artscapeレビュー

2012年11月01日号のレビュー/プレビュー

プレビュー:「阪急うめだギャラリー」こけら落とし展覧会 名和晃平 個展 Kohei Nawa-TRANS│SANDWICH

会期:2012/11/21~2012/12/10

阪急うめだギャラリー[大阪府]

大阪の阪急百貨店うめだ本店のグランドオープン(11/21)は、関西の人々にとって大注目のトピックだ。美術関係者の間では、工事期間中に同店スタッフが画廊や美術家に盛んにアプローチしていたことも記憶に新しい。そうした活動の成果というべきか、同店ギャラリーではリニューアルオープンの第1弾として名和晃平の展覧会を開催する。関西の百貨店のなかでも高いブランド力を持つ阪急が現代美術を積極的に扱えば、地元の美術シーンにも大きな影響を与えるだろう。同店の意気込みが本物か、本展と今後の展開に注目したい。

2012/10/20(土)(小吹隆文)

印刷都市東京と近代日本

会期:2012/10/20~2013/01/14

印刷博物館[東京都]

この展覧会は、1860年から1890年頃、すなわち幕末から明治初期に焦点をあて、東京の印刷業が日本の近代化に果たした役割を探る企画である。工業統計調査(2010年)によると、近年その比率は下がりつつあるものの、印刷業に関して都道府県別の事業者数、従業員数、出荷額、付加価値額のいずれにおいても東京都は首位であるという。また、東京の製造業のなかで、印刷業は高い比率を占めている。このような集中はすでに江戸後期から始まっており、明治以降、その傾向を強めていった。もちろん、情報産業が集中する首都に印刷業が集中するのは当然のことのように思われる。しかし、ヨーロッパ諸国の事情をみると、ロンドンは産業・金融の中心地として、印刷業はそのような情報センターとしての都市を支える役割を果たし、パリの印刷業は行政と学術の中心地としての首都の発展を支えるなど、国によって印刷業と首都との関わりは異なっていたという。それに対して、日本の首都東京には、政治、経済、文化などあらゆる現象が集中し、印刷業もそれに応じて多様な側面から発展を支えてきた。すなわち、首都東京における印刷業の発展は、中央集権的な近代化の過程と軌を一にしていたといえる。もちろん、急速な近代化を可能にしたのは、江戸時代以来の技術的、文化的な蓄積があってこそのことである。この展覧会が江戸時代末期にまで時代を遡るのはそれゆえである。
 展覧会は4つの章で構成されている。第1章「江戸で熟した印刷」では、日本橋の版元が西欧からもたらされた知識の普及に大きな役割を果たしていたことや、粋を極めた木版印刷の技術により、出版文化が隆盛を極めていたことを、当時のさまざまな印刷物によって示す。第2章は、「印刷がつくった近代日本」では行政や経済と印刷との関わりが取り上げられる。政府が公布した新しい法律は『太政官日誌』(のちの『官報』)という印刷物によって地方まで確実に伝達された。紙幣や、地租を課すために土地所有者に発行された「地券」や、株券など、偽造防止技術が施された印刷物も大量に必要とされた。近代化に不可欠な印刷技術は西洋から輸入され、徐々に国産化されてゆく。第3章「東京という地場と印刷」は政治と印刷。言論人の出現や総合雑誌の登場に印刷が果たした役割が示される。第4章「近代日本の出発と印刷都市東京の躍進」は、メディアの発達と印刷。新聞、雑誌、錦絵などの印刷メディアは当時の政治と密接に関係していた。このように、明治初期の日本において、印刷技術は政治・経済にとって非常に重要なインフラストラクチャーであり、東京の印刷業は中央集権的な近代化にとって不可欠な存在であったことが明らかにされている。
 明治初期の印刷業の展開でもうひとつ興味深いのは、旧来の木版印刷技術と活版や石版といった新しい印刷技術とが併存していた点である。たとえば「枢密院会議」や「大日本帝国憲法発布」を伝える絵図には、石版画のものと錦絵のものとがある。西洋から導入された新しい印刷技術がまだモノクロームを中心としていたのに対して、カラーのメディアである錦絵はむしろ一時的な隆盛を誇ったのである。しかしながら、明治後期になると旧来の技術は廃れ、新しい印刷技術による新たな印刷文化が花開くことになる。その変化の様相は、ぜひとも「印刷都市東京と近代日本2」として取り上げて欲しい。[新川徳彦]

2012/10/23(火)(SYNK)

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Design──江戸デザインの“巧・妙”

会期:2012/10/06~2012/11/25

伊勢半本店 紅ミュージアム[東京都]

江戸時代後期、文政8(1825)年に紅屋として創業した伊勢半の企業博物館である紅ミュージアムでは、毎年1回その歴史にちなんだ展覧会を開催している。今回のテーマは、伊勢半が創業した江戸後期の庶民文化をデザインという視点から紹介する。展示は4つのパートに分かれている。第1は「メディア化されたデザイン」。木版印刷技術の向上は、錦絵や黄表紙などの新たなメディアを支えたばかりではなく、雛形本や絵手本など、職人たちがものづくりの際に参考にする見本帖(パターンブック)を生む。職人たちは古絵古物の意匠を写したこれらの書籍の意匠を写したり、新たな文様を生み出していった。第2は「装いのデザイン」。ここでは型染の型紙や、職人たちの装いが紹介される。第3は「技巧・見巧(みごう)のプロダクトデザイン」。煙草入れ、紙入れといった袋物の細部に現われた職人の技を見せる。第4は「江戸趣味全開 グラフィックデザイン」は、「千社札」の世界である。もともと神社仏閣にお参りした際に貼る千社札であるが、その様式を借りて仲間同士での交換を楽しむ「交換納札」が生まれる。愛好者の集まりは「連」と呼ばれ、互いに札の趣向を競い合ったという。千社札の規格は、14.4cm×4.8cm。本来は自分の名前と家紋が刷られていたものが、次第に意匠や色彩が多様化する。規格のサイズはそのままに、2枚分4枚分と連続したデザインの千社札も現われる。最大では16枚分の枠を使用した千社札もあったという。こうした時代の文化を貫くのは、「洒落」「粋」の精神である。表面的な奢侈が禁じられ絢爛豪華な装飾が抑制されるなかで、型染の文様や袋物の細工、あるいは金具の彫刻など、職人の技巧は細部へと向かう。幕府の出版統制下にあった錦絵に対して、その規格さえ守れば自由な表現が可能であった千社札は、発注者、絵師、書家、彫師、刷師らの協業による総合芸術作品でもあった。意匠の選択には雛形本などが用いられつつも、制作者の創意は多様な表現を生み出した。さまざまな制約、不自由は、他方で新たな技巧と表現の源泉であり、それが「洒落」や「粋」という感覚を生み出していったことに気づかされる。[新川徳彦]

2012/10/25(木)(SYNK)

青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト:アンドロイド版『三人姉妹』

会期:2012/10/20~2012/11/04

吉祥寺シアター[東京都]

舞台は天才と称されたロボット研究者・深沢のリビング・ルーム。逝去して3年が経ち、父の遺言で海の見える墓地に墓を移すことにした家族。買い物はロボットが行なうので「ショッピングの楽しみ」なるものが機能しなくなった未来では、デパートはすでに過去のもの、ショッピングモールさえ意味を喪失しつつある。この家庭には、深沢が製作したロボット一台と深沢の娘を代理するアンドロイド一台が暮らしている。物語は、これら父の製作した二台の機械と父が母と産み育てた3人の娘と1人息子を中心に進んで行く。シンガポールへ赴任が決まった深沢の弟子・中野の送別会をひらくために集うひとたち、彼らをもてなす料理は買い物も含めロボットが行なう。優れたロボットとは対照的に、父の子たちは、1人は引きこもりに、1人は研究者になることを断念、1人は中年になって結婚せず、1人は夫の不倫で離婚を考えており、端的に言えばみな父の失敗作だ。ときにその失敗は父のせいとみなされる。これはゆえに、ギリシア神話に登場する王ピュグマリオンをめぐる物語である。しかもこの内容は、実際にロボットとアンドロイドを舞台に登場させ人間の役者と演劇を行なわせるといったこの芝居の形式とパラレルであり、観客は自ずと、目の前のロボットやアンドロイドと人間の役者たちの存在のあり方、両者の違いへと思いを傾けさせられることになる。すると、当たり前だが、役者が生体であることをつくづく感じさせられるのだ。役者はロボットやアンドロイドと同様、台本というプログラム通りに作動することが求められる。ただし、役者はただプログラムをアップロードすればよいわけではなく、ある生の状態(非演技の状態)を別の生の状態(演技の状態)へと変容させなければならない。この変容に際して生じる役者の緊張や失策や危機の切り抜けが演劇を見るということの醍醐味なのだ、なんて当然のことに思い至る。この「変容」までも機械が手にするときは来るのかもしれない。そのとき機械は機械独自の「生」を手にすることだろう。ただしそれまでは、生身の役者を私たちの目は求めることだろう。

平田オリザ×想田和弘 アンドロイド版『三人姉妹』10/21アフタートーク

2012/10/27(土)(木村覚)

大橋可也&ダンサーズ「高橋恭司展『走幻』パフォーマンス」

会期:2012/10/07~2012/10/28(毎週曜)

NADiff Gallery[東京都]

写真家・高橋恭司の展示に関連して行なわれたパフォーマンスは、4週連続毎回4時間(最後の30分がコアタイム)という異例の形態をとった。しかも会場は、ギャラリースペースと繋がる美術系書店の店内。事情を知らないでやって来た本が目当ての客のなか、6人のダンサーたちは幽霊のように徘徊し、ときに床や壁に体を叩きつける烈しい動きもすれば、ときに客と並んで本を開いたりもする。劇場とは違って至近距離で踊るダンサーたち。女性たちの露出した肌や男性たちの汗など、近すぎてどう見たらいいかとまごつき、迫ってくると目を逸らしたりしてしまう。なにやってんだ、俺。いや、こんな戸惑いこそこうした企画の醍醐味であって、劇場空間ではえられない感覚が痛気持ちよかったりするのだが。そういえばNADiffが原宿にあった10年前、KATHYも同じように店内を徘徊するパフォーマンスを行なった。ただKATHYが頭に黒ストッキングを被っていたのと違って、大橋可也のダンサーたちは目がむき出しだ。迫ってくると目を逸らしてしまうのは、なによりもダンサーと目が合ったとき気まずいから。ダンサーは踊りに没頭する「憑依した目」のみならず、冷静に空間を感じ客に衝突したり本を散らかしたりしないようにする「働く目」も携えている。「働く目」を観客が見ないことにする(観客に見せないことにする)ことで、ダンサーは「働く目」を隠し「憑依した目」をしたダンサーになる。やっぱりそういう意味では、ダンサーは人形だ。いや人間が踊ったっていいはず、でも大橋は人形をダンサーに求めたんだ。4時間の上演の真ん中1時間半ほど見て、帰りの電車のなか、コアタイムをUstream中継で見た。カメラ越しの彼らを見ることに気まずさはない。ネットコミュニケーションがぼくたちに与えたものと奪ったものを確認した。

高橋恭司「走幻」大橋可也&ダンサーズパフォーマンス20121014(抜粋)

2012/10/28(日)(木村覚)

2012年11月01日号の
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