2018年01月15日号
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artscapeレビュー

2012年03月01日号のレビュー/プレビュー

映画『ドラゴン・タトゥーの女』

会期:2012/02/10

TOHOシネマ梅田ほか[大阪府]

本作は、スウェーデンの作家スティーグ・ラーソン(Stieg Larsson, 1954-2004)のベストセラー小説を、デヴィッド・フィンチャー(David Fincher, 1962- )監督がハリウッドで映画化したものである。あえてハリウッドと言ったのは、2009年に同じ小説を映画化したスウェーデン映画『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』があるからだ。私はラーソンの小説も、スウェーデン版の映画もみていない。フィンチャーの映画を、フィンチャーの映画としてみたかったからだ。原作があったり、リメイクされた映画はどうしても比較されてしまう。小説は小説で、映画は映画だ。比較は無意味なのである(聞いた話では原作と映画の結末が異なるそうだ)。久しぶりのフィンチャー監督の本客サスペンスで、正直、相当期待していた。だが、話の展開が緩く、とくに前半部の背景設定にしまりがない(ダラダラした描写が続く)ため、後半部とのバランスが取れていない感が否めない。ジャンル映画(サスペンス)としての必須要素(緊張感)を失っている。ただ、『セブン』や『ゾディアック』でみられる聖書と連続殺人というテーマ、さらに『セブン』や『ファイト・クラブ』『ゾディアック』『パニック・ルーム』に共通する、見えない相手、潜在的な暴力からくる恐怖を見事に描いているところは、フィンチャーらしく、フィンチャーの映画として見応え十分であった。また映像を映像として楽しみ、工夫をこらす、フィンチャーの変わらない遊び心と真剣さが感じられる。フラッシュバックを使わず、静止画(写真)、つまりイメージによるストーリーテリングは絶妙である。[金相美]

2012/01/15(日)(SYNK)

村山槐多の全貌 ─天才詩人画家22年の生涯!─

会期:2011/12/03~2012/01/29

岡崎市美術博物館[愛知県]

夭折の詩人画家、村山槐多の本格的な回顧展。油彩や水彩、デッサン、詩や書簡など、槐多の作品を中心に、従兄弟にあたる山本鼎による作品もあわせて350点あまりが一挙に展示された。中学生で結成したグループ「毒刃社」の回覧雑誌『強盗』のポスターにはじまり、《尿する裸僧》《湖水と女》《バラと少女》などの代表作、晩年を過ごした代々木界隈の風景画、さらには90年ぶりの公開となった木炭デッサン《無題》など、まさしく「槐多の全貌」に迫る充実した展示で、非常に見応えがあった。いわゆる「アニマリズム」と言われる野性的で衝動的な描線による自画像や人物像を見ていくと、貧困と失恋、放蕩と退廃にまみれながら、槐多が走り抜けた短くも濃厚な生涯の軌跡に圧倒されてやまない。なかでも本展の白眉は、300号の水彩画《日曜の遊び》。長らく山本鼎の作品だとされていたが、今回改めて槐多の作品として展示したところに、企画者の並々ならぬ執念がうかがえる。たしかに描線などから察すると槐多の作品であるという見解は客観的に妥当だと思えるが、その一方で槐多に独特な性向を顧みると、あるいは槐多と鼎の合作という線もありうるのではないかと思わないでもない。なぜなら、展示されていた槐多の初期のラブレターを見ると、そこには同級生の男子に宛てられたきわめて純粋な熱情があふれ出ており、そのほとばしる情熱をもってすれば結果的に鼎との合作という稀な事態を招いたとしても、なんら不思議ではないように思われるからである。そのような妄想を抱きながら改めてこの作品の画面を見直してみれば、自然のなかで戯れている青年たちは、きれいに男子と女子で分けられて描写されており、ここに女性をヌードにさせて排除したうえで成立するホモソサエティーの論理を見出すことは、決して困難な分析ではない。現代社会において男性と女性というジェンダー(社会的に強制される性別役割)はおろか、生物学的な区別も人工的に溶解しつつあるように、単独の芸術家と単独の作品を一対一で対応させる近代的な芸術観もまた、根本的に再考されるべきではないだろうか。

2012/01/21(土)(福住廉)

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無言歌

会期:2011/12/17

ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]

ワン・ビン監督による長編劇映画。文化大革命前の「反右派闘争」時代におけるゴビ砂漠の収容所に送られた人間を描く。手持ちのカメラを多用しているせいか、劇映画であるにもかかわらず、ドキュメンタリー映画のような臨場感があり、乾いた土地を耕す「労働改造」に従事させられる人びとが味わう辛酸がじつに痛々しく伝わってくる。飢えにあえぐあまり、他人の嘔吐物の中から食物をあさり、ついには死人の人肉までも喰らうなど、目を背けたくなる描写も多い。「改造」という不自然な行為が、思想のみならず、人間の根拠までもなぎ倒してしまった悲劇。決して反抗しない家畜のような人間像にこそ、私たちは大きな痛みを覚えるはずだ。

2012/01/25(水)(福住廉)

東北を開く神話 第1章 鴻池朋子と40組の作家たちが謎の呪文で秋田の古層を発掘する

会期:2012/01/18~2012/01/29

秋田県立美術館[秋田県]

アーティストの鴻池朋子による企画展。秋田の土地に伝わる民話のなかから言葉を抜き出し、それらを無作為に組み合わせた「呪文」を、秋田在住の美術家たち40組にそれぞれ割り当てる。美術家たちは、その謎の言葉から想像力を膨らませて作品を制作し、それらを同美術館内のひとつの会場でいっせいに展示した。広い会場の奥には鴻池による《アースベイビー》が鎮座し、そこから噴出した縄が秋田の地形を描きながら、その地名を含んだ作品がそれぞれの場所に設置されているという構成だ。たとえば「羽鳥沼のさびしね爺んじが口が耳まで裂けでしまて鬼の赤んぼ産んでしまった」という「呪文」のそばには、坊主頭の老人が耳まで大きく裂けた口から勢いよく金色の縄を吐き出し、その縄の中にかわいらしい赤ん坊を描いた平面作品が置かれている。図として描かれた金色の縄と地のターコイズブルーの対比が美しい。しかもその平面自体を本物の縄で何重にも巻きつけているので、《アースベイビー》から伸びた長大な縄との連続性がじつに効果的に強調されている。会場には、玉石混交の作品が散りばめられていたにもかかわらず、全体としては独自の世界観によって統一されており、それゆえ見る者は、実際にはありえない、いやいや、もしかしたらありえたかもしれない未知の「神話」に、想像力を存分に及ばせることができたのである。展示の設定、というよりむしろ遊びのルールを、明快かつ徹底的に行き届かせた、鴻池ならではの企画展で、存分に楽しんだ。さらに、展覧会として優れているばかりでなく、この企画はある種の教育プログラムとしても非常に有効なのではないかと思えた。というのも、「呪文」という縛りを設けることによって、現在の美術教育で自明視されている野放図な「自己表現」を、ある程度抑制することが期待できるからだ。実際、多くの参加作家たちは「呪文」という外部の偶然性といかに折り合いをつけるかに苦心していたようだし、その反面、専門的な美術教育を受けていない者にとっては、「呪文」が逆に効果的なステップボードになっていたように見受けられた。展示には「呪文」だけ記載されており、作者名は一切見当たらなかったが(会場の外に出てはじめて、作者名を記したマップを手にとることができた)、ここには専門的な教育を受けた者もそうでない者も、すべて等しく参加でき、さらには同じ参加作家として均等に見せようとする、企画者の賢明な判断があったように思う。美術教育の改革を望むのであれば、鴻池朋子から学ぶべきことは多い。

2012/01/26(木)(福住廉)

ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル

会期:2011/12/16

ルミエール秋田[秋田県]

トム・クルーズが世界各地で無茶する映画の第4弾。今回も世界一の高さを誇るドバイの超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」の外壁をひとりでよじ登ったり、爆破されたクレムリンの残骸に巻き込まれたり、立体駐車場から車ごと飛び降りたり、砂嵐に襲われた街中を視界ゼロのまま闇雲に全力疾走したり、ミッションのためであれば、とにかくむちゃくちゃにやってしまうシーンが満載で、かなり楽しめる。

2012/01/26(木)(福住廉)

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