2019年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

長島有里枝「知らない言葉の花の名前 記憶にない風景 わたしの指には読めない本」

会期:2019/01/26~2019/02/24

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

天野太郎の企画で横浜市民ギャラリーあざみ野で開催される「あざみ野フォト・アニュアル」を、毎年楽しみにしている。今年の長島有里枝の写真展も、よく練り上げられたいい展示だった。

長島が2008~2009年に『群像』に連載し、2009年に単行本として刊行されたエッセイ集『背中の記憶』を起点として制作された3つの作品が出品されている。「知らない言葉の花の名前」は、植物の名札にフォーカスして撮影したシリーズで、花の名前は読めるが、その意味はわからないし、花そのものも写っていない。「記憶にない風景」は、なぜ撮ったのか忘れてしまったような断片的な画像を、木製のボードに感光性のエマルジョンを塗ってプリントし、家具のように組み立てて配置している。「私の指には読めない本」は全盲の女性に点字の『背中の記憶』を通読してもらい、彼女がマークした箇所と読み進めている指をクローズアップで撮影したシリーズである。3シリーズとも、「見ること」は本当に「理解すること」につながるのかという問いかけに対する真摯な回答になっており、長島自身の写真家と文筆家というあり方をも問い直す作品として、しっかりと組み上げられていた。

作品の内容に直接かかわるわけではないのだが、会場に掲げられた以下の注意書きが気になった。

「作品にはお手をふれないでください」、「作品に寄りかかったり、くぐったりしないでください」、「結界のなかに立ち入らないでください」。

主に子どもに向けて注意を促す表示として、まったく妥当な内容である。だが、今回の長島の作品のあり方と照らし合わせて、やや違和感を覚えてしまった。というのは、木製ボードにプリントした「記憶にない風景」や、ロールサイズの印画紙を断裁して引き伸ばした「私の指には読めない本」は、どうしても「触ってみたくなる」作品だからだ。子どもや目の不自由な人が手で触れて、汚れたり、壊れたりしてもいいような展示の仕方も、選択肢としてあるのではないだろうか。

なお、これも例年通りに、同館の2階スペースでは横浜市所蔵の「ネイラー・コレクション」による企画展が開催されていた。ユニークなコンセプチュアル・フォトをつくり続けている野村浩が構成した、今回の「暗くて明るいカメラーの部屋」は、見応えのある面白い展示である。19世紀以来の写真を巡る、小さな旅を楽しむことができた。

2019/02/08(金)(飯沢耕太郎)

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抜け殻 松本泉展(NAU21世紀美術連立展 個展ブース)

会期:2019/02/06~2019/02/17

国立新美術館 展示室1A[東京都]

昆虫がこれほど美しいとは思わなかった。正直、私は昆虫が苦手だ。そんな私でさえ魅了されてしまうのが、松本泉の写真である。もともと、松本は資生堂のインハウスデザイナーとして長らく商品パッケージデザインに携わってきた人物だ。例えば、誰もが知るパッケージデザインのひとつに日焼け止め商品「アネッサ」がある。あの太陽のロゴマークを描いたのが松本だ。そして資生堂を退職後、始めたのが昆虫写真だった。聞けば、松本は子どもの頃から「昆虫博士」と呼ばれるほどの昆虫好きで、当時もフィルム一眼レフでの撮影や、細密画を描くことに夢中になっていたという。しかし資生堂入社後はその昆虫好きをいったん封印し、退社後に再び、昆虫への情熱を開花させた。

化粧品と昆虫、一見、何のつながりもないように思える。しかし松本の解釈では、どちらもパッケージデザインなのだ。化粧品は当然のことながら、昆虫も「生命のパッケージデザイン」であると松本は言う。なぜなら、昆虫は身体の外側を硬い殻で覆われた外骨格の生物であるからだ。生きるために進化したその造形や色彩の多様さに、パッケージデザイナーとして強く惹かれるのだと言う。これまで松本は数々の個展を開き、昆虫の美しさを発表してきた。それはカナブンやタマムシ、カミキリムシなどを主に黒背景の中で印象的に映した写真で、体表が緑や赤紫、茶、玉虫色などにギラリと光る様子に、思わず息をハッと飲んでしまうものばかりだった。しかし、それは単に昆虫に興味のない者が知らなかっただけで、昆虫をよく観察すれば、この色彩は見えたはずなのだ。いったいどうやって撮影しているのかを松本に尋ねると、自ら庭や公園などで昆虫を生きたまま捕まえてきて、自室のスタジオに放ち、昆虫が大人しくなるのを待つのだと言う。昆虫がじっと止まった瞬間にシャッターをたくさん切り、なるべく人間の目に近いピントとなるよう、何枚もの写真を重ねて1枚をつくり上げる。そこに何か特別なライティングや色彩調整をしているわけではないと言う。つまり松本は昆虫が本来持つ色彩を伝えているだけなのだった。

本展では趣向ががらりと変わり、松本がテーマに選んだのは昆虫の抜け殻だった。はかない半透明の色彩に抑えられた分、今度は昆虫の造形が際立って見える写真であった。ついさっきまで生きていた生命の形跡がある。脱皮の瞬間にもだえた形跡が見える。ここでもまた別の側面から昆虫の美しさを見せてくれた。

展示風景 国立新美術館 展示室1A

公式サイト:https://www.izumimatsumoto.com

2019/02/08(杉江あこ)

公文健太郎「地が紡ぐ」

会期:2019/01/15~2019/02/13

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

前作の「耕す人」(2016)で日本の農業をテーマに力作を発表した公文健太郎の新作展である。今回はさらに視点を広げ、それぞれの土地に根ざした人々の生活の営みや文化に目を向けている。

3部構成の第1章の「神事を受け継ぐ地」では、青森県下北郡東通村の鹿橋(ししばし)という集落に伝わる「能舞」を取り上げた。先祖代々受け継がれてきた神楽がどのように住人たちの生活に溶け込んでいるかを、舞いに使う面のクローズアップも含めて丁寧に追っている。第2章の「自然の恵みを享受する地」では、栃木県那須郡那須町湯本の湯治場を撮影した。ここでも、大地の恵みといえる温泉が住人たちの暮らしのなかに取り込まれている。第3章「ものづくりで生きている地」のテーマは、生活雑器の国内シェアの4分の1以上を生産しているという長崎県東彼杵郡波佐見町の中尾郷である。「おれらは土を喰って生きてきたんじゃ」と語る94歳の老陶工を中心に、日本の窯業の現状に迫っている。

3つの章はそれぞれ違った方向を向いているが、それらが噛み合うことで、2010年代後半の日本の社会・文化の基層を浮かび上がらせる構成がとてもうまくいっていた。写真を天井から吊るすなど、会場のインスタレーションもよく考えられており、公文の表現力の高まりを感じることができた。彼はいま次の作品として「川」と「半島」の写真を撮り始めているという。文字通り「地に足がついた」写真家として、さらなる展開が期待できそうだ。

2019/02/07(木)(飯沢耕太郎)

明治の写真展『華影』華族たちの絵画主義 ピクトリアリズムを追って

会期:2019/02/05~2019/03/03

JCII フォトサロン[東京都]

『華影(はなのかげ)』は1902年~08(明治35~41)年頃に刊行されていた写真雑誌である。一種の同人誌で、会員はすべて写真を愛好する華族たちだった。当時は、ようやく素人写真家たちを中心に「芸術写真」の気運が盛り上がってきた頃で、『華影』もその流れに沿って創刊されたようだ。なかなか見る機会がなかったのだが、今回、日本カメラ博物館(JCII)が保存している13冊に掲載された写真図版を複写・プリントした作品が初公開された。日本写真史の再構築という意味で、とても有意義な展示といえる。

「最後の将軍」徳川慶喜、その弟の徳川昭武、さらに徳川達道(さとみち)、松平乗長、松平直之、阿部正恒(まさたけ)、戸田忠男、井伊直安、正親町實正(おおぎまち・さねまさ)といった常連作家の作品は、ほとんどがピクトリアリズム(絵画主義)の美意識に則って制作されている。1904年以降に写真家・写真事業家の小川一真と、東京美術学校教授の西洋画家、黒田清輝が作品の審査にあたるようになり、その傾向がより強まった。だがそれだけでなく、身辺の雑事を題材にしたスナップ写真的な写真や、演出を加えて滑稽味を打ち出した作品など、作風の幅はかなり広い。上流階級の手遊びと言ってしまえばそれまでだが、彼らの遊び心溢れる写真群はなかなか魅力的であり、むしろ現代的とさえいえる。兄の徳川慶喜とともに若い頃から写真に親しみ、生涯に1500枚余りの写真原板を残した徳川昭武や、東京美術学校で日本画を学んだという松平乗長らの作画意識は、かなり高度なものがある。彼らの活動を、同時代の日本の写真表現の中にどう位置づけるかが、これからの課題といえるだろう。

2019/02/06(水)(飯沢耕太郎)

岡上淑子「フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」

会期:2019/01/26~2019/04/07

東京都庭園美術館[東京都]

展覧会がどんな会場で開催されるかは、とても大きなファクターなのだが、普段はそれほど強く意識されることはない。だが、旧朝香宮邸を改装した東京都庭園美術館で岡上淑子の作品を見るという経験は、やはり特別なものだった。彼女の優美で繊細だが力強い作品の魅力が、アール・デコ様式の建物やインテリアによってより増幅されて伝わってきたからだ。

2018年1月~3月に高知県立美術館で開催された「岡上淑子コラージュ展──はるかな旅」は、彼女のほぼ全作品が出品された充実した内容だった。それゆえ、その展示からあまり間をおかずに開催された本展がどんなものになるのか、やや不安があった。だが、結果的には、展示作品の内容も展覧会の構成も、従来の岡上淑子像を更新する画期的なものになっていた。

まず、国内収蔵作品に加えて、アメリカ・テキサス州のヒューストン美術館の収蔵作品が「里帰り」している。それに加えて、周辺資料の充実が目につく。岡上のタケミヤ画廊での初個展(1953)をプロデュースした瀧口修造の関連資料、フォトコラージュの元にになった『LIFE』、『VOGUE』、『Harper’s Bazaar』などの原本、洋裁を勉強していた頃の型紙、さらに岡上の作品に登場してくる、バレンシアガやディオールの1950年代のドレスの実物も展示してあった。これらの周辺資料によって、岡上の作品世界がよりくっきりと、立体的に浮かび上がってきていた。

新館には《懺悔室の展望》《翻弄するミューズたち》《私たちは自由よ》の三部構成でフォトコラージュ作品が展示されていた。それぞれ、敗戦後の「荒野」を彷彿とさせる廃墟のイメージ、男性中心の社会を翻弄するコケティッシュなミューズたち、戦後の自由を謳歌する女性たちの出現、という具合に岡上のフォトコラージュを読み解いていく試みは、とてもスリリングで興味深いものだった。担当学芸員の神保京子の、長年にわたる研究の成果がよく発揮されたパートといえる。とはいえ、岡上の仕事をどのように戦後写真の表現の系譜に位置づけていくかは、むしろこれから先の大きな課題となる。1950年代の主観主義写真や実験工房のムーブメントとの関わりも含めて、さらなるパースペクティブの構築が必要になるだろう。

2019/02/05(火)(飯沢耕太郎)

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