artscapeレビュー

2011年06月01日号のレビュー/プレビュー

増田三男 清爽の彫金──そして、富本憲吉

会期:2011/05/17~2011/06/26(工芸館)、2011/05/17~2011/06/18(早稲田大学)

東京国立近代美術館工芸館[東京都]

2009年に100歳で亡くなった彫金の人間国宝・増田三男(1909-2009)の作品を中心に、彼が師と仰いだ陶芸家・富本憲吉(1886-1963)との関わりを考える展覧会。増田の没後、手元に残されていた作品と増田が所蔵していた富本の作品が早稲田大学と東京国立近代美術館に寄贈された。今回の展覧会は、そのお披露目でもある。工芸館会場では他館所蔵の作品も加えておもに増田三男の仕事の全貌を追い、早稲田会場では作品を通じて増田と富本との関わりを見せている。
増田三男の作品の魅力の第一は、描き出された模様にある。桟橋にとまるシギの姿や、竹林や雑木林、柳の木立など、比較的具象的な意匠がある一方で、蝶、兎、鹿など古典に学びながら紋様へと昇華したモチーフもある。幾何学的な模様とも見える麦畑の図を見ると、増田の着想がとてもユニークであることがわかる。
作品に用いられた意匠はさまざまであるが、一貫しているのは独自性であり、その背景には「模様より模様を造るべからず」という富本憲吉の思想があった。増田は富本の言葉に従い、自然の写生に基づく模様の創作に取り組んでいたという。両者の関係はものづくりの思想、あるいは師弟関係にとどまらない。富本は香炉のための火屋の制作を増田に依頼しており、その数は200点を超える。火屋の意匠は、増田が富本の作品を独自に解釈してつくりあげたものであった。とくに富本の書からとった文字の意匠は富本も気に入っていたと増田はかつて語っている。富本は増田の仕事を高く評価しており、作品の箱書きや解説にも増田の名前が出るよう気を配っていた。図録の解説には富本が増田に送った書簡が引用されており、その文面からも師である富本が増田に対して深く信頼を寄せていた様子が伝わってくる。[新川徳彦]

2011/05/17(火)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00013332.json s 10002832

『ブラックスワン』

会期:2011/05/11

ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]

母を殺せるか? 成し遂げられなかった自己実現を自分に代行させるために、寵愛や庇護を惜しみなく与えてくる母を。「箱入り娘」に限らずとも、現代を生きる女性の多くが直面している、このきわめて現代的なテーマを、プリマバレリーナをめぐるドラマに置き換えて仕上げたのが本作だ。ホワイトスワンとしては申し分ない才能に恵まれながらも色気が乏しいがゆえにブラックスワンになりきれない主人公が、陰気な母や演出家の伊達男、そして妖艶な魅力を放つライバルなどによって精神的に追い詰められてゆき、やがて幻覚に苛まれながらブラックスワンへと変貌を遂げていく物語が、じつにテンポよく進行していく。精神を収縮させるようなサイコホラーの連続から圧倒的なバレエを爆発させるクライマックスへと至る構成もすばらしい。文字どおりカタルシスを存分に味わえる映画だが、この構成そのものがオルガスムスのそれと重なり合っているようにも思われた。つまり性的な自立が母殺しを可能にすることが観客に暗示されていたわけだが、主人公はそれをみずからの死と引き換えにしなければ成就しえなかったところに、やりきれない悲劇がある。

2011/05/18(水)(福住廉)

Chim↑Pom REAL TIMES

会期:2011/05/20~2011/05/25

無人島プロダクション[東京都]

時は1970年4月26日、場所は大阪万博の会場にそびえ立つ太陽の塔。その「金色の顔」に「万博粉砕」を訴えるひとりの男がよじ登り、その後8日間にわたって占拠した。のちに「目玉男」として知られるようになるこの男について、作者である岡本太郎は現場を訪れたうえで次のようなコメントを残している。「イカスね。ダンスでも踊ったらよかろうに」。「自分の作品がこういう形で汚されてもかまわない。聖なるものは常に汚されるという前提を持っているからね。金色の顔もその下の太陽の顔も無邪気な顔で怒っているよ」(『毎日新聞』大阪版1970年4月27日夕刊3面および11面)。太陽の塔が聖なるものかどうか、そして目玉男が穢れかどうかはさておき、ここで重要なのは岡本太郎が目玉男の篭城を直接的に非難するというより、むしろ楽しむ余裕を見せていることだ。岡本太郎は自分の作品が介入されたことを受け入れたのだ。それから41年後の2011年5月、渋谷駅に設置されている岡本太郎の《明日の神話》にChim↑Pomが福島第一原発の大事故を描いた絵を当てはめた。この件はマスメディアで大々的に報道されたが、その大半が「いたずら」や「落書き」として伝えるものであり、「芸術」として報じるものはほとんどなかった。なかには本展の会場である無人島プロダクションをわざわざ「活動拠点」と言い換えた報道番組もあり、シャッターを閉めた同画廊を映した映像をあわせて見ると、まるで過激派のようだ(JNNニュース、2011年5月18日、11:30~11:55)。だがChim↑Pomによる今回の表現行為は《明日の神話》を傷つけたわけではないのだから「落書き」ではないことは明らかだし、百歩譲って「いたずら」だとしても、実害のない表現行為を「いたずら」として断罪することなどできるはずもない。《明日の神話》の芸術的価値を汚したという見解もなくはないが、それにしても当の岡本太郎が介入を認めていたのだからまったく当てはまらない。むしろ空間の隙間を目ざとく見抜き、岡本太郎の稚拙なタッチを忠実に再現しながら、その欠落を充填することで、被曝をめぐる年代記を適切に更新したことは、リアルタイムの「今日の芸術」として高く評価するべきである。しかも、それが岡本太郎本人はもちろん、他のどんなアーティストにもなしえなかったという点を考えれば、建畠晢のように「これくらい許容される世の中のほうがいい」(『朝日新聞』2011年5月25日25面)とパターナリスティックな姿勢で応じたり、山下裕二のように「岡本太郎が生きていたら面白がるだろう」(同上)などと故人のキャラクターで補うだけではいかにも物足りない。《LEVEL7 feat.『明日の神話』》は放射能の時代を豊かに生きるための、これまでにないほど新しい記念碑である。それが新しいというのは、その完成形をもはや見ることができず、私たち自身の想像力によって再生してはじめて全貌を露にする記念碑だからだ。《明日の神話》の前を通るたびに、この記念碑は何度も甦るにちがいない。

2011/05/18(水)(福住廉)

阪大生・手塚治虫──医師か? マンガ家か?

会期:2011/04/28~2011/06/30

大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館[大阪府]

大学付属の博物館が、しかも「阪大生・手塚治虫──医師か? マンガ家か?」という限定されたテーマについて企画したものだが、十分に見応えのある展覧会だった。漫画家、手塚治虫が医者でもあったことはよく知られている。1945年に大阪大学医学専門部に入学、その翌年に漫画家としてデビュー。当時中之島(大阪府)にあった医学専門部での講義や実習が終わると、角帽の代わりにトレードマークとなったベレー帽をかぶって漫画家に変身、出版社へと赴く日々が始まったという。また、1950年には東京の出版社での連載もはじまり、東京と大阪を片道11時間もかけて往復する超多忙な生活を送っていたそうだ。大学を卒業する頃には、すでに漫画家として確固たる名声を築いていたが、驚くべきことに同時期に「医師国家資格」も取得している。その情熱と努力に感服するばかり。展覧会では作品はもちろん、当時の写真やその他の資料を頼りに手塚治虫の学生漫画家時代を振り返っている。きちんと整理され精密画などが描かれている授業ノートや手帳、希代の昆虫好きだった彼の昆虫標本など、漫画家、医学生、そして人間としての手塚治虫を垣間見ることができる。
[金相美]

2011/05/18(水)(SYNK)

第57回ニューヨークタイプディレクターズクラブ展

会期:2011/05/16~2011/06/02

見本帖本店[東京都]

世界30カ国から応募されたタイポグラフィを主体とするグラフィック作品のなかから208点を展示する展覧会。この展覧会をどう見て良いのか困るのは、おそらく私が部外者だからであろう。個々の作品がなにを意図しているのか、誰をターゲットとしているのか、どのような媒体に掲出されるのか、どの程度の露出を前提としているのか。作品が内包する課題、生み出されるまでに直面したであろうさまざまな制約が展覧会場ではわからない。海外のターゲットのための海外の制作者による作品を、ターゲットの外にいる私が評価するのは困難である。なので、表現の表面的な新しさ、個人的な好み以上のコメントはできない。
もっとも、あなたがデザイナーであるならば話は別である。この展覧会はタイポグラフィ表現の最新の見本帳である。ここに世界のトレンドが集まっている。実物を手にとり、スケール感、質感を体感できるこの機会にぜひとも見に行くべきである。どんな作品集を見るよりもはるかに得るものがあるはずだ。[新川徳彦]

2011/05/18(水)(SYNK)

2011年06月01日号の
artscapeレビュー