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2018年08月01日号
次回9月3日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

余越保子サウンド・インスタレーション「首くくり栲象と黒沢美香 ふたりの声とことば」

会期:2018/05/19~2018/05/20

ArtTheater dB KOBE[兵庫県]

自宅の「庭劇場」で首を吊るパフォーマンスを、日々の行為として約20年間にわたり継続した首くくり栲象。「日本のコンテンポラリーダンス界のゴッドマザー」とも称され、「ダンス」へのラディカルな問いで80年代から日本のダンスを牽引してきた黒沢美香。2016年12月に亡くなった黒沢と、今年3月に亡くなった首くくり栲象という二人の遺した声が、映像とともにサウンド・インスタレーションとして発表された。監督、撮影、編集を担当したのは、ダンサーで振付家の余越保子。映画「Hangman Takuzo」の撮影準備として行なった約1時間のインタビュー音声に、テストクリップとして撮影した「庭劇場」や自宅内の様子の映像が重ねられている。

乱雑に散らかった部屋。淡々とストレッチをする黒沢。栲象がまとった防寒着が、部屋の寒さを物語る。その空間を、全裸でゆっくりと歩行する川村浪子が横切っていく。異様な緊張感が部屋に走る。インタビューの質問を受け、首を吊るパフォーマンスを始めたきっかけや練習方法について栲象が語り始める。身体と意識、重力、傷みをめぐるその言葉は思索的だ。身体にハードな負荷をかけることで、意識が研ぎ澄まされ、「樹と一体になる」と栲象は語る。首にかけた縄を外して地上に脚を下ろした瞬間、それまで消えていた雨音が一気に聴こえ始め、紙一枚の重みさえ新鮮に感じられるという。それは、擬似的な「死」を潜り抜けることで逆に「生」をその都度生き直す儀式であり、「5時間前から庭劇場のパフォーマンスの体勢に入る」という栲象は、「毎日、首吊りをするために生きる」という逆説的な生を生きることになる。

とりわけ本作のハイライトとして感じられたのは、「ダンスとは何か」という質問に答える黒沢の言葉に、まさに首吊り中の栲象の映像が重なるシークエンスだろう。「ダンスは変身するためのドア、道であり、変身が起こらないとダンスが立たない」「意識や自我が後ろに退き、身体が前面に出る、それがダンスの始まり」と語る黒沢の声が流れるなか、樹からぶら下がる栲象はゆっくりと回転しながら両手をたゆたうように動かし、穏やかな笑みすら浮かべているように見える。日常と表現が結びついた二人の遺した声が凝縮された、密度の濃い一時間だった。

2018/05/20(日)(高嶋慈)

福井裕孝『インテリア』

会期:2018/05/17~2018/05/20

trace[京都府]

ひとり暮らしの男(向坂達矢)の日常が多少の差異を伴いつつ三度繰り返され、家事代行らしき女(金子実怜奈)が部屋を片付けると男の日常がもう一度繰り返される。本作で起きる出来事はまとめてしまえばこれだけなのだが、そのなかで空間とそれを統御する規則は豊かに変容していく。

福井裕孝は2017年の全国学生演劇祭で上演した劇団西一風『ピントフ™』で脚本・演出を担当し審査員賞を受賞。同作は東アジア文化都市2017京都文化交流事業の招聘を受け、第2回大韓民国演劇祭in大邱で再演された。同年にはマレビトの会『福島を上演する』に演出部として参加もしている。

現実としての上演空間とそこで俳優が生成するフィクション。本作で福井はそこに第三項として家具や家電、日用雑貨といった「モノ」を持ち込んでみせた。確かな現実としてありつつ、現実の空間、たとえばtraceというギャラリーに本来は属さない、フィクションのために持ち込まれた存在。フィクションを構成しながら、俳優とは異なり自らの意思で演じることのない存在。だがその存在はフィクションの空間を物理的に規定している。例えばテーブルの向きは同じ部屋に存在することになっているテレビや流しの位置を自動的に決定する。ゆえにその向きの変更は現実の空間とフィクションの空間とが結ぶ関係それ自体の変更を意味することになる。繰り返される日常のなかでモノたちは移動され、その配置が新たなフィクションを生成する。

一方、繰り返される日常のなかで堆積していくペットボトルや缶、靴下といったモノたちは空間に痕跡を刻む。それらは男によって日々部屋へと持ち込まれるのだが、空間の変容に伴って移動することはない。それらは変容以前の気配を湛えてそこにある。

上演を支える物理的基盤としての上演空間は容易には変更が効かないが、同じく物理的基盤であるところのモノは容易に「ズラす」ことができる。そのズレから覗く現実とフィクションとの新たな関係には、まだまだ可能性がありそうだ。

公式サイト:https://fukuihrtk.wixsite.com/theater

2018/05/20(山﨑健太)

いいへんじ『夏眠』/『過眠』

会期:2018/05/11~2018/05/14/2018/05/15〜2018/05/17

早稲田小劇場どらま館/シアターグリーン BASE THEATER[東京都]

いいへんじは2017年6月旗揚げの演劇ユニット。シアターグリーン学生芸術祭vol.11で優秀賞を受賞、下北沢演劇祭の若手支援企画・下北ウェーブ2018に選出されるなど注目を集めつつある。

ナツミ(松浦みる)は17歳のある日、幼馴染のスギタ(内田倭史/萩原涼太)が空を見上げて「意味、な」とつぶやく夢を見る。その様子に死の予感を感じたナツミはスギタを守ろうと22歳までの時間を共に過ごす──。そんな物語を『夏眠』は17歳と22歳の二人を描いた二つのバージョンで上演した。ほとんど同じ上演台本で描かれる、予感された未来と変えられない過去。舞台上に時おり投影される台本が、あらかじめ決められた運命を思わせる。

ところで、舞台上のスギタはナツミが頭のなかで想像するスギタらしい。ナツミはスギタのすべてを知っているわけではなく、自分の知っている範囲のスギタを思い浮かべることしかできない。ナツミの思いをスギタが汲み取れなかったように、スギタの思いをナツミは知らない。

[撮影:月館森]

[撮影:月館森]

一方の『過眠』は17歳のスギタ(内田倭史)と22歳のスギタ(萩原涼太)の会話、のはずなのだが、内田はなかなか17歳のスギタの役を引き受けようとしない。舞台上に物語のさまざまな設定、ナツミや作者である中島梓織の言葉が投影されていき、そうこうするうちようやく二人のスギタとしての会話が始まるが、17歳のスギタは22歳のスギタの示す物語をやはり受け入れようとしない。やがて二人は舞台上に散らばる小道具や設定を拒絶し、与えられたスギタという役も放り出してしまう。役を脱ぎ捨て、舞台上で走り回る二人は軽やかだ。

スギタを守ろうとするナツミの思いは本心かもしれないが、そこには他人に自分の物語を押しつけ組み込もうとする傲慢さが潜んでいる。中島はそれが作者である自分の営為に重なることを自覚しながら、それでもなお物語を通して他人とかかわろうとする。『夏眠』の最後でスギタのもとへと走り出すナツミが体現するのは、そんな真摯な覚悟だ。

[撮影:八杉美月]

公式サイト:https://ii-hen-ji.amebaownd.com/

2018/05/12/2018/05/17(山﨑健太)

木野彩子レクチャーパフォーマンス ダンスハ體育ナリ? 其ノ弐 建国体操ヲ踊ッテミタ

会期:2018/05/12

聖徳記念絵画館[東京都]

明治期に美術界では「書は美術なりしか?」という論争があったが、舞踊界では「ダンスは芸術か、体育か?」という問いかけがあるそうだ。現状では芸術ではなく、体育に組み込まれているらしいが、そのことを戦前の「建国体操」を復元することで振り返り、ダンスと体育の差異を探ってみる試みだ。講師の木野彩子は、お茶の水女子大学の舞踊教育学科を出て保健体育の先生をやっていたダンサーというから、まさに芸術と体育を股にかけてきた人。そういえば大野一雄も長く体育教師をやっていたっけ。

会場は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館の会議室だが、絵画館前で待ち合わせ、バスガイド姿の木野が建設中の国立競技場や建国記念文庫をザッと案内。神宮外苑にはご存知のように、いま建て替え中の巨大な競技場をはじめ、野球場、ラグビー場などスポーツ施設が整備され、また絵画館には、明治天皇と皇后の事績を記録した80点の絵画が常設展示されている。この外苑で戦時中、学徒出陣の壮行会が行われた。なぜここを会場に選んだかが徐々にわかってくる。では館内へ。

会議室では、学ランに着替えた木野がダンスと体育、体育と神宮外苑、体操ブームと戦争との関係などについてレクチャー。日中戦争が始まった1937年に成立した「建国体操」を復元し、木野が模範演技。その後みんなで踊ってみた。はて、体操は「踊る」というのかな?  動きは空手みたいに拳を突き出す動作が多く、戦闘的な印象だ。ダンスと体操は身体を動かすという点では同じだが、ダンスがみずからの自由意志で動くのに対し、体操は全員が決まった動きを強要される点で決定的に異なり、むしろ戦闘訓練に近いのではないか。ほかにも「日本体操(やまとばたらき)」という創作体操もあって、「みことのり」「いやさか」「みたましずめ」「天降り」などの動作があるのだが、動きがほとんどなく声を出すだけで、身体訓練というより精神的な鍛錬を目指しているのではないかとのこと。このように戦争中に体操ブームが起こったのは、1940年に予定されていた東京オリンピックが中止になったからだそうだ。

重要なのは、体操が国家の必要により身体を鍛えるのに対して、ダンスは国家や社会の要請から脱していくことに本質があるのではないかとの指摘。何年か前、深夜クラブでのダンスが禁止されて問題になったが、国家は国民の身体を統制したがるのだ。最後に木野は1964年の東京オリンピックを見た杉本苑子の文章を朗読した。「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。オリンピックの開会式の進行(行進?)とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった」。2年後にはまた東京オリンピックが開かれる。

2018/05/12(村田真)

BLIND PIECE PROJECT

会期:2018/05/10~2018/05/11

京都芸術センター ミーティングルーム2[京都府]

通常のダンス公演とワークショップの中間のような感触をもった作品。構想と振付は、パフォーマー、振付家の秋津さやか。事前の告知文や公演前に「ガイド役」のパフォーマーにより、「パフォーマンスのシーンと観客がガイドの合図に従って目を閉じる時間が組み合わさった観客参加型の作品」であること、ダンサーと観客の身体的な接触があることが告げられる。

公演会場は元小学校の教室であり広くはなく、観客も定員15名と数が絞られ、親密な演出設計が図られる。正方形に並べられた椅子に観客が座ると、ダンサーが同じ客席から現われ、椅子に囲まれたスクエアの空間で動き始める。3名のダンサーはそれぞれ、学校やレッスン場など記憶のなかの場所を思い出しながら、廊下を歩く、段差を越えるといった動作を行なっているようだ。「これくらいの幅で…」「高さはこれくらいで…」といった言葉を誰にともなく発しながら、空間を測量するような動作に、うまく思い出せないもどかしげな仕草がノイズのように加わる。3人の身体が描く記憶の風景と交通が奇妙な磁場を醸成し始めたころ、「目を閉じてください」というガイドの言葉が唐突に発せられ、見ることが遮断される。目をつむっても動作の気配は続く。しばらくすると、「目を開けてください」という言葉が発せられ、視覚は回復する。


[写真提供:FORUM KYOTO]

これを数回繰り返した頃だろうか、「目を閉じている」時、誰かの手が膝をすうっと撫でた。次に目を閉じた時、膝の上に置いた手を誰かがそっと握る。「誰か」はだんだん大胆になり、手首を掴まれた私は席を立って、中央のパフォーマンスエリアに足を踏み出すよう無言で促される。突然離される手と「見えない」ことが微かな不安をよぶ。合図に従い目を開けると、何人かの他の観客も席から連れ出されて周囲に立っている。見る/見られるの反転。「目を開ける」度に、動かされた観客の身体が新たな風景を形づくる。「目を閉じている」時、動かされた私の手は誰かの身体に触わり/触れられる。身体の向きとともに変化して感じられる照明の明るさ、隣に立つ誰かの気配、不揃いな足音、だんだん速く大胆に動かされる私の身体。3名のダンサーの短いソロパートを「見る」時間を挟み、最後は観客全員が中央の空間に連れ出されて終了した。


[写真提供:FORUM KYOTO]

一方的にダンサーから「触られる」こと、「目を閉じて見ない」こと。ここで企図されているのは、「観客性」の揺さぶりもしくは一時的解除である。「見ること」を担保する安全な距離の介在は、ダンサーとの直接的な身体的接触により、破られる。そして(観客がガイドの指示に従う限り)視線の主体であることは―少なくとも一次的に―無効化されてしまう。

では、ここで起きている出来事の総体を見ているのはいったい「誰」なのか?「BLIND PIECE」の試みはむしろ、通常は不可視の盲点としてある「演出家」という特権的位置を浮かび上がらせる。また、「観客性」の一時的解除という戦略は理解できるが、「何かを思い出そうとしながら語る人間の(半ば)無意識の身体の動きや、語る言葉と身体の乖離を扱う」というパフォーマンスの軸との関連性が乏しく、やや未消化感が残った。既に2度の上演を重ね、今後も(観客の意見をフィードバックさせながら)発展させていくというこのプロジェクトの今後の展開に期待したい。

2018/05/10(木)(高嶋慈)

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