、かつて高校生だった大人とこれから大人になる高校生を描いた『ここは居心地がいいけど、もう行く』は、螺旋状の時間の異なる2点を並べることで、自分がいない/いなかった時空間への想像力をより強く喚起する作品になっている。あるいはそれは、この作品とも深い関係のあるいつ高シリーズvol.2『校舎、ナイトクルージング』で描いたものをさらに大きなスケールで描いているのだとも言えるかもしれない。

いつ高シリーズでは高校生だった白子と(逆)おとめは大人になり、片や教師に、片や生徒の親になっている。そこにあるのはシリーズを追ってきた私が知るいつ高でありながら、しかし同時にもはやまったく別の場所だ。ダブチ、机田、悠の向こうには同じ俳優によって演じられたかつてのいつ高の生徒たち(シューマイ、楽/水星、朝)の姿が透けて見えるが、それもまたシリーズを追ってきた私の勝手な感傷でしかない。


[撮影:鈴木竜一朗]


時間の経過は否応なく人を変えていく。かつてはおどおどとして学校にもほとんど通っていなかった(逆)おとめはローカルラジオのディレクターとして働くようになった。一方の白子はあまり変わっていないようにも見えるが、最近は同居する親の視線が気になって家出をし、学校に寝泊まりしているらしい。だが、(逆)おとめと再会した白子は突然、家を買うことを決意する。大きく変わった(逆)おとめと、その変化に触れて変わろうとする白子。生徒たちと同じように大人もまた悩み、変わっていく。

(逆)おとめの存在は生徒たちにも、いや世界にも影響を与えている。(逆)おとめが担当するラジオ番組「グッドモーニングレディオ」のヘビーリスナーである悠は、同じく番組のファンだという「友達」が、20年以上前に(逆)おとめが深夜の校舎に忍び込んで発信していた誰にも届かないかもしれないラジオ番組を好きでずっと探していたのだと言い出す。悠とともに先々週、地球を救った(!)というこの「友達」の正体は実はエイリアンなのだが、遠くから電波の波形を見ていたというエイリアンが20年以上前の(逆)おとめのラジオ番組を探していたということを踏まえれば、エイリアンが地球にやってきたのは(逆)おとめのおかげだということになる。ならば誰にも届かないかもしれなかったラジオが遠く宇宙に届き、時間を超えて地球を救ったのだ。のみならず、エイリアンはダブチと机田のコントにも3人目のメンバーとして参加することになる。


[撮影:鈴木竜一朗]


[撮影:鈴木竜一朗]


ここでは学校に通えず中退することになったかつての(逆)おとめが、そして彼女の誰に届かずとも何かを発信しようとする気持ちが強く肯定されている。もちろん、誰にも届かないことは苦しいかもしれない。ダブチと机田のコントの1回目の上演にはひとりの観客も現われず、ダブチはくじけそうになる。だが、ダブチの書いた台本は(不本意ではあるかもしれないが)母親である(逆)おとめに、そしてエイリアンに読まれ演じられることになるだろう。そして2回目の上演には何人かの観客が現われるかもしれない。自分の存在がいつ、誰に、どのように影響を与えるかは誰にもわからない。それでも、発せられた電波の波形は地球を救うかもしれない。そう思ったっていいのだ。


[撮影:鈴木竜一朗]



ロロ:http://loloweb.jp/
いつ高シリーズ:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/
いつ高シリーズvol.7『本がまくらじゃ冬眠できない』映像(STAGE BEYOND BORDERS):https://stagebb.jpf.go.jp/stage/itsukou-series-vol-7-i-cant-hibernate-with-books-as-a-pillow/


関連レビュー

ロロ『とぶ』(いつ高シリーズ10作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
ロロ『ほつれる水面で縫われたぐるみ』(いつ高シリーズ9作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
ロロ『心置きなく屋上で』(いつ高シリーズ8作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年10月01日号)
ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』(いつ高シリーズ7作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2022/07/25(月)(山﨑健太)