2018年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

TPAM2018 チョイ・カファイ『存在の耐えられない暗黒(ワーク・イン・プログレス)』

会期:2018/02/12~2018/02/13

KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

「イタコの口寄せで土方巽の霊を呼び出し、新作への参加を依頼した」という触れ込みのチョイ・カファイ作品。恐山の光景、イタコを介した「土方の霊」へのインタビュー映像が流れた後、モーション・キャプチャーの装置を全身に付けたダンサー、捩子ぴじんが登場。イタコ役の女性が般若心経を唱え、捩子が腰を軽く揺動させながら動き始めると、背後のスクリーンに「土方の3Dアバター」が出現する。年齢のカウントとともに、『禁色』『土方巽と日本人 肉体の叛乱』『疱瘡譚』などの代表作が断片的に「再現」されていく。ゲスト出演の麿赤兒との「共演」を挟み、ラストでは、2018年に「90歳」(!)になった土方のアバターを、ボカロが歌う多幸感溢れるテクノポップの般若心経にのせて踊らせてしまう。

ここで想起するのは、テクノロジーを駆使し、映像/生身の身体との同期や憑依の(不)可能性を扱ったカファイの『Notion: Dance Fiction』との比較である。この作品は、土方やピナ・バウシュといった歴史的なダンサーや振付家の映像記録の身体の動きをデータ化し、「筋肉を動かす電気信号」に変換し、電極を付けた生身のダンサーの身体に「移植」することでダンスの動きを「再現」させ、伝説的ダンサーの身体との融合の夢を描くというものだった。ここでは真偽や科学的根拠の正当性よりも、オリジナル/コピーの関係、振付に従うダンサーの主体性や自己同一性、機械的な因果律に支配された身体観、ダンスと映像アーカイブ、歴史的文脈の受容と解体についてこそが問題化されている。『Notion: Dance Fiction』では、映像から抽出された(とする)「電気信号」がダンサーの身体に憑依する一方、今作では、生身のダンサーの動きから3Dアバターへと変換された運動がスクリーンの中に生起する。ベクトルは逆で、「科学的根拠」か「スピリチュアルな霊的世界」かの違いはあるが、ともに映像的身体の亡霊性を扱っている。


[撮影:前澤秀登]

そう考えると、終盤にボカロ曲が使用された理由も納得がいく。ボカロも「生身の身体を持たない」存在であり、「ダンス」は生身の固有の身体を離れても存在可能なのかという問いが浮上する。物理的制約や肉体的衰えの影響を受けない3Dアバターを自由自在に踊らせれば、新たな「ダンス」の地平が切り開かれたと言えるのか?

また、「イタコの口寄せによる新作依頼」という仕掛けは、「ジャクソン・ポロックの霊に新作のアクション・ペインティングを描かせた」太田祐司を想起させる。「ポロックの霊」による新作絵画と同様、「土方の霊」による新作は果たして「土方作品」と言えるのか? ダンス作品をめぐる「署名」や「真正性」の問題も提起される。

カファイの手つきは両義的だ。東北、イタコ、民間信仰といったエキゾチシズムの諸要素を(外部からの視線として)投入し、「キッチュなまがいもの」として「土方の暗黒舞踏」を再構成/解体するようでいて、舞踏出身の「捩子ぴじん」というダンサーを通してその身体的ルーツを遡行的に探ろうとするからだ(ダンサー固有の身体を介して、身体化された個人的記憶の探求とともに、ダンスの歴史的文脈へと逆照射しようとする姿勢は、『Notion: Dance Fiction』や『ソフトマシーン:スルジット&リアント』においても共通する)。ただ、この過去の2作品と比べると、本作は切れ味の鋭さに欠け、最後はエンタテインメント的な祝祭感でごまかした感が否めない。「ワーク・イン・プログレス」と銘打たれているので、今後の深化に期待したい。


[撮影:前澤秀登]

公式サイト:https://www.tpam.or.jp/2018/

関連レビュー

チョイ・カファイ「ソフトマシーン:スルジット&リアント」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/02/12(月)(高嶋慈)

TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』

会期:2018/02/12~2018/02/13

KAAT神奈川芸術劇場 ホール[神奈川県]

梅田哲也が劇場のテクニカルチームに「インターン」として潜入して制作した、というのがタイトルの由来。本作は、「舞台上に見るべきものは何もない」という表象批判・劇場批判をリテラルに遂行しつつも、劇場の物理的機構そのものを用いて圧倒的な感覚的体験の強度をつくり出した。

観客はまず、本来は「見えない」ところに吊られてあるはずの多数の照明装置が下ろされた舞台を目にすることになる。裏方スタッフたちによって、移動式の一階席の椅子が舞台裏に運ばれ、エレベーターに乗せられ、運び去られていく。あちこちに設置されたスピーカーの出力チェックが行なわれ、劇場空間が音響的な遠近感をもって体験される。ゆっくりと上げ下げされる照明装置。階段状にせり上がる客席の床。そうした物理的機構の「運動」と裏方の現場作業を見た後、観客は二階座席に誘導され、舞台の前列に並んだオーケストラを見下ろすことになる。チューニングがいつしか即興的な演奏へと変わる。照明装置が一段ずつ上昇し、焚かれたスモークにまばゆい光が当たり、機械の森の幻影のように直交する光と影が移ろう。オーケストラピットはゆっくりと下降し、楽器隊は見えなくなるが演奏は続く。無人で空っぽになった舞台空間上を、照明装置の投げかける光と影、そして音響が満たしていく。上方に吊られた反響版が下降を始め、ゆっくりと角度を変えながら夜のとばりが下りるように客席と舞台の間を遮っていく。囁き声、そして呼吸のような音。再び反響版が上がると、舞台上には椅子や機材がきちんと並べられ、「いつも通り」裏方スタッフたちがテキパキと行き交っていた。


[© Rody Shimazaki]

まず、通常は不可視である舞台上の構造をむき出しにし、「非日常」のイリュージョンを出現させる舞台の「日常」の光景を見せる。そして、劇場機構を駆使した、光と音による圧倒的な「非日常性」を体験させた後、空っぽだった舞台上には再び機材や裏方が姿を見せ、「日常」へと回帰する。本作の構造はこのように記述できるだろう。それは非日常と日常が何度も反転しながら入れ替わる交替劇であり、光から闇へ、生から死へ、そして夜と死を潜り抜けて再び生へと回帰するドラマでもある。単なる表象批判や劇場批判を超えて、崇高感すら漂う感覚体験へと反転・昇華させた点が鮮やかであり、そこに本作の意義はある。


[© Rody Shimazaki]

公式サイト:https://www.tpam.or.jp/2018/

2018/02/12(月)(高嶋慈)

トラベラー:まだ見ぬ地を踏むために

会期:2018/01/21~2018/05/06

国立国際美術館[大阪府]

全フロアを使用した、開館40周年記念展。第1部「The Multilayered Sea:多層の海」では「記憶や時間の多層性」を扱った作品、第2部「Catch the Moment:時をとらえる」ではパフォーマンス作品(とその記録)を中心に展示。コレクションを核に、本展のために制作された新作群を加えた構成となっている。

第1部「多層の海」では、「失われ(かけ)た記憶とその修復」に向き合う作品群が目を引く。例えば、「ジャコメッティ」の影に埋もれた元恋人の女性彫刻家の生涯を、息子の証言/映画的な再現映像で辿るテリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラーの《フローラ》。スクリーンの表/裏に投影された2つの映像が同期することで、証言/フィクション、記憶/再現、カラーの現在/モノクロの過去が表裏一体のものとして交錯する。また、小泉明郎の映像作品《忘却の地にて》は、第二次大戦で子どもを殺害した日本兵の証言を、事故で記憶障害になった男性に暗誦させることで、「加害の記憶喪失」を患う日本を批判する。ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダは、60年代の前衛美術を2年間熱心に記録し続けた美術ファンの男性によるスクラップブックを、紙のシワや裏写りまで正確に再現。「記録の空白」を埋める一個人の記録活動に敬意を示すとともに、彼の記録方法に倣って、「現在の東京」の美術動向を記録したもう一冊のスクラップブックを制作した。チラシやチケット、写真を紙に貼り付け、手書きのメモを添えるというアナログな方法だ。そこには、歴史を参照し、その方法論を「再利用」しつつ「現在」へとアップデートをはかろうとする作家的態度への自己言及性も見てとれる。

また、「コレクションとのコミッションワーク」も新たな試みとして注目される。ピピロッティ・リストは、高松次郎が「影」を描いた壁面絵画に映像を投影。お馴染みのポップで浮遊感あふれる植物や水中の映像が漂うが、「高松作品」である必然性に乏しい。地味で埋もれがちな高松作品をカラフルに救済し、「エントランスで観客の目を引く仕掛け」に留まる点が惜しまれる。また、カリン・ザンダーは、収蔵作家143名から自作にまつわる「音」を集めた《見せる:国立国際美術館のコレクションを巡るオーディオ・ツアー》を制作。観客は、作家名のみが記されたキャプションの前で音声ガイド機のボタンを押して「鑑賞」する。物理的実体の代わりに「作家の肉声や制作時の音」を収集した本作は、一種の美術館批判と言えるだろう。あるいは、サービス重視に努める美術館での「作品鑑賞」が「オーディオガイドを聞く体験」に他ならず、「作品の不在化」に対する皮肉ともとれる(ちなみに、本展自体の「オーディオガイド」も例にもれず用意されている)。

一方、パフォーマンス作品(とその記録)に焦点を当てた第2部では、コレクションを紹介しつつ、ライブパフォーマンスを展示に組み込むことで、「収集」が困難な作品に向き合う美術館のビジョンを模索する。フルクサスのインストラクション(塩見允枝子)、記録写真(ヴィト・アコンチ、植松奎二、榎忠)、記録映像やビデオアート化(マリーナ・アブラモヴィッチ)、パフォーマンスに使用された残存物(工藤哲巳)というように、これまでの「パフォーマンスの収蔵方法」(=メディアの変換)を見せつつ、その延長線上に、生身のパフォーマーが展示室で行なうライブパフォーマンスを組み込んでいる。例えば、アローラ&カルサディーラの《Lifespan》は、同館で初めて収蔵されたパフォーマンス作品である。天井から吊るされた古代の小石に、3人のパフォーマーが息や口笛を吹きかけ合い、蘇生や交信を試みるようだ。

こうした取り組みは、「新たな美術館像」の提示としてチャレンジングである一方、慎重に考慮すべき側面もある。「美術館への収蔵」がパフォーマンス作品の制作の前提となり、ある種の「囲い込み」「選別」につながる可能性は否定できない。例えば、野外で行なったり、暴力的な要素や身体の露出を含むものは排除され、「美術館の展示室で安全に見せられる作品」が暗黙の内に収蔵の前提条件となるおそれがある。それは、政治的なボディ・アートやフェミニズム・アートにおける「支配的体制への身体的抵抗」という歴史的背景を切り捨ててしまうことに繋がりかねないだろう。この点で、ティノ・セーガルの参加は看過できない。出品作《これはプロパガンダ》は、観客が展示室に入ると、監視スタッフと同じ服装をして紛れたパフォーマーが歌い出し、不在のキャプションの代わりに「作品タイトル、作者名、制作年」を口頭で告げるというものだ。収蔵や展示にあたっての契約を口頭で行ない、一切の記録化を禁止するセーガル作品は、「パフォーマンスの物象化」への極北的な抵抗を示すようでいて、美術館制度との共犯関係の下に成立する。「監視スタッフ」という通常は不可視化されている存在を可視化しつつ、「行為の依頼や代行」という権力関係が浮上するのだ。

「パフォーマンス作品の収蔵」の取り組みは、既に海外の美術館では始まっている(例えば、上述のセーガル作品はテートが収蔵している)。それは、固定化された物理的実体に依拠する展示/美術館という近代的制度の中に、「時間軸の経験」を導入するものとして、根本的な変化をもたらすだろう。

2018/02/10(土)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00043065.json s 10143969

岩松了プロデュースvol.3『三人姉妹はホントにモスクワに行きたがっているのか?』

会期:2018/01/26~2018/02/04

下北沢 駅前劇場[東京都]

意地の悪いタイトルである。

岩松了プロデュース公演は岩松が若い俳優たちとワークショップを経て公演をつくり上げるシリーズ。1作目ではチェーホフ『かもめ』、2作目では鶴屋南北『東海道四谷怪談』と古典作品を題材とし、本作はチェーホフ『三人姉妹』を上演しようとしている若い俳優たちを描いた群像劇となった。高架下の川べり。ある者は台詞合わせに余念がなく、ある者は作品論を闘わせ、ある者は噂話に興じている。稽古は始まらない。いつまでたっても現われない演出家を彼らは待ち続ける──。

つまり、本作はサミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』を下敷きにした作品でもあるわけだ。若い俳優たちは稽古が始まるのを待っているだけではない。自分を見出してくれる演出家の、映画監督の、あるいは観客の登場を待っている。努力するのは当然として、見出してくれる人の存在なしに彼らは成功することができない。だがそのときはいつ訪れるのか、いつか訪れるのか。稽古を、恋を、生活をしながら、彼らは待ち、生き続ける。「生きていかなくては」。これは『三人姉妹』の台詞かあるいは彼ら自身の言葉だったか。

いつしか彼らの服はボロボロになっている。ある者はそれに気付かず、ある者は他の者の様を嘲笑い、ある者は自分の服がボロボロであることの意味をうまく掴めない。「やがて時がたてば、私たちもこの世に永遠の別れを告げ、忘れられてしまう」「いつになっても、私たち、モスクワへは行けない」「私、わかってた」。残酷な言葉だ。彼らが『三人姉妹』であるならば、「ホントにモスクワに行きたがっているのか?」という問いはホントに意地が悪い。しかしそんな台詞を口にする彼らのなんと魅力的なことか。若さは儚い。「そうかもしれん」、だが「まだ何もかもやってみたわけじゃない」。これは岩松のシニカルな愛情なのだ。だが俳優たちはそれに無頓着なようにも見え、そのことがますます彼らの刹那を際立たせる。


[撮影:橋本一郎]

公式サイト:http://www.dongyu.co.jp/iwamatsu-pro3/

2018/02/03(山﨑健太)

地点『汝、気にすることなかれ』

会期:2018/02/01~2018/02/04

アンダースロー[京都府]

オーストリアの劇作家エルフリーデ・イェリネクがシューベルトの歌曲をモチーフに書いた本作。地点がイェリネク作品を手がけるのは『光のない。』(2012)、『スポーツ劇』(2016)に続いて3作目、本拠地アトリエ・アンダースローのレパートリー作品としては初めてのことだ(※本作の初演は2017年8月)。

上演はカーテンコールで始まる。終わりの拍手。第一部は大女優の劇場葬、彼女の最後の舞台だ。「私は三位一体の神のような存在」という彼女の言葉はしかし、地点の5人の俳優によって分割され発せられる。もともと分裂気味なイェリネクの言葉が、舞台上で複数の身体を獲得する。「彼女」が「私たちは群衆なの」と言うとき、「私たち」が指すのは俳優か観客か。

ウルトラ怪獣ジャミラのような造形の真っ白な衣装(衣装:コレット・ウシャール)が印象的だ。それは死装束にも花嫁衣装にも見える。あるいは防護服、蛹(さなぎ)、ミイラ。舞台を這いずる俳優の姿は蛆虫のようでもある。死体を喰む蛆はやがて蛹となり、飛翔のときまで静止する。回転するレコードが断続的に奏でるシューベルトの歌曲(音楽:三輪眞弘)。生と死の循環。そして一時の中断。第二部のモチーフは「白雪姫」だ。

[撮影:松見拓也]

鏡張りの床面(舞台美術:杉山至)は俳優たちの分身をその足下にはっきりと映し出す。もう一人の「私」は踏みつけにされている。「権力というのはいつでも自らに権限を与えるもの。でも、私に権限を与えてくださったのは皆さんなのよ。お馬鹿さんね」。第三部のモチーフは国家と個人だ。俳優たちは手を取り合い、群体のようにもつれ合う。そうして演劇が立ち上がる。

[撮影:松見拓也]

アンダースローでは2月26日から新作『正面に気をつけろ』を上演する。同作はブレヒトの未完の作品「ファッツァー」を劇作家・松原俊太郎が翻案した書き下ろしで、空間現代が生演奏で音楽を担当している。イェリネクにも通じる松原の文体はどのように舞台に乗せられるだろうか。

公式サイト:http://www.chiten.org

2018/02/01(山﨑健太)

文字の大きさ