2018年12月01日号
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artscapeレビュー

2012年02月01日号のレビュー/プレビュー

悪魔のしるし『SAKURmA NO SONOhirushi』

会期:2012/01/06~2012/01/08

トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]

主宰の危口統之は本作で、チェーホフ『桜の園』の上演というよりも、その上演に向けたリハーサルのプロセスを芝居化した。だからといってたんなるバックステージものではなく、上演の会場がリハーサルの現場であったり、役者はみな本人として舞台に登場していたりと、いわゆるドキュメンタリー演劇の側面もある。しかも、没落貴族が自分たちの土地を奪われていく『桜の園』とパラレルなストーリーを、役者たちの実生活や危口の実家の話を基に描きもする。例えば、危口が腐乱死体になるとあちこちから得た助成金で食いつなぐというフィクションを差し込んで、役者たちをあたかも没落貴族のように見せたり、また、い草で一財を築いた危口家のリアルな困窮話を没落貴族の姿に重ねたりした。こうして重層的で複雑な構造をこしらえつつ展開されるのは、役者たちによるほとんどごみのような、他愛のない対話の数々。「○○に行きたいか!」と場に応じて「○○」を入れ替えつつ何度も似たフレーズを突発的に繰り返し口にする太っちょや「サクセス!」と無意味な(しかし「○○に行きたいか!」同様テレビ的記憶を刺激させられる)言葉をことあるごとに連呼するやせ男などを代表に、役者たちはくだらない、無意味な発言ばかりを繰り返す。こうしたくだらなさ、つまらなさは、精巧に縫製された衣服にダメージ加工の布を用いるみたいなもので、危口演劇の洗練を意識させることに貢献する。そう、とてもよくできた、ごみみたいでクレヴァーな、すなわちくだらなくてサイコーな舞台なのだ。
 ところで、本作に大きな問いがあるとすれば「この身体、どうしょう?」という問いだろう。「ちゃんと『桜の園』を上演したところで他の劇団にはとてもではないが勝てない、なのでこういう芝居にした」と危口本人が上演中に漏らしていたように、本作は正統な演劇から逸脱(没落)した者たちの話。だから死体の危口に象徴されているように、本作を貫いているのは没落しても生きていかなきゃいけない(死んでいるなら死体を片付けなきゃならない)という問題、つまり「この身体、どうしょう?」という問題なわけだ。このテーマは、自分がアルバイトしているダンサーなのかアルバイターが踊っているのかわからないと語った捩子ぴじんの『モチベーション代行』にも通じる。しかし、快快が役者個々の生を主題化し、そこから芝居を立ち上げる発想と比べれば明らかなように、ラストに壁に激突し墜落する危口(のカタルシス)は別として、他の役者たちにとってそれはたんに戯曲のテーマでしかなく、彼ら自身の生の問題はエピソードとしてとりあげられはしても、真にテーマ化されない。それゆえに本作はすぐれた現代演劇作品に見えるともいえるのだが、それゆえにぼくにはほんの少し物足りない。

2011/01/06(金)(木村覚)

大橋可也『驚愕と花びら #02』

会期:2012/01/14~2012/01/15

シアター・バビロンの流れのほとりにて[東京都]

一年ぶりとなる『驚愕と花びら』の上演。大橋可也&ダンサーズ名義ではない本作の特徴は、ダンサーの多くが若手のメンバーであることだろう。そしてもうひとつの特徴は、その結果として大橋の「群れ」の振り付けが堪能できるところにある。大橋のダンスのルーツには舞踏がある。舞踏において群舞をどう振り付けるかというのは、なかなか難しい問題だ。主宰者(振付家)のソロが踊りとして充実しているのに、彼の振り付ける群舞がソロ並の質を獲得しえないという事例を多く目にする。それを、主宰者(振付家)が自分のダンスをどのようにメンバーに伝えるかという伝達の問題としてとらえることもできるし、そもそも動かす者と動かされる者との関係をどうしつらえるかという問題として考えることもできるだろう。本作において大橋の「群れ」は野生動物のようだった。各自バラバラに生きていて野放図に見えた。けれども、晴れの景色がふと気づけば曇り空に変わるように、合図したわけでもないのに、いつの間にか全体のトーンが変化する。そのなだらかな変化は、思いのほか美しかった。それに対して、例えば、壺中天であれば「スッ」と小さく音の漏れる息を合図に、横並びになったダンサーたちは動作を次々と切り替えるだろう。大橋の群れが気づく間もなく変化するのとは対照的に、壺中天の群舞にはつねに覚醒がともなっている。どちらが正しいという話ではない。動かす者と動かされる者の関係を、暗示する場合と明示する場合とがあるということだ(「暗示する」といっても隠蔽するのではないから、大橋作品でも動かす者の力を観客は意識している)。大橋の「群れ」はいつの間にか流される。壺中天の「群れ」は、動かされる者の運命がコミカルに、またホラー的に示される。いずれにしても、舞踏系のダンスの面白さは、美の体現者というよりは、動かされる存在として舞台上のダンサーが立っているところにあるのだ。観客はそこで、動かす者の存在を察知しつつ、群れの運命に思いを馳せることになる。

2011/01/15(日)(木村覚)

エッセンシャル・キリング

会期:2011/12/24~2011/12/25

新文芸座[東京都]

イエジー・スコリモフスキ監督作品。ヴィンセント・ギャロ演じるイスラム兵が米軍に捕捉され、収容所で虐待されるも、移送中の車両事故を機に逃走。厳冬期の山中をただひとり遁走する模様を描き出す。追跡の手から逃れて雪原を走りぬける男が体現しているのは、人間の野性。米兵から車や衣料、武器を奪い、木の実や皮、蟻まで喰らい、はては赤ん坊を抱えた女の母乳を吸い取るなど、生き延びるために男は内側に秘めていた野性を徐々に覚醒させていく。その無言の行動が動物と近しいことはたしかだが、男は殺害を逡巡したり人間ならではの知恵を働かせていることから、人間の野性は必ずしも「野蛮」を意味するわけではなく、生物としての生存欲求を最大限に追求する身ぶりと知性を表わしている。それゆえ、私たちは男の「生きる」身ぶり、いや「生きよう」ともがき苦しむさまに眼を奪われるのだ。生きることに四苦八苦する人間のありようを、これほどまでに強く、明快に、しかも単純に見せる映画をほかに知らない。人間の温かさに触れることで、呼び覚まされた野性がたちまち力を失ってしまうラストシーンも、残酷なまでに美しい。

2011/12/25(日)(福住廉)

映画『宇宙人ポール』

会期:2011/12/23

シネ・リーブル梅田ほか[大阪府]

B級映画(B-movie)という言葉がある。1930-40年代、いわゆるハリウッド黄金時代に同時上映のため短期間撮影・低予算で制作された映画のことが転じて、一般用語となったものだ。つまり低予算映画のこと。たんに技術的に衰える映画を指すこともあって、実際その定義は曖昧である。今回、紹介する映画『宇宙人ポール』はB級映画としてプロモーションされているが、結構な質、とくに宇宙人ポールのCG処理は見事なものだった。家庭用AV機器の質が高くなったこともあり、近頃は「これ、映画館でみるべき?」と思ってしまう映画が多いなか(とくにTVドラマの劇場版にはうんざりしている)、本作は物語と映像が、両方楽しめる作品となっている。
マンガとSFが好きな、いわゆるオタク系のイギリス人男性二人が、アメリカでUFOスポット巡りをしている最中にポールと名乗る宇宙人に遭遇し、ポールを故郷の星に返そうと奮闘するSFコメディだ。ありがちな見飽きたストーリーだが、思わず笑ってしまうブラックユーモア(ただ同性愛に対する差別的言動も多く、不愉快なところもあるが)や、『E.T.』や『未知との遭遇』といった、SF名作へのオマージュも満載でSF映画ファンなら、見答え十分だ。[金相美]

2012/01/04(水)(SYNK)

柳宗悦展──暮らしへの眼差し

会期:2012/01/07~2012/02/29

大阪歴史博物館[大阪府]

独自な審美眼による新しい美の概念と工芸理論を展開した思想家・柳宗悦(1889-1961)は、文芸雑誌『白樺』の創刊に参加し、東京帝国大学哲学科を卒業する頃には、朝鮮陶磁器の堅実で素朴な美に傾倒される。また、無名の職人がつくる民衆の日常品の美しさを見出し、その民衆的工芸の美を称揚する「民芸」という言葉と考えを世に送り出した。1936年には日本民藝館を開設する。本展は、柳宗悦の没後50年と日本民藝館開館75周年を記念するもので、柳が蒐集した陶磁器や工芸品、絵画、関連資料など、370点余を紹介している。出展品のほとんどは日本民藝館の所蔵品で、これほど大量の所蔵品を一度に貸し出しするのは初めてだという。充実でわかりやすい展示となっている。さらに、会場には柳宗悦邸(現日本民藝館の西館)の応接室が再現されている。この応接室の調度品は柳自身が選んだもので、独自な美意識とこだわりが伺えて興味深い。展示の最後には、柳の長男で、長いあいだ日本民藝館の館長を務めた、プロダクトデザイナー・柳宗理(1915-2011)の仕事が紹介されており、親子二代にわたる、手と眼と暮らしへの思いを垣間見ることができる。[金相美]

2012/01/06(金)(SYNK)

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