2019年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

DANCE PJ REVO『STUMP PUMP』

会期:2019/02/23~2019/02/24

ArtTheater dB KOBE[兵庫県]

NPO法人DANCE BOXが今年度より新たに開始した「アソシエイト・アーティスト/カンパニー制度」。ダンサーやカンパニーと3年間にわたって協働し、作品づくりを継続的にサポートする事業である。アソシエイト・カンパニー枠では公募を行ない、田村興一郎が主宰するDANCE PJ REVOが選出された。

客入れの段階で既に、男女7名のダンサーが行き交いながら個々の身振りを立ち上げようとしている。動きの萌芽を探ろうとするような、身体をほぐそうとするような、何かを地面から持ち上げるような身振りが、雑踏のざわめきのように現われては消えていく。ノコギリで木を切るようなノイズと、黒ずくめの服装に黒手袋といういで立ちが、肉体労働の現場のような印象を与える。



[撮影:岩本順平]

前半は、ノコギリの音とトラックの走行音が響き続けるなか、彼らは淡々と、「何かを持ち上げる」「運ぶ」「上へ上へと積み上げる」という動作に従事し続ける。だが彼らのいる世界は秩序の建設と同時に崩壊の力に支配されており、作業を遂行中の彼らは突然空気を抜かれた風船のように、力なく床に倒れこむ。横たわった身体に、別の仲間が手を差し伸べると、見えない磁力に引っ張られるように、手が直接触れることなく、倒れた身体が起き上がる。あるいは、倒れた身体は、丸太を転がすように、足の裏でゴロゴロと転がして運ばれていく。モノに働きかける身体と、モノのように扱われる身体。機械的な作業にただ従事し続ける自動化された身体と、物体に還元された身体。その両極を行き来し続けるダンサーたちは、全員がユニフォーム的に統一された衣装を着用していることも相まって、男女の性差を消去され、個性を剥奪された匿名的な身体の様相を帯びてくる。

作業に従事するロボット化した身体と、モノ化した身体との両極が際立つのが、中盤だ。バックヤードの扉が開けられ、段ボール箱が続々と舞台上に運び込まれていく。林立するビル群のように、あるいは視界を塞ぐ壁のように、積み上げては次々と組み換えられていく段ボール箱。電池の切れた機械のようにフリーズしたダンサーの頭上にも、段ボール箱は容赦なく積み上げられていく。危ういバランスで積まれた段ボールのタワーが崩れると、呼応するかのようにダンサーの身体も倒れ込む。あるいは、自ら段ボール箱を頭にかぶり、倒れ込んで機能を停止させる者も現われる。スピードの加速がリズムを生み、交通と運動のベクトルが錯綜するほどに、無機的な「作業」が「ダンス」へと接近していく。その様相を眺める楽しさとともに、ここには、巨大な機構の一部と化した身体/建設と(自己)崩壊を繰り返すタワーや壁/耐えきれず自ら機能停止する身体、といった現代社会批判のメタファーも読み込める。



[撮影:岩本順平]

ただ、後半はやや失速した感があった。通常は照明や音響など裏方の作業ブースを「舞台の一部」として用い、螺旋階段の柱を数人で儀式のように叩く、赤い天狗のお面をかぶった者が現われるといったシーンが展開されたが、アイデアの提示段階に留まり、作品全体との有機的な結びつきや説得力が弱いように感じられた。当日パンフレットによれば、新作のリサーチのため、昨年夏の台風災害の被害を受けた京都北部の鞍馬に行き、倒木が線路や民家に倒れた被害状況や撤収・伐木作業を目の当たりにしたという。天狗のお面は「鞍馬」からの発想だろう。

また田村は、「当事者ではないという倫理的な葛藤を抱えつつ、社会問題と結びついたダンス作品を作りたい」「倒れても何度でも立ち上がる、前向きな思い」について当日パンフに書いている。「倒れても何度でも立ち上がる」、それを肉体への負荷として提示した作品として、例えば、昨年11月に上演されたMuDA『立ち上がり続けること』が想起される。私見では、MuDAの場合、「身体的な負荷によって逆説的に輝き出す身体」とか、「倒れても倒れても立ち上がり続ける生命の力強さ」といった物語をあえて排除することで、「身体」が、スポーツ観戦や災害復興に顕著な(資本や国家、共同体の)物語へと回収され、搾取されることに対して「抵抗」を示していた。物語性を排除するか、社会的意味を積極的に付与しようとするか、どちらの態度が良い/悪いというのではない。ただ田村作品の場合、「コンセプト」として書かれた文章(の「正しさ」)と実際の作品から受ける印象との齟齬や、説明がなくても感取される段階にまで身体が追いついているか? という疑問が残った。「アソシエイト・カンパニー制度」はあと2年続く。次回、同じ劇場でより進化した姿を見たい。

関連レビュー

MuDA『立ち上がり続けること』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/02/23(土)(高嶋慈)

TPAM2019 ファーミ・ファジール+山下残『GE14』、ファイブ・アーツ・センター『仮構の歴史』、イルワン・アーメット『暴力の星座』

会期:2019/02/16~2019/02/17

Kosha33ほか[神奈川県]

横浜のTPAMは、大学の業務が忙しい2月中旬に開催されるため、毎年なかなか鑑賞できないのだが、今年は最終日のみ、なんとか時間をとることができた。プログラムは、東南アジアのレクチャー・パフォーマンス的な演目を3つだったが、いずれも現代の政治、社会、歴史を扱うかなりヘヴィなテーマである。

ファーミ・ファジール+山下残の『GE14』は、マレーシアで60年変わらなかった与党が変わる歴史的な瞬間に立候補し、勝利したパフォーマーのドキュメント映像にあわせて、弁士が語る後、今度は舞台を路上に移し、本人が演説する。マハティールの野党としての現役復帰にも驚いたが、選挙がもつべき民衆の熱量を羨ましく思う。

同じくマレーシアのファイブ・アーツ・センターによる『仮構の歴史(仮題、ワーク・イン・プログレス)』は、政権交代に伴い、新しい歴史教科書が2020年に発行することを踏まえ、歴史から消されていたマラヤ共産党の非合法活動を掘り起こす試みだった。その過程で激しい批判にさらされたファーミ・レザらが、白か黒かに陥る政権の歴史のあり方を問う。

そしてイルワン・アーメットの『暴力の星座』は、『アクト・オブ・キリング』や『ルック・オブ・サイレンス』のドキュメント映画で知られるようになった9月30日事件後のインドネシアにおける大量虐殺(=共産主義者の排除)が題材である。倉沢愛子がこの事件を経た日本とインドネシアの関係について問題提起した後、アーメットが登場して、いまも続く暴力について考察し、スペクタクル的なエンディングを迎える。

どれをとっても、いまの日本の状況を考えれば、じつはまったくよそ事ではないと思わせるラインナップだ。ただ残念ながら、アートが政治性をもつことは当然という雰囲気が日本にない。それどころか美術でも音楽でも、そうした表現をにじませるだけで「〜に政治を持ち込むな」というふうに炎上が起きている。

2019/02/17(日)(五十嵐太郎)

共創の舞踊劇『だんだんたんぼに夜明かしカエル』

会期:2019/02/17

ジーベックホール[兵庫県]

奈良市を拠点に、障害のある人の表現活動を支援している一般財団法人たんぽぽの家。2004年には、たんぽぽの家アートセンターHANAがオープン。制作のためのスタジオ、展示ギャラリー、カフェやショップも備えたコミュニティ・アートセンターであり、約60名の障害のある人が、絵画、手織り、書、陶芸、パフォーマンスなどに取り組む。2011年からは、ジャワ舞踊家の佐久間新を招き、月2回の「ひるのダンス」を行なっている。90分間、すべて即興ですすむ「ひるのダンス」には、障害の内容、年齢、性別もさまざまなメンバーやスタッフが参加するとともに、福祉関係者、学生、アーティストなども見学に訪れる。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、障害者による芸術文化活動への支援体制が整備されるなか、文化庁の事業に採択され、今回初めて「舞台作品」としての発表が行なわれた。



[撮影:草本利枝]

客席と段差がなくフラットな舞台上には、大・中・小3つのフロアマットが敷かれ、ピアノとガムランのブースが設えられている。冒頭、アドバイザーであるダンサー・振付家の砂連尾理が登場し、挨拶と出演者の紹介を行なう。その傍らで既に、ゆらゆらと手を振る中年男性の動きを、向き合う佐久間が鏡合わせのようにマネし、ダンスの時間が立ち上がり始めている。いや、それは既存の「ダンス」というよりも、全身、声、表情を使った濃密な身体的コミュニケーションの時間であり、(他人に見せるためのダンスや決まった振付の習得ではなく)相手との関係性をつくる、その場にいることを肯定する、非中心的かつ多中心的な場の生成に向けた時間である。相手の動きの断片を拾ってマネし、投げ返す。キャッチボールのような交通が生まれると、とことん没入してみる、少し距離を取って眺めてみる、さらに別の動きにどういけるか探ってみる……。

「声」「言葉」も重要な表現要素だ。例えば「シッチャカメッチャカ」と誰かが発すると、口々に発声が連鎖的に広がり、音の連想が「カムチャッカ」という言葉に展開する。「シッチャカメッチャカ、カムチャッカ」と言い合うリズムにノる身体たち。

あるいは、佐久間がカエルのように飛び跳ねると、たちまちカエルの群れが発生し、「グワッ」「ココココ」「シャウシャウ」といったカエル語が口々に飛び交う。インドネシアのバリ島で行なわれる「ケチャ」を模したものであり、ガムランやケチャ、中盤には影絵芝居のシーンもあるなど、インドネシアの伝統芸能のエッセンスが取り入れられていた。また、自主保育グループの子どもたちがゲスト出演するシーンもあった。



[撮影:草本利枝]

このように、たんぽぽの家アートセンターHANAのメンバー(以下、たんぽぽメンバー)と佐久間の活動を紹介するという点では意義深い公演だが、いくつかの疑問も残る。
1)「ディレクションの介在」の必要性。違和感の一例を挙げると、何回か発せられた「やめてほしー」という言葉。その場で自然発生したアドリブではなく、(数回は)外部から参加した健常者のダンサーが発声していた。おそらく、普段の現場で、苦手な音や状況に反応したたんぽぽメンバーが発した言葉を拾い、「タイミングを図って発声する」演出上の指示があったものと思われる。だが他の言葉と違い、言葉遊び的に変換されず(例えば「ほしー」→「ほししいたけ」とか)、「膠着した空気を変える」強制力としての機能を担わされていた。「障害のある人と共につくる」作品が「ポジティブさ」を前景化する傾向に陥りがちななか、唯一否定的な異義申し立ての声として異質さが際立っていただけに、出演者のたんぽぽメンバーがその場で実感したことの表出ではなく、「演出」の一環であったことに疑問が残る。この疑問はさらに、普段のワークショップでやっていること(の豊かさ)をシンプルに見せるという方法をなぜ取らなかったのか、「作品」としてパッケージングすることの必要性への問いへとつながる。

2)「ポジティブさ」の肯定や前景化。例えば、「掌で水を掬い、相手の手に手渡す」動きのシークエンス。中盤では、白いシーツのような布をはためかせ、身体に巻き付け合う。それは赤ん坊をくるむ布とともに死骸を包む布も想起させ、「命の誕生と終わりを包む布にみんな等しく包まれている」というメッセージを提示する。そこに、一人ひとりが生まれた月日、時刻、病院名、出生時の状況(未熟児、肌が紫色だったなど)が読み上げられ、母親に「産んでくれてありがとう」と言う詩の朗読が重なる(ただしこの詩は後半、「なぜ母親と同じような(子どもを産める)身体ではなかったのか」という内容に変わるのだが)。もちろん、「命の肯定」というメッセージは重要だが、「ポジティブな要素しか(作品として)表に出さない」傾向は、その背後にある排除と表裏一体である。

3)「劇場」「作品」という制度。上述の1)とも関連するが、「普段のワークショップでやっていること」を、「作品」という枠組みで見せることにどこまでの必然性があるのか。「普段のワークショップ」と「観客に見せること」の隔たりを、ディレクションでカバーし、「作品」としての強度を高める方向に振り切るのか。あるいは、(弛緩した時間のリスクを背負ってでも)なるべく普段に近い状態で見せる、そのために必要な設えや配慮を突き詰めるのか(いわば影に徹したディレクションの要請)。神戸公演では車イスの観客も多く、上演中に客席から言葉にならないさまざまな「声」が漏れていた。その「声」にどこまで反応するのか。「劇場」という場は、「舞台」と「客席」を切り分け、ノイズを排除してしまう。普段の活動を「作品」として「劇場」に持ち込んだ時に不可避的に被る変容に対して、「演出家」としてどう対応するのかが問われている。

「障害のある人」「子ども」「インドネシアの古典芸能(舞踊、語り、音楽、儀礼の複合的な結びつき)」「カエル(動物化)」など、「コンテンポラリーダンス」にとっての「外部」がそれぞれ異質なレイヤーとして持ち込まれているが、ディレクションしようとして空中分解している印象を受けた。意義とともに、「劇場」という制度や助成金を含め、今後のあり方を考える上で肯定的な課題を浮上させた公演だったと思う。

2019/02/17(日)(高嶋慈)

木ノ下歌舞伎『糸井版 摂州合邦辻』

会期:2019/02/10~2019/02/11

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

劇場とアーティストが協働するプログラム「レパートリーの創造」第2弾として、昨年度の『心中天の網島―2017 リクリエーション版―』に引き続き、糸井幸之介とタッグを組んだ木ノ下歌舞伎。『摂州合邦辻』は、説教節「しんとく丸」、「愛護の若」、能「弱法師」などを元にした人形浄瑠璃、歌舞伎作品として成立し、現代の文学まで語り継がれてきた物語である。

大名の高安家の跡取りに生まれ、才能と容姿に恵まれた俊徳丸は、異母兄に妬まれ、継母の玉手御前からは許されぬ恋慕の情を寄せられる。玉手御前を拒絶する俊徳丸だが、業病にかかり、家督相続の権利と許嫁を捨てて失踪してしまう。彼の行方を訪ねる許嫁が探し当てたのは、両目の視力を失い、醜く顔貌が崩れ、社会の底辺で彷徨う俊徳丸の姿だった。許嫁に横恋慕する異母兄が連れ戻そうとするが、2人は合邦道心という僧侶に助けられ、家に匿われる。この合邦道心は玉手御前の父親であり、俊徳丸を追い求めて高安家を飛び出した玉手御前は、2人が匿われているとも知らず、実家へ身を寄せる。俊徳丸への邪恋を諦めさせようと諭す両親だが、玉手御前は聞く耳をもたない。俊徳丸を連れて逃げ出そうとする許嫁に、襲いかかる玉手御前。元武士である道心は、高安家へ義理立てするために、愛娘を手にかける……。



[撮影:東直子]


舞台は、「許嫁に襲いかかる玉手御前を、父親の道心が斬りつける」というこの緊迫したシーンで幕を開ける。いきなりのクライマックスの提示から、時間を過去へと巻き戻し、ストーリーの進行と過去の回想が時間軸を行き来しながら語られていく仕掛けだ。生と死、愛と憎しみ、聖と俗、真実と嘘が渦巻く重厚なドラマだが、ポップなメロディに乗せて歌い踊る、糸井幸之介によるミュージカル調の演出が、軽やかさと推進力を与える。舞台の前半は俊徳丸の生い立ちや病による凋落に、後半は玉手御前にスポットが当てられる。息も絶え絶えの彼女が真実を吐露する独断場は、内田慈の熱演が光る。実は、俊徳丸への恋慕はカモフラージュのための演技であり、異母兄が俊徳丸の暗殺計画を立てていることを知った彼女は、彼の命を救うため、毒酒を飲ませて業病にかからせた。失踪した俊徳丸をなおも追い求めたのも、恋に狂ったからではなく、自分だけが彼を癒せるからだった。「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた女の生き血」を飲ませれば病は癒え、まさに自分がそれに該当する女なのだ。玉手御前は後妻になる前は高安家に仕える使用人であり、彼女の行動原理は、恋慕の情ではなく、元使用人としての主への忠誠心と(継)母として子を救う想いだったことが明らかになる。最後の力を振り絞って血を飲ませる玉手御前の周りを、登場人物たちは輪になって囲み、数珠を回して祈りを捧げる。数か月後、病から癒えた俊徳丸は許嫁と式を挙げ、玉手御前の両親は娘を想って空の月を見上げる。



[撮影:東直子]

序盤での群舞とコーラスのシーンは、このクライマックスを念頭に振り返ると、伏線が散りばめられていたことに気づく。例えば、トラが爪を立てて獲物に襲いかかるような手の振りや、真ん中の1人を囲んで円陣を組んで踊る構成だ。また、舞台美術も秀逸。10数本の柱を使ったシンプルなものだが、俳優たちの手で組み替えられる度に、現代の都市のビル群、神社の社、掘っ立て小屋、家の骨組みや敷居へと自在に変化する。冒頭、垂直に立っていた柱の列は、ストーリーの変化に応じて分解され、さまざまに組み替えられた後、再びラストで「垂直の柱の列」に戻り、「秩序の回復」を暗示する。また、後半で運び込まれる大玉は、初め不穏な異物として現われ、玉手御前を囲んで人々が回す数珠になった後、夜空に浮かぶ星へと変貌する。人々の祈りや、超越的な力の顕現を現わすようだ。


このように見応えある舞台だったが、「古典を現代(の問題として)上演する意義」と「玉手御前の二面性」について最後に考えたい。ラストで明かされる玉手御前の行動原理は、一応の辻褄は合うが、彼女がそこまでの自己犠牲に徹する動機を理解するのは(現代の観客としては)困難だ。むしろ、こう考えた方が良いのではないか。玉手御前はほぼ終始、「恋に狂い、男を追い詰めて滅ぼす悪女」として振る舞う。一方、終盤、いまわの際の告白で彼女は、「貞操深く慈愛に満ちた、自己献身的な貞女の鑑」へと反転する。毒酒によって死に至る業病をもたらす一方、自らの生き血で病を癒す。「(男の)命を奪う悪女」と「癒し、命を与える女」という二面性。「恋と嫉妬に狂い、我が身と男を滅ぼす悪女」(例えば『娘道成寺』で僧の安珍に愛を拒絶され、蛇に身を変えて焼き殺す清姫)と、「命に代えても夫への貞操を守る、自己献身的な貞女」(例えば、自分に横恋慕する男に夫を殺すよう頼み、就寝中の夫と入れ替わって不貞の代わりに自らの命を捧げる袈裟御前)。古典ではおなじみの、両極端な二つの典型像すなわち「テンプレキャラ」を統合し、貼り合わせて造形したのが「玉手御前」である、と。


従って、古典をどう「現代」に接続し、「現代の問題」として上演するのかにあたり、より重要なのは、整合性の高さでも、古典に詳しくない観客でも楽しめるエンターテインメント性でもない。本作の場合、「玉手御前の両極端の二面性は、(男性の)ファンタジーを貼り合わせた産物に過ぎない」という問題こそ問われるべきである。従って、玉手御前の両親が柱の森を彷徨って「あの子はどこにいったのか」とつぶやき、舞台端の柱を背に玉手御前(の霊魂)が無言で佇むラストシーンは、「親子の情」というエモーショナルなオチに帰着する演出に堕しており、「玉手御前など(実は)いない」という彼女の不在性にこそ言及すべきだった。

だが、「現代の問題として古典を上演することの意義」は、少なくとも、木ノ下歌舞伎がKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNで上演した『勧進帳』にはあった(外国人やトランスジェンダーの俳優を起用することで、人種や国籍、セクシャリティなどの差異に基づき排除が正当化される構造をメタレベルで示唆する秀逸な上演だった。リクリエーションによる初演版のアップデートである点も大きい)。「古典」は、時代の要請によってアップデートされていくものであり、アップデートの作業が作品を延命させる。例えば今作の場合、ジェンダーに意識的な演出家ならば、「死と破滅をもたらすファムファタル」/「自己犠牲に徹する聖女」という玉手御前の二面性に対して、どう批評性を加えるだろうか。また、木ノ下歌舞伎の今後の可能性として、「古典」にとって外部の視線である女性や外国人の演出家と組む選択肢も考えられる。ただ女性演出家の場合、男性に比べて数が圧倒的に少ないという問題がある。この事態もまた、「誰の視線からの上演なのか」という問題、「繰り返し語られる『物語』を駆動させる政治性」を問う姿勢を妨げている。

関連レビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 木ノ下歌舞伎『勧進帳』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/02/10(日)(高嶋慈)

演劇研修所第12期生修了公演 アーサー・ミラー作『るつぼ』

会期:2019/02/08~2019/02/13

新国立劇場[東京都]

17世紀後半のアメリカで少女の虚言から起きたセイレム魔女裁判の実話をもとに、赤狩りが跋扈していた時代のアメリカで、アーサー・ミラーが執筆した作品である。言うまでもなく、単に昔の出来事を戯曲化したわけではなく、赤狩りの状況を魔女裁判に重ねあわせたものだ。全体としては3時間を超える大作であり、前半は物語がゆっくりと進み、正直、それほど引き込まれなかったが、特に休憩を挟んだ後半は、狂信と人間性とは何かを力強く問う凄まじい演劇だった。俳優としては、やはり主役級の二人、すなわちアビゲイル役の悪女ぶりと、人間性あふれるジョン役の葛藤が印象に残った。たわいもない少女たちの夜の儀式が目撃されたことをきっかけに、人々が疑心暗鬼になる集団ヒステリーというべき悲劇が引き起こされるのだが、近代以前の歴史や、第二次世界大戦後のアメリカの状況を学ぶにとどまらず、現在の日本で観劇することの意味を考えなければいけないだろう。

おそらく日本ならば、キリスト教の背景から想像される魔女ではなく、「非国民」と名指しすることが排除のパワーワードになるだろう。戦時下の日本はもちろん、現在もネット上では次々と「非国民」という言葉が軽々しく使われ、敵認定されている。実社会においてはまだはっきりとした影響力をもっていないかもしれないが、何かが引き金になると、歯止めがきかなくなるのではないか(関東大震災後の流言がもたらした朝鮮人虐殺のように)。そうした意味で、「るつぼ」はよそ事の話ではなく、アクチュアリティを感じる作品だった。ある意味でテクノロジーが進化しても、人間性が変わらないことで、この作品は普遍的な価値をもっているわけだが、そんなことが絶対に起きないような社会はありうるのだろうか。

2019/02/09(土)(五十嵐太郎)

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