2018年11月15日号
次回12月3日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

石原友明「三十四光年」

会期:2018/07/14~2018/08/12

MEM[東京都]

石原友明は京都市立芸術大学卒業後の1980年代に、裸体のセルフポートレート写真を、紡錘形のキャンバスに感光乳剤で焼き付け、ペインティングを加えた立体作品を発表し始める。今回のMEMの展示では、そのなかの一作である「約束Ⅴ」(1985)、が背景のブルーの布も含めて再現された。ほかに、それらのセルフポートレート作品の元になったネガからあらためてプリントした印画、60点も展示していた。

石原のセルフポートレートは、「ものを身体化すること、身体をイメージ化すること、イメージをもの化すること、を繰り返すひとつのプロセス」として制作されている。初期の細身の体にカメラを向けた作品は、ナルシスティックにも見えなくはない。だが、そこに自己探求を突き詰めていく、クリティカルな眼差しが貫かれていることを見落としてはならないだろう。1980年代のネガを34年後に再プリントするという今回の試みは、老年にさしかかりつつある現在の彼の身体のありようと、かつてのそれとを対比しようという意図も含んでいるのではないかと思う。

もうひとつ、石原が今回「長年放置していた古いネガの整理」に取り組み始めたのは、「日に日に白黒写真の材料が手に入りにくくなって」いることに気づいたためだという。確かに石原に限らず、白黒の銀塩写真を使って仕事をしてきた写真家たちにとって、写真機材の枯渇は大きな問題になりつつある。デジタル化でカバーできない領域が出てくるのは当然のことだが、手をこまねいているわけにもいかない。なんとか安定供給のルートを確保することはできないのだろうか。

2018/07/15(日)(飯沢耕太郎)

文化資源学会シンポジウム「 スマホで覗く美術館—鑑賞体験のゆくえ— 」

会期:2018/07/14

東京大学国際学術総合研究棟[東京都]

初めて海外を訪れたとき驚いたことのひとつは、美術館で写真撮影がOKなこと。じゃなんで日本ではダメなのか。著作権がどうのとかほかの客に迷惑だとかいろいろ理屈はつけるものの、ついぞ明確な答えを聞くことはなかった。ところが最近になって雪崩を打つように多くの美術館・展覧会が写真撮影を解禁し始めた。あれ、著作権はどうなったの? ほかの客に迷惑かけてもいいの? このシンポジウムは撮影解禁を機に、美術館における鑑賞体験は時代によってどう変わってきたか、いまどう変わりつつあるか、これからどう変わっていくかを考えるもの。

東京大学の木下直之氏による「スマホを持って美術館へ」と題する問題提起に続き、お茶の水女子大学の鈴木禎宏氏は、静かに作品と対話するという美術鑑賞の作法が白樺派の時代に確立したことを説き、横浜美術館の片多祐子氏は美術館での撮影許可の流れと、同館の「ヌード展」での撮影許可をめぐるエピソードを語り、キュレーターの鷲田めるろ氏はなにかをしながら美術を鑑賞する「ながら鑑賞」を勧めつつ、スマホが美術館を開く可能性について論じた。最近の写真撮影の解禁は、多少のリスクを負いつつも、インスタグラムなどによる情報拡散が展覧会の広報に役立つとの判断を優先したからだ。パネルディスカッションでは、近い将来スマホがあれば写真だけでなく、チケットや音声ガイドも買ったり借りたりしなくても済むことになるだろうとの見方も出た。そのうち美術鑑賞は作品を見なくても、スマホの画像だけで済ませられるかもしれない。済まほられないか。

2018/07/14(村田真)

太陽の塔リニューアル記念 街の中の岡本太郎 パブリックアートの世界

会期:2018/07/14 ~2018/09/24

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

この春、東大の食堂を飾っていた宇佐見圭司の壁画がいつのまにか処分されていたことがわかり、問題になったが、それで思い出したのが旧都庁舎にあった岡本太郎によるレリーフの連作だ。丹下健三設計の旧都庁舎の壁にはめ込まれていたこれらの陶板レリーフは、91年の都庁の新宿移転に伴い解体されたからだ。このとき残そうと思えば残せたはずだが、いくら第三者が努力しても、工事の責任者にその気がなければ残すのは難しい。美術評論家の瀬木慎一氏が保存する会を立ち上げたものの、経費は何億円かかるとか1カ月以内に撤去しろとか難題を吹っかけられ、あきらめざるをえなかったという。

太郎の手がけたパブリック・アートは140点以上といわれるが、はたしてそのうちどのくらい残り、どのくらい解体してしまっただろう。そんな興味もあって見に行った。同展で紹介されているパブリック・アートは、テンポラリーなショーや記念メダルなどを除いて69件(墓碑、壁画、緞帳、建築も含む)。そのうち現存するのは41件で、移転したり再生したもの12件、解体されたもの16件となっている。とくに50年代のものは大半が現存せず、70年代以降のものは大半が残っている。これはパブリック・アートが土地や建物に付随するため、64年の東京オリンピック以前のものは再開発ブームで取り壊されたに違いない。

解体された代表例が旧都庁舎の壁画だとすれば、残っている代表例は、1970年の万博のときに建てられた《太陽の塔》だろう。こんな実用性もないヘンチクリンな塔は真っ先に壊されるだろうと思ったら、ほかのパビリオンがすべて解体されるなか最後まで残ってしまった。移転・再生した代表例が《明日の神話》だ。長さ30メートルにおよぶ巨大な壁画は、メキシコのホテルのために現地で描かれたもので、その後ホテルが倒産して壁画も行方不明になったが、太郎の死後、養女の敏子の尽力により発見され、制作から約40年を経て渋谷駅の通路に安住の地を見つけた次第。ちなみに太郎自身はつくってしまえば後はどうなろうとあまり気にしなかったようだ。

ところで、パブリック・アートという言葉が日本に定着するのは90年代のこと。それまでは野外彫刻とか環境造形とか呼ばれていたが、太郎の作品はそのどれとも異なっていた。というのも、パブリック・アートも野外彫刻も環境造形も、耐久性があって危険性がなく、その場にマッチした造形が好まれたため、どれもこれも丸くてトゲがなく、最大公約数的な形態と色彩の作品が多かった。それに対して太郎だけは、あえて嫌われるようなトゲトゲの造形と極彩色をウリにしていたからだ。正直いって太郎のパブリック・アートが身近にあってもあまりうれしくないけど、しかし毒にも薬にもならないどうでもいいような作品より、はるかに存在意義はあるだろうと思う。

2018/07/13(村田真)

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安珠「ビューティフル トゥモロウ 少年少女の世界」

会期:2018/07/11~2018/08/28

キヤノンギャラリーS[東京都]

1980年代にパリコレ・モデルとして活動した後、写真家に転身した安珠。彼女の本格的な写真展は、これまであまり開催されてこなかったのだが、今回のキヤノンギャラリーSの展示を見て、写真家としての力量を再認識した。

「少年少女の世界」は安珠の原点というべき作品群で、1990年代に『サーカスの少年』(1990)、『少女の行方』(1991)、『星をめぐる少年』(1993)、『眠らない夢』(1996)の「4部作」を刊行している。今回の展覧会では、その4冊の写真集からピックアップした作品をそれぞれの小部屋に分けて展示しており、ピンクを基調とした壁面構成、フランスの写真家、ベルナール・フォコンのマネキン人形のコレクションを使ったインスタレーションなど、細部までよく練り上げられていた。こうしてみると、安珠が日本ではむしろ珍しい演劇的な構想力を備えた写真家であり、物語世界を組み上げていく才能に恵まれていることがよくわかる。植田正治や細江英公、あるいは近年国際的に再評価の機運が高まっている山本悍右などを除いては、日本の写真家たちが演劇的なスタイルの写真を発表すると、うまくフィットせず、どこか白々しい気分になってしまうことが多い。撮る側と撮られる側の両方の立場を経験している安珠はその数少ない例外なので、これらの演出写真の水脈が2000年代以降に中断しているのは、とてももったいないと思う。

会場には旧作のほかに。老人と少年を同じポーズで撮影した90年代の未発表作「ジャネーの法則」や、ピンク色の紙の繊維を透かして写真を見るようにセットされた「蝶の囁き」など、意欲的な新作も出品されていた。彼女のフォト・ストーリーの新たな展開をぜひ見てみたい。

2018/07/11(水)(飯沢耕太郎)

奈良美智「Sixteen springs and sixteen summers gone─Take your time, it won’t be long now」

会期:2018/07/07~2018/08/10

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

奈良美智はいうまでもなく日本の現代美術を代表するスター作家だが、彼が写真に並々ならない関心を抱き続けてきたことは、それほど知られていないのではないだろうか。まだアーティストとして活動する前の10代の頃から、カメラを手にして写真を撮り続けてきた。だが今回タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで開催された「2014年から約5年間に亘り撮影された写真群」による展示を見ると、写真はむしろ彼の作品世界の支えになっているのではないだろうか。奈良のドローイングや彫刻作品の多くは、観念レベルではなく身体レベルでの経験によるインスピレーションを得て制作される場合が多い。その場合、日常的な出来事を身体的に受け止め、記憶に落とし込み、それらをもう一度再構築して作品化するプロセスにおいて、写真で撮影するという行為が大事な役目を果たしているのではないかと思う。

ただ、今回の展示にもよくあらわれているのだが、奈良にとっての写真は単純な記憶のアーカイブというだけではない。それ自体がとても歓ばしい視覚的な体験なのだ。奈良の写真には正面から被写体を捉えた、いわゆる「記念写真」的な構図のものがとても多い。そして、そこに写っている被写体のほとんどは、彼が大好きなものなのではないかと想像できる。好きなものが目の前に現われたことの手放しの感動、そしてそれを写真という形で所有できることの歓びが、彼の写真からはつねに溢れ出ていて、その波動が観客を包み込むように広がってくる。今回のメイン展示である、3つの大きなテーブルに各55枚の写真を封じ込めたインスタレーションでは、それぞれの写真は以前のinstagramのように真四角にトリミングされていた。奈良はinstagramの「いいね!」の感覚を、実際にinstagramが登場する前から、ごく自然体で自分の写真に取り込んでいたということだろう。

なお展示にあわせて、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムから写真集『days 2014-2018: Sixteen springs and sixteen summers gone─Take your time, it won’t be long now』が刊行された。そこにおさめられた写真も、ほとんどが真四角にトリミングされている。

Yoshitomo Nara, “SAKHALIN”, 2014, pigment print © Yoshitomo Nara / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film

2018/07/10(火)(飯沢耕太郎)

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