2018年11月01日号
次回11月15日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

アジアにめざめたら アートが変わる、世界が変わる

会期:2018/10/10~2018/12/24

東京国立近代美術館[東京都]

「本展はアジアが激しく変動した1960年代から90年代を対象に、美術と社会の複雑な関係に焦点を当て、この時期に実験的な表現を打ち出した革新的なアーティストたちが、どのように社会変革の触媒としての役割を果たしたのかを考察します」とは主催者の「ごあいさつ」。ここでいうアジアとは日中韓に台湾、香港、東南アジア、インドまで含めた地域。世界から見ればアジアの一部にすぎないが、人口でいえばなんと世界の約半分を占めているのだ。でも展覧会を見た印象は、全人類の半分を代表しているというより、やはり一地方の表現というべきだった。なぜなら、その国の歴史や政治体制、社会背景を知らないと理解できないローカルな表現が多く、だれでもパッと見て楽しんだり理解できるような作品が少ないからだ。

したがって、ふだんは作者とタイトルくらいしか見ないキャプションも、ここでは国と制作年が不可欠の情報になってくる。あの国では何年ごろどんな体制でどんな事件が起こったかを、思い出しつつ見る必要があるからだ。これは美術表現が政治や社会と密接に結びついていて、自立していない状態ともいえる。もちろんそのようなテーマの下に作品を集めたのだから当前だが、そもそもそうしたテーマが浮かび上がったのは政治・社会との関連が強い表現が目立ったからに違いない。

展示を見ていて気になったのは、「1960-90年代」という年代的な幅があるのに、日本人の作品だけは、山下菊二らのルポルタージュ絵画からオノ・ヨーコやハイレッドセンターのハプニングまで、ほぼ60年代に集中していること。つまり日本の美術が社会変革とコミットしたのは60年代までで、万博後および学生運動の敗北後は、核の傘の下でのノーテンキなポストモダニズムをむさぼっていたというわけだ。その視点で見るとアジアの美術は「遅れている」ように映るかもしれないが、冷戦構造の崩壊した90年代に入って日本にも遅ればせながら、中村政人や小沢剛ら社会的意識の強いアーティストが登場してきたのだから、ひょっとしたら日本が周回遅れだったのかもしれない。まるでウサギとカメの競争だ。

2018/10/09(村田真)

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KYOTO EXPERIMENT 2018 ジョン・グムヒョン『リハビリ トレーニング』

会期:2018/10/06~2018/10/08

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

2011 年にフェスティバル/トーキョーとアイホール(兵庫)で上演された『油圧ヴァイブレーター』の衝撃が忘れられない韓国のパフォーマンス・アーティスト、ジョン・グムヒョン。『油圧ヴァイブレーター』では、異性(男性)との恋愛に代わり、重機(掘削機)との性愛のファンタジーを実現すべく、難関の免許試験を突破し、重機と交わるエクスタシーに至るまでの過程がレクチャーパフォーマンスの形式で提示された。フェティッシュの対象としては成立しにくい(と思われる)機械や道具をあえて性化された対象として選び、自らが「操作」することで性的快楽を得る回路の提示は、フェティシズムの罠も異性愛の前提へと再回収される危険性も巧妙に回避した、知的な批評性に満ちている。ただ、『油圧ヴァイブレーター』の致命的な欠点は、快楽を得るために自ら重機を「操作」することの重要性を説き、そのために免許を取る過程が映像で紹介されるも、クライマックスのシーンで大地に身を横たえたジョンにエクスタシーを与える重機には、(実際には彼女自身ではない)別の第三者が乗り込んで操縦している、という構造的な矛盾点である。



ジョン・グムヒョン『リハビリ・トレーニング』2018 ロームシアター京都
[撮影:前谷開] 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

本作『リハビリ トレーニング』では、この矛盾を解消すべく、医療の教育現場で男性患者のダミー身体として使われる人形が「相手」に選ばれている。長椅子に横たえられた「彼」の動かない身体を、ゆっくりと腕を持ち上げては下ろし、足首を回し、脚を上下させ、関節をほぐしながら全身に丹念なリハビリを施していくジョン。トレーニングは次に歩行訓練へと移り、さまざまなサポーターやベルトで手足の関節や腰を固定された「彼」は、歩行器から身体を吊られ、対面するジョンに手を引かれ、ぎこちなくも一歩、また一歩と踏み出す。観客はこうしたリハビリの光景を、キャスター付きの回転椅子に座り、自由に移動しながら「観察」することができる。歩行訓練は数十分も続いただろうか、次にジョンは「彼」の腕にサポート器具を取り付け、ボールなどを「掴む」機能回復訓練を施す。前半はこのように、「人形」である「彼」が「リハビリ」によって、人間の標準的な身体能力を獲得していく過程がじっくりと時間をかけて「実演」されていく。

「訓練」の中身が過激化するのは、後半からだ。腕や指の機能を「獲得」した「彼」は、より複雑な行為として、「ジッパーを下ろす」「ボタンを外す」「リボンの結び目を解く」訓練をさせられる。だがそれらが練習用のダミーから、実際にジョンが着用する衣服へと移行するとき、「彼」は人間の身体機能のダミーから「性的パートナー」へと変貌する。この(演劇的な)変貌を支えるのが、「彼」が一つの行為をし終えるたびに情熱的に見つめるジョンの眼差しだ。ジョンを「脱衣」させた「彼」は、口にはめ込まれた「舌」で愛撫し、さまざまに体位を変えてジョンと激しく愛を交わす。もちろん操っているのは彼女自身なのだが、受動/能動、主体/客体の境界は曖昧に撹乱されていく。ジョンに「する」「彼」は彼女自身(が演じるところ)の欲望の延長であり、その一挙手一投足は彼女によって完全にコントロールされているのだ。また、サポーターやベルトで全身を固定された「彼」の姿は、リハビリの実演であるとともに、ボンデージの拘束具をも想起させる。介護やケアに見えたものが、いつしか性的な調教へと転じる静かな狂気が、照明や音響の演出を一切欠いたまま、ただ淡々と見せつけられる。



ジョン・グムヒョン『リハビリ・トレーニング』2018 ロームシアター京都
[撮影:前谷開] 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局


一般的な「人形劇」の場合、「人形」は「人形遣い」の身体からは自律した存在として振る舞い、観客もそのように見なすことでフィクションの世界が成立する。一方、『リハビリ トレーニング』では、「彼」との「関係性の構築」が、動かないモノから人間性への接近へ、そして(擬似的な)性的パートナーへと段階的に提示される。160分という長尺の時間は、そのために必要だったのだ。自らの欲望を投影し、思いのままに動かすことのできる「人形」を性的なパートナーと見なし、「実演」に及ぶパフォーマンスは、もし男/女が逆であれば、ピグマリオン的な欲望の発露として批判を浴びるだろう。ジョンはそうしたピグマリオン的欲望を逆手に取って裏返し、「女性が自らの性的ファンタジーを語る」ために戦略的に利用する。それはまた、女性が(消費される客体としてではなく)「性」を主体的に表現するための、長い抑圧からの回復をめざす「リハビリ トレーニング」の道程の真摯な提示でもある。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/

2018/10/08(月)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 2018 ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』

会期:2018/10/06~2018/10/07

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

舞台上に敷かれた土の上にゴミが散乱し、欲望の残り香のように銀色に煌めいている。野外フェスかパーティーが終わった後を思わせる、享楽の名残りと虚無的な荒廃感が漂う空間。幕開けとともにアンビエントなテクノサウンドが大音量で流れると、フードを目深に被った女性が下手奥の暗がりから登場し、荒廃した空間を極端に引き延ばされたスローモーションで横切っていく。電子音の反復が刻む浮遊感、時間が引き延ばされたような極度のスローモーション、宗教画のような崇高感さえ漂う光と陰のコントラスト。音響、身体表現、照明の相乗効果により、異次元的な時空間へと一気に引き込まれる幕開けだ。女性はゆっくりとリュックを下ろし、缶飲料を飲み干す。日常的な動作が、意味を脱色され、神話的な荘厳さすらまとって見える。



ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』2018 ロームシアター京都
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]


やがて同じく下手側の闇のなかから、2人、3人と、若者たちが集まり始める。すべては無言のまま、極度にスローな動きで行なわれる。嬉しそうにハグし合う者、相手の頭にビールをかけてはしゃぐ者。群れ集う彼らに背を向け、1人タバコを吸う者の頭上には、白い煙が軽やかな重圧でのしかかる。再会の喜びと出会いは、孤独を埋める相手を求める衝動へと集団的に展開していく。上着を脱いで下着姿を見せつける女性。髪をいとおしげに撫で合う恋人。恋人に肩を抱かれながら、別の男性に誘惑的な視線を送る女性。台詞は一言も発せられないものの、散りばめられた身振りと視線のベクトルが、レイヴ・パーティーで踊り狂う熱狂のなかに15名の群像的な物語を紡ぎ出す。それは、不穏さと昂ぶりが共存したビートに乗せて、次々と欲望の相手を入れ替えながら、いつ果てるともなく続く集団的な陶酔と疎外の物語だ。それぞれの欲望を、それぞれが孤独に刹那的に生きている。その提示は、さまざまな感情が身振りのパッチワークとして凝縮された中盤のシーンでひとつのクライマックスに達する。砂や水をぶっかけ合う対立に始まり、キスによる愛情表現、はねつける拒絶、煽るような怒号、牽制し合う威嚇、挑発、醒めた傍観、誘惑が渦を巻くように奔出する。やがて1人の女性を残して全員が力尽きたように倒れ込み、死のような沈黙が訪れる。取り残された女性は、相手の性別にかまわず追いすがるように愛撫するが、彼女の孤独が癒されることはない。



ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』2018 ロームシアター京都
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

こうした『CROWD』を見ていて参照項として連想したのは、ビル・ヴィオラの映像作品と、太田省吾の「沈黙劇」だ。本作の「振付」における構造的な特徴は、ヴィオラを想起させるスローモーションに加え、一時停止、反復、早送りといった映像の技法を援用し、生身の身体表現にインストールすることで、時間感覚を自在に操作する点にある。舞台上の時間は自在に伸縮する。0.1秒以下が延々と引き伸ばされた時間。対照的に、全員が静止したまま、光と陰が移ろっていくシーンは、一日の経過、いや百年が過ぎ去ったようにも感じさせる。時間感覚の操作を駆使することにより、「熱狂を冷静に切り取り、分析し、観察する」というアンビヴァレントさがより強調される。


また、本作の基底には、暴力やドラッグをテーマとする作家デニス・クーパーによるサブテキストが用意されているものの、台詞としては一言も発声されない。それは群像的なムーブメントに置き換えられ、かつスローモーションによる動きの緻密な分析により、心理や感情の襞を繊細に構築する。この手法は太田省吾の「沈黙劇」を想起させるが、例えば、KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNでインドの演出家シャンカル・ヴェンカテーシュワランにより上演された代表作『水の駅』は、水飲み場に往来するさまざまな年齢、家族構成、社会層の人々を描くことで(ヴェンカテーシュワラン演出の場合、さらに「多民族」というレイヤーが付加される)、人生という「旅」の諸段階や社会の構成層の多様性、さらには戦争や災害、難民といった社会的出来事をも包摂するものであった。

一方、本作『CROWD』は、一見すると、均質な若者の集団(閉鎖的集団のなかの関係性)を描いているように見える(カルチャーの共有、似通った年齢層、すべて白人という人種的構成)。だが、個々をよく観察すれば、ヘテロセクシャルの男女のなかに、ゲイ、レズビアン、バイセクシャルの人物が配され、引きこもりのような風体で周囲と関わりを積極的に持とうとしない男性もまぎれている。均質性のなかに織り込まれた(性的嗜好としての)多様性、対立はあるが決定的な排除へは至らない微妙な緊張感。ここに、単に若者の集団的熱狂を高密度に再構築したダンスという一面的な見方を超えて、現代社会の縮図としての本作の意義がある。


若者たちは全員、同じ方向(下手奥)から現われ、再び同じ方向に向かって去っていく。彼らの均質性を暗示するラストシーンだが、2人の男性のみ舞台上に留まり、1人は脱ぎ散らかされた服を拾い集め、もう1人はまだ陶酔の余韻に浸っている。その様子を振り返って奥の暗がりから見つめる者がいる。上空を通り過ぎる「飛行機のジェット音」は、現実への帰還、覚醒を告げる音なのか。集団とは別の方角に歩み出す一歩は提示されないまま、すべては闇に包まれる。


ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』2018 ロームシアター京都
[撮影:松見拓也 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/


関連レビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN シャンカル・ヴェンカテーシュワラン/シアター ルーツ&ウィングス『水の駅』|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/10/06(土)(高嶋慈)

福留麻里×村社祐太朗『塒出』

会期:2018/09/28~2018/09/30

STスポット[神奈川県]

新聞家を主宰する演劇作家の村社祐太朗とダンサーの福留麻里との共同作業の2作目。

開場すると村社が観客から参加希望者を募ってオリジナル盆踊りのレクチャーを始める。開演して初めてわかることだが、その振付は本編で福留が踊るのと同じものだ。村社いわく、本作では盆踊りのような人と場のあり方を目指したのだという。

村社は発話のたびにテキストの一つひとつのフレーズの意味とつながりを厳密に(そして改めて)取ることを俳優に要求する。結果として俳優の発話はゆっくりとした、ときにたどたどしいものになりがちで、対峙する観客もまた、辛抱強く言葉と向き合うような態度を要請されることになる。極度の集中はおのずと体のあり方にも影響を与え、新聞家の近作では俳優はごくわずかな身動きしかしないようになっていた。

ところが、本作では福留が踊りながら発話する。「俳優」たる福留にもそうだろうが、動きの有無は観客のあり方に大きな差をもたらす。もともと、村社のテキストは相当に集中しないと耳だけで内容を理解することが難しい複雑さを持っていて、その複雑さこそが魅力でもある。いつもと同じように言葉に集中しようとするのだが、当然、福留の動きも目に入る。語られるのは踊りの稽古の風景のようで、ならば福留の動きも「意味」を持つのだろうかなどと考えてしまった時点で私はテキストの行方を見失っている。そうでなくとも私の体は繰り返される「盆踊り」の振付とリズムに自然と反応してしまう(開演前のレクチャーの影響もあるだろう)。注意は分散し、ふとした瞬間に言葉は単なる音として通り過ぎていく。あるいはその瞬間にこそ、言葉は踊りと同等のものとして受け取られている、のだろうか。動きは意味を越えて共有されうる。だがこれらは演劇の側からの思考でしかない。ダンスにとって言葉は、意味はどのような存在としてありえるのか。切り詰められた要素が原理的な問いを改めて突きつける。

[撮影:金子愛帆]

福留麻里:https://marifukutome.tumblr.com/
新聞家:http://sinbunka.com/

2018/09/28(山﨑健太)

ロレーヌ国立バレエ団『トリプルビル』

会期:2018/09/21~2018/09/22

ロームシアター京都[京都府]

ロレーヌ国立バレエ団による『トリプルビル』をロームシアター京都で鑑賞した。横浜におけるKAATの公演は満員だったらしいが、席に空きが目立ったのに驚かされた。もっとも、コンテンポラリーダンスというよりも、バレエ好きの親子が結構いたのは興味深い。音楽はフィリップ・グラス、バッハ、デイヴィッド・チューダー。振付は実験的な新作のほか、フォーサイスの脱構築やポストモダンのカニングハムによるものという歴史的な演目を含む、3作品が並ぶというのに、あまりにもったいない。今年のサマーソニックのトリをつとめたBECKが、がらがらだったことも信じがたい風景だったが。ちなみに、フォーサイスの『STEPTEXT』は、同じ京都のホールで27年ぶりに上演される機会だった。

特に印象に残ったのは、冒頭のベンゴレア&シェニョー振付による新作『DEVOTED』である。ミニマル音楽を背景に、バレエのポワント(爪先立ち)を徹底的に反復することによって、そのジャンルを代表する身体の技術を異化させる。音楽とダンスがいずれも繰り返しを継続し、異様な迫力を帯びるのだが、(おそらく凡ミスもあったが)たぶん意図的に未完成のものを混入させることで、さらに緊張感を強めていた。あまりに全員がポワントを完璧に行なうよりも、ポーズが崩れるかもしれないぎりぎりの状態を一部組み込むことで、まさに目が離せなくなる。そうしたなかで日本人の大石紗基子が、キレキレの高速回転と安定感のある静止を見せることで、びしっと全体を引き締めていた。『STEPTEXT』は、断片的にバッハの音楽を切り刻みながら挿入するために、無音の状態が長く続き、これも緊張感をもたらす。音楽と運動が完全に一致しながら、ずっと流れるのは当たり前のダンスだが、両者をズラしたところにいまなお新鮮な感動を与えてくれる。

2018/09/22(土)(五十嵐太郎)

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