artscapeレビュー

2011年07月15日号のレビュー/プレビュー

森田麻祐子 展「ニッチャンの日課」

会期:2011/06/03~2011/06/09

BAL gallery 33[兵庫県]

神戸のファッションビルの中にあるギャラリーで開催された個展。過去作と新作を合わせた発表だったが、個人宅の一室のような窓やソファのある展示空間が森田の作品世界によく似合っていた。森田が描く女の子や動物のモチーフ、パステルカラーの色彩などからは一見「かわいい」という言葉が真っ先に浮かんでくるのだが、画面にはいつも幾何学的なパターンや音楽的な要素が織り込まれ、例えばまるでフーガの楽曲を聴いているような楽しさやパズルを組み合わせて遊ぶときのような面白さがある。各作品は独立したイメージでもあるのだが、描かれた形や色には連関した要素があり、見る者は自由にそれぞれを組み合わせた物語を想像することができる。私がこれまで見たなかでもっとも広いスペースでの個展であった今展、訪れた人たちがみんな長居しているのも印象的だった。

会場風景

2011/06/04(土)(酒井千穂)

風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから

会期:2011/03/08~2011/06/05

国立国際美術館[大阪府]

欧米中心的な文脈で成立してきたコンセプチュアル・アートに異なる角度からアプローチしようと、「アジア」という切り口で9組のアーティストの活動が紹介された展覧会。木村友紀、contact Gonzo 、プレイ、島袋道浩、立花文穂ら日本の作家のほか、タイのアラヤー・ラートチャムルーンスック、ベトナムのディン・Q・レー、中国の邱志傑(チウ・ジージェ)、韓国のヤン・ヘギュが出品。それぞれの作品が孕む批評性や、問いかけの解りやすさもさることながら、日常とかけ離れていない題材やモチーフが多いせいか、多かれ少なかれどの作品にもどこかユルい雰囲気があって単純に楽しい。特にチェンマイ郊外の村人達が戸外でマネの《草上の昼食》やミレーの《落穂拾い》の「複製」を鑑賞する様子を撮影した、アラヤー・ラートチャムルーンスックの三つのビデオ作品は、勝手気ままに繰り広げられる村人たちの会話がじつに愉快で見飽きない。今展の「風穴」というタイトルにもイメージが重なる爽快な風を感じる作品だった。

2011/06/05(日)(酒井千穂)

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瀬戸正人「binran」

会期:2011/06/03~2011/06/26

BLD GALLERY[東京都]

瀬戸正人の「binran」のシリーズは、2008年にリトルモアから写真集として刊行されている。これまで、瀬戸自身が運営するPLACE Mで展示されたことはあるのだが、写真集を含めてそれほど評判にはならなかった。僕は以前からなかなか面白い仕事だと思っていたので、銀座のBLD GALLERYであらためてきちんと見る機会ができたのはとてもよかったと思う。
ビンラン=檳榔とは、台湾をはじめ東南アジア各国で広く嗜好品として用いられる木の実のことだ。ずっと んでいると赤い汁が出てきて、噛みタバコのような軽い神経の興奮を覚える。若い女の子を売り子に、そのビンランの実を売る小さな店が、1990年代以降、台北などの都市の郊外に急速に増えてきた。瀬戸が集中して撮影したのは、四角いガラスの金魚鉢のようなブースに、ミニスカートの、あられもない格好をした女性たちが座って客を待っている、その「ビンラン・スタンド」の光景である。
瀬戸の代表作であり、1996年に木村伊兵衛写真賞を受賞した「部屋」のシリーズもそうなのだが、彼の手法は「ディテール主義」とでも名づけることができるだろう。大判、あるいは中判カメラの克明な描写力を活かして、それほど広くない空間を、文字通り細部まで舐めるように撮影していくやり方だ。その手法はこの「binran」でも見事に活かされていて、カラー・プリントにくっきりと浮かび上がってくる、女の子たちのきらびやかだが哀切感が漂う衣裳、幼さと開き直りが同居する表情、中・洋折衷のキッチュなインテリアなどの取り合わせが実に面白い。西欧的なポップ・カルチャーが土着化していく過程の見事な実例といえるだろう。なんとも奇妙なたたずまいの「ビンラン・スタンド」それ自体が、現代美術のインスタレーションのようにも見えてくる。

2011/06/07(火)(飯沢耕太郎)

東日本大震災:八戸

会期:2011/06/09

[青森県]

青森の八戸港は、船が陸にのりあげた映像で知られるが、もうだいぶ片付いていた。住宅地も湾岸部と離れており、岩手県や宮城県に比べると、被害は少ない。震災後、各地の港や魚市場をまわりながら、飾り気のない漁港施設のモダニズムのカッコ良さに気づかされた。2月にオープンしたばかりの八戸ポータルミュージアム「はっち」は、針生承一・アトリエノルド・アトリエタアク設計共同体によるものだが、八戸のせんだいメディアテークというべき現代的な空間だった。震災時には、避難所としても活躍したことを知る。

2011/06/09(木)(五十嵐太郎)

写真家・東松照明 全仕事

会期:2011/04/23~2011/06/12

名古屋市美術館[愛知県]

会期ぎりぎりで、なんとか間に合って見ることができた「写真家・東松照明 全仕事」展。タイトル通り、デビュー作の《皮肉な誕生》(1950)から、沖縄・那覇をデジタルカメラでスナップした近作まで、名古屋市美術館の全館を使って500点以上の作品が並ぶ大規模展である。「記憶の肖像、廃墟の光景」「占領/アメリカニゼーション」「投影──時代と都市の体温」「長崎──被爆・記録から肖像へ」「泥の王国」「太陽の鉛筆──沖縄・南島」「“他者”としての日本への回帰──京・桜」「“インターフェイス”──撮ることと作ること」という8部構成は、東松の代表作を時間軸にそってほぼ全部フォローしており、ここまでかゆいところに手が届くような展覧会は、これまでなかったのではないだろうか。
ただ、これだけの量になると、観客は互いに衝突し、さまざまな方向に伸び広がり、飛び散っていくイメージのカオスに巻き込まれてしまって、ほとんど呆然としてしまうしかない。僕のように東松の作品をずっと見続けてきた者でもそうなのだから、初めて彼の写真に接するような観客にとっては、「この写真家は何者なのだ?」という疑問が深まるだけではないだろうか。むしろ、もう少しテーマを絞り込み、たとえば最後のパートで提示された「撮ることと作ること」という、東松の、対立的でありながらどこかつながってもいる問題意識に焦点を合わせて展示全体を再構築していくのも面白かったかもしれない。《ゴールデン・マッシュルーム》(1990~92)、《キャラクター・P 終の住処》(1996~98)、また1960年代に制作された《オリンピック・カプリッチオ》(1962)、《廃園》(1964)といった、いわゆる「メイキング・フォト」系の作品群については、これまであまり系統立ててきちんと論じられてこなかったからだ。それにしても、見れば見るほど謎が深まっていく東松照明という写真家の、どこか狂気じみた迷宮性を、あらためて強く感じざるをえない大展覧会だった。

2011/06/10(金)(飯沢耕太郎)

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2011年07月15日号の
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