2018年11月15日号
次回12月3日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

原田直宏「THE THIRD ROOM 三つ目の部屋へ」

会期:2018/06/22~2018/07/14

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

原田直宏は1982年、東京生まれ。2010年に早稲田大学芸術学校空間映像科を卒業し、2011年頃から写真作品を制作・発表し始めた。ZEN FOTO GALLERYでの個展デビューは、2014年の「泳ぐ身体」だが、そのときから「レイヨグラフ(フォトグラム)とストリートフォトグラフを混ぜ合わせる」という独自の手法を用いている。「泳ぐ身体」はモノクローム作品だったが、今回の「THE THIRD ROOM 三つ目の部屋へ」ではカラー写真に変わっており、フィルターを使ってつくり出したという原色の色面構成が効果的に使われていた。都市空間を舞台に見立てて、人工的なライティングで照らし出し、異化効果を引き出すやり方は、かなりうまくいっている。展示されている写真相互の関係性もよく考えられていた。

ただ、このまま続けていっても、バリエーションが増えていくだけなので、そろそろ次のステップに進むべき時期がきているのではないだろうか。「レイヨグラフとストリートフォトグラフ」という組み合わせは続けるにしても、どこで、何を撮影するのかという被写体の設定を、もっと注意深く考える必要がある。スナップ撮影だけではなく、あらかじめ場面をつくり上げて撮影する場合も出てくるかもしれない。その答えをうまく見つけられれば、作者の意図を、より精確かつ切実に観客に伝えることができるはずだ。

なお展覧会にあわせて、ZEN FOTO GALLERYから同名の写真集(プリントつきの「スペシャル・エディション」もあり)が刊行されている。

2018/07/10(火)(飯沢耕太郎)

「地平」展

会期:2018/06/30~2018/08/04

CASE TOKYO[東京都]

『地平』は1972~77年に東京写真専門学校九州校(現・九州ビジュアルアーツ)、大阪写真専門学校(現・ビジュアルアーツ専門学校・大阪)の教員だった百々俊二、黒沼康一らを中心に、全10冊刊行された写真同人誌。掲載された写真は、「政治の季節」の余波が残る時代を背景に、自己と世界との関係のあり方を、文字通り体を張って問い詰めていくものが多かった。のちに有名になる黒沼康一のマニフェスト「見たいのはきみの写真でなく、きみの写真が開示する世界なのです」には、当時の若い写真家たちの気分がよくあらわれている。

その『地平』が、休刊から40年以上を経てCASEから復刊されることになった。メンバーは百々俊二、阿部淳、野口靖子、山田省吾、松岡小智、赤鹿麻耶、浦芝眞史の7名で、旧『地平』の創刊時のメンバーであった百々をはじめとして、ビジュアルアーツ写真専門学校・大阪の関係者、卒業生が顔を揃えている。「大阪」をキーワードに2カ月間で撮り下ろした作品をおさめた、その『地平』11号の刊行に合わせて、CASE TOKYOのギャラリースペースで、メンバーたちの作品展示が行なわれた。

大阪の写真家たちの「お家芸」というべき路上スナップが中心なのは予想通りだったが、都市の外観とインテリアとを写真で繋いでいく赤鹿の作品、ゲイの男性のポートレートをプリントアウトし、彼のリアルな身体と対比させた浦芝の作品など、新たな視点も芽生え始めている。黒沼のマニフェストは、今なお有効性を保ち続けているが、それを40年前とは大きく変容してしまった「世界」に向けて投げ返すには、より多次元的なアプローチが必要になるはずだ。とはいえ、その起点となるのが写真家一人ひとりの身体性であることが、彼らのエネルギッシュな写真群から充分に伝わってきた。「20、30、40、50、60、70代の各世代の女3人・男4人のメンバー」たちが、号を重ねるたびにどんな化学反応を見せていくのか、これから先がむしろ楽しみだ。

2018/07/07(土)(飯沢耕太郎)

川崎祐「Scenes」

会期:2018/06/26~2018/07/13

ガーディアン・ガーデン[東京都]

川崎祐は1985年、滋賀県生まれ。2017年の第17回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞した作品に、撮り下ろしの写真を加えて本展を構成した。

「家族」は若い写真家たちにとって目新しいテーマとは言えないが、川崎の写真を見ていると、まださまざまな可能性を孕んでいるのではないかと思えてくる。写真「1_WALL」展の審査員のひとりだった姫野希美(赤々舎)が、「清々しさと異様さが同時に立ち上がった」と評しているが、確かに川崎が「家族」に向ける眼差しには独特の質感が備わっている。特徴的なのは、父、母、姉だけではなく、滋賀県長浜市の実家とその周辺の光景をかなり執拗に撮影していることだ。その観察力の緻密さは特筆すべきもので、その結果として、ドリルやスパナなどの工具、マヨネーズのチューブ、皮を剥がされて干涸びたライムとかが散乱する、猛々しいほどの生気に満ちた「Scenes」の様態が、くっきりと浮かび上がってきている。川崎の狙いは明らかで、「家族」も、それらのモノたちも、どこか荒廃の気配を漂わせる田園風景も、等価な構成物として、彼のカメラの前で「清々しさと異様さが同時に立ち上が」る眺めを形作っているということを言いたいのだ。

会場には、本展のために書き下ろしたという、「不完全な円の縁で」と題するエッセイとも小説ともつかない文章をおさめた小冊子も置いてあった。なかなかの文才なので、ぜひ「家族」についての文章も書き継いでいってほしい。テキストと写真が半々くらいの分量の「写真集」を見てみたい。

2018/07/06(金)(飯沢耕太郎)

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広川泰士「Portraits」

会期:2018/06/18~2018/08/12

写大ギャラリー[東京都]

ファッションや広告の世界で活動しながら、日本各地の原子力発電所の施設を撮影した「STILL CRASY」(1994)、東日本大震災以後の日本の風景の変貌を緻密な描写で捉えた「BABEL」(2015)など、志の高い写真シリーズで知られる広川泰士。その彼の1970年代からの写真家としての軌跡を、「Portraits」という括りで概観する興味深い企画展である。

ファッション・広告写真家がポートレートを撮影すると、往々にして被写体を「ねじ伏せる」ような強引な撮り方になりがちだ。だが、広川の作品を見ると、まずはモデルたちに向き合って、彼らが発するエネルギーを受け止め、柔らかに絡めとっていくようなやり方をしているのがわかる。特にモデルが単独ではなく複数の場合、その気配りがうまく働いている。イッセイミヤケやコムデギャルソンなどのファッションを身にまとった「普通の人々」を撮影した『sonomama sonomama』(1987)や、芸能人や文化人の「家族」にカメラを向けた「家族の肖像」(1985~)の頃から、その傾向ははっきりとあらわれていて、広川のトレードマークと言えるような、群像のポートレートの撮影のスタイルが確実に形をとっていった。その手法は、震災以後に福島県相馬市や宮城県気仙沼市で撮影された、被災者の家族のポートレートにも見事に活かされている。

広川は「Portraits」のモデルたちに対して、風景に対峙するときとはまた違った、好奇心を全開にしたオープンな態度で接している。それが、のびやかな開放感につながっているのではないだろうか。彼の鍛え上げられたカメラアイは、これから先も厚みと多様性を備えた、クオリティの高い作品に結びついていきそうだ。

2018/07/03(火)(飯沢耕太郎)

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山田弘幸個展「写真になった男」

会期:2018/06/16~2018/07/16

ARTZONE[京都府]

「TOKYO FRONTLINE PHOTO AWARD 2016」でグランプリを受賞し、副賞として翌年にG/P galleryで個展を開催した直後、作品を同ギャラリーに譲渡して失踪した写真家、山田弘幸。山田の失踪後、初の展覧会となる本展は、姿を消す直前に山田が発言した「写真のなかに入りたい」という言葉を導きの糸に、近作の複数のシリーズから抜粋した写真作品で構成されている。

「作家の不在」という状況、しかも没後の回顧展ではなく、「作家は存命であるにもかかわらず、作家不在を前提条件として成立する個展」というポイントは、「キュレーション」という問題機制を自ずと前景化させる。これは、同じARTZONEでひとつ前に開催された「ゴットを、信じる方法。」展とも共通する(ちなみに両展とも、京都造形芸術大学アートプロデュース学科4回生による企画である)。「ゴットを、信じる方法。」展では、エキソニモによるメディア・アート作品《ゴットは、存在する。》(2009-)を対象とし、アーカイバルな検証を加えつつ、約10年間のメディア環境の変化を踏まえて「再演」し、オリジナルとの「物理的な/コンセプト上のズレや隔たり」を提示することで、メディア・アートと技術的更新、ネット感覚に対する世代間の差異、「オリジナル」の物理的復元/(再)解釈行為の振幅で揺れる「再制作」、キュレーションにおける作家性の代行といった問題群を浮かび上がらせていた。

一方、本展では、キュレーターと作家はより確信犯的な共犯関係を結ぶことになる。本展の中核に据えられるのは、スペイン語で「父」を意味する《Padre》シリーズだ(上述のG/P galleryでの個展の展示形態が再現されている)。山田は、幼い頃に亡くした父の生前のポートレートをプロジェクターで投影し、その光を全身に浴びながら、父の服装やポーズを真似て重なり合うようにセルフ・ポートレートを撮影した。「既にこの世を去った/写真のなかにイメージとして残存する」父、その不在と存在の二重性は、「失踪」という行為を契機に山田自身へと折り重ねられる。本展のキュレーションは、「写真のなかに入りたい」という彼の願望を代行的に引き受けることで成就させようと目論むのだ。ここには、デュシャンの通称《遺作》──公には美術界から身を引きながら、死後の公開を条件として20年間秘密裡に制作されていた──のような、表現行為と制度との共犯関係に加え、存在論的な移行を可能にしてしまう写真というメディアの本質的な恐ろしさがある。

だが、《Padre》シリーズの持つ不穏さは、それだけだろうか。《Padre》は、額装プリントや制作プロセスの映像記録とともに、古びた「アルバム」にプリントを収めた形態でも発表されている。額装と異なり、アルバムは家庭の私的領域に属すものであり、それをめくりながら鑑賞する行為は、「父と私」というプライベートな関係に加え、「記念写真」性をより強調する。正装して写真に収まる若き日の父。同じく正装し、父のポーズをなぞり、ともに横に並んでカメラを見つめ、あるいは父の像を飲み込むように体内に宿す山田。「父親との同一化の願望」はさまざまに変奏して示される。写真に写った父と自分の頭部を切り取ってすげ替えた1枚では、デジタル合成でシームレスにつなげるのではなく、あえて切断面の不整合さを残すことで、父と自身の交換可能性が示される。あるいは、父のみが写った写真を執拗にトリミングを変えて反復し、輪郭や目のぼやけたアップになるまで引き伸ばしたシークエンスでは、「写真のなかの父」に接近しようとすればするほど触れられないジレンマが露わになり、欲望だけが加速する。《Padre》は、時空を超えて会する「父親との擬似的な記念写真」であり、そこには近親相姦的な一体化の願望すら透けて見える。

写真という装置を介して存在と不在が反転することに加え、そうした欲望がもうひとつの境界侵犯として書き込まれていることが、《Padre》の根底に漂う不穏さではないか。



[撮影:守屋友樹]

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ゴットを、信じる方法。|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/07/01(日)(高嶋慈)

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