2017年09月15日号
次回10月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

鎌鼬美術館 常設展示

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鎌鼬美術館[秋田県]

都心から8時間、秋田の中でも辺境に位置する田園地域の田代に、鎌鼬美術館が2016年の秋に開館した。写真集『鎌鼬』は、写真家の細江英公が舞踏家の土方巽と連れ立って、1965年9月の2日間、田代に滞在して生まれた。美術館の名は、この写真集に由来している。古民家を改装した美術館では、各国で販売された写真集や細江と土方の活動を紹介する資料が展示されている。美術館の周囲で、写真集に残された数々のハプニングが実際に行なわれた。展示以上に、この美術館の醍醐味は、館外に広がる田園への聖地巡礼にあるのだった。とても親切な館員に、幸いにも、車で聖地を案内してもらった。土方の躍動する身体が、村民を驚かせ、そそのかし、笑わせ、パフォーマーに仕立てた。その奇跡のような出来事の残り香を、車に乗りながら、嗅いでみる。田園地域の貧しい農民の暮らしをベースに、土方は暗黒舞踏と呼ぶ新しいダンスを生み出した。しかし、当の土方は秋田市に生まれ育った、比較的都会っ子だった。若くして当地のモダンダンス系の教室に足を運んでいたところを見ても、土方は知的でモダンな人間だった。いわば100年前のパリの画家たちが、アフリカ文化に新しい芸術の霊感源を求めたように、土方は田代のような村落の暮らしに新しいダンスの根拠を求めたわけだ。田代の今日的活用ということを、土方もまたこの美術館の運営者も考えている。そういう意味では、両者は同じ地平に立っているのかもしれない。しかし、その目的は異なる。土方は芸術のために、美術館は田代の活性化のために、田代の資源に可能性を見た。両者は互いの価値に寄生しているわけだが、芸術の活性化と地域の活性化が相乗効果を生み出せるか、どちらかだけではともに形骸化してしまう。そもそも舞踏の形成になぜ田代が、秋田の田舎の暮らしが必要だったのか、その本質に迫って初めて、活路が見えてくるのだろう。

2017/8/13(日)(木村覚)

新聞家『白む』

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会期:2017/07/20~2017/07/25

Buoy[東京都]

北千住の古いマンションの地下に降りる。コンクリートむき出しの会場に、円陣状の客席。扇風機が回る。クーラーなし。ペットボトルをもらって汗を拭う。村社祐太朗の演劇の特徴に毎回会場が変わるということがある。いわゆる劇場は用いない。美術ギャラリーなどが多い。環境は作品を変える。村社はそのことに自覚的だ。新聞家の劇は、そのデリカシーゆえに、演劇でありながら、絵画に見えたり、彫刻に見えたりする。会場が美術ギャラリーだからだけではなく、観客の「見ること」へ向けた作術が繊細であるが故のこと。例えば1年前の『帰る』では、ソファーに座る二人の男女が近代の肖像画のように見えた。絵画か彫刻のように見える演劇は、見ることの集中度が高くなり、見入ってしまう。今作は様子が違っていた。円陣状の客席に混じって、俳優も同じパイプ椅子に座り、座りながら話を始める。俳優の3人は1人ずつしばらく喋ると、交代する。内容は家族や恋人との思い出。思い出はレストランの名前とメニューとともに語られる。高級レストランもあれば、ファミレスも出てくる。誰かと食べた思い出。記憶にとどめられない分量の語りを観客は聞き続ける。古いマンションの片隅でしかも円陣の輪の中で聞いていると、まるで住民の管理組合の会議でメンバーの話に耳を傾けているような、なんというべきか「車座」感が出てくる。役者たちは絵画でも彫刻でもなく、生身の人間として「居る」、その感じが今作では強調されていた。そういえば、受付時に、赤い干しトマトが振舞われ、口にすると甘く、酸っぱい味がした。その経験を会場の観客たちは共有しているのだった。筆者は時間が取れず参加できなかったが、観客全員と行なう意見会も新聞家恒例の趣向で実施されている。ひとの話を聞き、自分の感想も語り、交互にそれが行なわれるという意見会で起きることは、上演中、役者と観客との間で起きている交感とさして変わらない、ということなのかもしれない(上演後も残れたらよかった)。であるならば、村社は、「話すこと」と「聞くこと」というきわめて基本的な、演劇的であり社会的でもある状況へと観客の意識を向けようとしている。ここに新聞家の真髄がある。それがはっきりとした。

2017/7/25(火)(木村覚)

手塚夏子『漂流瓶プロジェクト第一弾 ~それは3つの地点から始まる~』

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会期:2017/07/21~2017/07/23

STスポット[神奈川県]

「漂流瓶」とは、手塚夏子が誰かに委ねる指示書(振付のスコア?)のこと。手塚本人、韓国のYeongRan Suh、スリランカのVenuri Pereraの3人が指示書に従ったパフォーマンスを上演した。指示書には5項目の指示がある。そこでは、西欧近代化の影響を受け価値観の変動があったと自認する非西欧の作家に、価値観の変動が起きた以前の文化的な行為を取り上げ、実演してもらい、そこでの深い反省を経て、ゴールとして現代の芸能や祭りを構想するまでのプロセスが要請されている。「漂流瓶」とはつまり、手塚によるパフォーマンスのアイディアのアーカイヴ化であり、それを他者に委ねるという意味でアーカイヴの活用の試みであり、西欧近代化に巻き込まれた非西欧の国の文化を再考し、再構築を目指すチャレンジのことである。
手塚は綱引きの綱を体に巻きつけ登場、綱の反対の先には萩原雄太(かもめマシーン)がいて、「どうしたらまっとうな大人になるよう子どもを教育できますか?」などといった「成熟(西欧的価値の香りが漂う)」をめぐる問いかけを手塚にし続ける。手塚は途中から、言葉が飲み込めないようになって、何度も吃り始める。手塚が綱を思いっきり引っ張ると、萩原は舞台に現れ、観客も巻き込んだ綱引き大会になった。YeongRanのパフォーマンスは、より本格的に観客参加型で、観客は席を立つよう指示されると、韓国、日本、アメリカ合衆国、イスラエルの旗を渡され、質問に従って、旗を上げ下げするよう求められる。質問は、どの国が一番好きか、どの国が一番民主的だと思うか、など。好きな国別に分かれて、リーダーを決め、リーダーが質問を受けると、その回答に指示できるか、旗を振って答える、なんて場面にまで進むと、観客は「旗を振ること」「リーダーを作る、それを支持(非支持)すること」などの意味に自問自答するようになる。Venuriは、スリランカが極めて「弱い」パスポートの国で、また他国のビザの獲得が非常に困難であり、ゆえに「ビザ・ゴッド」に祈りを捧げることが流行っていると観客に説明すると、伝統的な祈祷の儀式をベースにしているらしい「ビザ・ゴッド」への祈りの儀式を実演した。3作家のパフォーマンスを見て「スコア」の可能性にあらためて気づかされた。スコアは民主的だ。誰でもアクセスでき、誰でもスコアの力を借りて、感性的で知的な反省の機会を得ることができる。しかも、観客の参加を促すパフォーマンスの形式では、観客もまた傍観者ではいられずに、何かの役割を生きることになる。こういう民主的なアイディアの実践に、観客の側が習熟する先に何か新しい未来的な上演の空間があると思わされる。「道場破り」と称した、ダンスの手法の交換を実践し、交換した手法で対決する企画を行なったこともある手塚夏子らしい挑戦だ。第二弾にも期待したい。

2017/7/21(金)(木村覚)

プレビュー:猿とモルターレ アーカイブ・プロジェクトin大阪

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会期:2017/10/28~2017/10/29

FLAG STUDIO[大阪府]

『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)は、「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」として、公演場所ごとに市民とのワークショップを通じて制作されるパフォーマンス作品。2013年の北九州、2015年の仙台公演を経て、2017年3月に大阪で上演された(大阪公演の詳細は、下記の関連レビューをご覧いただきたい。メタファーを随所に散りばめつつ、声と身体を駆使した圧倒的なパフォーマンスと反復の密度をたたえた、優れた舞台だった)。この大阪公演では、震災後の東北で記録と継承の活動に取り組む映画監督の酒井耕とアーティスト・ユニットの小森はるか+瀬尾夏美が参加し、朗読テクストの提供や記録撮影を手がけた。
今回の「アーカイブ・プロジェクトin大阪」は2日間に渡って行なわれる。1日目は、映像作家の小森による上演の記録上映会と、記録映像と「継承」のあり方について考える「てつがくカフェ」が開催される。2日目には、瀬尾のテクストの朗読ワークショップと、酒井による映像ワークショップを開催。それぞれのワークショップでは砂連尾も講師として加わり、「身体を使ってテクストを読む」「声や身体による出来事の継承」や、「カメラに撮られる身体の変容」「記録メディアによる出来事の編成の危うさとその可能性」について考えるという。
本プロジェクトは、「震災の記憶の継承」という問題に加えて、「舞台芸術の一回性や身体性をどう記録するか」というパフォーミングアーツにおける「記録」やアーカイブの問題についても考える好機となるだろう。また、単なる記録映像ではなく、映像作家や映画監督すなわち表現者としての視点や問題意識をどう取り入れるか、という点にも注目したい。なお本プロジェクトは、来年3月10日~11日にせんだいメディアテークにおいても開催が予定されている。

撮影:松見拓也

関連レビュー

砂連尾理『猿とモルターレ』|高嶋慈:artscape レビュー

2017/08/31(木)(高嶋慈)

プレビュー:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017

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会期:2017/10/14~2017/11/05

ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、京都府立府民ホール “アルティ”、京都府立文化芸術会館、ほか[京都府]

8回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下「KEX」)。公式プログラムでは、12組のアーティストによる計12の公演や展示を予定。
今回の大きな特徴は2点あり、1点目は「東アジア文化都市2017京都」コア期間事業の舞台部門として、中国と韓国のアーティストが初紹介される。スン・シャオシンは、ネットやサブカルチャーに浸る中国現代社会の若者を描く作品を発表。また、パク・ミンヒは、韓国の無形文化財である伝統的唱和法「ガゴク(歌曲)」を習得した歌い手。宮廷音楽として確立され、親密な閉鎖的空間で歌われた「ガゴク」の鑑賞形態も取り入れ、パフォーマーと観客が1対1で向き合う上演形式も注目される。ネットやサブカルへの耽溺といったグローバルな現象と、伝統文化の再考。こうした文化的アイデンティティをめぐる考察は、村川拓也、神里雄大、ダレル・ジョーンズ、マルセロ・エヴェリンの作品へと繋がっていく。ドキュメンタリーやフィールドワークの手法を演劇に取り入れる村川拓也は、中国と韓国でのリサーチに基づく新作を発表する。ペルー生まれ、川崎育ちという自らのアイデンティティから、移民や他者とのコミュニケーションを主題化してきた神里雄大は、ブエノスアイレスでの滞在経験に加え、近年訪れたオセアニア、小笠原など各地での取材を基にした新作を予定。現地で出演者を見出し、スペイン語での上演を行なうという。また、アメリカの振付家、ダンサーのダレル・ジョーンズは、ゲイ・クラブで広まったヴォーギングからインスパイアされたダンスを通して、ステレオタイプなセクシャリティや抑圧への抵抗を身体表現化している。日本で滞在制作した新作を発表する予定。ブラジルの振付家、パフォーマーのマルセロ・エヴェリンは、過去2回のKEXで衝撃的な作品を観客に突きつけてきた。今回は、舞踏を生んだ土方巽の著作『病める舞姫』を手掛かりとした作品が上演される。極限的な肉体や暴力性を提示してきたエヴェリンが、土方の思想とどう対峙するのかが注目される。


左:スン・シャオシン『Here Is the Message You Asked For... Don't Tell Anyone Else ;-)』 Photo by Chen Jingnian
右:パク・ミンヒ『歌曲(ガゴク)失格:部屋5 ↻』© Festival Bo:m

また、2点目の特徴として、上記のパク・ミンヒに加え、ハイナー・ゲッベルスの音楽劇や池田亮司による「完全アコースティックなコンサート」など、「音楽」との関連性がある。他領域との横断、総合芸術としてのパフォーミングアーツという点では、光と影が巨大な幻想世界をつくり出す田中奈緒子のインスタレーション・パフォーマンスや、美術作家の金氏徹平の映像作品『Tower』をライブ・パフォーマンスとして演劇化する新作がある。また、今年3月に逝去したトリシャ・ブラウンのダンスカンパニーは、「霧の彫刻」で知られる中谷芙二子とのコラボレーション作品のほか、劇場用に制作された作品群を上演する。


左:ハイナー・ゲッベルス×アンサンブル・モデルン『Black on White』 © Christian Schafferer
右:2人『TOWER (theater) 』2017  Photo by Hideto Maezawa

8回目の開催ともなれば、2度、3度と登場する「常連」的な顔ぶれも見受けられる(村川拓也、マルセロ・エヴェリン、池田亮司、金氏徹平、トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニー、そしてリサーチプロジェクトとして参加するresearchlight)。そうしたフェスティバルの「基底」に厚みが加わっていくと同時に、新たなアーティストや方向性が加わることで、より太く展開していくフェスティバルの幕開けに期待がふくらむ。
公式サイト: https://kyoto-ex.jp

*ダレル・ジョーンズ『クラッチ』は事情により上演が中止になりました。(2017年9月22日編集部追記)

2017/08/31(木)(高嶋慈)

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